ぐしゃぐしゃと、頭を掻きむしる。

「・・・はあ」

屋上にある落下防止の柵にもたれ掛かって空を見上げた。一日が終わろうとする夕暮れ時。昼と夜の境目。いつものように仕事を終えて、いつものように帰宅して、いつものように一人分の夕食を作る。そして風呂に入って、ニュースでも見ながら探偵業の仕事のメールを返してベッドに潜る。そんな一日を送る予定だったのに、とぼうっと流れていく雲を追う。
幻かと思った。一ヶ月経ったこのごろようやく気持ちの整理ができ始めていたというのに。ひと夏ならぬひと春の思い出の君。そんな彼女が目の前に現れるなんて、まったく想像もしていなかった。しかも昨日も明日も俺はここには来ない。これが神さまのいたずらというやつなのか。

「国テロ対策とは、盲点だったな・・・」

あそこは警察庁の管轄とはいえ、その仕事の内容柄かなり特殊な部署だ。細かい班分けがなされていて、その組織形態は警察庁の中でも知る人間が少ない。その上局長自らが指揮する特殊部隊もいくつかあるというのだから、そこに籍を置く者の情報が得られないというのにも納得がいく。

「・・・!」

ギィ、と油の足りない音がした。彼女がやってきたのだ、と後ろを向く。一ヶ月前に会ったあの時の姿とは違い、スーツを身にまとっている彼女は幾分大人びて見えた。風にさらわれた髪を耳にかけながら、ヒールを鳴らして歩いてくる。やっぱり一本の線上を歩くような歩き方だ。そうして俺の隣に来ると、柵を背もたれにする自分とは反対に、彼女は腕でもたれ掛かった。視線は外の景色に投げかけられている。翳りゆく町の全てを吸い込んだ彼女の瞳。浮上する憧憬と色彩。

「本当の名前は?」
です」

知りたくて知りたくて仕方なかったその名前。耳に馴染みのいいそれがリフレインする。

「あなたは?」
「降谷零だ」
「ふるや、れいさん」

物憂げな瞳がこちらを向き、ゆっくりと俺の名を繰り返す。それからまた彼女は遠くの方を眺めていた。何を考えているのだろう。自分たちの間を隔たるものは何も無く、人っ子一人も入れないスペースなのに、その距離はひどく遠い。

「ようやく気持ちに整理がつきそうだったのに、打ち砕かれてしまったよ」

たった三日間顔を合わせただけで、心の中の色んなものを奪われてしまったとは認めたくなかった。ベルモットに疑念を抱かれてまで、あの夜ホテルに彼女を追いかけに行ってしまったなんて。国を守るために今この道を進んでいるのに、ばかばかしいにもほどがある。でも、もう巻き戻せはしない。がっしりと、掴まれてしまったのだから。

「どうして、そんなことを言うんですか」
「どうして?君のせいじゃないか」
「私の、せい?」

そうだ。君のせいだ。調子を狂わせておいて知らないなんて卑怯じゃないか。いやだな俺は、こんなにもあけすけな性格だったのか。惹かれたのも、調子を狂わされたのも、心を奪われたもの、全部自分のせいだ。それなのに君のせいじゃないかだなんて、なんて最低な男なんだ。

「・・・すまない。忘れてくれ」

彼女の柵の手摺を掴む手に、力が込められていた。それを横目でちらりと一瞥すると、こちらを向いた彼女の瞳とかち合った。

「・・・あなたのことを信じてみたいのに、どうしたらいいか、わからなくなる」
「冷静な頭で判断することが大事だ」
「・・・俺を信じろって言わないんですか?」
「言ってどうする。それで信じるのか君は」

