今もよく思い出す。幼馴染のあの無邪気な笑顔を。音楽が好きで、情に厚い彼の優しい笑顔を。
追いかけ続ける人生は一体いつからだったのだろう。本音を表に出さなくなったのはいつからだったのだろう。小さな小さな、目には見えないほどの染みが幾重にも重なって、気が付いたら降谷零ができていた。気が付いたら微笑みながら嘘が吐けるバーボンになっていた。そのことを思うたびに、小さい頃の自分が袖を掴む。失ってはいないか?と。自分にとっての光を、帰るべき場所を、そして、信じた人たちの記憶の数々を。








「ジンの方が適任だったのでは?彼、ドイツ語が堪能だと聞きましたよ」
「彼も別件で忙しいのよ。ほら、なんだったかしら、政財界の・・・」
「ああ、何か言っていましたね、そういえば」

バーボンとベルモットの会話を遮るように、車内にアナウンスが響いた。よく分からないドイツ語の後に、「ミューニック・セントラルステーション」と英語が続く。どうやら中央駅に到着したらしい。乗客がドアに付いたボタンを押すと、鈍い機械音とともに扉が開いた。日本と違って押しボタン式なのだとバーボンが気付いたのは、ミュンヘン空港から地下鉄に乗車する時だった。一向に開かない扉の前に立つ彼の横で、ベルモットが楽しそうに笑いながら「この国は押しボタン式よ」と教えたのだ。そこから停車駅を通る度に彼は扉の様子を確認していたが、中央駅では乗客の殆どが降りるため、彼の出番はないようだった。
ベルモットのヒールの音に釣られて扉から降りると、そこは空港とは違う、いわゆる「都会」の雑多な匂いがした。ホームに流れるアナウンスを掻き消すほどに人々の声がざわめかしい。目新しさからバーボンは四方を見渡した。外国はこれが初めてではなかったが、かといって行き慣れている訳でもない。特に英語圏以外の国には。
地下フロアのショップは充実していて、本屋に服屋にアクセサリー屋にドラッグストアがいくつも並んでいた。とりわけ印象的なのはパン屋から香る小麦の匂いで、焼きたての香ばしさが彼の肺を膨らますと、今度は腹の虫が起き出した。飛行機に乗っていた時間と、日本からの時差のせいで体が鈍かったが、構内の時計は既に午後一時を指していて、そうかもうそんな時間なのか、と思い知る。そんな彼とは反対に、海外に慣れているのかベルモットは(むしろ彼女の場合は日本こそが海外だが)いたって快調そうで、迷う気配など微塵も感じさせずに駅の中を突き進んでいた。

「ドイツにはよく来るんですか?」
「映画の舞台挨拶ぐらいかしら。去年はベルリンとミュンヘンに行ったわね」
「それはそれは。本業もしっかり順調ですね」
「ふふ、本業、ね」

最早どちらが本業なのかわからない、と思ったのはおそらく二人ともだろう。
ベルモットはやさしいウェーブのかかった金髪を束ね上げて、帽子とサングラスを身に着けていた。欧米人の中に混ざってしまえば、この姿からでは間近で注視しない限り、彼女が世界的大女優であることに気付く者はいないだろう。そもそもメディアの仕事以外は一切が謎である女性だ。そんな女性が堂々と道を歩いていると思う者もいない。その上さらに観光地であることも相俟って、人々の注意は殊更外側に向けられていた。しかしさすがは女優といったところで、誰と変わらずただ普通に歩いているだけなのに、とても画になるのも確かだ。
「こっちよ」と彼女に促され、バーボンは後に続いてエスカレーターに乗った。なるほど、ドイツ人は右側に乗るのか、と新たな情報を得る。が、よくよく先の方を見てみれば大抵の人間は右側にいたが、真ん中にどっしり構える者もいれば、左側に立って携帯をいじっている若者もいた。急ぐ者は一言声をかけて避けてもらい、できた隙間をすり抜けていく。そこで彼は脳内の情報を「大抵は右側だが自由、そして誰も怒らない」に書き換える。
日本人ほど日常のルールに敏感だ、というのは当たっていた。この国では電車の中で携帯電話で通話をする者も多いし、アルコールも含めて好きに飲食をする者もいた。だからといって誰もあからさまな不快感を示さず、日常茶飯事だという顔をしていたのだ。ゆるい。色々なことが。そういう発見をするのもまた外国に来たからできる楽しみだ。

