一体どうしてクラウスは、こんな馬鹿げた男のために命を落さなくてはならなかったんだろう。とても正義感が強くて、とてもお人好しで、誰からも愛されていた、あの彼が、どうしてこんな品の欠片もない奴なんかに。
正直者が馬鹿を見る世界なんて、綺麗じゃないだろって彼はよく言っていたっけ。偽善でも何でも、誰かの笑顔が増えるなら、それもまたいいじゃないかって。自分の身を削って彼は沢山の人を笑顔にしていた。それなのに。どうしてこんな男が平然と生きる世の中があるんだろう。あの優しく笑うクラウスを返してよ。彼女の惚気話を幸せそうにするクラウスを返してよ。

「涙が浮かんでるぞ、悔しいか?」

命は尊いと、偉い誰かが言っていた。優劣はなく等しく生きとし生ける者の命は、尊く守られねばならないものなのだ、と。そんなこと、この男を前にしても言えというのだろうか。汗を垂らして顔を歪めて狂気の笑みに満ちたこの男の命をも、尊いとそのどこかの偉い人は言うんだろうか。

(そんなこと、私にはきっと、言えない)

憎くて憎くて憎らしい男。きっと彼の母は彼を愛している。彼が死んだら悲しむ人がいるということも分かっている。百も承知だ。その上で彼を捕まえたいと思った。その首を狩りたい、ただそれだけを思って今まで生きてきた。警察という立場を使った復讐。善良な市民の平和を守る女性警察官は、本当は誰かの首を狩るために裏の社会に潜り込んで、その時を今か今かと待ちわびているんです。そのために、多くのものを犠牲にしてきたんです。内部調査という名目を借りながら、売買されていく武器を見逃しました。流れていったその武器で、きっと何人もの人が死んだ筈です。犯罪絡みの人間だけじゃないでしょう。きっと何の罪もない人も巻き込まれているでしょう。それでも私はこの世界にい続けました。
だから思うの。信念ってなんなのって。クラウスのことは大好きだけれど、でも私にはまだ見つけられない。もちろん私を助けてくれた人たちや、局長のために働いていきたいとも思う。クラウスがしてきたように、沢山の人たちを守りたいとも思う。でもそれはきっと信念じゃなくて理想だ。だからこの男にケリをつけたら、何か変わるのだろうか。そんなことばかりを思って、生きてきた。

「クラウスはどこ」

この涙を、この男は恐怖からだと思うのか。それならそれでいい。一生分かるはずもないのだから。

「っははは、あいつならな、バラバラにしたあと武器開発の焼却炉で燃やしたよ!骨も残らないぐらいどろどろにして金属と混ぜちまったから、今頃誰かの銃の一部かもしれないがな!」
「・・・彼は最後に何て言っていたの」
「知らないな、後ろから脳天ぶち抜いてやったからな」
「・・・そう」

ああ、全てが終わる。その言葉を待っていた。その自白で、この事件の全てが解決する。嬉しいとか、せいせいするとか、そんな気持ちはどこにもなかった。ただただ虚しいだけ。クラウスの彼女はずっと彼の帰りを待っている。死んだことを受け容れられなくて、今もずっとドアを見つめて待っている。警察に入ってこっちに来てから、一度だけ彼女に会った。今はもう仕事にも復帰していて、端から見れば普通の生活を送っていたけれど、でもその笑顔が無理矢理作られたものだと、クラウスの存在を知る人からしてみれば直ぐに分かることだった。彼女に言われた。今何をしているの。今どこに暮らしているの。何も答えられなかった。大学生としてもう一度勉強しにきたんだよ、としか言えなかった。そしたらそんなの嘘でしょうと言われた。クラウスのこと調べに来たんじゃないのって。決してイエスと言ってはいけない問い。うそつき、と言われた。