腹を割って話さないか、などと言ってはみたものの、彼女がここにいるとなれば、自分からしたらもう意味のないことだった。彼女は連邦警察のスパイでもないし、イーゲルの内通者でもない。公安側だ。
警察庁に大学生が入るためには公務員一種が必要だ。それに加えて東都大学法学部を出ていればなおさらそのチャンスは広がる。交換留学で一年行った程度で、いきなり現地の警察でやっていけるほどの語学力は身につかないとなれば、おそらく彼女はもう一年ドイツにいたはずだ。それで帰ってきて公務員試験を受けてここに入庁した。そこから警察大学校と交番か県警勤務でも受けて国テロに配属されたならば、ムッターヴェルトラウトの店で彼女が言っていたのとピッタリ時期が合う。そしてドイツで初めてできた友人と思われるクラウスはおそらく彼女同様イーゲルの潜入捜査官だった。でなければ中央駅でルディと交わした「もう少しですね」「ああ」のやりとりが成り立たないからだ。きっと彼の死の真相を追うために彼女は警察官になったのだろう。そしてそこに日本警察も絡んでいたというわけだ。ルディが連邦警察だとすると、じゃあイーゲルのボスとは誰なのかが謎だったが、よくよく考えてみれば愚問だった。彼女がボスと懇意で且つ取引も任されるような人間だったならば、武器を生成する工場を知らない筈がないのだから。

「私、奪う側の人間なんだなってハっとして、でも、ハっとしてただけでした。でもあなたは言いましたよね。自分の醜い部分を見つめて己の生と向き合うことは、とても清らかだと。僕は僕なりのやり方で、欺瞞と醜悪に満ちた世の中に牙を向きたいと」
「・・・ああ」
「守りたい人たちのためなら手段も問わないし、嘘つきと言われてもいいと、強い信念を感じました」
「・・・そうか」
「あなたから紡がれる言葉があまりにも綺麗で、だからわたし・・・立場は違えど信じてみたいと思ったんです、あなたのことも、あなたが信じてるものも」

おしゃべりが過ぎたと反省した言葉ばかりを拾う彼女が憎らしかった。今思い出しても浅はかな台詞たち。本心だから余計に聞いてられないのに、まっすぐな瞳でこちらを見つめられるのだから、呼吸をするたびに喉が少し痛くなる。その視線から逃げたくて、そっと空を仰ぎ見ると、先ほどよりも赤みが増していた。

(逢う魔が時に飲み込まれてはいないか?)

ただ夜が顔を出して飲まれそうになっただけじゃないのか。日本じゃないところで、偽名しか知らない謎多き女性に出会って、同郷だからという親近感から自分で転がってしまったんじゃないのか。実はこれが夢で、目が覚めたら彼女は水の泡になって消えていたらどうなるだろう。整理のつきかけていた気持ちが終わるだけじゃないのか。冷静な頭で考えないといけないのは自分の方だ。

「それに、あなたは笑ってさらっと言ってのけたけど、きっとそれだけつらい思いをしてきたから、だからいつも優しく笑っていたのかなって、そう思ったら、もっと、あなたのことを、知りたくなりました」

落ち着かないと、と思った瞬間にこれだ。ぐさりと鋭利な刃物で突き刺してくる。夕日に重なる彼女は眩しかった。風に髪がふんわりと揺れていく。

(どうして、そういうずるいことを言うんだ)

困った。非常に。前だけを向いて生きていくつもりだった。そう決めていた。一度でも立ち止まってしまったなら、きっと前に進めなくなりそうで、怖かったから。

(怖いって、なんだろう)

怖いこと、それは―…。
悲しむこと、夢を失うこと、狼狽すること、打ちひしがれること、孤独に締め付けられること、涙を流すこと、落ち込むこと、めげること、揺らいでしまうこと、萎れること、滅入ってしまうこと、不安を抱えてしまうこと、望みを絶ってしまうこと、挫けてしまうこと、項垂れてしまうこと、色を忘れてしまうこと、そして、大切な人たちを失うこと。

(でも、君の傍でなら、乗り越えられそうな気がしたんだ)

たった少しの時間しか一緒にいなかったのに、そんなことを思ってしまうなんて、ばかげていると笑うだろうか。

「・・・!」

左腕に違和感を覚えて視線を落とすと、距離を詰めた彼女が俺の袖を引っ張っていた。泣きそうな声音とは裏腹に、その瞳は揺るぎない。

「だから教えてください。あの時、あなたは警察が来ることを知っていましたか?」
「・・・ブルーシートから垂れ下がる君の力の無い腕を見た時、何が起きたのか分からなかったよ」
「それは、つまり・・・」
「ああ、知らなかったさ。知っていたら、どうにかしてでも止めていただろうからな」

