頗る調子が悪い。はあ、とため息を吐きながら、バーボンは廃ビルの錆だらけの階段を上っていた。喋りが少し過ぎる癖を直さなければ、重大なミスを犯してしまうと分かっているのに、またやってしまった。隠していることが明るみになるかならないかの瀬戸際を楽しんででもいるのだろうかと思ってしまうぐらいに、昨日の夜は失態を犯してしまった。過信はいつだって良くないものなのに。

(キスなんかするつもり、なかった)

今も唇に残るリアルな感触。形容し難い気持ちの良さ。ああやって押し倒しておきながら、キスの一つもする度胸がないと思われるのが嫌だとかいう、滑稽で子供みたいなプライドが邪魔をしたのも大失態だ。それもこれも「当ててみてください」なんて煽る彼女が悪い、とバーボンは再び大きなため息をついた。
屋上に出るとあまり風はなく、木々の揺らめきもほぼない。夕日はまだかろうじで顔を覗かせているが、殆ど落ちかけている。だが視界は良好だ。キャリーバッグからノートパソコンを取り出して、その周りに必要な機器を並べていく。てきぱきと準備に取り掛かりながらも、やはり頭の中にあるのはのことのようで、彼の顔には眉間にいくつも皺が寄せられていた。

(・・・柔らかかった)

自分はこの国に何をしに来たのだろう、とバーボンは自身を責め立てる。脳が感情にだいぶ揺さぶられてしまった。イーゲルの情報を得るとかいう名目を立てて、のことが気になったから、だなんてバレたらどうなることか。彼女が生きようが死のうがこの取引には正直関係ないのに。不成立なら不成立で帰ればいいだけの話なのだから、わざわざホテルに忍び込んだのが馬鹿馬鹿しい。おまけにイーゲルの構成員を殴って、彼女の腕を掴んで逃避行に出たのも馬鹿馬鹿しかった。いや、考えれば今日中央駅まで跡をつけたのが失敗だった。投げ出されたサンダルを直しながら盗聴器なりなんなりつけて、オリバーとゆっくりホテルで聞いていれば良かったのだ。そんなことも思いつかない阿呆さにほとほと呆れてしまう。
それに服に飛び散る血痕に一度は脳が復活したはずだった。音は聞こえなかったが、おそらくサイレンサー付きの銃で彼女がドミニクを撃ったのだ。でなければあの大きさの飛沫痕があの服に付くはずがない。その事実―純真な顔をしているくせに、簡単に人を撃てる人間であったこと―が、自分を元の世界に戻した筈だったのに。なのに何故あんなことをしてしまったのか。いいやその答えは知っている。知っているから腹立たしいのだ。どろりどろりと込み上げてくる、人間の感情の厄介さが。

(ドキドキしそうになる、なんて)

あんなぺらぺらのワンピースドレスを着て無防備なくせに、ライフルでも装備してしてるのかと言いたいぐらいだ。ふざけるのも大概にしてほしい。そして昨日の自分にも言いたい。何が欺瞞と醜悪に満ちた世の中に牙を向きたいだ、と。何を言っているんだ。正体をバラして死にたいのか。

「・・・よし、準備はできた」

じんじんと痛む頭を抱えながら全ての準備を終える。モニターに移る倉庫内部には、同じくノートパソコンを設置したオリバーがいた。コードネームを持たないとは思えないぐらい彼は優秀な男だった。いくつもの外国語を習得していることもそうだし、理系だからだと言ってしまえばそれまでだが、照明から監視カメラから全ての電源出力の操作が非常に早い。バーボンの勝手な行動にも何も言わない物分りの良さ。彼にも迷惑をかけてしまった、とバーボンは思いながら、この後の流れをもう一度脳内で確認する。
まず最初にイーゲルからヘルックと彼らのデータを受け取る。中身をその場で確認して、今度はオリバーがデータを渡す。それをが確認して、何も問題がなければそのまま去るという算段。別段変わっているわけでもない普通の取引だ。その後オリバーが駅付近にいるベルモットと合流し、彼女にデータを渡している間に、バーボンが倉庫内のカメラを回収するが、何か不足の事態が起きたならばカメラに接着させている小型爆弾の起爆スイッチを押す手筈になっている。

