正午。カールス門前で彼女と待ち合わせをした。昨日と同じように三十分ほど前から辺りを散策がてら歩いてみたが、特に怪しい雰囲気があるわけではなかった。彼女が来たあともそれは変わらずで、とりあえずの尾行や監視はないと踏んで良さそうだ。
そんな彼女は待ち合わせの五分前に現れ、周囲に目を配らせて自分を探していた。昨日とは違って、袖がふんわりとゆるい膨らみをもったバルーンタイプの白シャツに、膝より少し丈が短い、プリーツの入ったピンクベージュのフレアスカートを合わせていた。鞄はパステルカラーに近いミントグリーンのショルダーを、胴体を通さずに右肩から提げていた。コンパクトだがクラッチバッグよりは一回りほど大きい。靴は肌の色に近いフラットタイプのラウンドトゥパンプスで、昨日よりもラフ且つ歩きやすそうな格好だ。かくいう自分も今日はTシャツにシャツジャケットとジーンズを合わせている。
壁に持たれかかって待つ自分を発見したのか、彼女は嬉しそうに笑顔で手を振りながら小走りでやってきた。これではまるで本当にただのデートじゃないかと思うスタートで、初っ端から緊張感がなくて仕方がない。「ごめんなさいお待たせしてしまって」とお辞儀をされたが、彼女が来たのは時間ぴったりで遅刻ではなかったので「僕も今来たところですよ」と返すと、彼女は「よかった」と胸を撫で下ろしていて、それからすぐに続けて「腹ごしらえに行きましょうか」と歩き出した。
正午なのにレストランは込まないのかと尋ねれば、ドイツ人の昼食は大抵午後一時とか二時であるらしく、むしろ丁度いいか早いぐらいだと言われた。なるほど、これもまた文化の違いというやつか、と思いながら彼女に案内されること約十五分。途中からどうにも昨日みた景色と全く同じ道を通っていることに気が付いた。細い路地、人気の少ない小道、それでいて日当たりがよく優しい雰囲気の店構え。そう、案内されたレストランはまさに昨日自分がベルモットと来たあのレストランだった。

(偶然だろうか、それとも・・・)

もしかして、ベルモットをパパラッチから救った日本人というのは彼女のことではないのか―…。
脳裏を過ぎる一つの疑問と、昨日のベルモットとの会話。このレストラン自体はおそらく地元の人間御用達といった感じだろう。観光客が地図もなくわざわざあの小道を何本も通ってくるとは考えづらい。その上でこの店を知る日本人が一体何人いるだろうか。いや、少ないと踏んで間違いはない。それにベルモットは言っていた、その女性が東京の大学から来た留学生だということを。彼女は最後にドイツに訪れた時のことを「去年」と口にしていたが、日本人女性のことは「昔」と言っていた。そこから察するに、彼女が日本人女性と知り合ったのは去年よりも前の話。となればの見た目はそれに合致しなくもない。今はイーゲルの組織の一員だが、留学時代とやらに彼らとのコネクションを持ち、日本に帰って大学を卒業してまたこの国に舞い戻ったのだとしても、別段おかしな話ではない。ベルモットは彼女とはたった一度の出会いだったとも言っていたが、あれでいて彼女もかなりの秘密主義者だ、自分に言わない真実があったとしてもおかしくはない。だとしたらが自分たち黒の組織とどこかしらで関わっていると深読みもできる。とはいえベルモットほどの女がそうやすやすと口を滑らすとも限らないし、それにあの時の彼女は、思い出に浸る懐かしそうな表情をしていた。そのことを思うとやはり考えすぎかもしれなかった。

「ここにはよく来るんですか?」
「ミュンヘンに来る時は大抵寄りますね」
「へえ、じゃあ普段は違うところに住んでるんですね。もうドイツは何年ぐらい?」
「ええっと、今は一年ちょっとですね、昔もいたんですけど、途中で日本に戻ったので。あ、そうそうここのお店、ザウアークラウトがすーっごく美味しいんですよ」