「さあ、お別れの時間だ」

ぽろりとひとつぶ。目尻から零れていった。

「・・・祝杯に、付き合ってくれてありがとう」
「何を言ってる?良い子でお寝んねするんだな」

無骨な指が、トリガーにかかった。弾が入っていないことを知っていたから、何も思わなかった。最後まで馬鹿な男。

「なっ・・・?」

何故発射されないのだ、と彼は滑稽な顔で何度もトリガーを引いている。

「一体どういうッ」
「あなたは本当に馬鹿ですね。敵を前に目を瞑るなんて、どこまでも馬鹿」
「黙れこのアバズ、・・・!?」

彼が私に殴り掛かろうとした時、いくつもの金属音がした。何の音だとドミニクは顔を上げて周囲を見て、言葉を失っている。自制の効かない馬鹿は視野も狭いのだと勉強になった。彼はどうやらバーテンダーだけが仲間だと思っていたらしい。でも違う。このバーにいる全員がルディさんの直属の部下たちだ。全方位から銃口を突きつけられたドミニクから、これはなんなんだと嗚咽が漏れている。気が付かなかったのだろうか。バーのフロアにいる人間が、事が起きた時に逃げなかったことに。銃で撃たれた人間がいるというのに、悲鳴もあげずにただ静観している客なんていないだろうに。ああそれか、薬のせいか。呼吸不全と全身への痺れだけじゃなく、視界不良の作用も出ていたのか。使えない銃を捨てたドミニクは、静かに両手を上げた。

「言いましたよね、あとでたっぷり教えてあげますよって」

彼が放り投げた銃に手を伸ばして、さっき撃ち込んでやった箇所をグリップで思い切り殴ってやると、彼は再び咆哮し、バランスを崩して横に臥せるように倒れこんだ。傷口を押さえるようにして呻いている。その姿を立ち上がって横目に見下した。

「安心して、簡単に楽にさせたりなんかしてやらないから」

するとその時、バーの入り口からルディさんがずかずかと大またで入って来た。その瞳は暗い室内からでもはっきりと分かるほどの憤怒に満ちていて、そのギラつきは今にもドミニクを殺しそうな勢いだ。床に蹲る彼を仁王立ちでギロリと睨みつけ、その腕に手錠を嵌める。

「お、お前ら警察なのか」

今初めて気が付いたといった風貌だった。そうか、もしかしたらナンバーツーとかボスとかの差し金かと思っていたのかもしれない。まあ、どちらでも変わりはないような気もするけれど。

「このゲス野郎が!!!!」
「ちょっと、ルディさん」

手錠のチェーンを掴んで、身動きの取れないドミニクの体を無理矢理立たせると、ルディさんは怒りの鉄拳を顔に打ち込んだ。痛そう、あんなの喰らったらほんとに痛そう。でもそんな悠長に眺めていてはいけない。逮捕後の暴力はご法度だ。もう一発いきそうなモーションになったので、慌てて彼の腕を止めにかかる。日々鍛えてムキムキの屈強ドイツ人警察官に私の力が叶うはずもなく、案の定吹き飛ばされてしまった。それをすかさず抱きとめてくれた仲間が「大丈夫か?」と心配してくれたので「ありがとう」と返す。しかしどうやらその間にもう一発入ってしまったらしい。ドミニクの鼻のピアスが明日の方向に飛んでいったものだから、ここにいた全員がきっと「あーあ」と思ったに違いない。まだまだ満足していなさそうなルディさんだったが、流石に周りもこれはいけないと思ったのか、近くの仲間が三人がかりでルディさんを制止にかかる。鼻息荒くドミニクに鋭い眼光を放つ彼は、さながらマフィアのボスだった。




*



仲間たちに連れられて、ドミニクは非常階段の方へ連れて行かれた。小さくなっていく背中が角を曲がって消えていった。これまでの苦労が嘘のように、その光景はものすごくあっさりとしていた。

「殴り足りない」
「あれ以上殴ったらだめです」

とはいえルディさんが一番錘を背負い込んでいたのだから、その心が少しでも軽くなってくれたなら、嬉しく思う。クラウスに潜入捜査を命じた時からきっと苦しんでいただろう。この人も、一人ずっと戦ってきたんだ。出口の見えない迷路を彷徨いながら、ずっとずっと一筋の光だけを追い求めてきた。

