警備企画課を出てから、足が棒にでもなってしまったかのように、一歩一歩が重たい。何が起きたのかなんて、説明するのは簡単だ。バーボンがいた。ただそれだけ。ただそれだけのことなのに、それだけじゃないから混乱する。

(ずっと、引っかかってた)









あの倉庫に地元警察が介入してくることを、彼は知っていたのか、それとも知らなかったのか。
向こうはイーゲルなんかよりずっとやり手の組織だ。それぐらい最初から計画の内だったと考えるのが自然だけれど、オリバーはそのことを知らなかった。彼は自分がコードネームを持たないからだと言っていた。けどその理屈からいったらバーボンは知っていたことになる。だとしたら、彼から紡がれた言葉の数々が崩れてしまう。私に向けられたあの笑顔も、ただの砂の城だ。そして私はまんまと彼の人身掌握術に陥った馬鹿で無知な小娘ということになる。不甲斐ない。本当に不甲斐ない。何が能ある鷹は爪を隠すって分かってますから、だ。欺瞞と醜悪に満ちた世界に歯向かいたい、なんてヒーローみたいなことを言われてドキっとして、意地悪でかっこいい大人の顔でキスをされたなんて、落とし穴に勢いつけて落ちて自爆したみたいなものだ。情けない。思い出すだけでも自分の失態に恥ずかしくなるのに、そんな彼と三十分後に何を話せって言うんだろう。









「どうした暗い顔をして」

エレベーターを待つ間、恥ずかしさからバンバンと頭を壁にぶつけていたら、偶然局長が通りかかった。彼は日本に帰ってきて一番最初に会った相手だ。結局新しいチャレンジってどういう意味だったのかと聞いたらば、小難しい顔をしない潜入捜査ができる女性の公安職員を育ててみたかった、と言われてポケットの中のチョコレートを奪われた。その御眼鏡に適ったのかどうかは分からないが、局長的には、第一段階は突破したとまた訳の分からないことを言われた。そういえば、ドミニクも言っていたっけな。子供みたいな顔ができるやつって。あまり褒められた気はしないけれど。

「・・・局長は、黒の組織に潜入してる捜査官をご存知ですか」
「組織系統が複雑だからどこの部署かにもよるが、それがどうした?」
「ドイツで私が会った構成員と、さっき警備企画課でバッタリ出会いました」
「なんと」

写真ぐらい撮って局長に送れば良かったと割と本気で後悔している。とはいえあの黒の組織の人間が、そうやすやすと写真を撮らせてくれるとも思えなかったけど。

「でも分からないんです。我々側なのか、あちら側なのか」
「二重スパイか・・・そうだな・・・君の心証はどうだ」
「・・・ぐるぐるしてます」

もし彼が本当に公安側なら、あの取引現場にいたのは警察と情報局の人間だけの、なんとまあ肩透かしをくらったような気持ちにもなるけれど、彼が二重スパイなら私の命は多分無かった。信じてみたいけど信じられない。信じられないけど信じてみたい。そうした気持ちが胸の中で渦となって私を飲み込もうとしている。

「人間は行き詰ると、断定的な言葉か力ずくの行為によって打開を図ろうとするものだ。取り繕おうと必死になったならば疑え。だがそれ以外の点においては、君が思ったことを信じ通せ。私もそれを信じよう」









国テロ対策課に戻ると、先輩たちがあちらこちらから「仕事たまってるぞ」とか「随分と長い散歩だったな」とか「この資料もよろしく」とか好き勝手なことをほざ、否、話しかけてくるが、私の顔を見るや否やその態度を一変し「どうした?」と声をかけてくれた。その優しさに絆されそうだなんて思ったけれど、そういうところがいけないんじゃなかったのか私、とすぐさま心を入れ替える。とはいえ内情を家族や友人に話せないのがこういう部署の特徴なので、背中を合わせることのできる仲間がいるここでは、皆それなりに仲が良い。

「どうした?顔が死んでるぞ」
「け、警備企画課の人に呼び出されました、今から行ってきます・・・」
「・・・この短時間に何をした、失礼なこと言ったんじゃないだろうな」

