塔から下りたあとは、イーザル川を越えたところにあるドイツ博物館に寄った。そこは自然科学や技術系の博物館で、その分野では世界で一番の展示面積を誇るらしいと彼女が教えてくれる。世界一と言われても一体どのぐらいの広さと展示量なのか想像が付かなかったが、実際の建物を目にしたらばその壮大さに身体の動きが奪われた。外観に相応しく館内も果てが見えぬほど広く、しかしその一つ一つは詳細に計算し尽くされた展示で、石器時代から現代までの様々な技術や研究を体験することができた。とくに宇宙科学や航空関連のブースは興味深く、気が付けばこれが任務だということも忘れ没頭してしまっていた。
そのまま閉館時間まで楽しんだあとにまた町の真ん中へと戻ってくる頃には、ちらほらと雑貨店が閉まり始めていて、なんだかんだで一日満喫してしまった。そろそろちゃんと動かねばならない。今日彼女と会う前は、きっと彼女から何か組織に関する探りが入ったり、怪しい行動があるものと思われたが、そんな素振りが微塵も見られなかっただけに心苦しい。しかし仕事は仕事だ。

「あっと、す、すみません」

ごつごつとした石畳に足を取られたフリをして、わざと彼女にぶつかった。彼女の肩に手を付くようにして、肩に提げているショルダーバッグの紐に、パチンコ玉を半分に切ったぐらいの大きさの発信機と盗聴器が一体になったものをくっつける。この少し大袈裟なところが大事なのだ。このあとの行動次第で彼女の考えのいくつかが読み取れるかもしれない、というのも狙いだが、次のステップのためにここで重要なのは、自分が彼女に何か仕掛けたということに気が付いてもらうことだった。

「大丈夫ですか?」
「ええ、すみません。こっちの石畳って結構ごつごつしていますよね、つい」
「沢山歩きもしましたしね、転ばなくて良かった」

礼を言って再び歩き出す。数回彼女の視線が肩の方に揺れたのを見逃しはしなかった。そう、それでいい。何気ない会話を続けながら、もう既に営業を終了してしまった店のウィンドウショッピングに花を咲かせ歩くことさらに数分。早ければそろそろかもしれない。

「あれ?なんだろうこれ・・・」

その声が聞こえたのは、肩から落ちかけた鞄を掛け直すように、彼女が紐に手を掛けた時だった。指先でなぞるように滑らす仕草。間違いない、鞄に手を伸ばしたのは偶然ではなく意図的だ。昼からこれまでにも何度か鞄をかけ直していたが、そのどれもが紐を指でしっかり掴んでから位置を戻していたのに、今回だけはまるで何かを探すような動きだったのだから。

「これ、バーボンですか?」

先ほど仕掛けたチップを摘み上げて、彼女が僕の顔の前でそれを披露する。不敵な笑みを浮かべながら。

「まさか、なんのことです?」
「捨てちゃいますね」

白々しいとでも言いたげな彼女は、柔らかな表情をしているにもかかわらず、それを地面に落すと靴の裏で踏みつけて壊してしまった。そのためだけに用意されたチップから、プラスチックと金属の割れる音がした。その後彼女はこの件に特に触れることもなく、再び歩きながらまた他愛のない会話を始める。
つまり真実は追究せず、一体どういうことだと騒ぎもせず。その場で取り正さず良好な関係を続けながら、持ち帰って解析もできるだろうに。はたまたマウントを取りに来ることだってできるだろうに。彼女はそれをしなかった。

(ふむ、困ったな)




*




夕食は市庁舎の地下にあるレストランに行った。大概どこの町も市庁舎の地下はワインセラーになっているらしく、その土地自慢のワインが味わえるらしい。そこで出される料理も絶品とのことで、店に入るや否や陽気な客たちの声が耳を劈いた。いくつか小皿料理を注文し、それを二人で分け合いながら自分は赤ワインを、彼女は白ワインを楽しんだ。直ぐに顔に出るタイプなのだろう、頬や耳が紅に染まっている。春風のように穏やかな食事なのに、何か一つのきっかけで崩れてしまう砂城の緊張が少なからずあったように思う。
彼女の所作のひとつひとつはとても丁寧で、品があった。聞けば金属のカトラリーがカチカチと鳴ったり、皿を擦る時にするあの音が、黒板に爪が当たって背中に寒気が走る感じに似ていて、ぞわぞわしてしまうから気をつけているらしい。だから普段家では木製のフォークを愛用していると教えてくれた。問えば素直に答えてくれる姿がいじらしい。とはいえ先の通りでの彼女の対応の仕方から、駆け引きごとを冷静に分析するだけの能力はあるようだが、そこから先があまりよく見えていないというのもまた事実。