「さあ、地上よ」

ベルモットがウィンクをするや否や、エスカレーターの終わりがやってきた。地下とは違う解放感が二人を包み込んだそこには、これまた日本では見たことのない光景だった。数え切れないほど多くの線路が並び、そのいたるところに止まる赤や白の列車たち。道行く人々の量もとても多く、仕事に行く者が半分、旅行者が半分と言った具合で、そんな彼らの合間には鉄道会社の職員が立っている。彼らの制服の、赤のネクタイがとても目立つからか、ひっきりなしに職員には声がかけられていて、応対で忙しそうだ。地下で感じた都会の匂いもここ地上の方が強いことを訂正しておこう、とバーボンは思いながら、構内を通り抜けて外へと踏み出した。

「異国情緒漂うって感じですね。美しい」
「ふふ、街の中心地までは歩いても行けるけど、お腹も空いたしトラムに乗ってさっさと行くわよ」
「僕英語しか喋れないですよ」
「ノープロブレム!ここは大都市よ、英語ぐらい通じるわ。待ち合わせの時間までは生き延びれるわよ」

切符の買い方から乗り方までベルモットは非常に手馴れていた。ドイツに来るのは舞台挨拶ぐらいと言っていたが、大方情報収集も兼ねて、お得意の変装術で人々の眼を盗んで街に繰り出していたのだろう。でなければ大女優には移動用の車とボディガードが着くと相場が決まっている。そのことを思うと、彼女をマネジメントする人間達の苦労が窺える。とはいえ、ドイツに不慣れなバーボンにとっては彼女はとても頼もしかった。見よう見まねで覚えておかなければ、と彼女の行動の一つ一つに気を配る。二人は一緒にミュンヘンに到着はしたが、この後は別行動を取らねばならなかった。本来ならもう一人の仲間が同時刻に到着する予定だったが、思わぬ飛行機のトラブルで明日の到着になるらしい。昨日テレビで報じられていたロシアのイルクーツク空港であった爆弾騒ぎが原因だろう。結局愉快犯による犯行で爆弾はダミーだったらしいが、空港会社としては徹底的な検査や捜査無しに業務を再開することはできない。そのため発着便にかなりの遅れが出ていた。
その仲間―オリバーという男―は、ロシアのとあるところにある組織のラボの研究員なので、ばっちり足止めを食らってしまったというわけだ。彼は製薬開発の研究員であり、コードネームこそ与えられていないが、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語、中国語と五ヶ国語を操る語学のスペシャリストで、今回の任務の実行員且つ通訳を兼ねていた。つまり、ベルモットと別れた後、この仲間と落ち合うまでバーボンは全て一人で自分のことを面倒見なくてはならない。しかしベルモットの言う通りここはドイツ第二の都市。英語で十分に生きていくことができるからか、彼もそんなに心配はしてなさそうだった。

「緑が多いですねえ」
「観光客みたいよあなた」
「本題は明々後日なわけですし、強ち間違いではないですね」

バーボンはトラムに揺られながら、フィルムのように過ぎ去っていく景色のひとつひとつに目を凝らしていた。豪奢なバロック風の建物に掲げられた数カ国の国旗。政治関係の建物だろうか。かと思えばその横には近代風のガラス張りの建物もある。古い様式と新しい様式が混ざっているのにどこか調和が取れている。またある公園の芝では多くの人々がシートを持ち寄って寝転がっていた。もうすっかり春の陽気だからだろう、ラフな格好に身を包み日光を浴びている彼らはとても気持ちが良さそうだ。そんな外に夢中な男を横目に、ベルモットは「呑気ねえ」と鼻で笑った。
さらにトラムが先に進むと、ロータリーのように開けた場所が現れた。カールス広場と言うらしい。通りを歩く人の比にならないほどそこには多くの人々がいて、写真を撮ることに熱心になっている。最早門というよりはモニュメントにも見えなくはないカールス門がその後ろに聳えていて、たしかにフォトスポットにうってつけだ。

「さ、降りるわよ」
「ここが中心地ですか?」
「ここはノイハウザー通りと言って、ミュンヘン市内の一大観光通りってとこかしら。中心地はもう少し奥」
「ブランドショップが所狭しとならんでますね」