「あとはイーゲルを待つだけか」

遠くの空が、もう光を失いかけていた。微かに残る橙が叫ぶ最後の逢魔が時。取引開始まではもうまもなくだ。バーボンの瞳が捉えていたのは、影になってしまって種類の分からない、一匹の鳥だった。きっと巣に帰るのだろう。小さな鳴き声を上げて、ゆらゆらと飛んでいった。その鳥を掴むように彼の腕が伸びる。

(青い鳥、昔読んだっけ)

あれは今とは真逆のクリスマス前夜の話。魔法使いの老婆が二人の兄妹に、孫の病気を治すために青い鳥を見つけてきてほしいと言う。それで兄妹は鳥かごを持って思い出の国で死んだ祖父母に出会い、夜の御殿で病気や戦争に出会い、そして贅沢御殿に行ったり、未来の国に行ったりする。そのそれぞれで兄妹は青い鳥と出会うのに、それぞれを出てしまうと黒い鳥に変わってしまう。その時二人は母親の声で目を覚ます。鳥かごの中に青い羽根が入っているのに気が付いて、幸せの青い鳥が兄妹の飼っている鳩だと気が付く。日々すぐそばにあるものが幸せだと中々気付けないことを、魔法使いの老婆は教えようとしたのだ。

の隣は、心地よかった)

幼い頃に夢見た世界はこんな形だっただろうか。帰る場所の分からない人間になっていただろうか。大事な気持ちばかりを失ってはいないだろうか。立ち止まって、振り返ってみようともしないぐらいに、命の磨り減る毎日の中で生きていたかもしれない。だから突如世界が変わって動揺したのかもしれない。そう思おうともしたけれど、彼女の笑顔ばかりが消えてくれない。彼女の掌の優しさに、もう一度帰ってみたいと、心のどこかが訴えている。

「・・・来たか」

夢の世界に浸るにはまだ早い、とバーボンは双眼鏡でそれぞれの顔を確認した。倉庫の外で待っていたオリバーが、車から降りてきたともう一人を出迎える。あれがナンバーツーとやらか。往年のマフィア映画にでも出てくるような風格。恰幅の良さと爬虫類顔とでも言うのだろうか、オリバーの全身をねめつけるその表情はとても気味が悪い。威圧感という意味では、昨日の夜ホテルに入って来た、あの顔に傷のある男とも似ている。一方彼の一歩手前を歩くは、昨日とは違ってスーツを着込んでいる。彼らはそれぞれ握手を交わすと倉庫の中へと入っていった。モニターに切り替えると、埃っぽい室内の中央で、が小型のジュラルミンケースをダンボールに置いていた。昨晩会った時とは打って変わって、真剣な眼差しで今度はパソコンを開いている。

(・・・あんな顔してるけど、キス、したんだよな)

凛と立って取引に臨んでいるあの彼女と、昨晩キスをした。
間を置かずにバーボンは自嘲気味に鼻で笑う。キス如きでなにをそんなに。セックスしたわけでもあるまいし、と。掌に残る彼女の温もりばかり思い出す自分が情けなく思えた。
いかんいかんと頭を振って彼はモニターに集中する。どうやらナンバーツーが、パソコンで操作をしているオリバーに、何かぶつぶつと身振り手振りを加え話しかけていた。彼は黒の組織に興味を持っているというから、色々聞きたいこともあるのだろう。もちろんオリバーがそう簡単にあれやこれやと話すわけはないが、少し時間を取られそうだ、とバーボンはその間にモニターに移る人間の顔を、次々と携帯のカメラに収めていった。

「・・・ん?」

風だろうか。視界の隅で何かが揺れた気がする、と彼は素早く双眼鏡で倉庫周辺を眺めた。

「なんだ?あれは・・・」

蠢くいくつもの黒い影が倉庫の両端からその頭を出している。取引が始まった時にはいなかった筈だ。イーゲルが手配した部下たちだろうか。しかしなにやら不穏な気配がする、とバーボンはでき得る速さで携帯の通話画面を呼び出した。

「ベルモット、今どこに」
『もう少しでミュンヘンに着くところよ、どうかしたの?』
「取引現場に何か黒い影を見つけましてね」
『黒い影?』
「ええ、イーゲルかヘルックの組織の人間か?・・・あなたは何かご存知で?」

