待ち合わせは午後六時、とある通りにあるカフェだった。そのカフェで三十分前からコーヒーを飲みながら、二階席から一階を見下ろす初老が一人。それこそがベルモットから貰った変装道具に身を包むバーボンだ。顔合わせに指定された席は入り口から離れた窓際の席で、そこには取引相手が手配していたのか「予約済み」のプレートが置かれている。トイレに迷うフリをしながらその机の下に小型の盗聴器を仕掛け、今は二階で相手が来るのを待ち伏せているというわけだ。彼は耳に嵌めたインカムを、髪越しに三回小突いた。するとそこからベルモットの声が鮮明に耳に響く。

「こちらの音は聞こえますか?」
『ええ、ばっちりよ。彼らはもう来たの?』
「いいえ。気長に待ちますかね」

今回彼に与えられた任務は、取引の監視というさほど難しいものではなかった。当初はヘルックというオランダを中心に活動をする、麻薬密売組織とデータの交換をするだけだった。だが途中からなにやら事態が複雑になり、末端の構成員だけで話が解決しなくなってしまったのだ。
黒の組織も含めて今回は三つの組織が関わっている。まず一つ目が前述の通りオランダに本拠地を構えるへルックという組織だ。彼らは独自の麻薬を育成、加工、販売及び密売をすることで資金を得ている。オランダでは一日に一人五グラムまで政府の認めた大麻の販売が可能なことから、そうした事業に着手しやすいのだろう。とはいえこの組織は政府の許可を得てはいないのだから、当然犯罪である。困ったことに彼らの販売する特殊な薬物は、通常の三倍は快感が得られるとその効果は抜群であるらしく、コーヒーショップなどで買えるマリファナとは比べ物にならないと使用した者は言うらしい。自国で充分な効力を確認したからこそ、彼らは次にアジアへの進出を狙っていた。持ち運びなどを考え錠剤開発が望ましいと、研究所や生成所などを設置する計画を立てている時に、ふと情報屋から知らせが入ったのだ。なにやら正式名称は不明だが通称「黒ずくめの組織」という連中が、製薬開発分野では飛びぬけている、ということを。そこでヘルックは、まだどこにも流していない自らの麻薬の遺伝子データの提供を条件に、共同で開発作業をしないかと組織にコンタクトを取った。黒の組織からしてみれば、麻薬事業には大して興味がないので取引をする気にはならなかったが、独自の薬草の遺伝子データというのにはどうやらそそられたらしい。その遺伝子を改良することによって、もしかしたらば自分たちがしている研究になにか進展が起こるかもしれない、という可能性に魅力を感じたのだ。だが共同開発など進めて、のちのち力を大きくしたヘルックに組織を荒らされるのは事だ。そのためデータは入手しておきたいところだが、ヘルックに長生きされるのは厄介なので潰しておきたいのが本音だった。
もう一つの組織はドイツを中心に世界に、とりわけアジア圏にパイプを持つイーゲルという武器の販売団体だ。いつの時代もこうした犯罪には武器が欠かせない。彼らの持つ一番の魅力は金属加工の工場を持っていることだった。生産から流通までをこなすことで、依頼人の要望に叶う武器を揃えることができること、且つどの店で買ったかという足が付かないことから、裏の世界では非常に頼りにされている組織だ。彼ら組織の強みはあくまで武器の販売に止まるだけで、殺人や強盗などには関わらないこと。銃器を買った人間が密売を起こしたとしても、商品を販売してから先に責任は生じないと言い切ることができる。たとえそれらが違法に生産された銃器だったとしても、現場さえ押さえられなければ手出しされる率は圧倒的に低く、最近では特に勢力をつけてきた組織だった。

『組織を大きくするために私たちを使うような輩、どんな相手か楽しみだわ』
「相当自信と度胸があるんでしょうねえ」
『これで大したことないデータだったら働き損ね、今回は』