外国人って悪気無く直接的なこと言うからなあ、とどこからともなく野次が飛んでくる。違う、ぜんぜん違う、私は根っからの和食が好きな日本人ですよ。三年ちょっとドイツに住んでただけで、外国人呼ばわりされるなんて心外だ。そりゃあ欧米人は社交辞令が嫌いだし、その人の直してほしいところもその人の前で話すけど、それは自分の意見を言える人間が尊重されるからだ。生き抜くために若干その影響は受けてはいるけれど、私は断じて外国人ではない。そんなこといったらこの部署には特派員としてアメリカに十年いました、とかフランスに十五年いました、なんて珍しくもなんともないじゃないか。

「あいつらを怒らすと怖いぞ、予算を減らされ兼ねない」
「精一杯頭下げて来い」
「なんで私が粗相をした前提なんですかあ」









再び重たい足取りで部屋を出る。角を曲がって少し歩いたところにあるエレベーターにのれば屋上はすぐそこだ。上ボタンを押して来るのを待つ。一生来なくてもいいのにと思うぐらいに呼吸もし辛くなっていく。そういう時に限ってすぐに来るから人生は残酷なんだ。誰もいない箱の中に乗って、最上階を押した。ゆっくりと、しかし確実にフロアを示す橙色のライトは動いていく。何も考えることができなかった。ただ心臓がばくばくと嫌な音を立てていて、なんなら吐き気もしている。このままロビーまで降りてしまおうか。しれっと何にも知らない顔で帰ってしまおうか。今日見たことは全て忘れて、明日から普通に仕事をしよう。だって報告書は庶務係の仕事だから、私が警備企画課に顔を出すことはこの先ない。行かされようものなら全力で拒否してやる。それでバーボンが二重スパイじゃないかを秘密裏に追いかけて、睨んだとおりなら捕まえる。それで全ては解決だ。あれでも待って、もし彼が二重スパイならさっき私、彼にそうじゃないのかと言ってしまったし、屋上で会おうだなんて、そんな、そんなの、突き落とされてジ・エンド?ううん何を考えているの私。冷静になれ私。考えよう、ちゃんと冷静に。

(・・・)

好きに、なりかけていた。ちがう、多分好きになっていた。だから、ドキドキするのはし損だからって、蓋をしようとした。そうして気持ちを閉じ込めて忘れてしまわなければ、辛かったから。ただ私に近寄るためだけに寄って来た彼の行動に落ちてしまいました、なんてそんな情けないこと、人生の汚名だ。そういう人間もいるんですね、じゃあ次から騙されないように頑張りますってでもしないと、彼と同じ建物で働ける気が全くしない。

(・・・二度と会わなければ、綺麗な思い出で、いられたのに)

生きていくのに必要な信念を、まだはっきりとは掴みきれていない。でもクラウスや彼の彼女のような人たちが、笑って生きていけない世の中は悲しいという理想だけはぼんやりとあった。それをバーボンの言葉が掴んでくれた。うそつきと呼ばれても、大切な人たちを守り抜くという彼のあの揺らぎの無い瞳。あの瞳に焦がれてしまった。色んな人に嘘を付いて、面と向かってはっきりと「うそつき」と言われたこともあって、仇討ちだからと自分の黒い部分を容認して生きていたけれど、そんなこと分かってんだよ、って顔で彼はその先を生きていた。だから私も歩いてみたいと思った。そういう道を。私が生きるために、そして誰かが生きるために、糧になりたいと思ったのだ。よだかのようには生きられない。それでも沢山の人が愛を育めるように、沢山の希望が満ち溢れるように、なんて傲慢かもしれないけれど、何もしない人間でいるよりは、何かする人間でありたい。









深呼吸を二回して、屋上のドアを開けた。おだやかで、でもすこし湿った空気が流れている、昼間と夕暮れの境の西日が顔を見せる気持ちの良い時分だった。そこの柵にもたれかかるようにして立つ一人の男。彼は景色を眺めていた。グレイのスーツの裾が風に揺らめいている。ミルクティブラウンの艶やかな髪もまた風にたなびいている。ああ、そういえば教会の塔を登った時もこんな感じだったなあ。青空の下に輝く彼の髪も素敵だけれど、こうして夕日が町を橙に染め出す時分の彼の後姿も画になるなあ。勇気を出して一歩進むと、彼が振り返る。まっすぐにこちらを見つめる凛とした瞳の熱量に、私はまだ触れたことがなかった。









優しい人は、それだけ辛いことを知っている人。いつも笑顔でいる人は、それだけ悲しいことを知っている人。凛とした瞳をする人は、それだけ命を懸けている人。でもほんとうはきっと、自分でも気が付かないところで、助けてって、叫んでいる。









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