ベルモットもそんなことを言っていた。やはり彼女から教えてもらったのだろうか。頭の片隅でそのことを考えている間にも、は話を続けてくれた。他の店で出るザウアークラウトは酸味が強すぎたり、キャベツが固かったり、厚切りだったりするのが大概だが、ここのそれは千切りほどの細さで煮込まれているから味の馴染みがとても良く、そしてアクセントのジュニパーベリーが多めに入っているからとても美味しいのだ、と。確かに彼女の言う通りこの店のザウアークラウトは美味しかった。だがそんなこと言えるはずもなく、ただただ一見を貫き通す。店員が昨日と違うのが幸いだった。

「いいですねえ、食べましょう」
「是非是非。別皿で付け合せとしても頼めるので、メインは好きなものを」
「どれがオススメですか?」
「そうですねえ、お昼だし、がっつりしたものが良ければシュニッツェルなんかオススメですよ」

日本語で言うところのカツレツに相当するのがシュニッツェルらしい。昨日ソーセージの盛り合わせを食べたので、違う物を提案されたのはとても良かった。アルコールを飲むかと聞かれたが、それは夜までのお楽しみと答えると、彼女はきょとんとした顔をしていた。おそらく夕方には切り上げるつもりだったのだろう。なので「夜も付き合ってくださいね」と笑って見せると、彼女はぎこちなさそうに頷いていた。

「気になってたんですけど、ここのお店って何て読むんですか?僕、ドイツ語できないのでさっきから気になってて・・・」

オーダーを終えて、昨日と同じように炭酸のミネラルウォーターに口を付ける。

「ムッターヴェルトラウトと読みます」
「ムッターヴェルトラウト・・・」
「ええ、ヴェルトラウト母さんっていう意味で、ここのお店のお母さんのお名前です」

眉間に皺を寄せ、何か悩んでるフリをしてみせる。彼女には悪いが大事なのは店の名前ではない。僕の表情に、案の定何かを察した彼女は「バーボン?」と首を傾げた。

「あ、いえ、最近読んだ雑誌で、クリス・ヴィンヤードがミュンヘンに来ると必ず寄るレストランがあると書いてあって、そこの名前がここの店に似ていたような・・・」
「クリス・・・ってあの女優の?」
「ええ、ご存知ですか?」
「そりゃあ世界的大女優ですからね」
「なんでも、当時留学で来ていた日本人の大学生に教えてもらったらしいですよ」
「へっ?」

瞬間、彼女は片手を口元に当ててその双眸を見開いて驚きを表した。ぱちくりと真ん丸の瞳でこちらから視線を外そうとしない。なんとも自然な反応だ。これで演技だったらやはり中々のつわものだが、どう見てもそんな気配感じられない。普通に驚いて普通に口をあんぐり開けているといった風だ。本当にやり手なのだろうかという疑問がまたも頭を過ぎる。

?」
「え?ああ、ええっと、はい、ちょっと、驚いてしまって」
「どうかしました?」

それに加えてこの言葉の紡げなさ。もう間違いないだろう。どういう巡り会わせかは分からないが、その昔ベルモットが出会った日本人女性というのは彼女のことだったのだ。咄嗟のしぐさと動揺を孕んだ声音からして、おそらく彼女は本当に驚いている。

「あ、そ、その、自惚れじゃなければ、その大学生って私かなあって」
「え?もしかしてお知り合いだったり?」
「いえ、一回会ったことがあるだけです。もう何年も前の話ですけど」

