昨晩の会話からは想像も付かないぐらいはのほほんとしている気がする。あんな命のやりとりをするような話をしておきながら、痛いのが怖いとかいうこのまた普通の女の子に戻りました、みたいな感じはなんなんだろう。まあ楽しいからいいか、と思っていると携帯が鳴り出した。彼女に断って少し離れたところで応答すると、オリバーからだった。彼は明日の取引現場の下見と、監視カメラの設置に出かけている。現場に到着したとの報告で、これから作業に入るらしい。本来は一緒に行く筈だったが、調べ物があるといって後で合流することにしていた(もちろん心の中では謝っていることを忘れないでほしい)。分かったと伝え通話を切って彼女が待っているところに戻ろうとした、のだが。

(・・・いない、どこへ・・・?)

辺りを見渡すもその姿を捉えることができない。まさか組織絡みで何かをしようと企んでいたのだろうか?いやしかし電話が来たのは偶然のことだったし、ああでも隙を産む絶好のタイミングといえばタイミングだ。目を離したのは誤算だったか。人も多くマーケットのせいで死角も多い。ここで仕掛けられたら厄介だ、と精一杯感覚を研ぎ澄ませて背中を守れる場所へ行こうと歩き出す。壁はないから木があると丁度良い、となるべく太い木を探し出したらば。

「ば、ばあぼんーっ」

どこからともなく彼女の声がした。腑抜けた声音で少しだけ緊張が解けてしまった。声の感じからして近いような気がするのだが、如何せん見つからない。目を凝らして辺りを一瞥すると、目線と同じぐらいの高さのところで掌がちらちらと揺れているのに気がついた。

「え?」

は背の高い男たちに囲まれていた。木を背にして。そうか、それで手しか見えなかったのか。見たところ酒瓶を持った若者に、何かまくし立てられるように言い寄られて困惑している。彼女ならものともせずに払いのけられそうなのに。なにせあんなに流暢なドイツ語を喋るのだから。とはいえど。助けなくては。急いで近付くと聞こえてきたのはドイツ語ではなくて英語だった。観光客か、それともがアジア人だと知って英語で近付いた現地人なのかはわからないが、もしかして、彼女は―…。

「僕の連れにどうかしましたか?」

英語で言うと彼らの一人が「なんだよ連れがいたのか」と言い、もう一人が「じゃあ行こうぜ」と言った。聞き分けの良い素直な若者たちだと思っていると、残りの一人が諦めきれないのかの肩を掴んだ。なので男の腕を引き剥がすように強めに引っ張ると、男は驚いたように顔を引き攣らせて、「兄ちゃん意外と力が強いのな」と言って残り二人を引き連れていなくなってしまった。

「大丈夫でしたか?」
「あ、ありがとうございました・・・びっくりしたあ・・・」
「てっきり英語もぺらぺらなのかと」
「あ、はは・・・英語、苦手で・・・。普段ドイツ語で生活してるから余計に英語だめで・・・恥ずかしいところ見せちゃいましたね・・・」

やはりそうか。だから彼女は顔合わせでドミニクと話をしている時、何も喋らずにこにこしていたのだ。使った英語と言えば、自分の名前と飲み物を何にするかの二言だけ。あの時は優秀な秘書的ポジション科学者かと思ったが、そうではなくて苦手だから(または喋れないから)一歩引いていただけ。でもよくそれで内部調査員なんて務まるな。ああでもイーゲルは本拠地がドイツだから構成員もドイツ人が多いのか。しかし特に何かを仕掛けてくるとかではなくて良かった。一先ず安心だ。

