ホテルを出る足取りはとても軽く、外に出ると優しい陽の光が溢れていてとても気持ちよかったので、待ち合わせの時間よりもずっと早くカールス門に着いてしまった。気温は昨日よりも高いけれど、風がひんやりしているからとても心地良い。少し散歩でもしようとノイハウザー通りを歩いていたら、ふとショーウィンドウに映る自分に目が止まった。少しラフすぎてしまったかもしれない。鶸色の、袖がフレアになった襟ぐりが広めのブイネックTシャツに、裏地のついたシフォン素材の白のロングスカート、ピンクベージュのTストラップサンダルに昨日と同じ鞄。完全にゆるい。でも道ゆく人と大差ないし、溶け込んでいるといえば溶け込んでいる。むしろ気になったのは服装ではなくて、メイクが崩れてないかとか、寝癖は大丈夫かとか、鼻毛が飛び出てないかとかそんなことばかりだ。これじゃ本当にデート前の女性じゃないか、と反省した。

(う。浮かれてる場合じゃない)

気を落ち着けよう。待ち合わせ場所で悟りを開くように立って待っていよう。
はあ、とため息をついて再びカールス門まで戻ってくると、そこにはバーボンが立っていた。まだ待ち合わせまでは少し時間があるのに、もういる辺り日本人らしい。ドイツ人も時間には厳しい方だが日本人ほどではないし、それに大学の友人たちは大抵時間通りやってこない。そんなバーボンは白のラウンドネックの五分丈カットソーに、タイトめの黒のチノパン、キャンバス地のカジュアルなオックスフォードシューズを身に纏っていて、正直言って似合いすぎてて眩しい。ここが日本なら女子たちがきゃっきゃと騒ぐに違いない。彼はこちらに気が付くと、昨日と同じ笑顔で寄ってきてくれた。

「こんにちは。おはやいですね」
「こんにちは。バーボンこそ」
「早く目が覚めたので、散歩がてら来てしまいました」
「私もそんな感じです。白、似合いますねバーボン」

肌が小麦色だから、白が映えてとてもきれい。そんなことを付け足したら、バーボンは一瞬きょとんとした顔をして黙ってしまったけれど、すぐにまた笑ってくれた。もしかしたら、あまり言ってはいけなかったのかもしれないと思って、フォローをするように、あなたの髪はお日様に照らされるとますます輝いて見えます、と言ったらまたも黙られてしまった。

「開始早々口が上手いですねえ、困った人だ」
「やだなあ本心ですよ、さ、いきましょう」

お互いくすくすと笑いながら歩き出した。昨日と同じようにこの町一番の目抜き通りを歩き、市庁舎の前を通り過ぎて、昨日上った塔があるペーター教会の裏を曲がっていく。少し歩けばそこはもう、一際賑やかな場所だった。
ヴィクトアーリエンマルクトと呼ばれる、この辺りで一番大きな野外市場には、野菜や果物から手作りの雑貨や無添加のコスメティック用品、ビアガーデンやインビスと呼ばれる軽食屋まで何でも揃っている。夕方まで開いているが、このマーケット一押しのお肉屋さんで売られるサンドはいつも昼過ぎには完売してしまう。そのため今日は昨日より一時間早く待ち合わせたのだ。

「バーボンはここで待っててくださいね」

そう言って彼を適当なベンチに座らせて、踵を返してお目当てのお店へ。何軒もあるお肉屋さんの中で一際行列ができている店の最後尾に並ぶ。自分の前には十五人ぐらいだろうか。このぐらいならそんなに時間はかからないかもしれない。ちらりとバーボンの方を見たら、彼は手を振ってくれた。遠くから見ても紳士で爽やかだ。彼の百分の一でいいからドミニクにもあの紳士さがあればいいのに、と本気で思う。

(バーボンは人の顔に煙草の煙吐いたりしなさそう)

ああでもあの顔でなら喜ぶ女性はいくらでもいるかもしれない、なんて本人には絶対に言えないことを考えているうちに、自分の番が回ってきた。お肉の焼ける匂いはいつだって腹の虫をくすぐるので罪深い。恰幅の良い旦那さんにオーダーを通して、会計はその横に立つ奥さんに。お店は大変忙しそうで、奥の方でお弟子さんたちがせっせと肉だねの準備をしている。こうやって作っているところを見れるのも、待ち時間の楽しみの一つ。そうして渡された熱々のお昼ご飯を両手に持てば、呼吸をする度に美味しそうな香り。思わず頬も緩むというものだ。