「本当に美味しそうに食事をしますねえ」
「ふふ、美味しいは正義なので。たまの外食なので余計に」
「へえ、普段は自炊ですか?」
「ええ。バーボンは?」
「僕もですよ」
「バーボンがスーパーにいるところ、想像できないですね」
「そういうの姿は容易に想像できますよ」
「それ庶民染みてるって言ってます?」
「あはは」

すっかり長居してしまったと店を後にしたのが九時五分前。そろそろお開きにするかと思っていたら、彼女から仕掛け時計を見に行くことを提案された。それはこの市庁舎の表側にある仕掛け時計のことで、九時になるといわゆる「ミュンヘン小僧」がおやすみの挨拶をしてくれるらしい。帰り道でもあることだし、とその誘いに応じて店を出て直ぐのマリエン広場に戻ってくれば、そこは同じように仕掛け時計を目に収めようとした大勢の観光客で埋め尽くされていた。

(・・・あれは)

その群集の中に、大声で騒ぐ中年の男たちがいた。瓶ビールを片手にすっかり出来上がっていて、陽気な歌声を響かせながら、ふらふらと辺りをうろついている。
そうこうするうちに九時を知らせる鐘が鳴り、人々から喚声が上がった。オルゴール音と同時に夜警と天使とミュンヘン小僧の人形が表れ出ると、「あれ、等身大なんですって」とが言う。地上から見ている分には小さく感じられたが、この等身大というのは珍しいらしく、スマートフォンやハンディカメラを片手に魅入る人々が周りには沢山いた。
これから訪れる静かな夜の前を飾る素晴らしい鐘の音。思え返せば一日良い日だった。もちろん個人的な感情から言えば、だが。仕事面からしてみればこれと言った収穫はまだ得られていない。まあ、そう必死に得ないといけない訳でもないのだが。どうせ彼女のいる組織と長い縁を結ぶつもりもないのだから。ベルモットには悪いがこちらは今回は楽な任務だ。適当に楽しんで、それで何か情報が掴めればそれで充分なのだ。

「私への疑いは晴れました?」

刹那、彼女から飛び出た言葉が宙に浮いていった。

「なんのことですか?」

首を傾けると、困ったように笑う彼女の瞳とかち合う。形の良い柔らかそうな唇が形を変える様が、やけにスローモーションに見えた。

「発信機だか盗聴器ですよ。あの時の。やっぱりバーボンしか考えられないですもん」
「あれは自分でも下手だったなと思います。ごめんなさい」
「いえ、私が何かするかもって、不信にもなりますよね、普通。あれ一個だけだと良いんですけどね」
「あなたのことを知りたくて、つい。手持ちは一個だけです」

音楽が流れ終わった。最後の音が街にたおやかに響き渡ると、どこからともなく拍手が上がった。先の酔っ払いの男たちは、口笛を吹き鳴らし仕掛け時計を褒め称えている。

「私ですか?イーゲルじゃなくて?」
「ええ、あなたです」

彼女は何かを言いよどんだ。困惑が読み取れる。そういう表情をされるとつい突っ込んだことを言いたくなってしまう。彼女が一般人なら純粋に可愛いという一言で済ませられたのに。悲しきかな彼女は犯罪組織の一員だ。本来自分の仕事の優先順位は、もちろん黒の組織の内情を探ることや構成員を捕まえることの方だが、彼女が日本で何かしようものならそこに容赦は必要ない。たとえ今はその身柄を拘束できないとしても。

「・・・バーボンは、全然読めませんね」
「あはは、そういうこそ、こういう世界の人間とは思えない程純真に見えますよ」
「そう見えるだけですよ。少なからずこの世界にいるんですから。じゃなければ、今隣を歩いているのはきっと取引先の人間じゃなくて、恋人でしょうからね」
「おや、そんな人がいるんですか?」
「いません、いたらこんな真っ黒なことしてないで全うに生きてます」

彼女の奥では例の男たちが千鳥足で動き始めていた。これだけ大勢の人が広場にいると、通り抜けるための隙間は限られてくる。彼らは時折人にぶつかりながら能天気そうに「悪いね」と言っていたが、周りも大して気にしていないのか笑顔で「問題ないわ」とか「気をつけて帰れよ」などと返事をしている。