「あ・・・バーボン怪我して・・・」

言われて気が付いた。腕にぷっくりと血が浮かんでいたことに。血と言っても直径一センチにも満たないし、もう乾き始めているしで全然大した傷ではない。

「ああ、きっとさっきあの男の爪が引っかかったのかもしれませんね」

ほんとに爪の先ほどの小さな傷だった。痛くもかゆくもない。でも彼女はとても申し訳なさそうな表情でこちらを見ている。眉が八の字だ。

「ごめんなさい、私のせいで」
「全然痛くないので大丈夫ですよ。これぐらいであなたを守れたのなら安いもんです」
「も〜またそういうこと言う・・・貸して下さい、腕」
「?」
「・・・はい」

その言葉とともに彼女の手が腕に添えられると、そっと絆創膏を貼られた。自分の肌が黒いからベージュのそれが同化しているように見える。ガーゼの部分が血を吸ったのか、表面に跡が浮かんできた。
肌に触れる細っこい指先とか、俯いて頬に影を作る表情とか。

(はあ・・・ほんとにこの人はもう・・・)

昨日の盗聴で彼女がそれなりに場数は踏んでるし、馬鹿じゃないことも分かっている。けれどこれが演技じゃないことも分かっている。素の部分でこういう一面があるのだとも感じている。一癖も二癖もあるような黒の組織の人間と違う。いやある意味癖はあるけれど。でもだから少し調子が狂う。憎めない。裏の人間に徹しきれない。

「気分転換に違うところにでも行きましょうか」
「そうですねえ、美術館も沢山あるんですけど、バーボンは今銃を持ってますか?」
「・・・随分大胆な質問ですね」
「隠したってしょうがないでしょう?私たちただの観光客じゃないので。昨日は聞くのうっかり忘れちゃいましたけど、この町はとても大きいですし、そういうところのセキュリティは最新鋭ですからね」
「今は持っていませんが、仲間から連絡が来ることを考えると外にいれるなら外の方が良いですね」
「今は、ね。私も今は、ないです」

さっき考えていたことをひっくり返されるぐらいの大胆な発言。急にそういう顔になるから困るんだ。これもまた調子を狂わされる理由だ。
はあ、と心の中でため息をついていると、彼女は「ん〜」と唇を噛んでいた。そして何かを思い出したのか「あ」っとまるで電球の明かりが点いたみたいな顔をする。

「それじゃあ英国庭園に行きましょう」
「ああ、昨日少し地図を見ました。大きな公園ですよね」
「はい。のびのびできて良い所ですよ」




*




英国庭園。ヴィクトアーリエンマルクトから二十分ほど歩いたところにある、都市公園としては世界でも一二を争う大きさらしい。庭園の中にはビアガーデンや湖、川や牧草地に日本茶室まであるという。加えて中国の塔やギリシャ風建築物もあるというから、最早なんでもありの場所だ。とても広いからか、そんな幾つもの異国情緒溢れる建物が並んでいる、という印象では全くなくて、どこまでも芝が続くのどかな公園だ。夏場になると皆こぞって水着を着て、ここで肌を焼くらしい。今はまだ春だからか周りにいる人たちはちゃんと服を着ていたが、曰く、この公園の奥まったところにはFKKと呼ばれる、フライ・ケルパー・クルトゥーアというヌーディストたちが集まる場所があるそうだ。もちろんそんなところまでは行かないので、公園を入って少し歩いたところにある小高い丘の頂上を基地にすることにした。基地といってもそれを形作るのはマーケットで買った二人用のビニールシートと、あとはカフェでテイクアウトしたコーヒーだけ。みんな川辺の方に行ってしまったからか、ここには殆ど人がいなかった。

「ん〜きもちい」
「あーあ靴を投げ出しちゃって。子供みたいですね

右足と左足がそれぞれ違う方を向いて放り出されたサンダルに手を伸ばす。向きを揃えてシートの脇に置くと、自分も靴を脱いで上がった。表面がフェルト地になっていて気持ちがいい。シート越しに感じる芝生の柔らかさも相俟って、なんだかとても贅沢だ。どこを見ても景色は青々とした草木ばかりで、都会の喧騒を遠くに感じた。