「飲み明かそう、と言いたい所だが感傷に浸るのはまだ早い。気を抜かずに乗り切れ」
「はい」
「・・・血が飛んでるぞ」

私の右半身を見るなりルディさんはポケットからハンカチを取り出した。もうかぴかぴに乾いてしまっているのにハンカチなんか、と思っていたら彼はそのハンカチに唾をペッと吐き出した。もしかして、それで私の腕を拭こうとしているのではないか。

「ちょ、ちょちょちょっと、だめですうう!」

すっと身をかわすとルディさんは「解せぬ」という顔をしていた。俺の愛が受け取れないのかと言いたげな表情だったので、「人間誰しも吐き出した唾は臭いです」と言ってそのハンカチを彼の顔に押し付けると、「ウッ」という嗚咽が返ってきた。日本なら上司にこんなこと絶対にできないだろうなと、良くも悪くも本音社会でよかった、と思いながら落ち込んでしまった上司に「お気持ちだけ」と言葉を添える。

「ほらルディさん、早く着いていかないと置いていかれますよ」

もちろんチームリーダを置いて去る部下はいないけれども。明日のスタートが遅い私と違って、多分ルディさんたちはこれから徹夜で事後処理が待っている。少しでも早く終わらせて休んでほしいから、と思い声をかけると、彼は大きなため息をついて立ち上がった。先ほどのおちゃらけた雰囲気とは一変して、ちゃんと上司の目で「ああ、もう行く」と言い、ハグを残して去っていったのだった。

「・・・」

訪れる静寂。バーの内部を清掃し終わった仲間たちも私に手を振って去っていった。もともと逃げられないように足にしか発砲はしないと決めていたから、掃除をする箇所も少しだけだったろう。ドミニクの血を拭き取りグラスを回収するぐらいだ。
それでも誤算だったのは、彼が赤ワインではなくてシュナップスを頼んだことだった。じわじわと苦しむ様を見てやろうと思っていたのに、短時間に二杯も流し込んだからすぐにその時がやってきてしまった。でもそれで良かったのかもしれない。思い出に浸っていては、きっと私もルディさんのように殴っていたはずだから。

「血、洗お」

近くのトイレに入って、洗面台で体の右側を中心に飛んでしまった血を洗い流した。排水溝に流れていく赤錆色を見ていたら、ふとこれまでのことを思い出してしまった。クラウスとのことや、警察に入るために血反吐を吐きながら勉強したこととか、またこの国に来てからのこととか、それはもう、色々なことだ。それらは全てが長い時間だったにも関わらず、終わりは本当に一瞬だった。時間にして四十分ほど。テレビドラマの一話分にもならない時間。この一瞬のために脇目も振らず生きてきた。ケリをつけたら何か変わるのかなあなんて気がしていたのに、まだそんな気には全然なれなかった。でもそれを気にするのはまだ早いか。ルディさんの言う通り、私たちにはまだやらなければならないことが残っているのだから。

「・・・酷い顔してる」

トイレットペーパーを濡らして顔の血を拭く。鏡に映る自分の顔はなんだかみすぼらしかった。きっとクラウスが見たら、顔が死んでるぞ、とか言うのかもしれない。クラウスの彼女もきっと同じことを言うんだろう。ああ、そうだ、彼女に会わなくては。クラウスの隠れ家には実は、彼女へのラブレターがいくつも残されていた。そこでも自分の素性は隠していたけれど、彼女の名前と、愛してるの言葉と、過ごした日々の思い出が綴られていた。大体一週間に一度ぐらいの頻度で、三年間分。それを届けるぐらいはルディさんも許してくれるかもしれない。

(うそつきって、言われたんだっけ)

それでふと思い出してしまった。バーボンのことを。

(・・・あれ?)