「ほう?今までどんなことをしてきたんですか?」
「秘密です。バーボンも教えてくれないでしょ?」
「そうですね、秘密ですね」

刹那の沈黙ののちに、お互いにくすくすと笑いあった。踏み込めそうで踏み込めないギリギリのライン。そんな状況を何度も作ってきたにも関わらず、彼女は下手な芝居の一つも打たずに鞄の件以外は全てが自然だった。いつだったか近付いた女はあからさまに身体を摺り寄せて媚を売りにきていた。そういう馬鹿丸出しをしないからこそ、もしかしたら彼女は組織でも重宝されているのかもしれない。でも彼女みたいなタイプには正直あまり慣れていないからか、少しペースが崩されている。
「そろそろ帰りましょうか」と彼女が言った。「そうですね」と返事をする。仕掛け時計が綺麗だったということを伝えると、彼女は瞳を弓なりにした。人を掻き分けるように隙間という隙間をくぐり抜けながら歩いていると、反対方向からあの男たちもまたやってきた。彼らは仲間同士腕を組んで先ほどと変わらずご機嫌のようだ。

「ああいうのって、日常茶飯事ですか?」
「そうですねえ、多分スポーツバーでサッカーでも見てたのかも、あれバイエルンのユニフォームだし勝って浮かれてるんでしょうね」

口元の緩む様子から彼らみたいな人間が普段から町中にいることが分かる。きっと日本ならば、それなりな年齢の男たちがあんなにゲラゲラと騒いでいる光景に、冷ややかな視線を送ってしまうことだろう。そんな彼らはもうの直ぐ傍だ。すれ違うのにこの人々の波間はやや狭い。

「わっ」
「おっと、危ない、こちらを歩いてください」

彼らの肩が彼女にぶつかった。バランスを崩さないように慌てて肩を抱いて、彼女を隣へ誘導する。案の定男たちはへべれけ顔で「ごめんごめん」と謝って先へと歩いていった。

「すみませ、あっえっ」
「あっ動かないで、髪がボタンに絡まっちゃいましたね」

頭の後ろ、項の辺り。胸ポケットのボタンに絡まる彼女の髪。静止するように指示し、手をかける。解くように触っている間に、日中と同じタイプのチップをシャツの襟に忍ばせた。本当はまだ持っているんです、と心の中で謝りながら。元々どこかでこの手は使うつもりだった。人とぶつかりそうになる曲がり角とか、自転車の通りの多いところとか。そのためにボタンの裏にはすこし粘着性のあるシートを貼っていた。事故を装えるのと、この場合大抵髪の毛や項に意識が行くからばれにくい。彼女が襟のない服じゃなくて良かった。

「はい、取れましたよ」
「わ、すみません、ありがとうございます」

思った通り彼女は首元を気にしながら、何回か掌で肌を摩ったり髪に指を通している。襟を触る気配はない。しかし念には念を。彼女の意識を反らすために、肩から斜めにかけたボディバッグからあるものを取り出す。

「そうだ、いつ渡そうかと悩んでいたんですが」
「ん?なにをですか?」
「あった、これ、日本からのお土産です」

がさごそと鞄の中から取り出したのは、きっと日本人なら誰しも口にしたことがあるあの食べ物。緑ベースの袋に赤いラインとキャラクターが入った袋を見るや否や、これを渡されるとは思っていなかったのだろうの目が点になっている。

「へ・・・レ、レタス太郎・・・?」
「日本の駄菓子ってこっちにないんじゃないかと思って」

多分それは間違いではないと思う。最近はアジアンショップなども充実していて、醤油やみりんなど基本的なものなら手に入ると聞いたことがあった。だが日本人街でもない限り、こうした駄菓子は見つけ辛いはずだ。
袋を受け取った彼女はそれを凝視しながらぷるぷると震えている。

「っあはは、バーボン、これ今日一日持ってたんですか?」

彼女は腹を抱えて笑わん勢いだ。そんなに面白かっただろうか。

「おかしいですか?」
「とっても。紳士なあなたの鞄にレタス太郎が入ってたなんて、あはは」

本当にこの人は無邪気に笑うなあ、と思った。時々ふと大人の顔をするのに、こうして笑っている時は満開の向日葵のように天真爛漫で可愛らしい。

「実は私、これ大好きなんですよ。小さい頃よく食べてて、今も無性に食べたくなるんですよね。バーボンの言う通りこういう駄菓子全然こっちなくて、ふふ、どうしよう、凄く嬉しい。ありがとうございます」

笑いすぎで瞳が潤んでいる。それに気が付いたのか、にやけているのを隠そうと、恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに彼女は袋で顔を半分隠していた。

(・・・調子が狂う)

ぽりぽりと、頭を掻いた。
なんだか全部ぶち壊しだ。悪い出会い系にでも嵌ってしまったみたいな気さえしてしまう。「あーおもしろい」と控えめに笑いながら彼女は指で目元を拭っていた。