「そういうバーボンはお母さんみたいですね、すみません、ありがとうございます」

ふふふ、と目を細める彼女は両手を伸ばして完全にリラックスモードに入っている。対抗組織にその態度。まあ今更か、とこちらも腰を降ろして足を伸ばす。靴を脱ぐだけで、解放感が無意識の内に張っている緊張をほぐすようで、呼吸が深くなる気がした。

「ピクニックみたいですねえ」
「好きですこういうの。大事ですよ、命が磨り減りそうな時は」
「え?」

首を傾げると、彼女は広く青い空を眺めていた。木漏れ日から差す光が彼女の双眸をワントーン明るく見せている。

「だからこうして自然の中でのびのびしないと。最後かもしれないですからね」

どういう意味だろう。最後って。そんなことを思っていたら、「ほらほらバーボンも寝っころがりましょ」と体の支えにしていた腕を彼女が掴むものだから、バランスを失って一気に後ろに倒れこんでしまった。「わっ」と自分らしからぬ声が出る。少しだけ頭がシートからはみ出てしまったので、腰をもぞもぞと動かして位置をずらす。隣では彼女がくすくすと笑って「ね、きもちいいでしょう」と言ったので、釣られて「はい」と笑ってしまった。

「どうして最後なんですか?」
「え?ああ〜そうですね、なんとなくです。あなたたちみたいな大変な組織に関わったら・・・っていうか、あなたとこうして顔を合わせてしまったから、かな。まあバーボンの顔が変装っていうなら別ですけど」
「顔、剥いてみます?」
「遠慮します。それこそ本当の顔見ちゃったりしたらどうするんですか」
「あはは、そうですね」

彼女は自分たちに殺されると思っているのだろうか。取引が始まってもいないのにどうして?確かにこちらはイーゲルと手を結ぶ気はないが、だからといって彼ら全員を始末するほど馬鹿げた労力を割いたりはしない。まあ彼らが持てる武器を担いで乗り込みにやってくるのなら話は別だが、彼女がそれで前線に出てくるとは思えないし、そうなった場合こちらとしてはボスを片付けて残党狩りは警察にでも任せればいい。ならどうして「最後」なんだろう。彼女が内部調査員だから?情報を引き出すだけ引き出して殺すとでも考えているんだろうか。ジンならやりかねないが、自分に彼女を殺す理由はない。せいぜい警察に身柄を拘束させるまでだ。まあそれも彼女には知る由もないことなのだけれど。
むしろ我々が何かするというよりは、ドミニクとの関連で考える方が自然かもしれない。昨日彼は今日の夜九時に、と言っていた。忠実な犬になるか海に沈むかという選択は取引終了まで待つといっていた。ならば今日は一体何をするんだ?それとも彼女は本当に取引に来るのか?事情が変わったから自分が来た、とドミニク自身が来たところで別に不思議ではない。オリバーがいるからデータのチェックでこちらが困ることはないし、相手がその場でチェックできなくても、それもこちらからしてみたら問題はない。だから寝首を掻いて今晩彼女を軟禁することだって、おかしな話ではないはずだ。

「どういう意味ですか・・・って喋るわけないですよね」
「ふふ。バーボンは優しいから、不思議と喋りたくもなっちゃいますね。何人の女の子騙してきたんですか?」
「面白いことを言いますねは」
「あら、本心ですよ?」

ぐっと距離を詰められて、顔を覗き込まれた。やっぱりなんだか調子が狂うなあ。本当に普通の女の子を相手にしてるみたいだ。マスカラで伸びた睫毛も、瞼の上で慎ましやかに彩を放つアイシャドウも、目尻に引かれたアイラインも、整えられた眉も。その一つ一つを、剥がして素顔を覗いてみたい。ハニートラップなんて粘着質で気持ちの悪いものが多いのに、こんなやり方、不意を付かれすぎて困ってしまう。意識してのことか、無意識なのか分からないけれど、「バーボン」としての今なら、一回ぐらい落ちても良いんじゃないかとさえ思ってしまうんだから厄介だ。昨日の夜の様子から、黒の組織のことを聞いてくるのかと思えばそんな素振り一才ないし、これじゃ本当にただのデートだ。
しかしどうして彼女は何も聞いてこないんだろう。興味がないから?イーゲルからしてみればこれから顧客にしようとしている相手のことなのに?それとも聞く必要がないから?それはなぜだ?彼女とて組織の一員だろうに。

(・・・自分が死んでしまうと思っているから?)

