薄暗い店内を照らすのは、それぞれの客席に飾られた橙の光と、バーテンダーの立つバーカウンターの灯りだけだった。従業員はバーテンダーも含めて全部で三人。革張りの高級ソファのあるテーブル席には三人組の客が、また違うテーブルには一組の男女が、十席あるカウンターの端には一人の男が、そしてその中央には一人の女――が座っていた。バーテンダーはオールバックの若者で、メロウなジャズをBGMに其々が思い思いの時間を過ごしている。
の格好は日中のカジュアルなそれとは違って、バーの雰囲気に合わせたのだろう、ノースリーブのワンピースドレスを纏っている。ウエストが絞りになっていて、裾にスリットが入った膝丈のタイトスカートなので全体的にシックで落ち着いた印象だ。それでいて、三角タイプの襟一面にちりばめられた金色のスパンコールが、見るものの目を引いている。髪の毛はハーフアップにしていて露になった耳には硝子をはめ込んだドロップ型のイヤリングを、腕にはねじりの入った細いゴールドのバングルを身につけ、足元は襟に合わせてシャンパンゴールドのピンヒールを履いている。橙に照らされて、装飾品が暗い店内できらきらと光を放つ。そんな彼女は一人カウンターではやばやとグラスに口を付けていた。既に顔には赤みがさしていて、目元が少し潤んでいるようにも見える。
バーテンダーはバックバーのボトルをクロスで磨きながら、グラスが空になって手持ち無沙汰そうなを見やった。すると彼女も視線に気が付いたのか、目を細めて彼を呼ぶ。

「何をお作りしましょうか?」
「ジン・フィズを。・・・ジン抜きで」

―ジン抜きで。それじゃただのレモンスカッシュだ、と彼は吹き出しそうになるのを堪えながら目の前の女を見る。すると、彼女も含みのある笑みを浮かべていた。

「ちゃんとしましょう、もう来ますよ」
「ごめんなさい、さすがに少し緊張しました」
「ほら深呼吸して。あなたが頼みの綱なんですから」
「はい、頑張ります」

そう、彼女は酔っ払ってなどいなかった。顔の赤みは濃く乗せたチークが原因だ。店内の暗さからでは、それがメイクだと気が付くことはほぼできない。目の潤みは息を止めることでいくらでも演出できるし、下睫毛にグロスマスカラを仕上げに塗れば、アルコールのせいで潤んでいる風に見えるというわけだ。手の甲側の指の関節にも赤みを乗せていたので、完成度はますます高い。回転椅子になっているカウンターの椅子をくるくる回しながら緊張を取り除いていると、バーテンダーが「どうぞ」といってグラスを置いた。口を付けると確かにジン抜きだった。炭酸のぴりぴりとした刺激が感覚を鋭敏にさせていくようで、ちらりと入り口の方に目をやると、タイミングよろしく飾りベルが乾いた音を鳴らした。入って来たのは言わずもがなのドミニクで、室内に僅かに緊張が走る。

「思ったより早かったな、どうだ、何か情報は掴めたか?」

ドミニクはネクタイを引っ張り、首元を緩めながらやってきた。ジュラルミンケースは持っていないようだ。カウンターの端に座る男が、視界の端でそれをちらりと確認すると、店員を呼び寄せて会計をしてバーを後にした。ドミニクはの右側に腰を降ろして、彼女の姿を上から下までねめつけるように眉間を動かす。日本人というだけあり、まわりのスタイルの良い欧米人女性からすると、彼女はなるほどたしかに小柄だったが、それでも着るものを着ればそれなりに色気がでるな、と彼は内心思った。しかし念には念を、と彼女の体の側面に、肩から膝まで掌を這わせて何も隠していないことを確認する。身を捩らせた彼女の動きは非常に曲線的で、一度で二度美味しいというやつだ。

「もう、来て早々大胆な人ですねえ」

内心ぶち殺してやりたいと思いながら、何食わぬ顔で彼女が言葉を返す。

「・・・やけに上機嫌だな」
「ごめんなさい、先に軽く呑んじゃいました」
「直ぐに顔を赤くして。だらしがない」
「ふふ、日本人はアルコール耐性があんまりないんですよう」

