フロントで鍵を受け取って、「おやすみなさい」の声を背にエレベーターに乗り込んだ。私の部屋は八階(このホテル自体は十階建て)で、この国では高い部類に属する。エレベーターの操作パネルには開くボタンはあるが、閉まるボタンはない。それもこの国では珍しいことではないので、ドアが閉まるのをゆっくり待つことにした。しばしののちに雑な音とともにエレベーターが動き出す。幸い誰も乗ってこなかった。

(つっ、つかれたあああ)

がっくりと。それはそれはもうがっくりと。項垂れるほどに。
あの手のタイプには滅多に遭遇しない。無愛想だったり、あからさまに質問攻めにしたり、体でものを言わせようとしてくるタイプはザラにいるし、そういう人たちのあしらい方にはそこそこ慣れているつもりだった。けれどもバーボンみたいな優男には全然と言っていいほど免疫がない。こんなにも精神的疲労の激しい、もはや戦いと言ってもいいぐらいの一日はいつぶりだろう。確かにバーボンはとても優しかった。とても紳士だった。今まで出会ってきた裏の社会の人間と比べても一、二を争うぐらいに常識人で、おだやかで。同じ日本人だからこそ楽しい会話もできたし、彼の醸す雰囲気からも充実した観光ができたといっても過言ではない。おまけにとてもかっこよかった。多分日本だったら隣を歩くのが不安になるぐらいに、かっこよかった。
だけれども。

(・・・盗聴器、ちゃんと付いてるよね)

一回目がフェイクだったことには気が付いていた。きっと私が鞄に何かが付いたことを確かめるように触ったのも、彼には分かっていたのだろう。だからあれ以降いつ二回目が来るかとどきどきしていた。信号を待っている時や、レストランでのオーダーや会計の時、トイレに立った時などチャンスはいくらでもあっただろうに、まさか仕掛け時計のタイミングだったとは。肩を抱いたり髪の毛に触れたりとても自然な流れだったが、あの酔っ払いの流れを読んでいたとかいう馬鹿げたことを成し遂げるなんて、正直大胆すぎておそろしい。ハニートラップも兼ねていたのかもしれないが、ボタンに髪を絡めるだなんてよくそんなこと思いつくと感心すらしてしまう。盗聴器はおそらく襟の裏だ。あそこならそうやすやすと落ちたりはしないし、服を脱いでも分かりづらい。
しかしそれで良かった。盗聴器を仕掛けられることは、イーゲルとしてではなく警察としての仕事だったのだから。一回目を捨てたのは仕掛けられたのが鞄だからということと、見つけたら即座に壊す人間だと思わせるため。本命は二回目というわけだ。途方も無い作業とはいえ盗聴器の型番から購入履歴を探ることもできるし、それに何よりこれから会うドミニクとのやりとりを、バーボンと一緒にいるであろうオリバーに知らせることができる。事前に彼の部屋に仕掛けてもらうこともできたが、バーボンにチェックされてしまえばそれまでだし、下手に携帯を通してオリバーと連絡を取り、彼がこちら側だとバーボンに勘付れるよりは、そのバーボンに盗聴器を仕掛けてもらう方が安全というわけだ。だからさしあたって私は今この盗聴器に気付いていない体で動かねばならない。

(・・・でも、楽しかった、な)

沢山笑ったし、食事も美味しく食べることができたし。
仕事だというのを忘れそうだったのはこちらのほうだ。塔なんてぜいぜい言いながら登ってしまった。そんな自分と比べて彼はあまり息を乱していなかった。この取引が終わったら少しランニングでもした方がいいかもしれない。

「・・・こういう世界の人間に見えないのは、あの人の方なのになあ・・・」

笑ったり、からかったり、意図があるとはいえ自分のことを気遣ってくれたり。黒の組織はとんでもない集団だ、と聞いていたからこそ余計にそう思ってしまったのかもしれない。もしいつか彼を捕まえる日が来たならば。きっと今日の日のことを思い出して、心が少しだけ、ざわつく気がしてしまう。

(今回の任務が終わったら、もう会いたくない)




*




呼び出された部屋(といっても隣だが)に入ると、部屋を包む靄と甘い匂いが私を出迎えた。換気をしないのはドミニクの癖だ。一年前、一番最初に彼と任務で出かけた時、恋人という設定だったからホテルでは一つしか部屋を取らなかった。あの時も気が付いたら部屋がこんな風に曇っていた。私が日本人だからそう思ってしまうのかもしれないが、他人に最低限の配慮もない人間は大嫌いだ。ただでさえドミニクのことが嫌いな上にこの始末。もう二度と同じ部屋に泊まるか、と思ったものだ。
彼はソファに座っていた。テーブルには既に空になった赤ワインのボトルが一本と、それと同じ銘柄でまだ半分ほど入っているものが一本ある。彼が手にしているグラスの他に一つ置いてあったことから、私が来る前に誰かと会っていたのだろう。灰皿ももう満杯だ。煙草を吸いながら飲むワインなんてクソ不味いだろうに、どうやら彼はそれが好きらしい。愛用のアークロイヤル白のバニラの香りと赤ワインが混ざるのが至福だというのだから、人の好みは分からないものだ。彼と出会う前までは、この甘い匂いは嫌いじゃなかった。でももうこの匂いが彼を結び付けてしまうから大嫌いだ。

