「意外と普通な顔でがっかりだわ」
「何を期待していたんですか?あなたは」
「普段飄々としてるあなたの感傷に浸る姿とか、かしらね。あの子死んじゃったみたいだし」
「ふふ、彼女がどうなろうが僕には関係ないですし、顔を見られている手前死んでくれたほうが好都合ですよ」

搭乗ロビーで彼らが飛行機を待っている中、テレビ―この時画面は丁度BBCだった―の速報で流れたのは、先ほどの取引のことだった。現場に押しかけたのが地元警察だとしても、この手の犯罪組織は日本で言う公安にその権限が移行されてしまうことから、連邦警察から速報だけに留め、公にニュースを流すなとお達しがあったのだろう。「ドイツ国内で犯罪組織に加担していたドイツ人男性が警察に身柄を拘束され、同じく仲間と思われるロシア人男性と日本人女性が現場で射殺されたと連邦警察が発表」の簡素な白抜き文字だけが右から左へと走っていった後は、特にこの件に触れられることもなく、格差社会についての討論番組が始まっていた。
切り替わった画面を神妙な顔で眺めながら、バーボンは困ったようなため息を吐いて言った。

「それにしても、情報は全て事前に知らせてほしいものですよ」
「悪かったわね、私にも色々考えることがあったのよ」
「色々?」
「ジンの言うことが正しいのかとか、まあ色々よ」

ふふ、と笑ってベルモットが席を立ったので、バーボンがどこへ行くのかと尋ねれば、「トイレよ」と返ってくる。彼は前を通り過ぎる彼女を視線だけで追った。彼女が揺れる髪の毛を掻きあげると、ほんのりと香水のフルーティな香りが舞った。
色々としてやられた気がしなくもない、と残されたバーボンが嘆息を漏らす。ちらりと普段使いの方の携帯に目をやると、風見から連絡が来ていることに気が付いた。着信とメールが一件ずつ。おそらく電話に出なかったからメールに切り替えたのだろう。パスワードを入力してメールを開くと、頼んでいた件の返事が書かれていた。その一文一文にすばやく目を通して、添付されたファイルを開く。同じようにスクロールしながら必要な情報を拾うと、ベルモットが戻る前には携帯は鞄の奥底に押しやられていた。

(・・・あと一つ、何かがあれば)

風見から来たメールには、国外の情報となるとクラウスについて調査をするには長い時間を要する、とあった。添付されていたのは、東京の大学からドイツ留学へ行った者のリストだったが、表向きには口にすることのできない手段故にこちらはすぐに準備できたのだろう。大抵留学生というのは学生証からパスポートなどの身辺情報のコピーを大学に提出していて、それは一定年数保管されるようになっている。警察庁などのセキュリティと違って、大学のそれを破るのに大した労力は必要ないという訳だ。風見は東京だけではなく関東の大学まで調べ上げていて、さすがは優秀な部下だ、と降谷の顔を浮かべたバーボンの口角が上がる。
しかしそのリストの中にの顔写真はなかった。見誤ったのだろうか、とバーボンは思った。それかベルモットの記憶が曖昧だったのだろうかとも思われたが、関東全域まで範囲を広げたとなると、的を外しすぎたというのは認めたくないものがあった。むしろ、そのリストに彼女がいないことこそが逆に怪しいと疑うべきではないのか、と。

(決定付けるにはまだ不十分、か)