「知ってるでしょう?」とが首を傾げて見せるとドミニクは呆れ顔で笑った。まるで彼女を小ばかにするように。

「どうだか、本当はあの男と違うバーにでもいて、上手く懐にでも入ってたんじゃないのか?お前の髪からシャンプーの匂いがぷんぷんする」
「あなたはすぐにそういうことを考えるんですね」
「女はみんな尻軽だからな」

バーテンダーから受け取った灰皿を手前に置くと、彼は胸ポケットから取り出した煙草に火を点ける。彼が今回の取引の拠点をここに決めたのはそれが原因だった。基本的にレストランやバーといえど室内で喫煙できる場所は少ない。しかしこのバーは許されている。ヘビースモーカーらしい理由と言えばらしい。愛用のアークロイヤルから甘い香りが広がった。

「こわいこわい、騙されでもしたんですか?昔の女に」
「さあ?どうだかな。それより早く話せ」
「まあまずは乾杯しましょう?奢りますよ、祝杯ってことで」

は自身のグラスを持ち上げて、彼にも酒を頼むように促す。ランプに映し出された彼女の表情から、ドミニクは彼女がそれなりに酒を煽っていたことを察する。自分に対して甘いことを言う、それは経験上彼女が一定量酒を飲んだ時見られる傾向だ。もっと飲ませばさらにぽろりと本音を零すだろう、と。

「・・・その様子だと、あの組織の重大な情報でも手に入れたか?それで俺に取り入って昨日の話に折り合いを付けようってところかな?これだから女ってやつは」
「んふふふ、女性は強い権力に惹かれるって言いますしね、それに、この取引が終わったらあなたはまた昇進するでしょうし、お手伝いできるなんて素敵じゃないですか」
「・・・まあいい、どちらにしても寝首をかかないぐらいには調教してやろうと思っていたさ。お前は情報収集としてはそこらのガキみたいな振る舞いができて使いやすいからな」
「もちろん褒めてくれてるんですよねそれって?それで?何を飲むんですか?」
「シュナップスを頼む」

当然赤ワインを頼むと踏んでいたからしてみれば、彼が頼んだものはいつもと違っていてとても珍しいことだった。シュナップスはドイツでは一般的な蒸留酒で、ジャガイモと麦芽を原料に生成される、ぴりりとした辛味と清涼感のある酒だ。最近ではリンゴや杏など甘みづけをされたものも多く、食後酒として飲む者も多い。

「はい、かしこまりました」

バーテンダーは優しく微笑んで、ショットグラスを取り出してシュナップスを注いでいった。八分目まで注がれた水面の揺れが治まった頃合に「どうぞ」と差し出すと、は「ではかんぱーい」とグラスを持ち上げた。硝子と硝子が触れるギリギリのところで離し、お互い口を付ける。は二口ほどにし、ショットグラスをひっくり返す隣の男をまじまじと見つめる。

「ん〜良い飲みっぷりですね、素敵」
「・・・お前がいつも酔っ払ってくれていたらいいんだがな」
「ふふ、あなたの忠実な犬になったら、もっと可愛がってくれるんですか?」
「ほう?そういうことも言えるのか?」

ぐいと近づいて、は上目遣いでドミニクを見上げた。気をよくしたのか彼は彼女の肩をぐいと抱いて、バーテンダーに同じ物を頼んだ。三十秒も経たないうちにグラスを渡され、天を仰ぐように飲み干す。無骨な手が体を摩り出したので、彼女は嫌悪から肩をぴくりと動かしてしまったが心配はない、照れと受け取られるぐらいだろうから。

「あなたが日本から引き抜いてくれなければ、こうして今ここにいないですからね、すごーく感謝してるんですよ」
「お前が俺に恩を感じていたとは初耳だな」

心外だ、という表情では首を回してドミニクに耳打ちした。「あとでたっぷり教えてあげますよ?」と。すると彼はにやりと笑って、思い切り吸った煙草の煙を吐き出した。灰に落としてしまったからかそこまで白くはなかったが、それでも隣にいた彼女の鼻を突くには充分だったようで、彼女は微笑を浮かべたまま必死に耐え忍んでいる。奥のソファ席に座る三人組の一人が、片手を上げる。それが視界に入ったところで、彼女はドミニクにさらに身を寄せて、彼の死角から右目でウィンクを送った。

