ヴィースバーデンに本拠地を構えるドイツ連邦刑事局(連邦警察の管轄)に、イーゲルとの取引で使うデータがダミーだという連絡がオリバーから入ったのは、つい先ほどのことだった。やはり尻尾を掴ませる気はないようだ、と今回の任務のために特別に設えられた捜査チームのリーダー、ルドルフはコーヒーを啜り口元を歪ませた。

(まあいい、今回のメインは奴らじゃないのだから)

彼は胸ポケットから携帯を取り出し、とある番号に電話をかける。待ち構えていたかのようにワンコール内で相手に繋がった。男の声が周りから視界を遮断された会議室の中に静かに響く。

「あの組織を探ることはやはり今回はやめだ」
『そうか。懸命だな、了解した。その件に関しては引き続きこちらの情報源を潜らせている。取引に関して何かあればすぐに連絡しよう』
「ああ、よろしく頼むよ。どうやらこちらの情報源も奴らとの接触に成功したようだ」
『・・・くれぐれも注意を怠るなよ』
「この任務が上手く行けば、共同捜査初の快挙だ。充分に注意をしているさ」

それから二、三言会話が続いたのちに電話が切られた。ルドルフがかけた相手はBND―連邦情報局―、今回特例で機関をまたいで共同捜査をしている相手だった。彼はすっかり冷めてしまったコーヒーカップに視線を落とす。取っ手をつまみ、手首を回すようにゆっくりとカップを手前に傾ければ、黒の水面には芯妙な表情が映っていた。

「・・・あいつだけは捕まえてやるさ、絶対に」

事の発端は一年半程前に遡る。ヘルックに潜入するBND職員から、フランクフルトで大きな麻薬密売の取引があると連絡が入ったのだ。ヘルックといえばオランダで暗躍する犯罪組織だが、最近はその足を四方に伸ばしていて、地理的な近さからドイツ国内でちらほらと名を馳せるようになっていた。オランダと違って麻薬関連の取り締まりが厳しいドイツからしてみれば、彼らの行為は非常に悪質であり、なんとも潰したい組織の一つだ。どうも幹部の中の半数がドイツ国籍を有する人物から構成されている、とのことからBNDは潜入捜査を開始したが、取引関連に携われるようになるためには長い時間を要したために、内情が窺えるようになったのは最近のことだった。その情報を頼りに網を張ってみたが、結局逃げられてしまった。その後もずっと機会を窺いながら彼らは組織の人間を探していたが、決定打になるものを突きつけることができないでいた。
一方その頃連邦警察もまた違う組織を追っていた。それがイーゲルである。イーゲルはドイツ語でハリネズミの意であるが、その可愛らしい名前に似合わずやっていることの劣悪さは、足が付きにくいことから他に類を見ない。違法に生産された武器が、どこで作られているかがまだ分かっていないのも厄介だ。おまけに販売されている現場を中々押さえることができないでいる。調べたところによると、彼らは基本的には自分たちから動いたりはせず、客が来るのを待っているということが分かった。にもかかわらず常に彼らのところに客がやってくる。密売容疑として引っ張った組織も、イーゲルとどこで取引をしたのか吐く者の方が少ないといった具合で、なかなか尻尾を掴めないのが現状だった。
それから半年が経った後に、日本の警察庁からとある日本人女性を、留学プログラムという名目の元で籍を置かせてほしい、という申請があった。聞くところによるとその日本人、は、イーゲルのアジア地区に潜入をしている、警察庁警備局外事情報部国際テロリズム対策課に属する情報担当の国外係の捜査官らしい。どうせ潜入しているといっても、末端の構成員程度だろうと連邦警察は考えていたが、事情を聞けば驚くことに彼女は内部調査員として組織にいるという。既に二年間ドイツに留学していたのでその語学力を買われ、顧客の希望する武器のオーダーを通すという、ヨーロッパとアジアのパイプ役の一部も担っているらしい。しかも組織の中でも五本の指に入ると言われる幹部―この数年で急に名を上げた勢いのある男―に指名され、自分の元で働いてほしいと言われたのだから、彼女への関心を避けることはできなかった。組織の牙城を崩すという目的が両国変わらないことから、連邦警察は彼女を迎えることに決めた。籍は連邦警察にあるものの、潜入という手前彼女には現地の大学生に扮してもらうことにし、情報の共有の元、共同で捜査(しかし実権はほぼドイツ側にあった)することになったのだった。
彼女を受け容れてから一年と少し。どうやら性格的に彼女は社交的で明るく人懐っこい面を持つからか、演技力とは別の点で潜入捜査官として非常に優秀だった。「いかにも」な顔をした人間はこの手の世界ではどこでもいるが、「普通の人間」の顔ができる人物はあまりいないからだ。彼女の潜入を中心に、組織に関する情報が着々と集まり士気も高まる中、近いうちにイーゲルがヘルックと接触するという情報を得た。
ヘルックは次にアジアへと進出するために、錠剤開発に着手しようとしていた。そこで薬物の遺伝子データと引き換えに、実状の掴めないと黒の組織との取引を行うという。しかし彼らの実際の目的は、その後武器開発のスペシャリストであるイーゲルと手を組むことで、その正体不明の組織よりも大きくなるということだった。しかしイーゲルは彼らと共同戦線を張るよりも、いわゆる黒の組織に手を貸すほうが得策と踏んだ。そのためヘルックの奴らはのちのち裏切るぞ、というボイスデータとともに黒の組織に情報をリークし、奴らと組むぐらいなら自分たちの商品を買ってくれ、と取引に出たのだ。
これは両組織一網打尽のチャンスだ、と連邦警察とBNDは今回の取引の対策チームを作り出した。BND側としては現場を押さえればヘルックの牙城を崩すことができるし、連邦警察側からしても、イーゲルの武器生成工場を突き止めることができるかもしれないという利益の一致がそこにある。お互いの情報源の個人情報は明かせないという決まりはあるが、この機会を見逃す手はなかった。今回の目的はあくまでヘルックとイーゲルのみだが、黒の組織についても何かしら情報を得ることができれば御の字だ、と。
取引は全部で三回。ヘルックとイーゲル。ヘルックと黒の組織。イーゲルと黒の組織。ヘルックとイーゲルが一同に介する場が、乗り込むには最低限の労力で済むが、だからこそ注意しなくてはならない。二兎追うものは一兎も得ず、を考えるとこの両組織は分散させたほうが検挙の確率は上がるだろう。となればそのタイミングは、それぞれが黒の組織と接触する時だ。だがどうやってその現場に潜入捜査員たちを仕向けるのかがチームの一番の悩みだったが、ルドルフにはが選ばれるという確信があった。