なんでバーボンはあの時、あんなことを言ったんだろう。信念があって良いなあなんてことと、夜のことが大事でちゃんと考えずに会話をしてしまったけど、今思えば少し引っかかる。大事な人たちを守りたくて組織に入って、でもその人たちは彼が組織にいることを多分知らなくて、だから何をしているか知ってるかという質問に、知らないでしょうねと答えた。守るためなら手段は問わないことに対しては、肯定こそしなかったけれど、否定もしなかったし、その人たちに嘘つきって言われてもいいと言っていた。それってどういうこと?嘘つきってどういうこと?だって周りは彼が組織にいることを知らないんでしょう?それに守るためにって、何を守るんだろう。金銭的な援助?それとも身の安全?ああでも、よくあるか、親縁を援助するために身を売る話なんて。実際何をしているのか援助されてる方は気がつかないけれど、援助する方からしてみればその人たちに嘘をついているのだから。そうか、そう考えれば別段変な会話じゃなかった。ならなんで引っかかったんだろう。駄目だ、全然頭が回らなくて上手く考えることができない。今こんなことがあったから、だから少し、自分と重ねてしまったんだ、きっと。

「まさか、ね・・・」

忘れよう、と息を吐く。しかしどうもこのまま部屋に戻る気になれなかった。少し外の空気でも浴びようか。新鮮な空気を吸って、星でも眺めて、それで部屋に戻ってお風呂に入ろう。そして眠って、明日の取引に備えよう。そう思ってトイレを出た瞬間だった。

「っひゃ」

誰かに腕を強く掴まれて、力任せに引きずられてしまった。何が起きたのか分からず脳が混乱していると、壁に投げられるように押し付けられて、気がついた時には首元に鋭利なものを突きつけられていた。

「なんでお前が生きてるんだよォ・・・!」

必死に焦点を元に戻せば、自分を押さえつけていたのは全身を怒りで震わした若い男だった。今の発言からして、ドミニクの手下といったところだろう。首に当てられているのもナイフの切っ先だ。

「吐け、ドミニクをどこへ連れて行った!」

そのことから、男が正面口に出る階段を今上ってきたのだとわかった。バーの入り口は人払いをしていたとはいえ、同じ階のどこかに隠れていたならば、ドミニクが非常階段の方へ連れて行かれたのが見えているからだ。ということはロビーで待機でもしていたんだろう。一時間経っても出てこなかったら様子を見に来い、とか手伝いに来い、とか言われていたのかもしれない。でも私がこうしてのこのこ生きているからこいつも混乱しているんだ。さてどうしよう。足は自由に動く。ピンヒールで思い切り踏みつけてから金的を蹴り上げようか。

「ボスの女だからって容赦しねえぞ!!!」
「え?ボスのおん・・・えっ、あっえっ!?」

まてまてまてまて。頭の中が大渋滞でさっき以上に何が起きているのかわからない!

!こっちへ」

どうして今私は腕を掴まれてるの、どうしてもう会うことのない人がここにいるの、どうして走り出しているの。

(なに、これ)

まず一つ。なぜか男が私をボスの女だと勘違いしていること。つづいて一つ。男がナイフを深く突き刺そうとモーションをかけたこと。さらに一つ。急に男が横にぶっ飛んだこと。そして一つ―…。

「バー、ボン?」

視界の脇から伸びてきた小麦色の腕。揺れる髪の毛。向けられた視線。
彼に腕を掴まれてぐいぐいと連れられていく。目まぐるしく景色が変わっていく中、まさかの正面入り口を通って彼はさらに走るスピードを上げていった。待ってほしい、ピンヒールでの石畳ダッシュは想像以上に凄く大変で、足が縺れそうになってしまうから。

「っどうして、ここに」
「・・・あれはおそらくドミニクの息のかかった人間でしょう?裏口にはまだ警察もいますし今はとにかく走って」

(そ、その警察です)