「お待たせしました」

少しだけ彼に近付く。彼は足を組んでいて、そのつま先が時折揺れていた。機嫌が良いらしい。こうやって私に背を向けているところはなんて馬鹿っぽいのだろう。壁を背凭れにして腕を組んで立つと、彼は振り返ることなく口を開いた。

「接待はどうだった?」
「接待だなんて、対等な取引じゃないんですか?これは」
「対等?相手はあの得体の知れない組織だぞ。我々なんか足元にも及ばないぐらいのな」

クツクツと鼻で笑ってワインを流し込んでいる。足元にも及ばない、なんて謙遜めいたことを言っているが、腹の内では黒の組織すら食ってやる気満々なのを知っている。だから「こわいですねえ」と返したらば、また彼は同じように鼻を鳴らすのだった。

「明日の予定はどうなった?」
「お昼ご飯を食べることになりました」
「悠長だな」
「そうですね、休日を満喫って感じです」
「緊張感のないやつめ」
「ありますよ、緊張感。一度盗聴器付けられてひやひやしましたもん」

言うや否やようやく彼がこちらを向く。なんとも訝しげな顔だ。そうですよね、心配ですよね、でもね実は今も盗聴されていますよ、なんて言ったら発狂されそうだ。だって私にとってはこの組織の未来などどうでもいいことだけれど、彼にとっては非常に大事なことなのだから。

「なんだと?」
「その場で壊しましたし、穏便に解決したのでご安心下さい」
「それを逆手にとってあれこれ聞くぐらいしろ」
「事を急いては何も得られませんよ」

彼はイーゲルの中でも五本の指に入る幹部で、さらに昇進するためにこの取引を通して、黒の組織から武器を買ってもらうことを必要としている。そもそもこの組織のボスは慎重派で、他の組織とは滅多に取引をしない人間だった。武器を買いに来る客こそ拒まないものの、機密情報のやりとりは極度に嫌う節がある。だが今はもう老齢で、いわゆる後継者探しに熱を出していた。彼への信頼度と、この組織をいかに上手く大きくするかという貢献度が試されているために、組織の中は今少し歪が入っている。だからドミニクは必死なのだ。黒の組織に武器を買ってもらえることになれば、それはイーゲルにとって大きな利益となり、他の幹部たちから頭一つ抜けれると踏んでいるのだから。

「・・・とにかく、聞き出せるものなら何でもいい、女の武器を利用して少しでも情報を掴んでおけ。特にヘルックとあの組織のことに関してはな」
「はいはい、わかりましたよ」

こんな小言を言うために彼は私を呼び寄せたのだろうか。バーボンとの楽しい(疲れもしたけど)一日が台無しだ。「部屋に戻りますね」と言って踵を返したが、彼からの返事が無い。代わりにグラスをテーブルに置く音がしたかと思うと、今度はソファから鈍い音が上がった。彼がそこから立ち上がったのだ、と再び振り返る頃には、一回りも大きな掌で腕をがっしりと掴み上げられいた。そしてそのまま壁に縫い付けるように腕を押し付けてくるものだから、思わず頭をぶつけてしまった。盗聴器は無事だろうか。地味に痛かった。

「話は変わるが」
「はい?」

かなりワインを飲んだのだろう。吐く息がだいぶアルコール臭い。ただでさえ彼は身長が高いから、その分頭全体に彼の息が降り注いでいる気がして気持ちが悪い。もう片方の手には火の点いたままの煙草。どうか服に灰を落さないでほしい。

「クラウス・ライヒェンベルガーを知っているだろう?」

にたにたと笑う、そんな表現が正しいだろうか。口角の上がる、いやらしい顔をしている。鼻のピアスが鈍い光を放ち、瞳はまるで獲物を前にした狼だ。
こいつ、やはり仕掛けてきたか。知っている。知っていますよ彼のこと。知っているからこそ、その汚い声で彼の名を呼んで欲しくはなかった。

「・・・クラウス・ライヒェンベルガー?」
「知らないとは言わせない、調べは付いているんだ」
「調べ?一体何の調べですか?」
「あいつから何を受け取った?」

ドミニクは眼光鋭く私に詰め寄った。彼の大きな体が影を作り、視界がワントーン暗くなる。この件に関しては、正直あまり盗聴されたくなかった。バーボンと一緒に会話を聞いているであろうオリバーが、適当な翻訳をしてくれることを祈るしかない。優しく穏やかな人間とはいえ、バーボンは優れた洞察力の持ち主だと言うじゃないか。ボロを出せばすぐさま私の正体に気がつくだろう。イーゲルにとって不利益な情報ならいくらでも流していいが、自分が警察だと今ここでばれる訳にはいかない。どうにかして内部抗争が起きている可能性がある、ぐらいにとどめておかねば。

