ちゃぽん。心に染みる、お湯の音。
バスタブでゆっくりしていると、つい思い出してしまうのが日本での風呂事情。大学生としての今の私の部屋はとても素朴だけれど、ルームシェアだったりバストイレキッチン共用が一般的なこちらの生活の中では、一人部屋なだけ贅沢な方かもしれない。迂闊に捜査資料を見つけられてしまう訳にはいかないからという配慮だったけれど、もちろんバスタブはない。だから湯船の恋しい日本人にとって、ホテルは何もかもが揃っている夢の国だ。

「・・・」

両手を器にしてお湯を掬ってみる。あっという間に隙間から零れていって、空っぽになる掌の中。

「私がしてることは、正義でもなんでも、ない」

そう、警察という立場を使った、仇討ち。ついでに組織が潰れるというおまけ付き。だから私欲で動いているだけ。ただそこに警察という肩書きがあるだけ。




*




クラウス・ライヒェンベルガー。
彼と出会ったのは、私がまだ大学生の頃だった。東都大学法学部に入学して三年目、何かを掴めることができたらいいなという気持ちで、交換留学でこの国にやってきた。右も左も分からぬ初めての海外で、初めてできた友達こそが彼、同じ大学に通うクラウス・ライヒェンベルガーだ。
住む家がどこにあるのか分からなくて、道端で途方に暮れていた私に彼は声をかけてくれた。端から端まで町を案内してくれたり、スーパーはどこが安いだの日用品はこの店がオススメだの、とにかく彼自身が知っている情報全てを教えてくれた。それによくご飯をご馳走してくれたり、川辺の芝公園に連れ出してくれたり、とにかく慣れない異国の地で、私が寂しさを感じないよう声をかけてくれたのだ。次第にお互いの母国語を教え合うようになって、彼が話す単語レベルの拙い日本語が好きだった。
そんな彼はとてもお人好しな人間だった。困っている人がいたら助けずにはいられない、正義感のある人間だ。近所に住んでいる年配者にも常に気を配っていたし、迷子の子供の親をよく探していたっけ。でもそういうことの全てが押し付けがましくなくて、周りの人たちからとても愛されていた。恋ではなかったけれど、人間として私はクラウスのことが大好きで、だから彼とは色んな話をした。どうして大学生になったのか、とかなんでこの専攻なのか、とか将来は何をしたいのか、とか。将来の明確なヴィジョンが何もないと零せば、そんな私にでこピンをしては彼はよく「早いうちに信念を見つけろ」と言っていた。信念ってなんだろう。わかるけど、わからない。生きていくのに必要な信念ってどこに落ちているんだろう。そんなことばかり考えて、そしてそれを言うたびにでこピンをくらったものだ。
顔をくしゃくしゃにさせて子供みたいに笑う彼には、超溺愛の彼女がいた。彼女とももちろん面識があって、私たちはよくお菓子を作る名目で会っては話に花を咲かせていた。この男にしてこの女ありというぐらい彼女は性格が良くて、彼と同じぐらい面倒見もいい。ほんとうに応援したい癒しのカップルだった。彼と会うと必ず惚気話を聞かされる。寝姿がまるで子猫なんだ、とか、肌艶が美しくてつい撫でてしまう、とか。彼女のことが好きすぎるあまり、喧嘩をしてもすぐに謝ってしまうらしい。それで仲直りのセックスをしたことまで彼は笑って話していた。クラウスよりも年上の彼女はもう社会人だったので、朝別れると自分の大学が終わるまで会えないのがつらい、なんて彼はあたかも愚痴のように話していたが、私からしてみればそれもまた惚気話に過ぎなかった。でもそんな幸せそうな彼らの笑顔が大好きだった。
この人に出会えて良かった。この人の彼女にも出会えて良かった。彼らは太陽みたいな人たちで、土砂降りの続く鬱蒼な初夏も彼らを見れば元気が出たし、真冬の寒さしかない厳しい季節も彼らといたらとても温かかった。だから私の一年間の交換留学はあっという間に過ぎていった。ドイツ語が飛躍的に上達したのも彼らのおかげで、学部生に混ざってディスカッションをするのにはまだまだ足りなかったが、各国の留学生の中で使うドイツ語ならばさして苦労もしないようになっていた。
このまま日本に帰るのはどこか勿体無い気がして、もう少しこの国に残りたいと思った。留学延長のためにあちらこちらに駆け回り書類を揃えていると、クラウスには「少しは何か掴んだみたいだな」と言われた。「何か」がなんなのかはその時もやっぱり分からなかったけれど(むしろ惰性のような気がしなくもない)、心の底がすこしだけワクワクしたのを覚えている。
それから大学で勉強をすること一年と十ヶ月。帰国まで残すところ僅か二ヶ月という時に、ある日クラウスが帰ってこないと彼の彼女から連絡があった。最後に彼と会ったのはいつかと聞かれ、多分三日前だと答えると、彼女は二日前から彼から音信がないとぼろぼろと泣き出してしまった。一体何が起きたのか全く理解できないまま、一週間、二週間と時間が過ぎていった。友達という友達、知り合いという知り合いに彼のことを聞いたが何も分からずじまい。彼女は仕事を辞めてしまい、日に日に活力を失っていくのが目に見えてわかった。あれだけ彼女のことを溺愛していたクラウスが、連絡もなしにその消息を絶つなんて考えられない話で、だからきっとなにか事件に巻き込まれたのだと思った。しかし警察は何も知らないという。行方不明届けを出したが一向に連絡は来なかった。
進展があったのは彼がいなくなってから一ヶ月が経ったある日のことだった。クラウスの彼女が暴漢に襲われて入院したのだ。幸い軽症だったので直ぐに話をすることができたが、彼女が言うには暴漢は二人いて、しきりに「隠しているものを出せ」と脅されたらしいが、彼女はその隠し物とやらにまったく心当たりが無いという。家を荒らされに荒らされたが何も出てこないので、痺れを切らした暴漢たちが彼女を家から連れ出したところを、近隣住民に見つかり警察が呼ばれたらしい。彼女の命が助かって良かったと思うと同時に、これで彼がやはり事件に巻き込まれていたことが判明した。ようやく警察も動いてくれるだろうと確信したが、どうしたことか警察の関与は一瞬で終わってしまった。それ以降、クラウスの件は捜査打ち切りという納得のいかない結末を迎えてしまったのだった。
何が起きたのか、わからぬまま。
彼が生きているのか、死んでいるのかもわからぬまま。