*




浴室のドアが開くと、湯気が一斉に部屋へと広がっていった。そこからでてきたのは、女―こと―だった。彼女はバスローブを身に纏い、毛先から雫の滴る髪の毛をバスタオルで拭きながら、裸足で絨毯地の床を歩いている。どうやら機嫌がいいらしく、鼻歌交じりに冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、ボトルの蓋を開けて口を付けた。思いの外勢いよく傾けてしまい、口の端から数滴零れ落ちている。それをバスタオルの端で拭うと、サイドテーブルにボトルを置いてクイーンサイズのベッドにダイブした。

「ん〜ホテル最高・・・」

広いバスタブ、暖かな絨毯地の床、ふかふかの贅沢なベッド。充足の息を吐くように彼女から声が漏れる。質の良いベッドに埋もれること数分、現実の終わりと夢の始まりの心地よい揺蕩いに身体を許しながら、このまま眠ってしまえたらなんて幸せなんだろう、と彼女は思った。しかし今はまだその時ではないらしく「だめだめだめ」と頭を振って起き上がると、ソファに放り投げた鞄の中から携帯を取り出した。それも二つの。片方はカバーケースが付いていたが、もう片方は素のままだ。そのうち後者の方のホームボタンを押して通知が特に来ていないことを確認すると、彼女はもう片方の携帯のロックを解除して電話をかけ始めた。機械的なコールオンののちに通話が繋がり、ドイツ語で「エーアハルトクリーニング店です。ご用件は?」と聞こえてきたので、彼女は「染み抜きをお願いしたいのですが」と返事をした。