それはとてもしっくりくる。何らかのできごとが原因でこの世から去ることを考えているなら、探りを入れても意味がないと思ってしまうのには頷ける。でもそれなら何故、忠実な犬か海に沈むかを「そっくりそのままお返しする」と言ったのだろう。それは彼女が生きることを投げ出してはないという意味になり得るのではないのか?

「あなたの方こそ。昨日も言いましたけど、本当に普通の女の子みたいですよ。そんな顔して一体どんなえげつないことをしてきたんですか?」
「えげつないことって?」
「可愛らしい顔をして、暗殺が得意とか、実は凄腕のスナイパーとか、ハニートラップの名人とか」
「あはは。こう見えて、実はすごーくやり手かもしれないですよ」
「ほう?」

彼女がはにかんだ。端から見たらただの仲の良さげな男女なのに、日本語が分かる人がいたらきっとギョッとするに違いない。なんでもなさそうな会話のそこかしこに散りばめられた含みを拾ったり拾わないようにしていたら、疲れてしまうはずなのに、それすらも楽しいとさえ思えてしまう。脳が感情にじわじわと揺らされている。
触れてみたい。
手を伸ばしたらすぐだ。

「・・・そんな目で、見ないで下さい。ドキドキしそうになります」

言うや否や彼女は寝返りを打ってしまった。そういうの何て言うのか、この人知っているんだろうか。

(煽りって、言うんですよ)

ドキドキしそうになる、なんて。なんて直接的な言葉だろう。そんなことを言われたら、からかいたくもなるというものだ。ここからでは彼女の顔が見えないから、どんな表情をしているのかまでは分からない。照れているのかしたり顔でもしているのか。耳も髪の毛に被っていて、その色を窺うこともできない。

「してもいいんですよ?」
「しません。し損なので」

気を持たせるようなことを言ったと思ったらすぐにコレだ。この揺さぶられてる感がたまらないといえばたまらないのだけど(断じてマゾヒズムではない)、それはこの際置いておこう。右手でがしがしと頭をもみくしゃにして気持ちを一旦リセットしていると、もぞりと彼女が再びこちらを向いた。仰向けからうつ伏せになっていて、じっと、何か訴えるような目をしている。

「ねえバーボン」
「なんですか?」

数秒の沈黙。何を言われるのかと生唾を飲み込む。
そして細々と紡がれた、遠慮がちな声。

「・・・髪の毛、触ってもいいですか?」
「か、髪ですか?」
「あ、なにも仕込んだりしないですから。ただバーボンの髪の毛、キューティクル凄いし、サラサラしてそうだし、好奇心です」
「別に構いませんよ?」

はい、と少しだけ俯きがちに頭を差し出すと「お邪魔します」と返ってきた。彼女が手を伸ばしてくると、腕が影を作った。塔に上った時にも思った。自分にはない肌理の細やかな白い腕だと。躊躇いの見える指先が、そっと前髪に触れた。時間差でやってくる彼女の温もり。壊れ物を扱うかのように優しく、右に左に動いてくすぐったい。でもどこか気持ちがいい。

「・・・小さい頃ね、近所に大きな犬がいたんです。あなたの髪の色と似てる」
「はあ、犬ですか」
「ごめんなさい、嬉しくないですよね、こんなこと言われても」
「ははは、どうぞ好きなだけ触ってください」

