「上に掛け合ってはみましたが、やはりその件に関してはまだ局長の許可が下りないとかで・・・」 「そうか・・・局長にははぐらかされてばかりだな、いろいろ」 「・・・お力になれずすみません」 「お前のせいじゃない、気にするな」 「あ、降谷さんあとこれ、作業班から差し入れです」 「・・・差し入れって、これ」 「たまに恋しくなるとかで」 日本に帰国してから一ヶ月近くが経過した。黒の組織としての活動が一段落している今、降谷は週の半分はグレイスーツに身を包んで、デスクワークのために警察庁に顔を出し、残りの半分はカモフラージュのための探偵業としての日々を送っている。接触する人物として一番危惧しなければならないベルモットも今はハリウッドで、もう一月もすればニューヨークへと旅立つ。当分は身の安全が保障されているという訳だ。 (・・・レタス太郎、か) 嬉しい、と笑っていたあの純真さが、もう何年も昔のことのように思えてしまうなんて。誰かの死を経験するたびに心が鈍くなっていく。気が付いたら枯れ砂漠のようにからからで、思い出が夜の風に吹かれて飛んでいく。そうして眠ればまた明けの明星とともに一日が始まる。ずっとずっと、その繰り返しだ。なんてことはない。人間は強くできている。 (名前すらも、知ることは許されないのか) 物憂げな降谷の双眸は、手の中にある小袋のみに注がれていた。指に力が入るたびにパッケージからカサカサと音が上がる。焦点の合わぬ朧気な視線の奥に、再び彼女の姿が浮かび上がった。 (なぜ捜査資料を見ることができないのか) 捜査資料といっても現地から上がる報告書のようなものだ。ドイツ国内のみの事件ならばそんなものは回ってこないが、この件には邦人女性が関与している。犯罪組織絡みの事件は警察庁の管轄であるにも関わらず、その職員ですら資料の閲覧が禁止されるとは一体どういうことなのか。 (できることならリースリングに声をかけたいが、ドイツ警察にハッキングできないか、なんて言って彼女からベルモットにそれが流れるのもまずい) ドイツを拠点にしている彼女ならば造作もなさそうだが、それは絶対にできない手段だった。同じ組織の一員といえどその性格を深くまで知っている訳ではない。むしろベルモットの方が彼女とは親しいだろう。そんなベルモットにはハニートラップにでも引っかかったのではと疑われていたし、どこからボロを掴まれるか分かったものじゃないのだから、やはり無謀なことはするべきではない。 「降谷さん、所用で警視庁に顔を出しに行くんですが、何か必要なものはありますか?」 薄茶色の封筒を小脇に抱えた風見が降谷のデスク前まで来る。上司の物憂げな表情に気付かない無能な部下ではなかったが、彼が自分を頼りにしない以上、そこに介入するのは野暮というものだと気が付かないフリをする。 はて何かあったかと降谷は考えてみたが、特に用は無かったので首を横に振った。 「いや、特にはない」 「わかりました。ああそうだ、今日は各部署の月一の報告書が上がる日なので、私がいない間に提出に来るかもしれません」 「そうか、受け取っておくよ」 「よろしくお願いします。それではいってきます」 いってきますなんて律儀なやつだ、と降谷は思った。もちろんその律儀さが彼の長所でもあるのだが。ふ、と笑って彼は手にしていた小袋をデスクの脇に置いて、たまりにたまった書類に目を通し始めた。 * 「うっううううう・・・」 「根をあげるな、本来はこれがお前の仕事だよ」 警察庁警備局外事情報部国際テロリズム対策課情報担当国外収集係。この早口言葉のような部署の名を背負う日がまた来てしまった。ようやくデスクが綺麗になったかと思えば、再び堆く積まれた紙の山。山。山。次はいつデスクの地肌が見えるのかと恐ろしくなる。その書類一枚一枚に目を通しながら、は心の中で、なにがデスクワークでゆっくり休めだ上司のばかやろう、と悪態を吐いた。 ヘルックとイーゲルの牙城を崩すことに成功し、残党狩りや事後処理、特別班の解体などなどもろもろの仕事を終え、ドイツと別れを告げたのがつい三日前。帰ってきたらデスクワークに回してやるから羽根でも伸ばせと言われていたのに、待っていたのは地獄だった。長い間現場に出ていたおかげで、事務処理能力が一気にランクダウンしてしまっている。椅子に座っているだけの一日はとても長く、夕方にもなれば足の浮腫みが気になるし尻も痛い。