「ふふ、そんなに喜んでいただけるならいくらでもお送りしますよ?」
「なに言ってるんですか、取引が終わったら私とあなたはもう二度とやりとりしないですよ」
「それは分かりませんよ?手を組むことになれば、またお会いする機会があるかもしれません」
「そうだったとしても、私レベルが現場にでることは滅多にないですから」

この会話のあと、自然とお互い口数が減っていったように思う。地下鉄で中央駅まで出るかと彼女に問われたが、なんとなくそういう気分にもなれなくて歩きたいと言った。
カールス門まで戻ってくると、丁度良いトラムの時間がないことに気が付いた。次が来るまであと二十六分もある。地下鉄の駅はこの近くにもあるが、先ほどの言葉を気にしてくれたのだろう、中央駅までは歩いて十五分ほどだというので腹ごなしがてら歩いて帰ろう、と彼女が言ってくれた。
すっかり日の沈んだ町の中を進みはじめる。街灯は殆どといっていいほど無かったが、店のショーウィンドウの明かりのおかげで歩を進めるのに困りはしなかった。

「じゃあ、今日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ一日デートをしていただいて、ありがとうございました」
「デートって、違いますよ」
、とても話やすいので、これが仕事だって忘れてしまいましたよ」

緊張の緩んだ別れ時。余韻が後を引く。穏やかな風が僕たちを撫で去った。ああそうか、これは名残惜しいというやつか。そんなことにも気付けないなんて、どうかしている。

「またまたあ・・・バーボンはほんとさらっと甘いことを言いますね」
「ふふ、あなただからですよ。そうだ、明日はどこへ連れて行ってくれるんですか?」
「へ?明日?」
「ええ、僕としては明日も暇なので、どこかに連れてっていってくれると嬉しいんですが」

ベルモットといくつか連絡を取り合うことがあるとはいえ、基本的には言葉通り明日も暇だった。ホテルにいても何も収穫はないだろう。彼女が組織の人間と予定があるというなら調査のし甲斐もあるだろうが、ドミニクは取引まで彼女を自由にしていいと言っていたのだから、それはない。となれば一緒の予定を作るほうが暇つぶしになるだろう。
彼女はしばし「ん〜」と何かを考えていた。忙しいのならなかったことにと付け足せば、彼女はそれを否定した。どうやらどこに行くのが良いかを考えていたらしい。

「屋外マーケットが出るので、そこでお昼ご飯はどうですか?」
「いいですね、是非お願いします」
「それじゃあ、ええっと、十一時ごろに今日と同じ場所で」
「ありがとうございます、それじゃあ・・・おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」

一礼して彼女は去っていった。後姿が小さくなったところで気が付いた。彼女の歩き方が、昨日の去り際と違うことに。今日一日隣を歩いていたから分からなかったのかもしれない。昨日は一本の線上を真っ直ぐに歩くような歩の進め方だったが、今日はやや内股だ。違いといえば、ヒールがあるかないかだ。とはいえそこに何か重大な意味があるようには思えない。それに聞けばきっと素直に答えてくれるだろう。明日機会があったら尋ねてみるか。

「・・・おっと」

長らく目にしていなかった携帯のディスプレイをオンにすると、一件の通知がきていた。ロシアの空港で足止めをくらっていたオリバーからだった。夕方にはこちらに着いたようで今はホテルにいるらしい。今すぐ行くとだけ返事をした。
まだ今日は終わりではない。ポケットからインカムを取り出して耳に嵌めて、盗聴器の電源をつけてボイスレコーダーにコードを繋いだ。もしこれから彼女が誰かと会う場合、英語で話をしてくれるならいいが、ドイツ語で話をされてはオリバーの翻訳を待つしかない。そのための録音だった。この手間を考えればやはり今回はジンの方が適任に思えるが、彼に観光客は似合わない。彼ならきっとホテルに盗聴器でも仕掛けて部屋でぬくぬく聞くか、尾行するかのどちらかで、ガイドとして使ってくれというドミニクの提案にも乗らないのだろう。万が一のことがあれば迷わず暗殺に踏み切るだろうし、厄介な闘争に絡まれるぐらいなら適当にあしらえる自分が呼ばれたのかもしれなかった。

「・・・」

もし最初から始末しろと言われていたら、を撃てただろうか、いや、始末までしないにしてもあの純真そうな人間に拳を打ち込めただろうか。

「・・・参ったな」

最近世界の見え方が歪んでいたかもしれない。身分を偽った生活の中で失ってきた様々なものが少しだけ、蘇った気がした。









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