「どうやら、少しお前のことを勘違いしていたようだ」
「・・・そうかもしれませんね、さあ、そろそろ本題に入りましょうか」

彼女は姿勢を元に戻して捩れてしまった襟を直す。

「ああ、そうしてくれ。どうだったんだ、あいつとは」
「ふふ、そっちじゃありません。忠実な犬と、海に沈むことと、どちらが良いかの話しですよ」
「・・・なんだって?」

くるりと椅子を回転させて体ごとドミニクの方を向いて足を組む。先ほどまでの甘い空気が一点したことに男はピクリを眉を動かした。その時丁度スピーカーから流れるBGMが新しい曲に変わった。ジャッキー・マクリーンの「Greasy」だ。この緊迫していく空気に逆らうように、アップテンポの明るいメロディが、音だけが浮かび上がるように不気味に室内に響く。

「あなたがクラウスに濡れ衣を着せて、ボスに突き出したこと。とっく調べはついてます」
「何の話だ」
「証拠もありますよ」
「証拠だと?」
「あなたが組織の機密情報に不正に侵入したっていう証拠ですよ」

平生を装いながら、ドミニクは自身の心臓が一際大きく鳴るのを感じた。奥歯をぎりりと噛む。やはりこの女は殺すべきだった、と。しかし同時に焦りは禁物だ、とも言い聞かせる。彼女が銃を携帯している様子は無いのだから、その気になればいつでもその身をどうにでもできるし、今は自分に不利な情報を、彼女がどこまで知っているのか引き出すのが優先だ、と。

「っは、ばかばかしい何の話だ」

牽制のつもりで胸ポケットにしまった銃に手を伸ばす。金属音でも鳴らせば、大抵の噛み付いてくる女はその威勢も退くと踏んでのことだったが、どうやら目の前の女はそうもいかないらしい。怯える素振りも見せずに続きを話し出している。

「あなたが不正にログインしたクラウスのパソコンは実は、操作履歴が常に彼の本当のパソコンに送られるようにプログラムされていたんですよ。あなたは上手く足跡を消したんでしょうけど、残念でしたね、それも記録されちゃってるんですよ」
「・・・黙らないとその口を塞ぐぞ」
「それに、あなたが不正を働いていた時ね、彼、ナンバーツーと仕事に出ていたんです。まあ組織は秘密主義者で溢れてますから、彼らの動向をあの時下っ端だったあなたが知らないのは当然です。あなたが彼に濡れ衣を着せて幹部昇進を図ろうとしていたのを知った彼は、慌てて事の次第を手紙に書きつけたんですよ、私に。昨日、何か貰ったかと質問しましたね。ええ貰いましたよ、大事な大事な証拠をね」
「貴様・・・聞いていなかったのか?黙れと言ったんだ」

これ以上好き勝手にべらべらと喋らせるか、とドミニクは銃を引き抜こうとした、のだが。

「・・・!?」

突如襲い来る身体の違和感。がたがたと体中が痙攣しだし、息をしても酸素が身体に入ってくる気がしない。嗚咽を上げ口を大きく開けて、鼻からも息を吸わねば体中が悲鳴を上げる。焼けるような喉の熱さに水を欲し、ドミニクはのグラスに手を伸ばしたが、ぐらぐらと揺れる視界にそれも叶わず床へと転げ落ちてしまう。

「ッなにを、しだあッ」
「シュナップス、おいしそうに飲んでましたねえ」
「いづのま・・・ッは、ぼし、かじ、て、バーテン、が」

ふふふ、と笑っても大きな肢体の横にしゃがむと、ドミニクの胸ポケットから銃を取り上げた。他に武器はないかと体を触るが、どうやら持っているのは一丁だけだったようだ。ドミニクは自身の体を漁る白い腕を掴もうと躍起になるが、何重にもぼやけて見える視界に脳が信号を送ることができない。

「さあ、忠実な犬になるか、海に沈むかのどちらかですよ。まあ、ハンブルクまで行かないと海はないので、そうですね、シュタルンベルク湖にでも沈んでもらいましょうか」
「っく、」