どうすることもできずに、留学の終わりがやってきた。
家の契約ももう切れる。ビザの期間ももうなくなる。銀行口座も解約される。もうこの地に残ることの許されない身。刻一刻と迫るタイムリミット。二ヶ月経って、クラウスの彼女は少しだけ笑えるぐらいには体力が戻っていた。彼女の傍を離れることなんてできないのに、法がそれを許してくれない。彼女は無理に笑って「また来てね」と抱きしめてくれた。か細い腕で。壊れてしまいそうな肩で。このまま終わってしまうのがくやしくて、くやしくて、仕方が無かった。

九月頭。実家に帰ったら、一つの小包が届いていた。送り状には私の知らない名前が書いてあって、差出人の住所もでたらめだったけれど、心のどこかでクラウスと関係があるんじゃないかと感じていた。母曰く、二ヶ月前ぐらいに届いたらしい。どうして教えてくれなかったのかと聞けば、荷物が届いた時にトークメッセージを送ったという。急いでトーク履歴を確認すると確かにあった。どうしてこんな大事なことを見逃してしまったんだろう、とも思ったが日付を見るとクラウスが失踪するよりも前のことだった。それに「ドイツからの荷物」ではなくただの「荷物」だったのもきっとその要因だろう。好きなアーティストのCDの発売の時期と重なっていたし、通販したものといえばそれだけだったので、思い違いをしてしまっていた。がしかし今はメッセージの件で悔やんでいる場合ではない。とにもかくにも開封せねば、と部屋に引きこもって無心でガムテープを破ると、中にはノートを便箋代わりにして破ったものと、パソコンと鍵と、そして革の手帳が入っていた。
爆発しそうな心臓の音を必死に抑えながら、二つ折りにされた二枚のノートの紙を開いた。間違いなく彼の字だった。そこに書いてあったことは、たった一度読んだだけでは理解できなくて、次第にぼやけゆく視界で、何度も何度も読み返した。「君がこれを読んでいる頃には、多分僕はもうこの世にいないのかもしれない」なんて、ドラマや映画で見るあの定形句。まさか本当にこの一文を目にする日が来ようとは。雑な走り書きに、彼には時間が無かったのだろうことが予想された。