彼女は言った。留学でドイツに来ていて、クリスと会った時はたまたま旅行で一週間ここに来ていた、と。散歩がてらに街を歩いていたら、カメラを持った男達が自分の傍を猛スピードで駆け抜けていったので、好奇心から後を追いかけたらしい。するとあの世界的にも有名な女優クリス・ヴィンヤードがいるではないか。しかも彼女は男達のフラッシュを浴びせられて動けないでいる。仕事以外メディアには全く出ない彼女が街に出ていたとなれば、それはもう彼らからしてみればお宝に違いない。パパラッチの餌食になるのを不憫に思い、気が付いた時にはもう無意識に体が動いていたという。彼女の腕を引っ張って路地という路地を抜けて、大型の衣料品点にて衣装を全部取り換え、ついでに鬘も購入したと。そうしてパパラッチから逃げ切ると、今度は彼女から「どうせならデートしない?」と誘われたのだそうだ。その言動は確かに非日常を楽しむ彼女らしいといえば彼女らしい。

「大女優なのにボディガードいないんですよ」
「大胆なんですねえ、さすがは世界に名を馳せる大女優だ。やることが違う」
「もうほんとびっくりしましたよ〜、へへへ」
「・・・!」

困ったように肩を竦めて笑うが、本当にただの女性に見えてしまった。一体なんなんだ。この目の前にいる彼女は。本当に組織の一員なのか?それなりに自分に対して緊張はしているようだが、それにしても組織対組織のやりとりにしては、あまりにもゆるい。
昨日の顔合わせで彼女を「ふわふわしている」と形容したら、ベルモットに自分もそうだと返されたが、彼女からしたら僕もこんな風に見えているのだろうか。

(へへへって・・・うーん)

そんな折に料理が運ばれてきた。皿から零れ落ちるぐらいに盛られたフライドポテトと、はみ出るぐらいのカツレツ。そしてこれまた豪快にも二分の一のレモン。欧米の食事は量が本当に多いと二日目にして実感させられる。一方はフラムクーヘンという薄いピザのような料理を頼んでいた。元々はドイツとの国境にあるフランスのアルザス地方が発祥らしいが、ドイツ南西部でも良く食べられているらしい。具材は様々だが彼女は一番オーソドックスなタイプを選んだようで、サワークリームと玉ねぎとベーコンだそうだ。

「美味しそうですね、いただきましょうか」
「はい、お腹空きましたねえ」

「いただきます」と手を合わせるところはやはり日本人だ。彼女がナイフとフォークで生地に切れ目を入れると、パリパリと極薄生地の割れる音がした。一口サイズに切られたそれが口へ運ばれていく。

「ん〜おいしい」

まさに「幸せ」とでも言いたそうに、頬を膨らませ満ち足りた表情だ。裏社会の堅苦しい人間を相手にするよりかはよっぽど心持ちが楽だが、彼女みたいなタイプもそれはそれで変な気を張ってしまう。とはいえ演技に見えないから不思議だ。心の底から食事を楽しんでいるように見える。

「バーボン?」
「不思議な人ですね、あなたは。普段からそういう感じなんですか?」
「そういう感じとは?」
「普通の女の子みたいというか」
「あ、はは・・・すみません、お気を悪くされました?」
「いえ、堅苦しい人といるよりよっぽど楽しいですよ」

彼女は眉尻を下げて笑うとまた一口フラムクーヘンを放り込んだ。そんな彼女に微笑み返しながら自分もシュニッツェルに手をつける。力の限りレモンを絞ると美味しいと言われたので、衣に染み渡るように全体に絞っていくと、爽やかな柑橘の匂いが腹の虫を刺激した。手頃な大きさに切ったそれを口に運べば、サクサクの衣が音を立てる。日本でよく使われるパン粉と違って、目がとても細かいので口の中を怪我する心配もない。豚肉(シュニッツェルは牛も鳥も羊も色々な種類があるらしい)も脂身の少ない箇所を使っているからか、揚げ物にしては軽い口当たりで食べやすい。

「ん、レモンが爽やかで美味しいです」
「私が住んでる町にシュニッツェルだけのレストランがあるんですけど、そこは百種類もあるんですよ」
「百種類も?」
「ええ、ちょっと笑っちゃいますよね。百種類って。一日三食シュニッツェルにしても三ヶ月以上かかるんですもん」
「それ、制覇したんですか?」
「まさか。到底無理です」
「あはは」

