「友達の死の真相が知りたかったんです」

はそう言いながら過去を想起していた。正義のために悪に立ち向かっていたクラウスのことを。自分や恋人に何も言わずに一人で全てを抱えていた、あの孤高の戦士を。

「友達・・・?」

昨日言っていた名前の男のことかもしれない、とバーボンにはすぐさま察知がいった。あの後彼はクラウス・ライヒェンベルガーのことを調べようとしたが、オリバーと同室を取ってしまったためにそれが叶わなかった。なので早く起きて、室外で普段プライベートで使用しているパソコンから調べていたのだ。部下である風見にも連絡をして。分かっているのは名前と犯罪組織ぐらいなので、警察で保管している国際氏名手配リストからまず探してみるよう指示したが、正直それは望み薄だ。しかしドミニクがに辿り付いた経路があるのだから、決して解けない謎ではない。ただ流石に一日二日で調べが上がるほど、国を跨いだ調査は簡単ではなく、時間と言語的な問題が立ちはだかっている。今回のこの取引期間内に答えに辿り着くのは難しいかもしれないが、調べていればきっといつか何かは見つかる筈なのだ。

「それが分からないと、私、きっと前に進めないなあって」
「・・・大事な人だったんですね」
「そうですね、こっちで初めてできた友達だったので」

その答えに、バーボンはそれ以上踏み込まなかった。否、踏み込めなかった。彼女の表情にはどことなく、何も言い返させない雰囲気があったからだ。いっそのこと犯罪組織に憧れて、とか、金銭に困っていて、とか、ボスの愛人をしてて、とかだったらこれまでの気持ちに全て整理がついたのに、とやるせない気持ちになると同時に彼は思った。そういう理由なら―もちろんこれまでにどういう悪行をしてきたかにもよるが―情状酌量の余地もきっとあるのでは、と。無下に命を捨てる必要もないだろうに。

「・・・さあ、次はバーボンの番です」

打って変わって浮かんだ不敵な笑みを前に、バーボンが口を開きかけた、その時。脇に置いていた彼女の鞄からバイブレーションとともに呼び鈴が鳴った。「すみません」と断りを入れては上体を起こすと背を向いて電話に出る。言語はドイツ語だった。そよぐ風が彼女のフレアの袖を揺らす。そんな後姿をバーボンはじっと見つめていた。
戦っている。彼女もまた、出口なのか、はたまた闇への入り口なのかは分からないが、必死にその中を走っている。

(・・・一人で乗り込めるほど、易しい世界でもないだろうに)

通話時間は長いものではなかったが、終わる否や彼女が立ち上がったので、バーボンも上体を起こして「何かありましたか?」と尋ねた。

「・・・あ、ごめんなさい、行かないと」
「ドミニクですか?」
「・・・、ええ」

言い淀むような不自然な間を彼は見逃さなかった。

「・・・僕のことを聞かなくていいんですか?」
「あ・・・そうですね、はい。楽しかったから、それでもう充分です」

少しだけ悩んで、しかし彼女は飲み込むことを決めたようで、彼について何か問い質そうとはしなかった。携帯を鞄にしまってサンダルに足を入れ、金具を止める様をバーボンはぼうっと眺めている。その視線が気に掛かったのか、は首を傾げて「バーボン?」と呼ぶ。

「あ、いえ・・・途中までお送りしますよ」
「いいえ、大丈夫です、お気遣いありがとうございます」

断られてしまっては引き止めるのは野暮というもので、ならばここで見送ろう、とバーボンも立ち上がる。は残されたシートを一瞥して、貰ってくれると嬉しいということと、もし不必要なものならば煮るなり焼くなり好きにしてくれ、ということを伝えた。

「わかりました。明日は僕は行きませんが、取引よろしくお願いしますね」
「もちろんです。任せてください」
「・・・昨日も今日も、楽しい時間をありがとうございました」
「私も楽しかったです、どうぞお元気でって、なんか変ですね、お互い悪いことしてるのに」
「ふふ、そうですね」

両者ともに後ろ髪を引かれるような顔をして、言葉に詰まった。何かを言いたいのに、何を言ったらいいのか分からない。ただその場に立ち尽くして、お互いの顔を見つめ合っている。もう再び会うことがないこと考えれば、締まりのない光景だ。しかしこの沈黙を破ったのはの方だった。

「・・・どうしよう、やっぱり、聞いても良いですか?あなたが組織に入った理由」
「ええ」

一呼吸ののちに、バーボンの瞳が弓なりになった。もともと垂れ目がちだったからか、目が細められたことでその印象がさらに強くなる。

「・・・大事なひとたちを、守りたいからですよ」
「大事な、ひとたち・・・」

今の言葉を繰り返すの眉根が僅かに寄る。

「その人たちは、あなたが今していることを知っていますか?」
「・・・知らないでしょうね」

バーボンは一瞬言葉に迷った。自分が組織にいることを知っている人は知っている。スコッチと呼ばれた彼の幼馴染や、部下である風見がそうであるように。しかし彼にとっての「大事なひとたち」は決して身の回りの人間だけに止まらない。守りたいのは全てだ。日本という国に生きる人たち全て。だからその意味で言えば、彼の存在を知らない人は知らないことになる。