―組織を大きくするため。そう言われるのにはヘルックとイーゲルとの裏取引が原因だった。ヘルックはアジア進出のために、武器関連でアジアとパイプを持っているイーゲルにも、協力関係を結ばないかとコンタクトを取っていた。麻薬のデータと黒の組織との開発データ、そして武器が揃えば自分たちはもっと金を稼いで大きくなれる、そうすれば正体の分からない黒の組織など簡単に潰すことができるし、世界の裏の部分を牛耳ることだってできる、と。
しかしイーゲルにとっては足の付きやすい麻薬事業に手を出す気はなく、むしろヘルックと組むぐらいなら黒ずくめと手を組みたいと考えていた。金儲けよりも、闇の世界ですら「残虐非道のヤバイ連中」と噂される組織を、敵に回したくなかったからだ。それに金儲けにしか目がない者ほど、あとあと簡単に裏切り行為をするだろうとも踏んでいた。そのことからイーゲルはヘルックの目論見を黒の組織にリークし、敵組織を潰そうとしたのである。信頼を得るために、イーゲルは自身の武器関連のデータだけではなくヘルックの薬物データも一緒に渡す、と提案した。もちろん彼らは傘下に入りたいわけではないので、黒の組織がヘルックに渡す予定だったデータが欲しいということも付け加えて。
だが黒の組織からすれば、なぜ自らが敵対勢力になりうるかもしれない奴らの手伝いをしなければならないのか、といったところで、こちらを利用しようなどという不届き者たちと手を組む気にならないのが本心だ。つまりどちらも邪魔な存在であり、出し抜かれる前に出し抜き始末せねばならないという訳である。しかし両者のデータをみすみす水に流すのも勿体無い。そこで情報だけは手に入れるべく、イーゲルのリークに賛同した。イーゲル曰く、我々がリークしたことを悟られないために、名目上ヘルックとは取引をしてほしい、という。組織としてはその取引でヘルックの幹部を見せしめに殺害する気だったため、その申し出に乗るフリをし、イーゲルの方は武器の生産が主であることから利用価値が高いと踏み、取引自体は動向を見守るに留めることにした。そんなイーゲルに渡すデータの内容は全てダミーだ。それどころか三回目に開いた時に発動するという、開発したばかりのコンピュータウイルスをプログラミングしてある。一回目は取引時、二回目はボスや地位が上の構成員が目を通した時。そうして情報が組織内に広がる頃には丁度三回目頃という訳で、その回数が来ると自動的にウィルスが起動するようになっている。

「とんだ怖いもの知らずといったところですかね」
『ま、とくにヘルックはここ十年ぐらいにできた組織らしいから、若いがゆえってことね』

ヘルックの方にはリースリングとベルモットが宛がわれ、イーゲルの方はバーボンと明日やってくるオリバーが宛がわれた。暗殺が含まれないのは彼にとって、いや降谷零にとって非常に都合が良かった。普段は探り屋が主な仕事であるために、武器を用いて命のやり取りをするような現場に来ることは少ない。だからこそベルモットの任務内容を聞いた時に、自分にも暗殺の要求が来るのでは、とかなりの覚悟をした彼だったが、組織から彼への期待が、イーゲルが完全に仲間になる訳ではないことから、状況判断や洞察力に長けた彼に動向を探ってほしいのだということを知って、胸を撫で下ろしたのは誰にも言えない秘密だ。
それに相手組織からの情報によれば、今回顔合わせにやってくる二名のうち一人は日本人だという。本取引までは三日時間があるため―顔合わせが今日、ヘルックとイーゲルが取引をするのが明日、データを持った構成員がミュンヘンに戻るのが明後日、そしてイーゲルと黒の組織の取引が明々後日―、その日本人から様々な情報が引き出せるならなおよしとのことで、組織内でも対人関係を築くのに優れた彼はうってつけというわけだ。相手が女ならハニートラップまがいのことをして近づけば良いし、男なら気さくな友人としてのポジションを作ればいいのだから。

「あ、やってきましたよ」

入り口のベルがカランと乾いた音を立てると、男女二人組が入ってきた。予定時刻までまだ十分ある。二人は店内を一瞥し、窓際の予約席へと進んでいく。彼は今流行のツーブロックで髪型を整えていて、刈り上げた部分には斜め十字のマークの刈り込みがさらに深く刻まれていた。顔の堀が深いのでより鋭い眼光を放っているようにも見え、高い鷲鼻の片方に付けられたいくつもの銀色のピアスから、なるほどいかにもやんちゃそうな風貌だと窺える。かっちりとストライプのスーツを決め込んでいるところも、いかにも一癖ありそうな雰囲気だ。
一方女の方は事前の情報にもあった通り日本人だった。男の背丈が高く、肩幅も広いからか余計に彼女は小さく見えてしまうが、きっとバーボンと並んだならば普通のアジア人といったところだろう。服装は英字の入った白いTシャツを膝丈のタイトスカートにインしていて、上着はテーラードスーツで靴は五センチほどのヒールパンプスだ。一見ラフな格好だが、日本と比べてドイツでは大抵の人間がシンプルな服装のために、彼女の姿はむしろフォーマルにも見えてくる。

『どう?』
「男の方はいかにもって感じの風貌ですが・・・」

「女の方は」と言いかけて、バーボンはしばし止まった。二階だからか話している声までははっきり聞こえないが、仕草は充分に読み取れる。

「うーん、女の方はなんかこう、ふわふわしてますねえ」

一言で言えば表現豊か、が正しいだろうか。男に言葉を投げかけられて返事をする時の朗らかな笑顔といい、メニューを見ながら口を窄めて悩んでいる姿といい、一瞬ただお茶をしに寄ったのではないかと見間違うぐらいに自然体だ。男の方がぶっきらぼうそうな態度だから殊更そう思うのかもしれないが。