結論から言えば、彼は連邦警察官だった。正確には、警察官という身分を隠して大学に通う、公安警察だった。全く気が付かなかった。そんな素振り一度も見せたことなかったのだから。けれど同封された手帳が物語っていた。彼が正真正銘の警察なのだという写真と紋章入りの警察手帳。
「本当は全て明かしてはいけないのだけど」という前置きから始まった彼の文字による独白。彼がイーゲルという違法武器売買の犯罪組織に潜入していたこと。イーゲルが行っていた犯罪行為のこと。工場のありかを見つけることが彼に課せられていた使命だったこと。警察内部にイーゲルに情報を洩らす内通者がいるかもしれないこと。信頼できるのはルディという上司のみだけだが、彼は犯罪組織を専門に扱う警察官として裏の世界では有名なので、組織から身辺を徹底的にマークされていて手紙など送れる状態ではないこと。そしてドミニクという男に怪しまれていること。そのドミニクによってパソコンがハッキングされていたこと。組織で使っている彼のパソコンには、使用履歴や設定の変更などが自動的に彼本来のパソコンに記録されるようプログラミングされたもので、同封したものがまさに彼の持つプライベートパソコンであること。鍵は公安警察としての彼が、彼女と同棲する部屋とは別に契約していた家のものであること。それらのことがまとめられていた。
クラウスが彼女に荷物を送らなかったのは、直ぐに組織から調査が行くからだと踏んだからだろうし、彼女に手紙を送らなかったのもきっと切羽詰っていたからに違いない。組織から身を追われていたことと、唯一信頼できる人間に張られたマークから、彼の住む周辺に安全はないと考えて、日本の私に送ってきたような気がしてならなかった。昔彼が覚えたての日本語で手紙を書きたいと言っていたから、実家の住所を教えたことがあった。それをメモしていたか、覚えていたかだろう。
手紙の末尾にはこう書いてあった。「人間いつ死ぬか分からないんだから、自分の未来とちゃんと向き合え」と「もう話をしてやれなくてごめん」と。