奪った銃をドミニクの額に押し付ける。この銃はOTs-38というロシア連邦保安庁の命令のもとに製造されたリボルバーを模したもので、静音化した弾薬を使うことからサイレンサーなしで持ち運ぶことができる、イーゲルの一番の売りとも言っていい銃だ。通常のリボルバーはシリンダーが左側にスイングアウトするようにできているが、これは珍しいタイプで右側になるようにできている。それは左側にレーザーサイトのコードがあるためであり、慣れないと装填と排莢が難しいが、しかし慣れてしまえば通常のそれよりバレルとチャンバーの軸の一致度が高いという利点があるのだ。さらに言うなればエジェクターが自動的に飛び出すため、高速でのリロードも可能だ。もともと発射ガスが漏れることから暗殺などには使い辛いリボルバーだが、リボルバーそのものの人気はいつの時代も根強い。この特殊形態と特殊弾故に、正規品は中々市場には出回らないし、手に入れたとしても弾を継続して購入できる店がない。だからイーゲルにとってこの型は、一定の売り上げを上げることができる有能なモデルだ。

「ああ、これがヘルックとのやりとりのデータですね」

スラックスのポケットにあったUSBを抜き取って、バーテンダーに投げ渡す。そしてセイフティを解除して、はさらに詰め寄った。

「でも、私にはまだ分からないことが一つあって。彼の遺体はどこにあるの?」
「知る、か」

尋常じゃない汗がドミニクの額から流れている。緊張と、酒に仕込んだ薬のせいだろう。それはなんとも哀れな姿だったが、それで心が打たれるほど善人でもないは、無表情のまま銃口を彼の太腿に向けて撃ち込んだ。流石は消音銃。鼓膜への衝撃がほとんどない。だが肌に直接銃口を当ててしまったため、肉片とともに多くの血飛沫が飛んだ。彼女の服が紺色だったために暗い室内では目立たなかったが、その肌にはしっかりと赤が跳ねている。焦げた匂いが男の咆哮とともに天に昇っていく。

「ガハァッ、グアア、ギ、ザマァ」
「そんな口聞ける状況じゃないですよね?素直に答えてくれるなら命ぐらいは助けてあげます。それに、明日の取引にはナンバーツーも来るんですよ」

痛みが全てを支配していて、ドミニクは返事をすることができない。ただ必死に息を吸って、視線をに向けるだけだ。

「どちらにしてもあなたは消されるっていうことです。でも遺体をどうしたか答えてくれるなら、私の足として使ってあげるって言ってるんです。意味、分かりますよね?」

何秒だったのか、何十秒だったのかは分からないが、ドミニクは息を乱したまま、すっかり大人しくなってしまったようで何も答える気配がない。相変わらず流れているアップテンポのBGM。バーテンダーも、周りの客たちも息を呑んで二人を見ている。

「あなたが組織のお金に手をつけていることも、伝えちゃいましょうか?」

しかし返事は返ってこなかった。彼の顔を一瞥すると瞼まで閉じてしまっている。狡猾な奴だから何か打開策でも考えているのだろう、とは思った。しかしそういうところがお頭が弱い証拠なのだ、と従業員に扮した男に目配せをして、音を立てないように先に持ち込んでいた自身の拳銃と、今手にしているものを取り替える。それは今回の取引の任務のためにイーゲルから支給されたもので、ドミニクのものと全く同型だった。

(・・・もう少し付き合ってあげるわよ)

はあ、とため息をついて、ドミニクを起こすために顔を叩こうと手を伸ばす。やはり何か策を練っていたらしい、眼前の男の眼がカっと開眼された。この一瞬に賭けていたのだろう、彼は体の底から力を振り絞っての腕を掴んで組み伏せると、彼女の手から銃を奪い取り、セイフティが解除されていることを確認して、彼女の額のど真ん中に銃口を押し当てた。しかし相当辛かったのか体はがくがくと震えていて、流れる汗が彼女の顔に落ちていく。それでも逃げられないようにと、がっしりと体重をかけて彼女の下腹部に乗り上げると、ドミニクは満足そうな笑みを浮かべた。

「・・・まだそんなに動けたんですね。あの薬、結構持続性あるのに。図体デカイですもんね、あなた」
「ほざくんじゃない、形成逆転、だなあ」











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