そんなこと口が裂けても言えずに、ただただバーボンの導かれるままに夜の街を駆け抜けた。




*




走り続けてネプチューン噴水のある旧植物園にやってきた。植物園といってももう一般開放されているため、雰囲気は市民公園そのものだ。中頃にある、でも生い茂る木々で道路側からは見えづらい、だだっ広い石のベンチに腰を降ろすと、一気に疲れが体を襲った。やっぱり体力不足感が否めない気がする。盛大に息を切らす私とは裏腹に、バーボンは呼吸を整えている程度だ。

「はあ、は」
「大丈夫ですか?」
「は、い・・・その、ありがとう、ございました」
「・・・ほとぼりが冷めるまで、ここにいましょう」
「・・・はい」

ほとぼりが冷めるって一体いつだろう。伸されてしまったあの男を、ホテルマンか誰かが見つけて警察に連絡して、連行されて、でも身柄の詳細を報告したらばすぐに連邦警察が彼を引き取りに行くだろう。意識が戻った頃にあの男が私を殺そうとしたと喋れば、じゃあなぜ私から連絡がないのかと疑問を抱いて、部屋を見に行ったら私がいないじゃないか、となる。したらば何かあったのだとルディさんたちがざわつくにちがいない。そうなったらこのほとぼりっていつ冷めるの?私がルディさんに連絡を入れないと駄目なのでは。

「あの、バーボン」
「はい」
「メールをしてもいいですか」
「ええ、もちろん」

あれ、なにか、もしかして、怒っている気がしなくもない。昼間の彼と違って様子が少しぶっきらぼうだ。でもそれはあとでも片付けられることだと、今は急いでルディさんにメールを打つ。電話にしなかったのは内容を録音されないため。バーボンがここにいるなんて理由は一つ、跡を付けられていたから。それが昨日の夜にドミニクと話していたことで知ったのか、それともさっき彼と別れた後で付けられていたかは分からないけれど、どちらにしてもそういうことだ。もし後者なら私は全然気が付いていなかった。反省しなくては。ルディさんに嘘を吐いたところで直ぐに見破られてしまうだろうと、正直に事の次第を打ってメッセージを送ると、ものの数秒で既読マークが付いた。返ってきた言葉は「分かった」の一言のみ。私を信じてくれているからこその物分りの良さだ。もしかしたら電波から位置でも探し出して乗り込んでくるかもしれないけれど。
ふう、と息を吐いて携帯をクラッチバックにしまうと、隣に座るバーボンは腕を組んで難しい顔をしていた。やっぱりなにか怒っている。笑っている時の彼からは考えつかないほど威圧感が凄くて、肩が竦んでしまう。この人、こんなプレッシャーを放つんだ、と知らない面を知ってしまった。それはそうか。優男で生きていけるほど裏の社会は甘くないか。


「は、はい」
「僕ら組織をダシにするのは感心しませんね」
「・・・はい、すみません」

確かに。その通りだ。ヘルックはイーゲルと手を結んで黒の組織の対抗勢力になろうとしていて、でもそのイーゲルはヘルックなんてどうでもいいと黒の組織と手を結んで大きくなろうとして、そんなの彼らからしたら舐められているのと変わらない。おまけにこの取引を利用してドミニクを捕まえようとしていたんだから、バーボンが怒るのも無理はない。

「あなたが取引に来ると約束した以上、死なれたら困るんです」
「・・・でも、生きてます」
「なら英国庭園で、最後だとか言わないで下さい」
「あ・・・あれは・・・、すみません」

嘘を言ったつもりはなかった。かもしれないと可能性の話をしただけた。今日だって、裏をかかれてドミニクに殺されないとも限らなかったし、それに黒の組織と関わってしまったから殺されるかもしれないし、でもあの時あの言葉の大きな意味を締めていたのは、潜入捜査をしている自分はもう終わりのことで、誰かを恨んでつらんでの自分とはお別れだから、最後、だった。