『ふわふわ?』
「ええ、お茶しに来ましたって感じで、あまりこういう世界には似つかわしくないというか」

店員が彼らのテーブルにやって来た。おそらくオーダーを取りにきたのだろう。だがまだ待ち合わせの時間ではないからか、それを彼女は断っている。申し訳なさそうな顔で、肩をすくめて。やはりそこらへんを歩いているような女に見えて仕方がない。バーボンは顎に親指と人差し指を当てて、まるで「ふむ」とでも言いたげな表情で二人を眺めている。するとイヤホンの奥からくつくつと笑い声が聞こえてきた。

『あなたもそうじゃない、組織の中にあなたみたいな優男いたかしら?充分特殊よ』
「ほう、言いますね」
『まあ私としてはバーボンみたいな性格の方が辛気臭くなくていいけど』

それが一体誰のことを言っているのかはバーボンには想像が付かなかったが、確かに自分みたいなタイプは組織にはいないな、と心の中で思った。組織の一員は大概多く喋ることを嫌うし、同じ仲間といえど仲良くする気など毛頭ない者が多いのだから。探り屋という性質上、自分から積極的に行動しなければ情報は得られないのだし、それに大事な情報をやすやすと喋り零す人間などいないのだから、そのことを思えば自然と人との距離を縮めるのが得意にもなるのだろう。

「褒め言葉として受け取っておきましょうかね。確かに、いかにも裏の世界にいますよ、なんて顔は目立ちますからね。とりあえず注意深く観察しておきましょう」
『ええ、そうしてちょうだい』
「それじゃあ、時間なので行きますね」

コーヒーが運ばれてきた時に同時に会計も済ませていたので、バーボンはそのまま席を後にした。一階へ下りて店員に手を振り店を出ると、人気のない小さな路地にそそくさと姿を消して顔のマスクを取る。そしてリバーシブルの上着の肩パットを外して裏返せば、もはや先ほどの初老の姿はどこにもいない。それもこれも全てはベルモットのクオリティの高いマスクのおかげだ。ずっと変装のままでも良かったが、長時間いるとなるとマスクは完璧でも、中身が完璧でないので(本人曰く)ボロがどこかで出てしまいそうだった。なにより近付く予定の日本人が女なので、初老よりは本来の姿の方が受けが良い気がしたのだ。
そして何食わぬ顔で待ち合わせの時刻二分前に店に舞い戻れば、窓際から男の強い視線を感じた。女の方も同じく真剣な表情だったが、バーボンがにこりと微笑むと、彼女も同じように目を細めた。彼は上から下まで自分が値踏みされているのを感じながら、ゆっくりとした足取りで席に着く。すると直ぐに対面の男の口が開いた。

「あなたがあの組織の?」

彼の口から流暢な英語が紡がれた。おそらく最初から英語でやりとりするつもりだったのだろうが、ドイツ語でなくて良かったと思うバーボンだった。

「ええ。バーボンです。よろしく」
「ドミニクだ。こちらこそよろしく」
です。どうぞよろしく」

全ての人間の名が恐らく偽名なのだろう。形式的な自己紹介を終えたところで店員がオーダーを取りにやってきた。するとが笑顔でドミニクの物も合わせて注文している。そして彼女はバーボンに視線を移し「何にしますか?」と日本語で尋ねた。穏やかで耳に優しく流れてくる声だった。日本語が癇に障ったのか隣のドミニクが肘で彼女を小突く。「飲み物を聞いたの」と彼女が英語で返したので、やはりそうらしい。バーボンはすまなそうに笑いながら「コーヒーを」と店員に伝えた。店員が去るとドミニクは場を取り直すかのように咳払いをして、「さて」と続けた。鼻のピアスが鈍く光った。

「こうして我々と会ってくれるとは思っていませんでしたよ」
「またご謙遜を。あなた方の銃器や流通のシステムには我らとしても一目を置いているんですよ」
「ほう、そんな嬉しいことを仰ってくれるとは」

ドミニクの喋り方は少しだけ癖があった。第一声が強めのアクセントで始まるのだ。聞く人間によっては鼻につく喋り方とも言えなくはないが、声のトーンが低めなのでそこまで耳障りではない。

「とにかく本題に入りましょう。私の部下がこれからヘルックとの取引に向かいます。その後この彼女にデータを渡し、あなたと取引する手はずで間違いないですか?」
「ええ。それで結構ですよ。その場でデータの確認をするので、ああそうだ、当日行くのは僕ではありませんが、宜しいですか?なにしろ科学関連に詳しいのは僕ではなく、もう一人の方なので」
「もう一人・・・ああ、先ほどメールを下さったロシアの空港の件ですね。問題ありませんよ」