彼女の瞳孔が小さくなった。かと思うと次の瞬間へなへなとしゃがみこんで「よかったあ」と気の抜けた声をあげていた。彼女にとってこの質問が何を意味していたのかは俺にもよく理解できることだった。だからどうかこの言葉を信じてほしい。言葉なんていくらでも飾ることのできる道具だけれど、それでも今は信じてほしい。
しゃがみこんで、彼女の頭を撫でるとすぐさま彼女が顔を上げた。あの夜と一緒で目を潤ませて情けない犬みたいな表情だ。気重な雰囲気が一気に崩れてしまった気がして、思わずふふ、と笑ってしまうと、「笑い事じゃないですよ」とこれまたひ弱な声が返ってきた。

「・・・それで?俺への疑いはどうなんだ」
「完全には晴れてないです」
「晴れてないのか」

なんだったんだ今の安心の仕方は、とツッコミたくなったが結論を出すのは彼女自身だ。これ以上自分にはどうしようもない。

「でも」
「でも?」
「もしあなたが二重スパイだったら」
「だったら?」

スカートをぎゅっと握り締めていた彼女の右手が外されると、それがゆっくりと俺の体に伸ばされる。その指が動きながら拳銃の形になって、心臓の辺りにトンと当たった。

「私があなたを捕まえます」
「・・・ッ」

射抜かれた、気がした。
それだけにとどまらず、小さな声で「バン」と続き、「へへへ」と笑っているではないか。

(奪われる、なにもかも)

夕日の橙も、たなびく雲も、髪をそよがす風も、建物の陰も、何もかもが遮断される。視界にいるのはただ一人、腰が抜けてふやけた顔で笑うスーツ姿の彼女だけ。

「・・・まったく、変わらないな君は」

適わない、と自嘲気味に息が漏れる。

「・・・それに、奪う側じゃないさ。理不尽な力を好き勝手振りかざしているわけじゃない。君のその行いで救われた人たちがいるんだ。奪ってなんかないだろ」
「へ・・・?」
「ルディというのはクラウスの上司だったんだろう?その彼やクラウスの彼女の無念を晴らしたじゃないか。復讐なんかじゃなくて、弔い合戦だよ、それは」
「え・・・なんで降谷さんがそのことを?」
「君が警察だと分かれば盗聴器の情報から分かることだよ」
「こわあ・・・」

恐れから彼女の眉がぴくりと動く。それでも今回は色んなものに邪魔されてすぐに正解にたどり着けなかった方だ。色んなもの、なんてその大半が目の前にいる彼女だけれど。詳細は捜査資料を閲覧できるのが一番だが見れないとを彼女に伝えると、まだ全て解決していないから連邦警察から許可が下りていないと言われてしまった。イーゲルのボスが州知事というニュースは手にしていたが、人物が人物なだけにまだ色々と明かせないことがあるのだろう。

「・・・ん?」
「降谷さん?」

はたと動きが止まる。首を傾げて見てくる彼女。脳裏に浮かび上がる一つの疑問。ニュースや新聞、ネットニュースなどありとあらゆる媒体物からあの時のことを探っていたが、そのどれもがイーゲルのボスのことばかりで、ナンバーツーら逮捕時のことではなかった。確かに事件直後に出たものの中の幾つかにはやオリバーに関する記述が残っていたが、そこに書いてあったのは両者共に「イーゲルの構成員」として軽く触れられていただけで、それにはおそらく連邦警察や情報局の手回しがされているからだろうとスルーしていたが、よくよく考えてみればおかしい。ミュンヘン空港で見たニュースは事件から一時間か二時間後もので新しいから「同じく仲間と思われる」という表現は正しい。しかしオリバーが持っていたデータには架空の組織と偽の名前のリストなどが入っていた。オリバーがイーゲルのメンバーではないことは調べればすぐに分かるはずだ。なのに何故オリバーはイーゲルのメンバーとみなされていたのか。
州警察と連邦警察。犯罪組織への潜入という点から見て彼女は明らかに連邦警察の所属だったに違いない。だからこそ「全てが解決していない」とか「連邦警察から許可が下りていない」という情報を手にしているのだ。となると取引現場にはもともと連邦警察が乗り込む予定だったはずだ。イーゲルの取引相手が黒の組織の人間ということも分かっていただろう。地元警察を呼んだのがベルモットとはいえ、あの状況で情報源となるオリバーを連邦警察がみすみす逃すだろうか?現にこうして彼女は生きているし、それにいくら地元警察といってもいきなりその場にいた者を射殺するだろうか?連続殺人犯だとか強盗班ならまだしも、国家の安寧を揺るがすような犯罪取引をしているかもしれない者たちを、いきなり射殺するなんて、下手したら連邦警察から何を言われるか分かったものではない。となると―…。

(オリバーの死も捏造・・・?)