「顔の赤みはメイクなんですね」
「・・・あ、そう、ですね」
「血、服に沢山跳ねていますよ」
「え、あ、ほんとだ、服忘れてました・・・」

肌に付いた血ばかりに気がいって、服のことはすっかり忘れていた。紺色だしそんなにホテルの中を歩く分には気付きにくいかと思っていたけれど、こうして月明かりの下に出るとやはり目立つ。

「ドミニクを殺したんですか?」
「・・・どうでしょう」
「ボスと懇意な仲ですか?」
「・・・ご想像にお任せします」
「そうですか」

彼は何を想像しただろうか。私がドミニクを殺したと思っただろうか。ボスの愛人だと思ったのだろうか。それとも私が警察だと読んでいるのだろうか。そういえば、一体どうして私がボスの女だなんてあの男は言ったんだろう。ああそうか、ドミニクか。私に何かあったらボスに全部情報が行くなんていうハッタリを鵜呑みにしたのか。それであの場にバーボンが来たから、ボスと懇意なのか、なんてことを彼は言ったのかもしれない。
笑っちゃうけど、残念ながらボスの顔なんて知らない。私がドイツに来てからのイーゲル内部であんなにも急激に名を売ることができたのは、クラウスの捜査資料があったから。そしてドミニクが私を引き抜いたから。やけに頭の切れる女がいるという話がナンバーツー辺りに行き、彼からボスの後継者候補の内部調査を個人的に頼まれていただけだ。

「怒って、ますよね」

彼から返事はなかった。目を合わせるどころか顔を見る勇気もなくて私はただじっと、自分の足先を見ている。ピンヒール、多分ボロボロだろうなとか、あのでこぼこの石畳の中一度も転ばずに走りきった自分を褒めてやりたいとか、そんなくだらないことばかり考えていたら、はあ、とため息が聞こえてきた。

「八つ当たりしました。すみません」
「や、やつあたり?」

八つ当たりの意味が分からなかったけれど、それを聞き返すだけの勇気がなくて、おそるおそる彼の方を向いたら「情けない犬みたいな顔をしないでください」と言われてしまった。情けない犬ってなんだろう、それに少しSっ気を感じてしまうのは絶対に気のせいじゃない。

「・・・気にしないで下さい。あなたに腹を立てているんじゃなくて、自分に腹を立てているだけなので」
「それってどういう」
「・・・秘密です」
「いじわるです」
「あなたに言われたくありませんね」

言葉の棘とは裏腹に、彼の顔はとてもおだやかだった。なんでだろう、今心が凄くほっとした。鼻の奥がじんと熱くなって、泣きたくなってしまうような。あれ、これがもしかして情けない犬の表情?昔近所にいたバーボンの髪色そっくりのわんちゃんは、人懐っこくていつも口から舌を出して私を出迎えてくれたから、情けない顔なんて見たことなかったなあ。

「・・・昼間に、よだかの星の話をしてくれましたね」
「はい」
「自分の醜い部分を見つめて己の生と向き合うことは、とても清らかだと思います。少なからずそうやって生きている人も世の中には沢山いますからね。もちろん、僕にはできないことですが」

彼には似合わない、と思った。よだかの星が、なのか、黒の組織が、なのか。何かが胸を叩いている。それが何か分からない。でもあまりにも、彼から紡がれる言葉が綺麗すぎて。

「でも、僕は僕なりのやり方で、欺瞞と醜悪に満ちた世の中に牙を向きたいんですよ」
「・・・なんだか、ヒーローみたいなことを言いますね」
「ヒーロー、ですか」

ふふ、とバーボンが笑う。昼間見た時と同じような、優しい笑顔。好きだなあと思う。心が落ち着くなあと思う。でも何故だろう、それが今は意図的に見えてしまった、なんて。だから思ったのだ。彼みたく、どんな時でも笑顔を浮かべていられる人は、つらく悲しいことを人一倍乗り越えてきたんじゃないか、と。揺さぶられる。彼の言うことを信じてみたくなる。彼が守りたいと思っているものを大切にしてみたいということさえも。