店員がトレイに乗せた飲み物を置いていく。それをがそれぞれに分配していった。自己紹介をした以外特に喋っていないので、彼女はもしかしたら運び屋に近い存在なのかもしれない、とバーボンは思った。彼女から受け取ったコーヒーに口を付ければ、つい先ほどまで飲んでいたものと全く同じ味がした。当たり前といえば当たり前だが、それでも一口目の香ばしさにはなんとも言えない美味しさがある。ドミニクも同じものを飲んでいて、だけは、グラスの三分の一が泡で盛られたコーヒーを飲んでいた。ラテマキアートと言っていたが、ホットドリンクにも関わらず透明のグラスで提供されているところがヨーロッパらしい。チョコレートソースがトッピングされたきめ細かい泡を、長細いスプーンで掬って口に運ぶ彼女はなんだか楽しそうだった。だからと言って緊張感が無いわけではなく、ついじっと見つめてしまったバーボンに気が付くと、彼女は恥ずかしそうに「す、すみません」と口走った。

「これを機に、あなたがた組織とお近づきになれたら嬉しいですよ。ついでに言えば、我々の商品を贔屓にしてくれるともっと嬉しいですがね」
「データ次第、ということになりますが、前向きに考えてください」
「ありがとうございます。それでは私はそろそろ。・・・ああ、もし取引まで自由な時間がおありでしたら彼女はガイドとして好きに使ってください」

刹那、ドミニクの眼光が鋭くなった気がした。それに目を見張らせたバーボンだったが、間髪射れずに再び男が付け足す。

「ご安心を。怪しいものは仕込んではいないので。ただ単純に、この国を楽しんで頂きたいだけですよ」

そう言うとまだ温かいコーヒーもそのままに、ドミニクは胸ポケットに入っている財布から二十ユーロ札を取り出すと、ソーサーで飛ばないように挟んでから立ち上がった。「それでは」と彼は握手を求めたので、バーボンも席から立ち上がって同じように手を差し出す。去り際に何かドイツ語でに喋りかけているようだったが、彼がソーサーの下のお札を指差したこと、彼女がぺこりと頭を下げたことからここのテーブルの会計をあれで払えということなのだろう。日本語を使われた時は不快な態度を示したのに、自分は気にせず同じことをするあたり、性格的に少しルーズな面を持っているのかもしれない。
入り口のベルが音を立てる。男は振り返ることなく通りを歩き去っていった。それをぼんやりと眺めていると、が「すみません、ちょっとお手洗いにいきますね」と席を立った。鞄も携帯も置きっぱなしで立つとは、所属の違う相手になんと無防備なことをするのだろう、とバーボンは思ったが、それもまた相手に敵意がないことを表している気がした。彼女がいなくなったのをこれ幸いに、彼は再び髪越しにイヤホンをノックすると、待ってましたとばかりにベルモットが喋り出す。

『なあんか、よほど自信があるのねえ。自分のところの人間を野放しにするなんて。それともそのふわふわした女の子、かなりのやり手なのかしら』
「探ってみますかね」
『ええ、そうしてちょうだい。私もそろそろリースリングと落ち合うから、あとはホテルに帰った後にでも連絡して』
「わかりました」

数分も立たないうちにが戻ってきた。予想していたよりも随分早かったので「早かったですね」とバーボンが言うと、彼女はまたも恥ずかしそうに「グラスに付いてたチョコソースを触ってしまって、ベタベタしたので」と返事をした。

(うーんこれをやり手と言うのだろうか)

ベルモットの言う通り、これまでの彼女の言動が全て演技だというのならば、随分有能な鷹ではないか。見たところ隙しか見当たらない気がするが。とはいえ取引を任されているのだから、信頼は得ている構成員なのだろう。第一取引には彼女しか来ないというし、そこから察するに彼女は運び屋というよりは科学者寄りに違いない。そうでなければ誰がこちらから渡すデータの内容確認をするのか、という話になるのだから。

(・・・しかし)

それにしても彼女は普通の女の子以外の何者でもなにように見えて仕方がない。となればやはりガイドとして付き添ってもらい、その内奥を覗いて見るしか手はないだろう。

「バーボンさん」
「バーボンでいいですよ」
「あ、はい、バーボン」
「なんですか?さん」
「あ、私もでいいです」
「はい、
「明日から私はどうしたらいいですか?」
「そうですね、折角なので彼の言う通り街を案内してくれませんか?」
「はい、分かりました」

そう言って彼女は笑った。とても純粋そうな笑顔だ。こんなにも人懐っこそうな表情をするのに、どうして彼女はこの世界になんかいるんだろうか。ふと、そんな疑問がバーボンの脳裏を過ぎった。








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