電話越しのベルモットの口角は上がっていた。電車の揺れる音だけが耳に届くその一瞬。それがバーボンにはあまりにも長く感じられて、その胸の中を警鐘が鳴り響く。

『・・・悪いわね、バーボン』

まるで彼女の言葉が合図だったかのように、次の瞬間には蠢く影が一斉に倉庫内へと押し寄せていった。それから数秒もしない内に、何発か銃弾が放たれる音が辺りに轟く。急いでモニターに目を向けると、照明が倒されてしまったようでその中をよく確認することができない。オリバーのパソコンの光だけが無慈悲に光っていて、そこに血が飛んでいることだけは分かったが、それが誰の血なのか分からない。バーボンの背中を一気に悪寒が走り去った。

「・・・警察か、どういうことだベルモット」
『あなたは荷物をまとめて空港に直行してちょうだい』

悪いわね、とベルモットが言ったことから、彼女がリーク源だろうことはすぐに察しが行く。自分には知らされていない何かがあったのだ、という苛立ちと焦燥の波がバーボンの体に押し寄せた。しかしそれを彼女に気取られる訳には行かず、彼はぎりりと奥歯を噛み締めて感情を押し殺す。

「まったく、どうやら僕はあなたに信頼されていないようですね」
『そういう訳じゃないのよ、ただこっちも少し不測の事態が起きたのよ』
「不測の事態?」
『後で話すわ、そうそう、構成員に持たせたデータのことだけど』
「まがい物、あるいは架空の組織かなにかのデータかウィルスってところですかね」
『あら、知っていたの?』
「まあ、あらかた予想は付いていましたよ」
『ふふ、さすがね。さあカメラを壊して早く戻っていらっしゃい』
「それが組織の命令なら」

そうこう話をしている内に、さらに銃声が上がった。音が幾分高く、先ほどの発射音とは違うことが分かる。ということは中の人間の誰かが応戦したのだ。倉庫の外からはまた大勢の黒い影が動いていった。照明がない以上、中の様子をモニターで追うことはできないと判断して、記録媒体の部分に仕掛けた小型爆弾の起爆スイッチを彼は押した。大した爆弾でも無いため小さな煙が上がるぐらいだろう。

とオリバーは・・・!)

彼らはどんな状態なのか。生きているのか。それとも―…。
双眼鏡を手に倉庫周辺の様子を注視する。イーゲルの車はすでに警察に押さえられていて、内部を捜索されている。まるで自分自身が取り押さえられたかのように、体全体が圧迫されている気分だ。浅い呼吸を繰り返し、ただただ目の前を見続けた。たった数分だが、その数分が信じられないほど長く苦しかった。

「・・・!」

まず一人が運ばれていった。ナンバーツーだ。両脇を警官が支え、その周りをまた何人もの警官に包囲されながらパトカーへと連行されている。さすがにあれだけの人数に囲まれては彼も素直に投降するしかないのだろう。
それからまた暫くして一人が出てきた。オリバーだ。彼もまた警察に抱えられるようにして出てきたが、ナンバーツーと違って横向きに抱えられて連れて行かれた。体が動く気配がまったくなく、生きているのか死んでいるのか、その安否は分からない。彼は丁度到着した大型救急車の担架に乗せられていった。
時間を置いて出てきたのはオリバーのパソコンだった。双眼鏡を覗くバーボンの瞳孔が、それを見た瞬間に小さくなっていく。

(どうして彼女が出てこない)

彼の米神を汗が伝う。携帯のバイブレーションでハっと我に戻ると、呼び出し人の名前を確認して応答ボタンを押す。

『まだそこにいるんじゃないでしょうね』
「もうとっくに出ましたよ」
『・・・そう、急いでね』

一方的に切られたあとに残る、無機質な機械音。
もうタイムリミットだ、とパソコンを鞄にしまい立ち上がったその時、彼はもう一度だけ振り返った。丸い大きなレンズの向こうで、倉庫の中からブルーシートに包まれた何かが運ばれていくのが目に入る。その隙間から、細い腕が力なく垂れていた。









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