*




彼の死の真相が知りたい。ルディという人と連絡が取りたい。もしもう彼がこの世にいないのだとしたら仇が取りたい。それだけが私を動かす全てだった気がする。すぐにでもドイツに戻って彼の隠れ家に行ってみたかったが、それはあまりにも危険だし、それに自分の今の立場では、何ができるわけでもなかった。だから死に物狂いで猛勉強して、公務員一種を取って面接で猛アピールをして警察庁に入庁した。自分でも信じられないけれど、キャリア採用というやつだ。
そこから半年近く警察大学校でみっちり訓練を受けた。人生で初めて腹筋が割れたのもこの頃だった。今はお察しだけれど、あの頃はほんとうに頑張ったと自分で自分を褒めてやりたいと思う。その後は東京都内の交番で半年間勤務をして、今いる警察庁警備局外事情報部国際テロリズム対策課という早口言葉みたいな部署に所属している。周りはやれ出世だなんだのと騒ぎ立てたけれど、これには警備局長が絡んでいる。でなければ私のようなひよっこ、まだまだびしばしと叩かれねばならないからだ。
そんな局長に初めて会ったのは、警察大学校時代だった。授業中に私服でひょいと入ってきた彼に皆がざわつくので、不審者かと思い間違えて飛び勇んで捕まえてしまったのだ。教官には顔ぐらい覚えておけとお灸を据えられてしまい、本当にファーストインプレッションは最悪だったと思う。でも局長はなんと人格者で温厚な人だった。私の行いを拳骨ののちに笑って許してくれた。そう、人格者、あれ?人格者?あまりの痛みにお星様がぐるぐるしていたのを今でもよく覚えている。そのあと局長に担がれて医務室に連れて行かれた(決してお姫様だっことかいう可愛らしいものではなくて、米俵を担ぐみたいに脇に抱えられたていた)。自分で殴ったくせに自分で手当てするのか、と思いながら切れたおでこの痛みを涙目で耐えていたら、君は子供みたいだと呆れられた。よし、と絆創膏を貼られて、それから食堂で一番値段の高いネギトロ丼をご馳走してくれた。局長は人格者だ。普段は手が届かないそれを頬張れば、局長にはまた子供みたいだと言われてしまった。
二回目に会ったのは交番勤務の時だった。近所の住人から、誰かが公園のベンチに倒れたまま動かない、と通報があったのだ。慌てて行ってみれば、そこにいたのが局長だった。死んだ魚のような目をしていて、どうしたのかと話を聞けば奥さんと離婚危機を迎えたらしい。多忙にも程があり、且つ普通の警察官と違い職務内容を話すことができないから、不安がたまりにたまって奥さんの堪忍袋の尾が切れてしまったという。仕事と私とどっちが大事なんですか、というお決まりの台詞とともに。
そんな彼らの仲をどうにかこうにか取り持ったあと、局長は一週間に一回ほど交番に顔を出すようになった。いわゆる世間話のお相手というやつだ。多分、というか絶対そこで私は局長に絆されたのだと思う。古きよきものの考えと、革新という未来的な考えが混ざった局長の在り方を、美しいと思った。だから彼に話をしたのだ。クラウスのことを。そして、イーゲルという組織のことを。そしたら彼は言った。「私の新しいチャレンジに乗る気はないか」と。
局長の新しいチャレンジというのが何のことかは謎だったけれど、これでクラウスのことが進展するなら、と彼と極秘にイーゲルのことを調べ始めた。するとアジア支部なるものが存在することを知った。たかだか交番勤務の人間が潜入捜査できるほど警察組織は甘くないが、局長権限は非常に強い。彼は私を「協力者」という形で捜査協力の申請書を提出した。といっても認可するのも管理するのも局長なのがミソで、権力というものに初めてキュンとした。もちろん権力を振りかざし弱者を支配しようとする人間は大きらいだけど。
そしてアジア支部にいる組織の人間を買収して地位を得た。半年が過ぎるころには、私は組織の内部調査係としてそれなりに名前が知れ渡っていて、ドイツ語が使えることからヨーロッパとアジアのパイプ役として時々仕事をもらうようになっていた。そうして局長は私をあの部署に引き抜いた。それをコネだと言われてしまえば全く返す言葉が見つからない。
そんな折に、クラウスの彼女から連絡が来た。とある日本人の女を知らないか、と尋ねに来た男がいると。何か不穏を察した彼女は、知らないと言ったが、見せられた写真は私だったという。何か気付いたことがあれば連絡してほしい、と渡された名刺には「ドミニク」と書かれていたことも教えてくれた。そのドミニクが、クラウスの手紙に残されていたドミニクと無関係とはどうしても思えなかった。
そこで、内部調査をしている日本人の女の構成員がいる、という噂を写真とともにドイツに意図的に流すと、いとも簡単にドミニクとコンタクトを取ることができた。組織の活動範囲が広ければ広いほど、裏切り裏切られの世界でもある。だから内部調査員の裏に誰がいるのか、なんていうことは自分のボロがばれそうで誰も表立って事を荒立てたりしない。所詮はそこまでの組織ということでもあるけれど、おかげでこちらはとても動きやすかった。子供だましみたいな手が案外上手くいくこともあると局長はしたり顔をしていて、正直その顔がテレビドラマで見る悪の組織のボスみたいと思ったのは流石に口にはできなかった。
ある日ドミニクが個人的に私に連絡を寄越した。自分の傍で働かないかと。是非君とお近付きになりたい、と。罠も同然な気がしたけれど、食い付かなければ始まらない。それを局長に話すと、警察庁内にある留学プログラムを用意してくれた。最初は連邦警察側に断られてしまったが、ルディという日本で言う警視長にあたる人とアポを取り話をしたところ、すんなり許可を貰うことができた。こうして私は再びこの地に舞い戻ってきたというわけである。

ドミニクには嘘の到着日を教え、まずはじめにルディさんと会った。このルディさんこそがクラウスにイーゲル潜入を命じた上司だ。彼の失踪を非常に悔いていて、だから今回この申し出をまさに天啓だと感じたらしい。そうした共通認識から打ち解けるのに時間はいらなかった。クラウスから送られたものを全部持って、ルディさんと彼の隠れ家へ行けば、そこにはイーゲルに関する調査書類が山のようにあった。組織の内情から構成員の国籍まで様々なデータが残っていて、彼がかなり奥まったところまで組織のことを掴んでいることが分かった。けれどどうしても武器の製造工場が分からない、と報告書にあった。それを見た時にはもう決意していた。彼の仕事を引き継ぐことを。




*




ドミニクは金に困っていた。末端の構成員は大して稼ぐことができない。だから彼は必死だった。かといって全うに生きるだけの覚悟も無い彼は、組織から抜けることもできずにいた。それで彼はある日なけなしのお金でハッカーを雇い、とある幹部のパソコンに侵入した。そこから得た、組織にとってそこそこ重要なデータを売って小金を稼いでいたのを、クラウスに見つけられてしまった。だから彼はクラウスが任務でいない時に彼の家に侵入して、また同じハッカーを使って彼のパソコンから幹部のデータを盗んだ。お金で雇われて悪事を働くような人間、その何倍もの金額をふっかけてやれば簡単に口を割る。探し出すのは簡単じゃなかったけれど、見つけてからは簡単だった。
それでドミニクは、こそこそとしている怪しい奴がいる、とボスの側近に声をかけたに違いない。それで調べてみたらクラウスのパソコンに履歴が残っていて、だからクラウスは始末されてしまったのだ。晴れてドミニクは組織に貢献した人間として昇進し、自身の罪を全てクラウスに擦り付けたというわけで、これがきっと真相なのだと思う。