彼女は続けた。その犬は室外犬で、学校から家に帰るといつも人懐っこく尻尾を振って寄って来てくれたらしい。「こうしてね、こめかみの辺りを撫でると、すごく気持ちよさそうな顔するんですよ」と再現するように逆手で同じ部分を撫でられる。かと思えば毛先を遊ばれる。その度に毛先が肌をくすぐった。どう返事をするのが正解か正直分からなかったが、形の綺麗な彼女の唇が緩やかなカーブを描いていたから良いことにしよう。

(・・・)

そんな楽しそうな姿がまた幼馴染を髣髴とさせた。あれはもう組織に入った後のことで、駅のホームで待つアイツを後から追いかけた時だった。少女にベースを教えていた幼馴染のあの笑顔。心の底から好きな音楽を、誰かに伝える時のあの充足そうな顔。
ああそうか。彼女からは悪意がないんだ。無邪気以外の何物でもなくて、ただ雪解けを迎えた春の花のように、夏の癒しの風鈴の音のように。あまやかな音を奏でる楽器のように。全てが自然なんだ。

(心の内は明かさないくせに、ほんと変な人だなあ)

もうそろそろアイツが死んでから一年が経とうとしている。この一年間、思い返せば眉間に皺ばかり寄せて追いかけていた。組織を、そして赤井秀一を。だからこんなにたおやかな時の流れ、久しく忘れていたんだ。

「・・・ありがとうございました」
「どういたしまして」
「・・・へへへ」
「・・・ふふ」

お互いに顔を見合わせて笑ってしまった。「コーヒー飲みましょうか」と言われたので、自分もうつ伏せになってスリーブの付いたペーパーカップを受け取る。刹那、指先がぶつかった。でも彼女も自分も、気にしていないという顔だ。それは本当に何でもないことだった。啜ればすっと消えてしまうコーヒーの苦さみたいに。

「こういう天気の良い日は、読書なんかもいいですね」
「バーボン読書好きなんですか?」
「趣味程度ですけどね。なにかオススメの一冊はあったりしますか?」

そうですねえ、と顎に手をあてて彼女はしばしの間考えると「時々読み返したくなるのはよだかの星ですね」と言った。「よだかの星って、あの宮沢賢治の?」というと彼女は首を立てに振った。

「よだかって自分のことを良い鳥だって思ってるんですよ。人助けならぬ鳥助けをしてるから。今まで悪いことなんかしたことないって。でもある日ね、気付いてしまうんです。カブトムシを食べた時に、自分も奪っている側じゃないかって。その部分を読んだ時、ハっとしちゃって。私も、奪う側なんだなって。私の意見はもちろん話の本質からは凄く反れてるんですけど、でも、あの本を読み返すたびに大事なことに気付ける気がして」

哀愁の浮かばせながら、彼女は眉尻を下げて寂しそうに笑った。
よだかの星。昔、読んだことがある。冒頭はとても印象的な始まりで、主人公であるよだかは醜い鳥で、他の鳥たちから嫌われていた。どうして自分は嫌われているのだろうとよだかは考えた。困っている鳥を助けた善い鳥だと自分のことを思っている。でも彼女と言う通り、知らないうちに虫を食べて命を奪っている自分に気付いてしまうのだ。他の命なくして自分が生きていけないことを悲しんだよだかは、灼け死にたいと願い太陽へと飛んでいく。自分みたいな小さな鳥でも、灼ける時に光を出すだろうからと。しかし飛んでも飛んでも太陽のところにはたどり着かない。それを見ていた太陽に遠くから、お前は昼の鳥ではないから星のところへ行けと言われ、それで夜によだかは飛び続けて、飛び続けて、体がボロボロになっても飛び続けた。でも星にたどり着かない。オリオンや大犬や大熊星にあなたのところに行きたいと叫んでも、身分違いだと断られる。涙ぐんでもう一度天を見上げた時がよだかの最期で、そのあとは自分の体が落ちているのか上っているのかも分からなくなって、しばらくしたのちにカシオペアの隣で青く燃えている自分の姿を見る。そういう話だった。