『遅いぞ』
「すみません、ホテルが豪華だったのでつい長風呂を・・・」

電話越しの声は男だった。その声音は低く威厳があったが、彼女の返事にクツクツと笑っている。

『そうか、の部屋は貧相だからな』
「貧相って。その部屋を用意したのはルディさんじゃないですか」

彼女が不服そうな声を上げる。ルディという名はルドルフの愛称で、本人曰く、ルディの方が可愛らしいと嫁が褒めてくれたから部下にもそう呼ばせている、らしい。緊張の続く現場での作業を続ける彼女にとっては、彼のお茶目な一面はとても癒しだった。しかし次の瞬間にはルドルフの声がワントーン下がっていて、それが談話の終わりを意味していたのは言うまでもない。僅かに空気が張り詰める中、彼女は彼の声を聞き取ると「問題ありません」と答える。しかし間髪入れずに「ただ」と続けたので、電話の奥の彼はどうしたのかと同じ言葉を疑問系で聞き返した。

「前にも言った通り、イーゲルは黒の組織の情報を少しでも引き出したいがために、私をガイドにして探りを入れようとしてるんですが・・・思った以上にあちらも乗り気のようで、明日は一日街のガイドをすることになりました」
『ふむ・・・。事情を探りたいのは黒の組織も一緒ということか。応援はいるか?』
「いえ、まだ相手の動向が掴めないので、とりあえず私だけでやってみます。こちらよりもドミニクの方をお願いします」
『そうか・・・奴らに関してはまた別の機会を探るから深追いはするなよ。ドミニクは任せろ。それと組織の人間はどうだった?』

彼女は先ほどのやり取りをそれとなく思い返した。黒の組織の構成員としてやってきたバーボンと名乗る男のことを。彼は日本人だと事前に連絡を受けていたが、思い描いていた姿とは違って肌は小麦色で、ミルクティブラウンの髪にグレーがかった青い瞳をしていた。もしかしたらハーフなのかもしれない。身長は高く身体も鍛えられているといった風で、ベストの上からは見えずとも、両腕にはシャツの皺からしっかり筋肉が盛り上がっているのが分かった。日本人女性ならばきっとその多くが口をそろえて美形だと称するだろう。それは彼女にとっても同じようだ。

「第一印象としてはとても優しそうな人でしたねえ。かっこよかったんですよ、彼」
『あのなあ・・・大丈夫なのかお前』
「だいじょうぶです!脳ある鷹は爪を隠すって分かってますから」
『なんだその言い回しは?』
「あ、そうですね、ええっと日本のことわざです。優秀な人ほど自分の能力をひけらかさないってことです」
『ああ、静水は奥深いってやつか』
「ドイツ語ではそう言うんですね、勉強になります」

静水とは湖や池など流れも無く波も立たない水のことを言い、静かな人間の比喩である。そして奥深いというのは、それのみでは純粋に深さを示すが、ここでは水が人であることから性格や能力の傾向を意味している。例えば一見何の特技もなさそうな地味な人間だが、実は誰もが驚く能力を持っていたりする時によく用いられる言い回しだ。しかしどちらかといえば彼女が言いたかったのは、バーボンがあえて自身の能力を隠しているのでは、という意図的な力が働いていることだったので、そこでは双方にニュアンスの違いが生じていた。だが必ずしも百パーセント適合する外国語の訳があるわけでもなく、且つ今この場の主眼ではないのだから彼女の返答は正しい。

「それはそうと、BNDから連絡は?オリバーは飛行機乗れましたか?」
『ああ、問題ない。明日の午後には着くそうだ』
「わかりました」
『一挙に両組織を崩すチャンスはそうないからな。引き続き頼んだぞ。それと別件の方だが、場所は押さえた。そっちもよろしく頼む』

彼女が「はい」と返事をする前に電話は切れてしまった。通話履歴に残る「エーアハルトクリーニング店」の文字を見つめながら、静かに息を吐く。

「・・・もうひと踏ん張りよ」

ベッドの端に膝を抱えるようには小さく座る。ゆっくりと、シーツを被ったマットが重みを受け止めた。サイドテーブルに置かれたペットボトルはもうすっかり汗をかいていて、彼女がそれに人差し指を伸ばして上から下へ撫で下ろすと、大きくなった雫がたらりとテーブルへと落ちていった。

「もう少し、もう少しで・・・」

気付けば彼女の眉間に皺が寄っていた。腹立たしそうとも切なそうとも取れる瞳がランプによって照らし出される。睫毛が頬に影を落とすその表情からは、昼間のような朗らかさはどこにもなく、ただひたすらに気難しい顔をしていたのだった。









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