もしオリバーが生きているとするならば、彼がイーゲルのメンバーと見なされた理由は明白だ。連邦警察や情報局が、彼が黒の組織の一員であることを隠すため。末端とはいえ構成員が生きていると知ったならば、黒の組織とてその始末に出向いてくる。彼から組織に関する情報を根掘り葉掘り聞くためには、彼の安全が最優先だ。黒の組織にオリバーが死んだと思わせないといけない。だが厳密に組織を欺こうとするならば、架空の組織団体の名前を何故報じないのだろう。

(報じる必要がないから・・・?)

報じる必要がない、すなわち死んだという事実だけが必要で、彼の安全は確保されているということか?

(まてよ、なんであの時オリバーは距離を取ろうとしたんだ?)

中央駅でのルディとの会話の内容をオリバーに聞いた時、彼は「俺たちとは直接関係がなかった」と内容を話す前に一呼吸置いていた。前日のドミニクと彼女の会話では躊躇うことなく内容を伝えてきたのに(ごまかしても無駄だと念押しはしたけれど)。それはつまり、俺に聞かせたくなかったのではないだろうか。ルディとの関係を。なぜなら彼は知っていたから。彼らがどういう立場にあるのかを。とすればもしかして、彼は―…。

「オリバーも潜入捜査官・・・?」
「どういうことですか?」
「それぐらいは教えてくれ、万が一の際に彼の命を守る根回しぐらいはできる」
「・・・オリバーは死にましたよ」

「は」の部分に僅かに力が篭っていた。なるほど。彼は死んだのか。確かに彼女は嘘は言っていない。あの時の情報をそのままに俺に伝えているだけだ。

「オリバー“は”死んだのか、そうか」

ほっと胸を撫で下ろす目の前で、「降谷さん怖すぎ・・・」と彼女が嘆息を漏らす。これでオリバーが死んだら俺は黒というわけだが、安心して良い、その心配が現実になる日は来ないのだから。

「・・・力を貸してほしい。あの組織を狩るために」
「私にも、潜入しろと?」
「いや、そんな危険なことはさせない」

危険に巻き込みたくはないが、組織の存在を知っている彼女が手助けをしてくれたなら、正直ものすごく助かる。それにもしベルモットがどこかで捜査中の彼女に出会ってしまったら。興味を持たないとも言い切れない。それが深読みだったとしても、何かあった時のために彼女を目に付くところには置いておきたい。

「なにをしたら良いですか」
「サポートとか、いろいろ、だ。多少なりとも情報を知っているから話も早い。人事に君が警備企画課に異動するようかけ合ってみよう」
「それなら、局長にお話してみてます、事情を説明すれば異動しなくてもある程度融通が利くかと・・・世界的なグループだというなら、情報の間口は広い方が良いですからね」
「あの人と顔見知りなのか?」
「そうですね、その話はおいおい」

なるほど。自分の知らないところで、何やら色んな人間が動いていたらしい。だとしても最低限情報共有ができるぐらいにはなってほしいものだとも思う。もちろん場合によっては、局長ですら知りえない工作員もいるというし、なかなか厳しい世界ではあるが、あの取引で集まった自分とオリバーとが実は全員潜入捜査官でした、だなんて余計な腹の探り合いにも程がある。オリバーの所属がどこかは分からないが、少なくともとは同じ警察庁だった訳だから、色々策も打てるというのに。

(まあ、終わりよければ全てよしというか)