そもそも帰ってきたばかりのデスクは無情にも物置と化していて、その片付けから始まるとは一体どういうことだと彼女が嘆いていたところ、係の同僚たちからは「愛だよ愛」と言われていたが、それのどこが愛なんだと彼女がジト目をすると、彼らは笑顔で「先輩だぞ」と言い、彼女に鉄槌を食らわせた。 「ここ来て早々ドイツ行ったのが異例なんだよ、新人は雑用やってなんぼだ、ほらチョコやるぞ」 「このドイツ語訳もよろしくな、クッキーやるから頑張れよお」 「そうそう、誰しも通る道だ。ほれほれ俺からは飴ちゃんをやろう」 次々とスーツのポケットに突っ込まれていく慰め程度の一口菓子たち。気が付けばあっという間にパンパンになっていた。「お菓子あげればいいと思ってますね!?」とが言うと、満場一致の「おう」が返ってくる。ただでさえ女性の少ない職場だ。彼らの様子から彼女が可愛がられていることが十分に読み取れる。 「そうだ、この報告書を警備企画課に提出しにいってくれ」 「て、手一杯ですう・・・」 「気晴らしに散歩でもしてこい」 「気晴らしに散歩しても書類は減らないじゃないですかあ・・・」 いいから行って来い、と数枚の用紙が挟まったバインダーで頭を叩かれる。月に一回、庶務係が報告書を警備企画課に提出するのが慣わしとなっているが、今日に限って他部署の電話対応に借り出されているらしい。こんなことならまだ仕事が片付きません、なんて言ってドイツに残っていれば良かったと後悔するだった。 「青い空、緑の芝生、暖かい太陽、ああ、どこに・・・」 ここにあるのは青い空ではなく、灰色の壁、灰色のデスク、人工的なLEDライト。どれもミュンヘンの英国庭園のようなのびのびとした自然とは程遠い。重たい扉を開けて廊下に出たところでそれは変わらない。さて警備企画課はどこにあったかとエレベーター横にある案内図に目をやると、三階上の北側のエリアにあることが分かった。国際テロリズム課の国外収集係が南側にあることから、少し長めの散歩になりそうだ。帰ったあとの山積みの書類がなんとも恐ろしい。 「・・・もう、一ヶ月になるのね」 事後処理に追われていたからか、思えばあっという間の一ヶ月だった。ドミニクのデータによると、イーゲルの工場はミュンヘンから少し離れたところにある小さな町のごみ処理場だった。市の職員を買収して、業者ごとイーゲルの息がかかっていたという。しかしナンバーツーの自宅地下にあった秘密基地から見つかったデータから、そことは違う場所に工場があることも判明した。ナンバーツーの供述によって浮上したボスの正体は、とある州の州知事で、工場も同州にあったのでまず間違いないだろうと少しの間ドイツはその事件の話で持ちきりだった。スキャンダラスなことばかりが報じられて、死んだ構成員についてはほぼ取り扱われていない。それもそうだ。蓋を開けてみたら州知事は汚職だらけで、いかにもゴシップ好きな主婦たちの的だったのだから。そこから先は世界に散らばる残党探しにてんてこまいで、かくいう彼女も現在デスクワークと並んで、潜入時代に得た連絡先から、様々な国の構成員をおびき出すという仕事をしている。一息つけるのはまだまだ先になりそうだ。 それでも彼女にとって良かったのは、クラウスの彼女に会えたことだった。本当は情報を話すことは禁止されていたが、ルディの特別な配慮で組織名や潜入先での内容を明かさないという条件の元、いくつか彼について話すことができたのだ。「うそつき」と言い放ってしまったが故に彼女はに会うことを拒んでいたが、クラウスのことでどうしても会いたいのだと懇願したところ、一時間だけならと家に入ることを許された。彼が大学生ではなく本当は警察官だったことに彼女はとても驚いていた。職務中に殉職してしまったこと、しかし犯人はちゃんと捕まえたことを伝え、そして彼が彼女に当てて書き溜めていたラブレターの数々を渡すと、彼女は一粒、また一粒と涙を流しながらその手紙を読み続けた。長い時間のあと、涙でぐしゃぐしゃになった顔で彼女はに「ごめんなさい」と言って抱きついた。強い抱擁には彼女への謝罪と感謝が込められていて、仇を取ったあとまだ一度も泣いたことのないも、その時ばかりは延々と泣き続けていたのだった。 けれど言えなかった。クラウスの遺体が無いということだけは。製鉄用の高温炉で骨も残らないほどに焼かれてしまったと言うことができず、連邦警察の規定で潜入捜査に関わったものの遺体を遺族に返すことはできないと、そう嘘を吐くことしかできなかった。 * コンコン。ノックのあとにガチャリと警備企画課の扉が開かれる。 降谷は書類とにらめっこをしていて、ドアの方に意識が向いていなかった。