「・・・は、どうしてあの組織に?」
「それを言ったらバーボンのこと、教えてくれるんですか?」
「あなた次第です」
「やだなあ、いじわるな人」
「僕は聞きたいですけどね」
「出会って三日目なのに?」
「三日目だからこそ、ですよ。あなたのことを、教えてください」

彼女のことを聞いたからと言って、自分に何かできるわけでもないのに。せいぜいできてイーゲルから彼女を秘密裏に連れ出すくらい。それか警察として彼女を捕まえて、刑務所に入れて早めの更生を促すぐらい。けどそれが、彼女にとって何になるというのだろう。こんなもの偽善で、自分のエゴに過ぎないだけなのに。

「あの、そんな顔しないでください」
「その言葉、お返ししますよ。そんなに切なそうな目で僕を見ないで下さい」
「え?私、見てました?」
「ええ」
「うそお」
「ほんとです」

は口を噤んで視線を反らした。雲が風に靡いて流れていくように、ここにも沈黙が流れていく。だから間を取っているつもりになって、口に付けたコーヒーカップを傾けた。先程よりも冷めていて、少し酸味が増しているそれが喉を通って胃に落ちていく。黙った時間が続けば続くほど、瞳に焼きつく彼女の横顔。

「・・・死にたくないのでは?」

彼女が再びこちらを向いた。

「そりゃあ好き好んで望まないところで死にたい人間はいないですよ、レタス太郎食べたいですしね」
「それが理由じゃないでしょう?」

ひらりとかわされる。今になって蒸し返されると思っていなかったのか、その笑顔が取り繕っているのだというのは明らかだ。

「まあ。あ、実は我慢できなくて、今朝食べちゃいました」
「どうでした?お味は」
「美味しかったです、後引きで。一袋食べたら、もう一袋欲しくなりました」
「じゃあもっと食べたら良いじゃないですか」
「そうですね、できたらいいですね。ごちそうさまです」

今度は彼女がコーヒーに手を伸ばした。この話はこれでお終いだと言わんばかりに。もしかしたらこの人は、少しだけ、そう少しだけ自分に心を許してくれていたのかもしれない。ドミニクを前にあんなにも悠然とした態度だったにも関わらず、今はその所作が僅かに固い。固いと思ってしまうのは、きっとそうじゃない彼女を見ていたからだ。それに、飲み口に押し付けられてやんわり形を変えた彼女の唇だとか、嚥下されていくときの喉の動きとか、リップ跡を拭う指先とか。そんなことばかり目が追ってしまって仕方がないから、気付いてしまう。彼女が本心を隠そうとしている所作の固さに。



「こちらを向いてください」と付け足すと、彼女はまた視線を泳がせて、情けない表情で首を回した。

「はい」
「あなたが教えてくれるなら、僕もお教えします」

すると彼女は盛大にため息を吐いた。観念したように、諦めの色を浮かべて、自嘲気味に言葉を紡いだ。

「やだなあ・・・。レタス太郎といい、さっき助けてくれたことといい、いろいろ。私、あなたに絆されそうです。いっそのこと貸しとかにしてくれないと、心臓に悪いです」
「じゃあその貸しを今返してもらいましょうかね」
「・・・あれ、私墓穴掘っちゃいました?」
「さあ、教えてもらいましょうか」

今度はこちらから彼女の顔を覗き込む。頬がうっすら赤くなるのが分かった。自分の肌と違って白いからそういうのが直ぐに分かる。一塵の風が彼女の髪を攫っていった。運が良いとばかりに棚引くそれに手を伸ばす。指通りの良さを感じながら、顔がよく見えるように耳にかけてやると、赤いのは顔だけじゃなかった。初みたいな反応に絆されそうなのはこっちだ馬鹿、と思った。

「はあ、負けです。これ以上、はぐらかせないみたい」










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