彼女について導き出した推理が二つあった。彼女がボスの女か、潜入捜査官かという二つの線だ。
もし彼女がボス側の人間というポジションであるならば、クラウスはボスの直属の部下だった可能性がある。その彼がドミニクに始末されたという疑いから、今回彼女に秘密裏にドミニクの監視が命じられ、その猜疑が確信に変わったらば始末しようという目論見だった。そしてあのルディという男がイーゲルのボスなのだろう。クラウスがボスのお気に入りだったなら、トップ自らが出てくるのはなんらおかしな話ではないからだ。そう考えればがドミニクに「ボスに言う」とか「何かあれば情報がボスに流れる」と言うのも頷ける。昨晩彼女を助けた時も、ドミニクの手下と思われる男は「ボスの女だからって容赦しない」と言っていた。おそらく実際はクラウス同様、ボスからの信頼を得ている女構成員というのが正しいだろう。普通恋人だか愛人だかを自分の傍に置いておかずに、取引に一人向かわせるなんてことはしないからだ。
しかし疑問も残る。なぜ彼女はトイレにいたのか。服に飛び散る血痕を指摘した時彼女は「服忘れてました」と言った。それは彼女があのトイレの中で、肌に付着した血を洗い流していたということだ。裏口には警察の車も来ていたとオリバーは言っていたし、身の安全を考えるならば、自室に戻って洗い流した方が絶対に良いはずなのに、どうして悠長にわざわざバーのあるあのフロアにいたのか。
そこで浮かんだのがもう一つの可能性、彼女が警察官かもしれないということだ。見つかることに対する恐怖がないとすれば、それは大いにありうること。その観点からすればクラウスは潜入捜査官であり、それがばれたか何かで殺されてしまった。ドイツで初めてできた友達と彼女が言っていたことから、クラウスとは私的な関係だったのだ。それに彼女が警察官ならば、ルディとの会話で出てきた日本という言葉にも納得がいく。どの国も警察官になるためには、その国の国籍を有していなければならない。だから彼女はドイツの警察官ではなくて日本の警察官だ。となれば所属は警視庁の公安部か自分と同じく警察庁の人間かまで絞られる。風見から渡されたデータに彼女の情報がないのは潜入のために、警察になる前の情報を可能な限り消し去ったからだ。
だが同じようにこの推理にもまだ謎が残る。彼女が警察だというならルディも警察ということになる。となるとイーゲルのボスは誰だ?「私に傷がついた時のボスは怖い」と言ったり、ボスに情報が流れるように仕込んだり、そこからボスへのただならぬ信頼と忠誠心のようなものも読み取れる。彼女が警察でボスまでたどり着いたというのなら、イーゲルが組織ごと検挙されない筈がないのだから、こうしてナンバーツーだとかドミニクだとかを一々しょっ引く必要もなかろうに。
それに彼女が組織の人間だったとして、組織の中枢に入り込むような人間が、それ以前の自分の情報を残すとも考えづらい。彼女のデータがないからといって、彼女を警察関係者だと決め付けるにはまだ早いのだ。

(決定的な何かが足りない)

あと何か一つピースがあれば、そのどちらかが分かるはずなのに―…。
警察か、はたまた裏の社会の人間か。たとえ彼女がもうこの世にいなかったのだとしても、明らかにできるものならそうしたい。

(まあ、そもそもイーゲルにはアジア支部もあるというし、日本人が絡んでいたとなれば警察庁に少しは情報が入るだろう)

トイレからベルモットが戻ってくると、丁度搭乗開始のアナウンスが流れた。彼女は「グッドタイミングね」と言いながら搭乗券を手にスタスタと行ってしまう。この距離感はバーボンにとっては非常に都合が良かった。パスポートや搭乗券を提示する際など横にいられたら、その正体故にたまったものではないからだ。穴があるのはお互いといったところで、彼女も見られたくないものがあるのだろう、とバーボンは思った。

「ようこそ、素敵なフライトを」

機内に一歩足を踏み入れると、客室乗務員の笑顔がバーボンに向けられた。暗い室内でも血色が良く見えるように、と濃い化粧を施した瞳がにこりと弓なりになっている。

(・・・春風みたいだった)