「お待たせしました」
「悪戯っ子みたいな顔をしていますね」
「ふふ、すっごく美味しいんですよ」

後ろ手に隠していたサンドを「じゃーん」と自分で効果音をつけて彼に渡すと、彼はこれは一体なんだろうという顔をしていた。

「レバーケーゼっていうんですよ、これ」
「へえ、ミートローフみたいですね」
「あ、そんな感じです、ドイツ版ミートローフ」

豚肉や牛肉を挽いたものに、スパイスや玉ねぎをフードプロセッサーで混ぜ合わせて、四角い型に入れて蒸し焼きにしたもの。彼の言う通りまさにミートローフだ。名前はレバーとチーズの意味だけれど、実は元々この二つは入っていない。レバー以外の肉類と、チーズ以外の野菜は入っているからレバーケーゼと言うらしい。なんだか天邪鬼みたいなネーミングで少し可愛い。

「信じられないほどふわふわですね、凄く美味しい!」
「そうなんです!ここのレバーケーゼのふわふわは特別なんですよ〜、並ぶの嫌いな欧米人がこぞって並ぶんですから」
「ん〜パンより具が多いのも豪快ですし、なによりこの味は日本に持って帰りたいですねえ」
「ふふ、東京じゃ食べられないですからね」

口の中ですっとほどけていく柔らかさと、滑らかな口当たり。それでいてジューシーでコクの深い味わい。パンの小麦との馴染みがよくて、一口食べればすぐにまた一口食べたくなる。レバーケーゼはスーパーにも売っているけれど、このお店のを食べてしまったらもうスーパーのには戻れない。美味しいご飯は正義だと思う。胃が満たされることは幸せだと思う。しかもそれが、穏やかに晴れた太陽の下、気持ちの良い風に当たりながらする食事ならなおのこと。
口をもごもごさせながらバーボンを見ると、彼も同じように口をもごもごさせていて、顔を見合わせて微笑み合う。美味しそうに食べてもらえると嬉しいなあと思いながら食べ進めていると、上のパンと下のパンがずれてきてしまった。ハンバーガーを食べる時によくなるあの現象だ。「バーボンもこうなることありますか?」と聞いたら、「見てください」と同じようにパンと中身がずれてしまったそれを彼は指差した。「ふふ」と笑うと彼も「ふふ」と笑った。最後まで均等に食べられないこの現象に、いつか名前が付いたら良いなと思う。




*




昼食のあとは、近くのフルーツジュース屋さんで買った絞り立てリンゴジュースを片手に、所狭しと並ぶマーケットを見て回った。日本では見たことのない野菜や果物に興味津々といった具合で、バーボンにあれはなにかこれはなにかと聞かれる。答えることができるものもあればそうでもないものもあって、そういう時は店主に聞いて二人で勉強した。スパイスにも関心があるみたいで、料理が好きなのかと聞いてみたら嫌いではないと返ってきた。多分思う。彼は絶対料理が好きだと。だってスパイスの一つ一つまで目を凝らすなんて、料理嫌いな人はしないもの。一人暮らしなのかな、とか、彼女はいるのかな、とか、もう結婚してるのかな、とかもしかして表の顔は料理人なのかな、とかそんな小さな疑問が頭を過ぎった。
魚屋に寄れば、お金を払うと店主がそのまま口に放り込んでくれる、ニシンのオイル漬けが売られていた。ドイツやオランダ、北欧ではニシンは有名で魚が嫌いな人でもこの時期には食べるぐらい美味しい、と言うと早速バーボンはニシンを放り込んでもらっていた。それを見ていたら私も食べたくなったので同じように放り込んでもらう。お刺身ホームシックなので、マリネのような触感のこのオイル漬けは心の底から美味しかった。このちょっとした生臭さも正直好きだけれど、会話のためにそこはジュースで洗い流す。

「みてみてバーボンこのリース!綺麗ですねえ」
「ドアに飾るのに良さそうですねえ」

ハンドメイドショップに並ぶ大きなリース。沢山のスパイスと木製リンゴで飾られたものや、秋に使えそうな鬼灯や紅葉した葉っぱで飾られたもの、クリスマスリースにピッタリの、ヒイラギやヤドリギの葉にホログラムがあしらわれたものなどが沢山並んでいる。彼の言う通りドアに飾ったら画になって素敵に違いない。季節感を取り入れた生活がしたいとよく思うものの、なかなか上手く取り入れられないので今年は一つ買ってみるのも良いかもしれない。