「だからなんのことです?確かにあなたの言う通り彼を知ってますよ。でも何かを貰ったりするような関係じゃありません」
「ほお?男女の仲ではなかったと?」
「調べたなら彼には超溺愛の彼女がいたことぐらい、知ってるんじゃないですか?」
「それは答えにはなってないな」

ぎりりと彼の爪が腕に食い込むのを感じた。血が出たらどうしてくれる。痛いのは嫌いだから本当にやめてほしい。無表情を決め込む予定だったのに、痛みからピクリと眉が動いてしまった。それを見逃してくれるほど彼は優しくなく、思い切り吸い込んだ煙草を口から離すと、そのまま私の顔に吹き付けた。最悪だ。本当に最悪だ。酸欠になって激しく咳き込んだ。空気を吸おうにも辺りは煙に包まれていて、肺が潰れてしまいそうになる。煙が目に染みて咳と相俟って涙が出そうだ。嗜虐心が満たされたみたいな顔でこちらを見てくる下衆な男が、その大きな顔を寄せてくる。背中を走り抜ける、虫唾と苛立ち。

「ッゲホ、答えも、何も、彼はただの友人です、ッそれ以上何もありませんよ」
「っは、無理矢理口を割らすことだってできるんだぞ」

呼吸が落ち着いてきたと思ったら、今度は首を掴まれた。本当に死んでほしい、この男。

「苦しいです」
「それとも身体をずたぼろにされないとわからないか?」
「・・・必死ですねえ、ボスに言いますよ。あなたが何か隠してるって」
「小学生並の脅しだな」
「あなたこそ。何かまずいことがあるって私にバラしてるも同然ですよ」

彼の瞳が動揺を表した。下手に演技もできないくせに、酒を仰いでこんなことをするからだ。ふん、と笑ってやればドミニクから舌打ちが返ってくる。

「随分余裕だな。ブチ犯してやろうか」
「最低です」
「・・・フン、まあいい。取引が終わるまで猶予をやる。俺の忠実な犬になるか、海に沈むかはお前次第だ」

まるで主導権は自分にあるとでも言いたげな表情だった。再度爪を立てられてから解放される。苦しかったが灰を落とされなかっただけマシかもしれない。首を回して血の巡りをよくしようとしたら、ポキポキと骨が鳴った。きっと日本人の悪人なら海の藻屑とか言うんだろうな、なんて考えながら。

「まったく。物騒ですね、何も無いって言ってるのに」
「何も無いかを決めるのはお前じゃない」
「それより、おしゃべりが過ぎたんじゃないですか?忠実な犬?海に沈む?そっくりそのままお返ししますよ。自制が効かなすぎてボロ出しまくりじゃないですか。お酒、控えた方が良かったですね」
「なんだと?」

新しい煙草に火を点けようとしていた彼の手がピクリと止まる。こちらをギロリとねめつけると、不機嫌から眉間に皺を寄せて渋い顔をした。

「それに、この取引で私にもしものことが起きたら、今のこの会話も含めて全部ボスに情報が流れますよ」
「・・・貴様、いつのまに」
「当たり前でしょう?あの得たいの知れない組織ですよ。あなた一人に任せるわけないじゃないですか。あなたは昇進のために私を駒のように扱ってますが、私は私で今回組織の命令に従って動いてるんです。あなたの監視役として」
「・・・そういうことかよ」
「ふふ、私に傷がついた時のボスは怖いですよ。もういいですか?部屋に戻ります」
「っチ、明日の夜、九時だからな」
「わかってます。それじゃあおやすみなさい」




*




「ほんと下衆すぎる!どこの悪の組織・・・って悪の組織はここか」

部屋に戻るや否やベッドメイキングされた白の海に飛び込んだ。ボフンと音を立てて私を優しく包み込んでくれる楽園。あんなに煙った部屋にいたから鼻に匂いが付いて仕方がない。早くお風呂に入ってしまおう。意を決して起き上がり、携帯を出すために無造作に放ってしまった鞄に手を伸ばす。

「あ・・・レタス太郎、・・・へへへ」

そっと取り出すと、指先の圧力でビニールが慎ましい音を立てた。小さい頃、お小遣いでよく買ったっけ。懐かしくて、可愛いお菓子。思わず零れてしまう笑み。

「・・・バー、ボン」

優しい人だった。もうハニートラップでもいいかな思えてしまうほどに。風に靡く彼の髪は太陽の光を吸って一層綺麗に輝いていた。ストレートなのに前髪がくせっけなのも可愛らしい。健康的な小麦肌で、筋肉もちゃんとあったのに、どこか線の細さも感じてしまう、なんて。

「あなたは、何を考えてるの」

名前は何て言うのかなとか、日本のどこに住んでるのかなとか、普段は何をしてるのかなとか。

(・・・いかんいかん)

明日を楽しみにしてどうする。相手は犯罪組織の人間だ。しかもコードネームは腕利きにしか与えられないとオリバーが言っていたじゃないか。ああやって彼は何人もの人間を誑し込んだに違いない。自分の周りの人間がちょっとアレだから、彼に絆されそうになっているだけだ。それを考えたら、ドミニクは典型的な嫌な人間で良かったのかもしれない。一切の容赦をしなくて済むのだから。

(とうとう、明日・・・)









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