彼女も彼も生きている。無駄な死者は出なかったし、ベルモットも彼らが死んでいると思っている訳だし。偶然とはいえ上手く収まって良かったに越したことはない。大の大人がしゃがみこんで(というかもう座り込んでいる)話をするものでもない、と立ち上がって「ほら」と彼女にも手を差し出すと、「あ、はい」と握り返された。そうして彼女もすっくと腰を上げて膝をはたいて、今度は二人で景色を眺める。頬杖をつく彼女の顔からは、屋上に来た時に感じた翳りが消えていた。風に気持ちよさそうに当たっている。
いくばくかの時間瞳を閉じたのちに、「でも」と声が上がった。なんだろう。顔をかしげると、彼女は遠くの方を眺めながら言葉を紡いだ。

「あの時ちょっと困ったのは、バーボンがいたことです」
「俺?」
「それなりに裏の社会の人たちを見てきたつもりでしたけど、バーボンみたいな人、初めてでした。お土産を持ってきてくれたり、物腰穏やかに優しく話してくれたり、私のこと助けてくれたり・・・。私、ただ友達の仇を取りたくて、しかもその仇は殺人の動機も人間性も最悪なので、だから迷わずに前だけ見れたんだと思います。でももし、追ってる相手が、たとえ演技だったとしてもですよ?あなたみたいな人だったら、って思うと・・・」

切なそうに。悲しそうに。別れを告げる陽の橙がそれを助長させた。そして彼女はこちらを向いて困ったように「これがハニトラってやつですよねえ、不勉強でした」と言って笑ってみせた。鼓膜を揺らす彼女の声。なんだかとても悪いことをしてしまったと思った。むしろハニートラップだったほうが良かったのではと思えるほどに。違った、違ったんだよ、あの時の俺は、割と素だったんだよ。自分でも驚くぐらいに。ハニートラップっていうのはもっとこう、狡猾的な騙し合いなんだ。気障な台詞もいくらだって言えるし、ボディタッチなんかも簡単にできる。所作の色んな所に性を匂わせて、押したり引いたりしながら、ノーがイエスに変わる瞬間をチーターのように狙うんだ。

「・・・そっくりそのまま返すよ」
「え?」
「へへへってへなへなした顔で笑うし、全力で塔に上ってぜーはー息切らしたり、心の底からレタス太郎喜んだり、そのくせ急に大人の顔して盗聴器壊したり心の内を見せなくなったり、なのにリースが可愛いだの蜂蜜は潤うだのピアスが可愛いだの騒いだりこんな世界にいておきながら穴を開けるのが怖いとか言ったり公園で子供みたいに靴脱ぎ散らかしたり人の髪の毛犬みたいって言って触ったり」
「え、あ、ふ、降谷さん?」

気付いたらもう言葉が止まらなくて、息を吸うことも忘れてまくし立てていた。圧倒するような(実際は前のめりで彼女に詰め寄っていたのだが)俺の姿勢に、彼女は頬杖をつくことをやめて、ぴんと背筋を逸らしている。傍から見たら説教の図だ。

「かと思えば切なそうによだかについて話すし、それでまたドキドキしそうになるとか煽ってきたり耳を真っ赤にしたり死にそうみたいな話になったり絆されそうとか言ってふにゃふにゃした顔したくせにその夜には血だらけの服で出てくるし・・・、何を考えているんだほんと」
「えっと、その、はい、そう、ですね」
「頼むから心を掻き乱すのはやめてくれ、ない、っ」

しまった。余計なことを言ったと瞬時に口を噤む。彼女の言動の一つ一つに惑わされてたなんて、告白以外の何物でもない。いやもうすでにキスは済ませた仲だけれど。後先なんて考えずに感情のままにでた言葉が憎らしい。どんなに殺しても殺しきれない人間の感情が憎らしい。

「・・・っ」

同じように黙ってしまった彼女の頬は紅に染まっていた。決して夕日のせいにはできないほどに赤くなっている。くそ。かわいい。だから困る。明らかに動揺した視線があちこちに泳いでいて、口をわなわなと震わせて、ただの女の子にしか見えない。ほんとに彼女はドミニクを撃った(殺したかはまだ分からないけど)のか?