付け合せのフライドポテトは揚げ立てでとてもホクホクしていた。昨日の夜に別のレストランでジャガイモのソテーを食べた時も思ったが、ドイツのジャガイモはなんだか日本のものよりも美味しい気がする。クリーミーというか、味が濃いというか。これもお国柄というやつだろうが、食が豊かというのは良いことだ。それに彼女もベルモットも一押しのザウアークラウトも本当に美味しい。日本によくあるチェーンの輸入食料品店で瓶詰めにされたものを見かける機会がしばしばあり、そこでは酢漬けという言葉が用いられていたが、実際は酢漬けではなく発酵食品だという。ほどよい酸味が口の中をすっきりさせるだけでなく、乳酸菌が取れるから腸に良いと、肉料理がメインのこの国では欠かせない存在らしい。

「ザウアークラウトも絶品ですね、本当に美味しいです」
「ふふ、お口に合ったみたいで良かった」




*




昼食のあと、彼女に教会と美術館と博物館と三つ挙げられてどこに興味があるかと尋ねられたので、教会を選択した。まず最初に連れて行ってくれたのはフラウエン教会というところで、玉ねぎのような塔を持つミュンヘンのシンボル的教会だ。ノイハウザー通りから少し歩いたところにあり、入るや否や大勢の人々が下を向いてなにやら熱心に写真を取っていた。聞けば「悪魔の足」と言われる足跡だという。所説あるらしいが有力なものとしては、この教会ができた当時悪魔が壊そうとやってきた、という説と、もう一つは、建築師が悪魔と教会建築の契約を行ったが、悪魔がちゃんと仕事をしなかったと文句を付けられたから腹いせに跡を付けた、という説だった。まるで本当の旅行ガイドのように彼女が喋るので「お詳しいんですね」と言うと、彼女は鞄からこっそり本を取り出して「全部これのおかげです」とすまなそうな目でこちらを見てくるものだから、思わず吹き出してしまった。何度もこの地を訪れているから地形は頭に入ってるそうだが、一つ一つの歴史まで知っているわけではないのだと昨日ホテルで猛勉強したらしい。

「へえ、塔にも登れるんですね」
「はい、でもここ実は階段を少し上ると、そのあとはエレベーターで上まで行けちゃうんですよ。そういうのって、ちょっと負けた気がしません?頑張って上るからこそ景色もより綺麗に思えるというか」
「ああ確かに。自分で最後まで上りきった方が達成感はありますね」
「それにここよりも次に行く教会の方が見晴らしがいいんです。だからそっちの塔に登りましょう」

年配者や体が不自由な人たち、そして体力の少ない子供にとってはエレベーターがあるのはとても有難いが、彼女曰く若者は筋肉使わないと、とのことだった。若者というほど若いわけではないが(なにせアラサーだ)、初老と呼ばれるまでにはまだまだ時間がある。曖昧な位置づけだがきっと若者に分類されるのだろう。ああそうだ、そういえば。

「そういえばはおいくつですか?」
「二十五です、バーボンは?」
「二十八です」
「ええっうそっ」

自分としてはなんてことない会話だった気がしたが、年を明かした途端隣を歩く彼女が視界から消えてしまった。くるりと振り返ると、彼女は固まってまたも目を見開いている。はて、そんなにおかしなことを言っただろうかとその動向を見守ると、彼女の視線が僕の体を上から下へと動いていくのがわかった。

「ご、ごめんなさい年下だと思ってました」
「年下?」

首を傾げて彼女の顔を覗き込む。思わず彼女が後ずさんだ。耳が少し赤い気がしなくもない。「童顔に見えました?」と問えば、彼女は俯きがちに視線を逸らし、小さな声で「はい・・・」と呟いた。まるで小動物だ。

(・・・なんだこのからかいたくなる気持ちは)