「・・・守るためなら、手段は問わないと?」
「そうとも取れますね」
「その大事な人たちに、嘘つきって言われても?」
「・・・ええ」

は真剣な眼差しで眼前の男を見据えた。彼は覚悟の座った目を、そう、何か確固たる信念を持っている目を。自分からしてみたら警察と犯罪組織の人間という、一生相容れることのない存在同士。よだかの話にハっとしたのは、警察という立場を借りた仇討ちだったから。イーゲルだけじゃない。国内で暗躍する小さな犯罪グループを検挙して、国民の安全を守っていながら、裏では仇討ちのために、私利私欲のためにその権力を使っている。平和と秩序のために力を行使している警察官とは、比べ物にならないほど小汚い存在なのだと彼女は自身のことを思っている。だから彼女はバーボンのことを少し羨ましく思った。揺るぎのない信念を持つこの男のことを。

「そっか・・・。嘘は、悲しくなるから苦手です。でも、誰かを守り通すための嘘なら、私も突き通します」

バーボンは息を呑んだ。何故そんなことを言うのか、と。ほんの一瞬でいいから本心を一つ聞かせてくれないか、と彼女を引きとめようと手を伸ばそうとしたその時だった。また彼女の携帯からコール音が鳴ったは。それが催促だということは両者共に分かっていた。の視線が鞄に落ちるのと、バーボンの腕が退いたのは同時だった。

「・・・それじゃあバーボン、お元気で」
「・・・も、お元気で」




*




お元気で、のあとはとてもあっさりしていた。は振り返ることもなく、春風のように去っていった、なんて。少々感傷に浸りすぎだ、とバーボンは思った。彼女が根っからの悪人ではないことは分かっていたが、それでも全うな世界で生きているわけではない。彼女自身が自分で選んだ道なのだ。自分が憂う必要はどこにもない。
しかし彼にとって気になることは沢山あった。尻ポケットから携帯を取り出し電源を付けると、風見からの返信が来ていた。まだクラウス・ライヒェンベルガーという名前には行き着かないが、国際指名手配リストになかったため、今別の方法でアプローチを試みているとの報告だ。まだ時刻は午後五時。時間はある。引き続き部下に調査を頼むとともに、彼はさらに一つ要求を付け足した。東京近辺の大学で過去七年間にドイツに留学した学生をピックアップしてほしい、と。

(昼食の時、は「東京でも」じゃなく「東京じゃ食べられない」と言っていた)

実際どちらを使ってもそんなに差はないが、「東京でも食べられない」には、あの首都である東京でだってこの味に出会うことができないだろう、という推測もその意味に含まれる。反面「東京じゃ食べられない」は、東京ではこの味に出会えないという断定性が強い。それは即ち、彼女が少なからず東京の土地に明るいことを指し示しているのではないだろうか。もちろん旅行で何回か訪れたということも考えられるが、探し始めの手段としては東京に範囲を絞るのは、悪い考えではないように思える。それにベルモットが言っていたのが正しいのなら、彼女は当時東京にあるどこかの大学からの留学生としてドイツに来ていた。いわゆる交換留学というやつだろう。彼女は二十五と言っていたから過去七年間のデータが手に入れば、という偽名に隠されている本名に辿り着くのは、そんなに難しくはないはずだ。もちろんバーボンの推測とベルモットの発言が正しければ、の話だが。
とにかく自分も探ってみなければ、とバーボンはビニールシートを急いで畳んで買った時の袋に詰めると、ポケットからラバーのようなものを取り出した。靴をひっくり返してかかとに合うように貼り付けている。どうやら音が鳴らないようにするためのアイテムらしい。
彼はそれを装着し終えてから、かなり小さくなったの後姿を目を凝らして捉えた。「・・・、ええ」と答えたあの間には何かあると彼の第六感が言っている。ドミニクだとしても、そうじゃないとしても、何かしら情報が掴めるだろう、とベルモットへの連絡も忘れて歩き出したのだった。




*




中央駅三番線のホームのベンチにはかれこれ五分近く座っていた。まだ動く気配がないことを見止めて、バーボンは急いでコインロッカーへと向かう。念のために、と仕込んでいた変装グッズを取りに行くためだ。ロッカーの中にはマスクと上着と革靴が入っていて、顔合わせの時同様に素早く初老へと化けていく。そうしてまたホームの手前へと戻ると、彼女がまだ座っていたので彼はホッと胸を撫で下ろした。しかしどうやら進展があったようで、彼女の後ろ側のベンチに帽子を目深に被った男が足を組んで座っている。ポロシャツの襟を立てている風貌から何かバーボンにピンと来るものがあったらしい。
彼は一呼吸整えたのちに、携帯の録音機能をオンにしてそれとなく近づいていく。ベンチの直ぐ横に、電車の発着や行き先を案内する掲示板があったのは幸いだった。耳を凝らすとやはり彼らは背中合わせで会話をしている。度の入っていない眼鏡を上手く使いながら、最初はそのままぼうっと掲示板を眺めるフリをして、そのあとに眼鏡を外してまじろぎもせずに見入るようにして時間を稼ぐ。会話はドイツ語ですぐに理解できないことを彼は悔やんだが、昨日の夜にダウンロードした翻訳アプリの出番がとうとうやってくると息を飲んだ。