脳裏に焼きつく彼女の微笑み。美味しいと食事を頬張り、幸せそうに目を瞑るあの表情。彼女が笑みを浮かべるその一瞬一瞬に、波打ち際の水しぶきのようなきらめきが舞っていた。怖いぐらいに攫われてしまった。心の中を。花が芽吹くように優しく、夜空を照らす星々のように光り輝いて、枯れた大地を潤すようなみずみずしさが、細胞の隅から隅へと染み渡り、その世界に羽根を下ろす彼女はとても眩かった。恋は人を詩人にするとどこかの誰かが言っていた。まあ、恋と呼ぶにはあまりに短すぎたけれど、とバーボンは自嘲気味に鼻を鳴らして座席に着く。
窓際三列のうち、窓際と中央の席を予約していたが、乗客が全員搭乗しても通路側に人が来なかった。機内を見渡しても大して人が乗っていないことから、ベルモットが中央の席から通路側へと位置をずらす。お互いこの方が開放感があって良かったのだろう。そのあとすぐにエンジン音が一際大きな音を立てた。
バーボンは窓から外の様子を眺めた。重たげな黒に浮かぶ空港の灯りが眩しく映る。建物のガラスの奥に見えるのは、深夜近くとは言えども空港の中を行き来する沢山の人々の姿だった。これから仕事のために飛ぶのだろうスーツ姿の者もいれば、旅行をするのだろう恋人同士で手を繋いで歩いている者もいる。また違う方向からは家族連れがやってきて、大きなスーツケースに満面の笑みを浮かべている。それぞれが、それぞれの目的を持って思い思いに時を過ごしていた。そうした客も、この機内にいる客たちも、バーボンやベルモットが犯罪組織の人間だとは露とも知らないのだろう。だがそれでいい。人々の中に溶け込んで、日常に帰っていく。ただそれだけのことだ。

(・・・)

ベルモットが、物思いに耽るように窓の外に夢中になっている連れの方に顔を向けた。どこに焦点があるのか分からないような顔を彼がしていたものだから、彼女もつい神妙な色を浮かべる。だが彼女の視線に気が付きすぐさま振り返ったバーボンのそれは、飄々としたいつものそれだった。

「どうかしましたか?」

飛行機が滑走路に向かってゆっくりと走り出す。青や赤、橙に緑の誘導灯がぽつりぽつりと通り過ぎて行った。きっとこの時分に着陸する飛行機からならば、イルミネーションのように飾られた滑走路の、とても綺麗な景色を見ることができるのだろう。

「あの死んだガイドの子、顔ぐらい見ておけば良かったかしらって思って」
「どこにでもいそうな女の子でしたよ、表参道のパンケーキ屋に何時間も並びそうなね」
「ふうん、冷たいのね」
「同じですよ、あなたがオリバーに興味がないのと」
「オリバーって?」
「ほらね。イーゲルのデータをあなたに送って死んだ彼ですよ」
「ああ、彼そんな名前だったかしら」

変わらない。この若者の顔はドイツに来る前と全く変わらない。飄々と笑顔を浮かべていつものような声で会話をしている。もしも人生少しだけ螺子を巻き戻せるなら俳優になるのも良いんじゃない、とベルモットはそんなことを思った。
ある存在者に関わること。なにかを与したいというそんな感情が呼び起こされる時。その感情というのは友情や恋愛の根源で、それは時にとても偉大な力になる。どんなに世界を打ちたてようと、さらなる先へと向かう心は満たされない。そういう精神がふと満たされるのが愛だ。でももしその愛が過ぎ去ってしまったのなら、それは捨ててしまわなければならないもの。過去の思い出や記憶は人を死や消滅へといざなっていくのだから。

(あなたみたいな人をも変えうるキーなのかと思ったけど)

死んでしまった者はどう足掻いたって生き返りはしない。だから彼の道は戻されてしまった。拍子、ベルモットの口角が上がる。ほらね、神様なんていないのよ。いるなら倒れたあの子を助けるんだから、と。

「日本に帰ったあとはどうするんですか?」
「そうね、一、二ヶ月女優業に戻って、そのあとはニューヨークに行く予定よ。知り合いの女優のために舞台のチケットを取ったの。『GOLDEN APPLE』っていうね」
「それはそれは。また表舞台にひょっこり顔を出すってわけですね」
「あなたはどうするの?」
「僕はまた探偵業に戻りますよ、こう見えて依頼はコンスタントに入ってくるのでね」
「あらそ、どうせストーカーとか浮気調査でしょ。ま、しばらくはお別れね」









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