蛇に睨まれた蛙、とまでは行かずとも似たものがあり、思わず口走ってしまった。悪戯な声音で「気にしてるんですよ」と。一歩距離を詰めると、また一歩距離を開けられてしまった。今度は上目がちに「ごめんなさい」と言われ、心の中の何かが満たされるのを感じた。

「やだなあ、冗談ですよ」
「う、いじわるですねバーボンは」
「あはは、ほらガイドさん、聖堂の方をよろしくお願いしますよ」




*




次に案内されたペーター教会はこの辺りで一番古い教会で、十二世紀に建てられたという。年数の割に古さを感じなかったのは、なんども改修がなされているかららしい。教会内部は白を基調に金の装飾が施されていて、とても鮮やかで美しい。鼻腔をかすめる古い独特な匂いは先ほどのフラウエン教会よりも強く、その歴史の長さを物語っていた。

「さあ、階段上りますよ」

この教会の塔からの景色が素晴らしいからと連れてきてもらったが、彼女の様子から察するに楽しみにしているのは自分よりもむしろ彼女だ。着いてきてくれと言わんばかりに彼女は先陣を切って(といっても二人しかいないが)上りだす。
はじめは石の階段が続いたが、途中から木造のそれに変わった。すると一歩一歩足を進めるたびに油の足りない音がした。こんなにも大きな町なのだから観光客もかなり多いだろうに、こんな木の階段で大丈夫なのだろうか。よくよく見れば長年人が上り続けたことで、階段の板は真ん中あたりに歪みが生じている。いつか絶対抜け落ちそうな気配がしなくもないが、スリルがあって楽しいといえば楽しい。そんな階段の幅はとても狭く、人一人が通るのでやっとだった。一方通行ではないので勿論上から下りてくる人もやってくる。すれ違うのにはかなり苦労したが、誰もがありがとうやごめんなさいと声を掛け合っていて気持ちが良い。

(・・・それにしても)

困るのは前を歩くの足。せめて昨日のタイトスカートだったならまだしも、今日は裾が広がるフレアスカートだ。下着こそ見えないものの、太腿と臀部の際どいところまでが常に見えている。一瞬わざとかとも思ったが、ハニートラップにしては雑だ。銃の有無も相手に晒してしまうし。見えそうで見えないラインというのは好奇心を大変そそられるが、同時に視線のやり場に困って仕方がない。こんなことになるなら自分が前を歩けば良かったとも思うが、おかげで彼女が銃を隠し持っていないことが分かった(上着も着ていないしシャツだけなので上半身に変な膨らみがないことは一目瞭然だったが、下半身は分からなかったのだ)。筋肉もこれといって鍛えているわけではなさそうで、一般人と同等ぐらいだろう。自分よりも白い肌と、滑らかな曲線と、健脚さを備えた彼女の足を純粋に綺麗だと思った。

「バーボン、もう、着きます、よお・・・」

荒い呼吸をしながら彼女がこちらを見た。三百段近く上っただろうか、考え事をしていたから自分にはあっという間っだた。多少の息の乱れはあるが、彼女ほどではない。

「上りましたねえ」
「ふう、つかれたあ・・・」

上りきるとそこは少しだけスペースのある休憩所になっていて、どうやら景色とやらは、すぐそこにある開いたドアをくぐると見えるらしい。すると彼女がくるりと振り返って名前を呼ぶので、どうしたのかと首を傾げたならば。

「凄く良い景色なので、目を瞑って、私の手を握ってもらっても良いですか?」

そう言って彼女はすっと腕を伸ばしてきた。ここで目を瞑ったら彼女は何か仕掛けてくるのだろうか。けれど両手を出してきたわけだから、足がとんでもなく器用か他にトリックがない限り何もできるわけはないが、念のため手から握ることにしよう。伸ばされた彼女の腕は肌理細やかで触り心地が良さそうだった。シャツの色が白いからか、どこか清廉性がある。節の目立たない指はすらりと伸びていて、今しがたまで息を切らしていたからか指先がほのかに赤い。