「へえ、これは全部蜂蜜でできてるんですね」
「ほんとだ、この石鹸使ったらお肌うるうるですね」

蜂蜜の石鹸、蜂蜜のクリーム、蜂蜜のシャンプー、蜂蜜の蝋燭、なにもかもがお手製の蜂蜜から作られた、身体に良さそうなコスメティックに生活雑貨。蜂蜜そのものも売られていて、蓮華、アカシア、ブルーベリー、木苺など様々な種類があった。そういえば蜂蜜は普段中々食べないなあと思った。時々ヨーグルトに入れるぐらいか、それか照りを出すために煮物に使ったりもするかだ。でもこんなに種類があるなら、パンに塗るのも美味しそう。バーボンの方を向いたら彼は熱心に蜂蜜の小瓶を見ていたから、一周したあとまた戻ってくることにしよう。

「わ、こっちも、みてみてバーボンこのピアス!可愛いですねえ」

自分でも何してるんだろうというぐらいはしゃいでしまっている。元々ウィンドウショッピングが好きだからか、こうしたマーケットを見ながら歩くのはとても楽しい。手作り雑貨のお店は特にそうだ。作っている人と直接やりとりができて、その人の作品に対する愛情が伝わってくるところがたまらない。今見ているピアスは色の付いた硝子を切り出した小ぶりの花柄のもので、清涼感があって春でも夏でも使えるだろうなあと思う。ピアスのかかっている台座の紙も箔押しされていて手が凝っている。美味しいも正義だけれど、可愛いも正義だ。

「プレゼントしましょうか?」
「何言ってるんですか、お金は大事にしてください」

すんなりと。笑顔でかわす。うそ。全然心の中はすんなりしてない。してないんですよ、バーボン私。なにを飄々とそんなことを言っているんですか。驚くからやめてください。

「ほら、こっち向いてください?」
「・・・え?」

事態はそれだけでは終わらなかった。ただでさえさっきの言葉で心臓が跳ねていたのに、あろうことかバーボンは私が見ていたそれを手に取ると、「似合うのになあ」と言って反対側の手で私の耳元の髪を避けて、台座を宛がいにきたではないか。

(・・・!?)

髪に触れる彼の指先。もみ上げをかすめる彼の体温。私を捉えるブルーグレイの瞳。
一瞬何が起きたのか分からなくて、心臓が止まった。視界がスローモーションになるなんて、そんなドラマみたいなことがあるなんて。いやだ、いやだいやだいやだ。そのハニートラップ、心臓に悪すぎるから、やめてほしい。

「・・・あれ?でもは開いてないんですね」
「う、あ、えっと、そ、そうですね」

全然取り繕えなかった。体の血が顔に集まる。耳に集まる。いやだなあ、今絶対赤い。ピアスが可愛いなんて、言わなきゃよかった。開いてもいないのに、可愛いとか言わなきゃ良かった。ピアス可愛いですね、普段イヤリングなので悔しいですがこの店はスルーです、とでも言えばこんなことにはならなかった、のに。

「今時珍しいですね、またどうして?」
「・・・」
?」
「・・・笑いません?」
「ええ」
「い、痛いのって、ちょっと怖いじゃないですか。チキン、なので」
「・・・また可愛いことを言いますねえ」
「かっ!?」

ああいやだ。昨日よりこの人、ガンガン攻めてきてないですかね、ドミニクとの会話を聞かれてしまったの、彼の興味を引いてしまったのかしら。今日はあからさまにハニトラ凄くないですかね。私、このまま絆されちゃったらどうしよう、ふにゃふにゃになってしまったらどうしよう、水でふやかした干瓢みたいに。だめだ、だめだ絶対にそんなこと。夜には人生で最大のパーティが待っている。こんなところで干瓢にされるわけにはいかない。

「は〜やだやだバーボンったら。でも、ほんとは開けちゃいたいんですけどね、ピアスの方が種類も可愛いデザインも多いし」
「それなら今開けに行っちゃいましょうか」
「しません。ほら、次ぎ行きますよ次」

彼は楽しそうに笑っていた。太陽の光に髪の毛を反射させて。きらきらしていて眩しかった。でもその緊張のなさが少し怖い。そうやって優男みたいに笑って、裏の社会で生きてきたのかと思うと、私には追うことのできない闇を隠している気がして、肌がぴりぴりしてしまう。良くも悪くもこの人からは逃げられなさそうな雰囲気に、心が警鐘を鳴らしていた。










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