ホテルに戻ってオリバーに会った。ホテルはと別れた場所からそう離れたところではなかったので、彼女が部屋に着くよりも早く帰って来てしまった。まあ丁度良いかと談話でもしていると、耳元から、エレベーターに乗ったのか何かの機械音が鳴り出した。オリバーには録音しているから嘘の通訳をしてもそのうちばれると念を押して、ドイツ語から英語に同時通訳をしてもらった。

『・・・こういう世界の人間に見えないのは、あの人の方なのになあ・・・』

ここは日本語だ。はあ、とため息が聞こえる。彼女にそれなりに良い印象を残したのかもしれないと思うと、少しだけ心が弾む。その直ぐ後にドアが開く音がした。自室に戻ったのかと思ったらそうではなくて、すぐにドミニクとの会話が流れてきた。

『明日の予定はどうなった?』
『お昼ご飯を食べることになりました』
『悠長だな』
『そうですね、休日を満喫って感じです』
『緊張感のないやつめ』
『ありますよ、緊張感。一度盗聴器付けられてひやひやしましたもん』

ドイツ語だと少しトーンが下がるので印象が変わるが、それでも彼女の声音は今日一日話をしていた時と変わらず朗らかだ。やはり盗聴器の件は話しに上がったか。ドミニクの声が少し荒くなり、その場で壊したから、という彼女に対してさらに苛立ちを感じているようにも聞こえる。

『・・・とにかく、聞き出せるものなら何でもいい、女の武器を利用して少しでも情報を掴んでおけ。特にヘルックとあの組織のことに関してはな』
『はいはい、わかりましたよ』

よくある裏話というやつだが、引っかかることがないと言えばない訳ではない。特にドミニクの言う女の武器とやらについては。なにせそんな素振り彼女からは見えなかった。あからさまにハニートラップに来られてもそれはそれで萎えるというものだが、それにしても彼女からは全然アプローチが来ない。隣を歩いている時も一定の距離感はあったし、服装だって普通だった。こちらとヘルックの情報を欲している割には、そんな話全く話題に上らなかった。本当に仕事をする気があるのかというぐらい、思い返せば良い天気の中楽しい観光をしました、といった一日だった。明日も彼女と会うが、その約束を取り付けたのは自分からだ。彼女は明日もあなたに会うんですか?みたいな顔をしていたし、それが演技でないとするならば彼女は一体今日一日何をしていたのだろう。
それに「取引が終わったら私とあなたはもう二度とやりとりしないですよ」というあの言葉。なんだか含みのある言い方だった気がしなくもない。イーゲルの武器を買うと「あの方」が言ったなら、真っ先に連絡を取り付けるのはドミニクか彼女だ。だってこちらはあちらのボスを知らないのだから。もちろん「私レベルが現場に出ない」とも言っていたから、やりとりの全てを担うのはドミニクかもしれないが、だからといってあの場で「もう二度と」なんて断定できたことだろうか?となればこうも取れるのではないか。彼女がもう組織の任務には関与しない、と。いや、飛躍させるのはまだ早いか。

(・・・読めない)

が部屋に戻ると言ったので、ここまでか、と思った次の瞬間、何かがぶつかる音がした。なんだ、何が起きた。そのあと直ぐに彼女の呻き声がしたのでハっと息を呑む。

『クラウス・ライヒェンベルガーを知っているだろう?』
『・・・クラウス・ライヒェンベルガー?』
『知らないとは言わせない、調べは付いているんだ』
『調べ?一体何の調べですか?』

物々しい雰囲気が伝わってくる。オリバーに今挙がった人物の名のスペルをメモしてもらう。男女の仲だとか、超溺愛の彼女だとか、それは答えになってないだとか、今回の取引の話と明らかに違う内容だ。何かを貰ったか、ということが主眼らしいがどういうことだろう。オリバーの通訳を慎重に聞き取っていると、彼女の咳がイヤホンにビリビリと響いてきた。何かされたのだ。それで酸欠になっている。かと思ったら今度は苦しそうに声がくぐもっている。

(首を締められている・・・?)