「失礼しますね」

そっと彼女の指先に自分のそれを重ねる。すべらかな肌はとても馴染みが良い。親指で挟むように彼女からぎゅっと握り返されると、爪が当たるのを感じた。やや長いようだが、親指を見る限り磨く程度にとどまっていて、爪本来の持つ薄い桃色が輝きを放っている。
息を整えるフリをして深呼吸をしたのちに目を閉じた。全身に神経は集中させた。何か仕掛けてでもしてこようものなら気付ける自信はある。「それじゃあ歩きますね」と口角が上がっていそうな声音が顔の皮膚にぶつかる。「はい」と答えていざなわれるままに足を一歩踏み出した。

「行きますよ〜、さん、に、いち、ぜろ!」

刹那、全ての音がシャットアウトされた気がした。彼女の最後の言葉だけ残して。

(ぜ、ろ)

一塵の風が通り抜けた。フラッシュバックする、幼馴染の顔。俺をゼロと呼ぶ、世話焼きなあの笑顔。ヒゲを剃った方が男前に見えるのに、頑なにそれを拒み続けた今は亡き親友。大事だった。大事だったのに。守ってやりたかったのに。壁に凭れるように倒れていた血塗れの身体。その前に立つ憎らしい長髪の男。あと少しでも早くあの場に着いていたならば、きっと変わっていたに違いない仲間の運命。どうしてもっと早く気付けなかった。どうしてもっと早くあの場へ行けなかった。どうして俺はこんなにも不甲斐ない―…。

(もう二度と、アイツは俺をゼロとは呼んでくれない)

失われてしまった。誰も絶対にたどり着けない深海の奥底へと。胸中に残る大きなしこりは今なおこの心を焦がし続ける。行き場のない悲しみと苦しみが憤りへと変わっていく。狩らねばならない。この組織に根付く全ての諸悪を。

「・・・バー、ボン?」

憂色を孕んだ彼女の声が脳裏の糸を断ち切った。はっと我に返って瞼を開ける。

「ごめんなさい、もしかして高いところ苦手でした?」
「あ・・・いえ、どんなに綺麗な景色なのかとわくわくしすぎてしまって」

言い訳が少し雑だった気がしなくもないが、心配そうだった彼女が一呼吸ののちに目を細めたので良しとしたい。咄嗟のことで動揺してしまうなんて、それなりに気持ちに整理は付けたつもりだったのに。
一旦忘れねば、と気を取り直して目の大きな金網越しに景色を見やると、そこには想像以上の絶景が広がっていた。

「うわあ、凄く綺麗ですね!」
「頑張った分美しさもひとしおです」

展望エリアはぐるりと一周できるようになっていて、様々な景色を一望することができた。すぐ下に見えるのはマリエン広場とネオ・ゴティック様式の市庁舎で、その斜め奥にはさきほどのフラウエン教会が。教会のもっと奥に立つビルはBMWの本社ビルらしい。あれは何だこれは何だと聞く自分に、彼女は一つ一つ丁寧に答えてくれた。90度右にずれれば州立歌劇場がうっすらと見え、さらにまた90度移ると煉瓦色の屋根が美しい住宅街がどこまでも広がっていた。東京のように高い建物が無いからか、空の青はとても大きく壮大だった。美しい。本当に美しい。
隣で金網に手を掛け景色を堪能するを一瞥すると、春の穏やかな風が彼女の髪を優しく攫っていた。それを整えるように細やかな指先が耳に掛かる。彼女の瞳は遠くの地平線に注がれていて、どこか儚い。その瞳から感じたのは、ただの女の子にしか見えなかった彼女が、その域を超えたことだった。昔の恋人のことでも思い出しているなら別だが、そうでなければ溢れそうな憂いを押さえる表情、何かを腹に抱えていなければできるわけがないのだから。
瞬きをするその瞬間、睫毛と睫毛が重なるその瞬間、景色と風を享受するその瞬間。その全てが写真と写真を繋げて作った映像のように、ゆっくりと、そしてはっきりと、脳裏に刻まれていった。









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