「・・・あ、あの、そんなに、見ないでくだ、さい」
「・・・ドキドキしそうになるのか?」
「う、あ、その」
「・・・あの時と一緒だ、君は本当に、変わらない」

しそう、じゃなくてしてほしい。し損になんてさせないから。
一歩、踏み出した。カツ、と革靴が鳴る。またカツ、と今度は少し高い音がした。一歩後ろに引いた彼女のヒールからだ。だからまたその距離を詰めると、また広げられてしまう。「ふ、ふるやさん?」と情けない声を上げる彼女にお構いなしで何回かそれを続けると、もう彼女に逃げ場はない。背中が壁に触れたことにハっとした彼女が、肩を竦ませて俺を見上げてきた。不安を孕んだ双眸にぞくぞくする。

「・・・キス、したい」

意図的に声をワントーン下げて、ウサギはお前だよ、みたいな目で見てやれば、もう耳までしっかり真っ赤になっている。

「バ、バーボンだけじゃなくて、降谷さんも、心臓に悪すぎる・・・っハニトラかましすぎじゃないですかあぁ」
「あのな、ハニトラだと思っているのか君は」

壁に肘をついて、顔を覗き込むように吐息が感じられるところまで間隔を詰める。もうあと何センチもない。揺れる瞳、震える呼吸。体の内側からあふれ出す欲望。空いてるもう片方の手でそっと頬に触れると、彼女は体をびくん、とさせた。



初めて口にした彼女の名前。かわいい。耳に馴染む。胸に刻みたい。ずっと知りたかった。君のことを。ゆっくりと、ゼロに近付いていく。顔の産毛がぞくぞくするのを感じながら、瞳を閉じる。あの時の柔らかさが、もう今ここに。

「・・・ん?」

なんだこれ。かたい。唇にしてはかたすぎる。
おそるおそる瞼を上げると、彼女の手のひらにブロックされているではないか。

「だ、だめ、です」
「どうして」
「だ、だって、お互い、名前しか、知らないですし、」
「あの時のキスはなんだったんだ」
「そ、それは、わ、若気の至り?」
「はあ?」
「だから、その、上司と、部下から、お願いしたいです」

ピクリと眉が動く。「解せぬ」みたいな顔をした俺に、彼女があからさまに視線を逸らす。じりじりと沸きあがった熱のやり場のなさ。彼女の潤んだ瞳を見つめて、壁についた拳にグっとさらに力を込めて、自分の理性と戦った。本当は抱きしめて息継ぎもさせないぐらいに口付けたい。だってまだ片手は彼女の頬に添えたままだ。あんなにねっとり濃厚なキスをし合ったくせに、なにを今さら初心みたいな顔して、なんて普通に思ってしまうところが男が男たる所以なのかもしれない。そこまで思い至ったところで頭が冷えてきた。はあ、とため息をついて彼女を解放した。距離が開いて自分が作っていた影がなくなって、より鮮明に表情が窺える。

(生きていてくれた。ほんとうは、それだけで、もう)

大事な気持ちばかりを失って、心を休めることを忘れていた。茨の道の中に突如差し込んだ光の優しさに、そう、彼女の優しさと笑顔にまた出逢いたいと思っただけなのだ。そんな彼女が、今すぐ近くにいる。それだけで、世界はこんなにもすばらしい。事を急ぎすぎたのは確かだった。とはいえど、見守るだけでは足りないのもまた確か。

「恋愛初心者でもないだろうに・・・、まあいい、すぐに超えてみせるさそんなの」
「うう、そうなった時は、ちゃんと受け入れ、ます」
「ほう?よしよし、物分りの良い子は嫌いじゃない」
「うっ犬みたいに言わないでください」
「鳴いてみるか?」
「鳴きません!せいぜい噛みつかれないように!」
(・・・犬って認めるのか)

空の色には浅紫が混じり出していて、どこまでも遠くまで見渡せそうな澄んだ空気が辺りを包んでいた。祈りにも似た鳥の歌声が、俺たちを撫で去る風に乗って揺らいでいく。
おかしくて、二人してくすくすと笑いながら歩き出した。大丈夫、きっともう大丈夫。置いてきた時の狭間の思い出を、今なら一つ一つ辿っていける。それらを掬い上げたならば、明日をまた歩いていけると、そう思った。









(降谷さんおなか空きました)
(早速噛み付いてきたな)
(お寿司の気分です)
(・・・割り勘だぞ。給料日前だ)









(2017.6.14)               CLOSE