「でも、おかしいじゃないですか。だって、あなたは、」
「悪の組織の人間なのにって?」
「・・・」
「ふふ、僕は人の心を揺さぶるのが得意なんですよ」

正義のヒーローみたいな顔をしたと思ったらすぐこれだ。不敵に笑って、いけない人の顔になる。いじわるでずるい。もう駄目だ。今日は頭が回らない。諦めよう。どうせ考えても今はきっと正解に辿り着けない。

「はあ、も〜お手上げ。今日は頭が大渋滞です」
「あはは、おかしなことついでにもう一ついいですか?」
「は、い?」
「どうして歩き方が違うんですか?ヒールの時と、フラットの時と」

なんだろう、と身構えたのに、予想だにしなかった問いに少し肩透かしをくらった。それって重要なことなんだろうかと思う以上に、この人そんなに細かいところまでチェックしてたのか、と思い怖くなった。この人と三日間同室だったオリバーは、めちゃくちゃに苦労していたに違いない。ちょっとの時間ですらこんなに心臓に悪いんだから、心中お察ししますあなたのこと。

「・・・気になりますか?」
「ええ」
「じゃあ、分かるまで当てて下さい」
「・・・おやおや、大人をあんまりからかわない方が良いですよ」

思考回路に力が回らなくなった分、小手先だけの反抗心とかいう余計なものに力を回さなければ良かった、と後悔した時にはもう遅く、ブルーグレイの瞳が近付いてきたかと思ったら、そのまま後ろに押し倒されてしまっていた。ごつん、と固い石の感触と冷たさが頭に響く。バーボンは、「頭ぶつけちゃいましたね」と楽しそうに笑っていた。
大人をあんまりからかわない方がって、あなたがそれを言うんですか。私あなたのこと年下だと思ってたんですよ。それに三つしか差ないですよ。なにが大人だ。なにが―…。

(・・・心臓に、悪い)

私の視界はバーボンで一杯だった。月も星も何も見えなくて、風のそよぎも車の音も、彼以外の全てがシャットアウトされてしまったみたいだった。

「バー、ボン」
「はい」

綺麗な顔をしているなあとか、目は垂れ目がちだなあとか、鼻が高いなあとか、唇の形が整ってるなあとか、髪の毛はやっぱりサラサラしてるなあとか、でも首はしっかり男の人だなあとか、色んなことを思ったけれど、そのどれもが喉の先から出て行かなかった。ただただ慈愛に満ちた双眸とかち合う。魔法にかけられたかのように離れられなくて、拷問みたいだった。会ってまだ三日も経ってない。なのにこんなに心の紐がほどけていく。

「・・・そんな目で、見ないで下さい。ドキドキしそうになります」
「してもいいんですよ」
「しません。し損なので」

昼間の会話がもうまるで遠い過去のようで、懐かしい。そう思えるぐらいあの時は多分心の底から楽しんでいたんだなあと自覚する。バーボンにドキドキすることなんて簡単だ。このまま悪い人間のマスクを被って、彼のタイブローチを引っ張ってしまえさえすればいいのだから。大人をからかう?そんなのくそくらえ。こっちだってもう大人なんだよ、って。でも、そんな勇気、どこにもなかった。

「あなたに、出会わなければ良かった」
「・・・僕もですよ」

おそろしいほどやさしく伸ばされたてのひら。羽毛のように頬を包まれる。産毛がぞくぞくして、全身が震えた。心臓が凄い音で鳴っている。また鼻の奥が熱くなった。



添えられた彼の手のうち親指だけがゆっくり、感触を確かめるように何度も何度も頬を行き来する。降り注ぐ彼の声がとても心地よくて、気持ちよくて。
何も知らない。本当の名前も、住んでるところも、何をしているのかも。私が今見ているこの人は幻の姿なのかもしれない。そんなこと、分かってるのに、分かってたのに。思ってしまった、その名前で呼ばないで、と。

「バーボ、」

涙が零れ落ちる。
飲み込まれた言葉はもう二度と、世界へは出て行かなかった。












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