否、気が付いていない訳ではなくて、報告書の提出ぐらいに顔を上げる必要がないと思ったからだ。それに風見や他の同僚たちならば声で気付くため、なおさらそちらに労力を使わなくていい、と。 「失礼します、国テロ対策の月次報こ・・・え?」 作業を中断する気のなかった降谷も、声が途中で途切れては一体どうしたと顔を上げないわけにはいかなく、はあ、とため息をついて書類を机に置いたのだが。 「・・・は?」 眼前の光景の理解不能さに降谷は息も忘れて両目を広げて反応できずにいる。なんだ、一体何を自分は見ているんだ、デスクワークのし過ぎでとうとう幻覚でも見えるようになってしまったんだろうか。だって目の前にいるのはあの―…。 「え?・・・え?」 一方も開いた口が塞がらずにわなわなと震えて、降谷同様まん丸に広げた目で前方を直視した。手からバインダーが落ちたことにも気が付かず、手で口元を覆っては言葉にならない母音が口を突いたように漏れ出る。ぱちりと瞬きをする。しかし景色は変わらない。もう一度瞬きをする。やはり目の前に立つ男の姿は変わらない。 「えっあの、え、なん、で」 「なんで、君が、ここに」 すべてがシャットアウトされる。室内では二つの心臓があたかも爆発するぐらいに大きな音を立てていた。両者ともに思考回路がストップしてしまっていて、ただあんぐりと口を開けて、お互いの瞳から目を離すことができない。そして何も言葉を発せずに、二人とも静かに、この世のものとは思えない光景へと歩み出る。おそるおそる、震えながら。 「バー、ボン」 名前を呼ぶとは打って変わって、降谷は声を出すことができない。その代わりぷるぷると震える腕を伸ばして、彼女の頬に指先で触れようとした。人差し指が肌に触れた途端、がびくりと肩を竦ませたので、降谷も思わず一歩退く。いる。確かに生きてる人間がここにいる。 「なん、で、ここに、」 「そ、それはこっちのせり・・・っい、いいからこっちに来い」 「えっあ、い、いたっ」 どうやら先に回路が復活したのは降谷の方だった。ハッと我に返った彼は、の腕を強く引いて室内にある会議室へと連れて行く。いまこの企画課に誰もいないと分かっていても、そうべらべらと大事な情報を喋る訳にはいかない。そのため会議室に入るや否やシャッターの電源を押して外から中が見えないようにして、彼は彼女に背を向けたまま掴んでいた腕を手放した。 何故ここに、彼がいる。 何故ここに、彼女がいる。 お互いの脳裏に刻まれるその疑問。彼女を連れ込んだはいいものの、一体何をどう最初に言葉にしたらいいのか判断がつかない。振り返る勇気が出ない降谷の心臓が、破裂しそうなぐらいに高鳴る。そんな彼の背中をまじまじと見つめながら、はぐっと一度息を飲み込んで、意を決して口を開いた。 「どういうことですか、バーボンですよね」 「・・・」 それでも彼は振り返らずに背を向けじっと黙っている。握られた拳が小刻みに揺れているのが見て取れるが、それに配慮してやる余裕は彼女にはなかった。 「だんまりですか?ほんとにここの人間なんですか?組織に情報流してる二重スパイじゃないんですか?」 「そうまくしたてるな、まずは落ち着いてくれ。それに安心していい。俺はここの所属だ」 振り返る際に揺れた彼の横髪や、動揺を孕んだ彼の瞳が、の眉間に皺を寄せさせる。 「答えじゃないですよ、そんなの・・・」 「それじゃあ君はどうなんだ?連邦警察のスパイじゃないのか?それともイーゲルに情報を流す内通者じゃないのか?あの時ニュースの内容を改竄したじゃないか、死んだって!」 「それはっ、私が」 しまった、ここまで強く言う気は無かったと降谷が思った頃にはもう時既に遅く、は険しい顔をしながら口を噤んでしまう。相手の腹の内が分からない以上、同じ建物にいる人間だからとて彼女もあれこれと喋るわけにはいかなかった。 「・・・っ」 違う、こんなことを言いたかったんじゃない。こんなに感情的に言うつもりなんてなかったのに、彼女の第一声の荒々しさについこちらもその気で返してしまった、とぎりりと奥歯をかみ締める。 「・・・」 「・・・腹を割って話さないか。味方同士争っても意味がない」 「・・・喋り方」 「え?」 「どっちが本当なんですか。ぜんぜん、違う人みたい」 「潜入している時だけだ、ああやって喋るのは」 「・・・スーツ姿も、初めてです」 「俺も君のスーツ姿は初めてだ。ポケットパンパンじゃないか」 「こっこれは皆から突っ込まれ・・・って、僕じゃなくて、「俺」なんですね」 「・・・とりあえず、ここじゃなんだ。三十分後屋上で話そう」 つぎへ→ |