けれどは冷静だ。荒々しいドミニクとは違って至って冷静だ。流石に声音はワントーン落ちた感じで、純真そうな女の子の声ではなくなっている。それはそうか。この事態でもなお無邪気に笑っていたらそれこそ普通じゃない。

『苦しいです』
『それとも身体をずたぼろにされないとわからないか?』

これまでの会話から察するに、ドミニクにとってクラウスという人間の「何か」はとても重要なものらしい。しかしこんなに攻撃的な態度に出ては、ドミニクには何か隠したいことがあると露呈させているようなものだ。それはにも分かっているようだった。忠実な犬か海に沈むかだなんて、意外と彼はお頭が弱いのだろうか。

『それに、この取引で私にもしものことが起きたら、今のこの会話も含めて全部ボスに情報が流れますよ』
『・・・貴様、いつのまに』
『当たり前でしょう?あの得たいの知れない組織ですよ。あなた一人に任せるわけないじゃないですか。あなたは昇進のために私を駒のように扱ってますが、私は私で今回組織の命令に従って動いてるんです。あなたの監視役として』

ほう。はボスとの繋がりを持っているのか。昇進のため、という言葉からどちらにせよイーゲル組織内で何か問題が起きているのは確からしい。ドミニクは完全には信用されていないのか、それとも彼女が内部調査員だから単に調査されているのかは分からないが、どちらにしても幹部クラスの監視を命じられるのだから、彼女は組織の中でもかなり中枢に近い存在だということが分かる。

『っチ、明日の夜、九時だからな』

明日の夜に何かが起きる。調査してみるべきか、それとも深追いはしないべきか。黒の組織と関わりがあるかどうかはまだ彼の言葉からでは判断できない。イーゲル内部の抗争に自分たちが無関係とはいえ、どうも完全に放るなと第六感が言っているような気もしてしまう。一体何がそうさせるのか、なんて気付きたくはなかったけれど。

(・・・)

はドミニクにいつも乱暴に扱われているのだろうか。最初の何かにぶつかる音、盗聴器に直接響くようなノイズからして、壁に投げ飛ばされたか押し付けられたに違いない。そしてその後の彼女の咳き込み。あれは何をされた?何をされたら人間は突然咳き込む?水でもかけられたのか?いや、でも水音はしなかった。何か薬品か?いや、薬を嗅がせるなら布の音や彼女のこもる声がする筈だ。

(・・・もしかして、煙草の煙か?)

簡単且つ労力いらずで攻め立てるにはもってこいだ。そうして咳き込んで苦しいだろうところに、首を締められたか掴まれたかしたのか。

(いやいやいやいやまてまてまてまて)

どうしてを無実者みたいに考えてしまっているんだ?いかにも悪者ですみたいな顔をしているのがドミニクで、一般人ですみたいな顔をしているのが彼女だからって、おかしいじゃないか。これでもしドミニクが組織に対して真摯に働く男で、その彼の出世を妬んだ上からの命令で邪魔しようとしているのが彼女だとも考えることができるのに。彼女と一日一緒にいて、勝手に彼女のことを知った気になっているだけじゃないのか。ああ、でも自分にやましいことがなければ、ボロが出ていると言われたときに反論の一つしたって良い訳だ。なのに彼はそれをしなかった。ボスの名を出されたら潔く身を引いたことからしても、多分自分が推測しているベクトルは間違っていないはず。

(・・・クラウス・ライヒェンベルガー、か)

調べてみる価値はありそうだ。事の核心を突くような言い方だったし、フルネームで呼んでいたことから、もしかしたら本名の可能性も考えられる。偽名だったとしてもその名からドミニクはへとたどり着いたのだから、きっと何か情報は掴めるだろう。それで上手くこの男に行き着けば、自身のことも何か分かるはずだ。

『ほんと下衆すぎる!どこの悪の組織・・・って悪の組織はここか』

彼女が自室に戻ると、そこから先は日本語だった。ベッドに沈む音と、「うううう」という唸り声と、ため息と。ご立腹のところ悪いが、緊張が一気に溶けた反動が面白くて少し笑えてしまう。けれどこの言い方の感じからして、やはり自分の考えは外れていないに違いない。

『あ・・・レタス太郎、・・・へへへ』

(・・・だから、へへへって。嬉しそうに笑うのはやめてくれ)

『・・・バー、ボン』

(・・・)

『あなたは、何を考えてるの』

(そっくりそのまま返すよ、その言葉)










つぎへ→