そんな薄汚いハイエナは、おそらく秘密裏にクラウスの隠れ家を探している筈。クラウスの彼女のところを訪れた暴漢は絶対にハイエナの手下だ。でも何も出てこなかった。だから不審に思い探し続けていた。そしてとうとう私という接点を見つけ、彼女のところに尋ねたのだ。
絶対に驚いただろう。探していた日本人とやらがまさか組織にいたなんて、と。しかも内部調査をしているじゃないか、と。だから彼は私を自分の元に置いて監視しておきたいのだと思う。クラウスの死に自分が関わっているのがバレたんじゃないかと恐れたのだ。そして私がどこまで知っているのかを探って、始末するか、私を巻き込んで共犯にするか、それは分からないけど、とにかく私がボロを出す一瞬を狙っている。
この一年間、傍で彼を見てきて分かったことがある。狡猾で目的のためならなんでもするが、同時に少し感情的で頭が悪い。顔合わせの時もそうだ。腹の内では私を消すことを考えながら、黒の組織から来る人間が日本人だから、君に通訳も兼ねてもらいたいとかいう適当な名目をならべ取引に連れ出したくせに、私がバーボンに日本語を投げかけたら肘で小突いて自分にも分かる言葉で喋れ、と言ってきた。そのあと自分はドイツ語で私に話しかけてきたというのに。けれどお頭が弱いというのには良い所もある。普段は卒なく対応しながら、お酒を飲んだ時だけどうでもいい嘘をばらまいて、彼を少し褒める。たったそれを続けるだけで私という人間を全て把握した気になっていたのだから。
そうして探り探られた一年。彼にとっての好機がやってきた。ボスが後継者を探しているらしいという噂だ。彼はきっとまた同じことをしようとしている。単純に黒の組織を顧客としてゲットするだけでは決定打に欠ける。そこでを消したらどうだ。黒の組織から貰った取引データを持ち逃げされたとでもいって始末してしまえば、また裏切り者を制裁したことになる。おまけにクラウスに関わる人間がいなくなれば、過去の悪事を暴かれる心配要素が一つ減る。そんなところだろう。私を裏切り者として幹部たちに突き出したとしても、私を彼の元に引き抜いたのは彼自身なのだから、責任の所在が自分にあると思わないところからも、お頭の弱さが窺える。
しかし彼が狩りをしようというのなら、こちらもそれをするだけだ。ヘルックと黒の組織が関わったことでBNDとも共同戦線を張ることになり、イーゲルを組織ごと炙り出す計画を打ち上げた。けれどこの仇討ちの件を知っているのは、ルディさんと彼の息の掛かった部下たちだけ。だからよく思う。国家を守るために働いてない私は、目的のためなら手段を選ばないドミニクと同類なんじゃないかって。仇討ちがしたいから、良い人の顔をして警察官をしながら組織に潜入して、情報を集めて、ここぞという機会に奴をしょっぴく。形は違えど手段を選んでいない点ではそう言われても仕方がない。そのために何人もの人に嘘を吐いてきた。大学でできた友達にも、クラウスの彼女にも。彼らは私が警察官だということも知らない。さすがの両親は私がそうだということを知ってはいるけれど、公安であることは知らない。今は研修で地方に行っていると思っている。そうした生活を送っているうちに、いつのまにか躊躇いもなく嘘が吐けるようになっていた。嘘はきらい。悲しくなるから。切なくなるから。罪悪感で押しつぶされそうになるから。でも、大切な人を守るための嘘なら、できるかぎり、貫き通したい。

(クラウスは、どういう気持ちだったんだろう)

事情を知っていたのはルディさんだけ。それ以外の誰にも苦悩を漏らさずに彼は生きていた。それどころか、周りの人たちの心配までして。
どうして彼でなければならなかったの。あの人は、誰よりも誠実で、誰よりも正義感に満ちていて、誰よりも人を大切にする人だった。そんな彼の愛がなぜ引き裂かれねばならなかったの。だから私は許さない。彼の命を奪ったドミニクも、イーゲルも。









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