「状況は」
「順調です。明日の取引、ナンバーツーも来るみたいですよ」
「ほう」
「あの組織に相当興味があるんですね。そんなに大きな魅力が?」
「それは君の案件とはまた別の話だ。今は忘れろ」
「・・・はーい」

男の声音が変化したのはその次からだった。

「ドミニクはどうした」
「夜九時に泊まってるホテルのバーで」
「・・・このこと、日本は知っているのか」
「いえ。事が事なので事後報告でもいいかと。それかルディさんから連絡してもらえれば」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「昨日夜メールした件です。間違いなく黒の組織に聞かれていますね」
「あれは不足の事態だったが・・・この件とあの組織は全くの無関係だ」
「・・・でもボロを出してしまったことに変わりはないです。すみません」
「気に病むことはないさ。ルームキーと車のキーは?」
「このパン袋の中です。もう行きますね。夜、よろしくお願いします」
「ああ、任せろ」
「・・・もう少しですね」
「・・・ああ」

それから何事もなかったかのようには立ち去って行ってしまった。しばしの後に反対側に座っていた男も立ち上がる。辺りの様子を窺うように視線を配り、彼もまた彼女とは反対方向に去っていった。彼女が座っていたベンチに残された丸められたパン袋を掴んで。

(・・・)

両者が去っていくのをしっかりと確認してから、バーボンは男が座っていたベンチに腰を降ろした。録音をオフにして、早速翻訳アプリにデータを転送する。とはいえその場凌ぎでダウンロードしただけなので、性能は期待できない。ドイツ語から日本語ではなく英語にした方がマシだろうとそう設定していたが、どうしても使えないようならばオリバーにもう一度頼むことにしよう、と思いながら翻訳が完了するのを待っていた。
九十パーセントを越えた辺りから、データが重いのか進みが遅い。一秒、また一秒と過ぎ去る時間がいつもより早い気がして心がざわつき始める。

(・・・焦っても仕方ない)

はあ、とため息で苛立ちを逃がし、再度深呼吸して冷静さを取り戻す。するとピコンと機械音がした。完了の合図だ。表示された案内に従って翻訳データをダウンロードすると、やはり性能は良くなかった。現段階で彼にはっきり理解できたのは、ナンバーツーがやってくること、そして夜九時にホテルのバーということだけで、それ以外はドミニク、日本、ルディ、メール、黒、ルームキー、車といったたどたどしい単語ばかりしか拾えなかった。だが殊の外有力な情報はゲットできたようで、バーボンの表情はまずまずといった具合だった。

(昨日のチップがあるから彼女のホテルの場所は分かっている。追うべきか?)

バーボンは知りえた言葉で彼らがどういう会話をしていたのか結び付けようと試みた、が、組み立てるためには素材に乏しすぎた。夜九時にホテルのバーに行くことと、日本となんの関わりがあるのか。ルームキーと車はパン袋を男が最後に持っていったことから中に入ってるものだろう。となるとあの男はホテルに侵入するのだろうか。いや彼女の部屋に潜伏するということも考えられる。やはり推理するための素材が少なすぎる。
これだけの要素で深追いは絶対にするべきではなかった。しかし警鐘が鳴り響いていた。確実に何かが起こる、と―…。

(・・・オリバーに送るか)

データを送ろうとすると、彼が組織で使っている方の携帯が唸りを上げた。画面を見るとベルモットからの着信だった。深呼吸を一つして、応答ボタンを押す。

『はぁいバーボン。調子はどう?』
「ええ、順調ですよ。どうかしましたか?」
『あなた今どこにいるの?さっきオリバーと連絡取ったら、あなた一緒に居ないって言うじゃない?』

その時初めてバーボンは、別行動する旨をベルモットに伝えるのをすっかり忘れていたことに気が付く。

「すみません、ドミニクというイーゲルの幹部の男、少し気になるので調べていたんですよ」

ニュアンスは違うがクラウスとを辿ればドミニクにも行き着くので嘘は言っていない、と心の中で正当化する。電話の奥から『ふぅん』と訝しむ声がしたが、もともと互いに秘密主義であるところが功を奏したようで、それ以上は深く追求されなかった。だがしかし。

『てっきりガイドの蜜の罠に引っかかったのかと思ったわ』
「まさか。それに彼女はハニートラップ要員ではありませんでしたよ」
『あらそうなの?それも不思議ねえ。まあ良いわ、ちゃんと連絡さえしてくれれば』
「ええ気をつけましょう、これからオリバーのところに行きますよ」

二言、三言会話をしてから電話が切れた。ふう、とバーボンは息を吐く。予想外の出来事にのめりこみ過ぎていたらしい。本来の仕事も完遂させねば疑われるというものだ。時刻は午後六時十五分。仲間と会ってからでも充分夜については考えることができる、とバーボンは駅を後にしたのだった。










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