誰もが名を知る超一流ブランドショップが、それぞれのコンセプトに基づいて店を構えている。ショーウィンドウの展示の仕方は、正直東京で見るそれよりも経費がかかっていてクオリティが高い。ベルモットはサングラス越しにそれとなく新作のチェックをしていて、中でもフサエブランドには熱を上げているようだった。流行り廃りに敏感な仕事にも手を抜いたりはしないのだろう。一方バーボンも情報収集家としては彼女と同じように流行は見逃せない。身につける側からすればブランド物に強い興味がある訳ではないが、政財界といった大物や女性とやりとりをする時の話の一つとして、この手の話題は強い味方だ。
ブランドショップを通り過ぎると、今度はドイツ生まれのブランドである衣料品店や、若者も気軽に入ることができそうなアクセサリー屋があった。その隣には、クラシックな雰囲気のショコラティエが人々の行列を作っている。ストリートミュージシャンもいれば、銅像の格好をした大道芸人もいて、どこも騒々しくて華やかだ。観光地たる盛り上がりに、行き交う人々はみな穏やかな笑顔を浮かべていて、通りは実に平和だった。

「とりあえずレストランに行きましょ」
「どこかアテがあるんですか?」
「もちろん、こっちよ」




*




ベルモットに促されるままにバーボンが後に続くと、大通りの喧騒からは信じられないほど閑静なところまでやってきた。何本もの小道を通り抜けた先にあった、こじんまりとしたレストラン。少し古い木組みの家だからか、建物自体が少し歪んでいる。しかしそこにこそ風情があるといった具合で、壁を這う真緑の蔦や、窓辺から覗くゼラニウムの赤が華やかで、さながらメルヘンにでも出てきそうな佇まいだ。テラス席のテーブルには、それぞれ種類の異なる季節の花が小さなガラス瓶に添えられていて、花言葉が刺繍されたリボンで彩られていた。細やかなところにまで気が配られていて、それでいて赤白のチェックのテーブルクロスがカジュアルに訪れる人を出迎えている。
テラスと店内とどちらにするか、と彼女に問われたバーボンは、後者を選択した。穏やかな気候の中の食事は気持ちが良いだろうが、彼女といるところをわざわざ晒すような真似をして、人を寄せ付けなくても良いだろうと思ったからだ。とはいえこんな知る人ぞ知るといった辺鄙なところに、そう多くの人々がやってくるとは想像もつかなかったが、一応念には念を、だ。

「こんな人目に付かないお店、よく知ってますねベルモット」
「昔ね、教えてもらったのよ。・・・ああ、その子も確か日本人だったわねえ」

店内に入ると、中年を過ぎたぐらいの女性店員が彼らを出迎えた。彼女はこの国の民族衣装を纏っていて、胸元が大きく開いているがそこにいやらしさはなく、いたって健康的に見える。「あそこの席はどう?」と隅の窓際を指差しながら店員が言うと、その指先の示す先を見たベルモットが「とっても素敵」と微笑んだ。手前にバーボン、奥にベルモットの順で席に着くと、すぐにメニューが渡される。「今日のオススメは一ページ目を見てね」と言われたので早速拍子を開くと、そこには手書きの文字でメニューが書かれていた。きっと毎日オープン前にオススメのページを作るのだろう。愛情が籠っていて心地が良い。早速飲み物はどうするかという問いに、ベルモットは「ゲロルシュタイナーの大きい方で、グラスは二つ頂戴」と答えた。バーボンもミネラルウォーターで異存はないようで、店員にそっと微笑んだ。

「それで?一体どんなドラマチックな出会いをしたんですか?」
「あら、その子は女の子よ。東京の大学から来たっていう、なんてことないただの留学生だったけど・・・、まあ、可愛らしい子だったわね、純粋そうだったし、表情豊かだったし」
「それはそれは」

会話をしながらも二人はメニューに目を落としていた。料理名の下に簡単な説明が小文字で書かれていたために、バーボンは大体の内容を把握できたようだ。さすがはドイツ料理。並ぶ文字のいたる所に現れるジャガイモと肉。魚料理も載ってはいたが、レパートリーは少ない上に肉と比べるとやや高い。

「本業でここに来たとき、あまりにもホテルに閉じ込められっぱなしでストレスだったから、関係者を出し抜いて脱走してやったのよ。でも迂闊にも何人かのパパラッチに見つかちゃってね。まあ、一人で撒けないこともないけど印象も悪くなるじゃない?なにせプライベートは一切謎な女なんだから。そしたら「こっち」って急に腕を掴まれたの。彼らから遠ざけてくれたのがその日本人だったってわけ」
「へえ、充分ドラマチックじゃないですか」
「そうかもね。その時彼女がここを教えてくれたんだけど、凄く美味しいからミュンヘンに来る度に寄るのよ。まあ大抵は変装して、だけど」
「彼女とはそのあとも連絡を取ってるんですか?」
「いいえ、一度きりね。旅先の出会いなんてものは、それぐらいの方がいいのよ」

懐かしそうに、そして朗らかに話す彼女の顔はとても楽しそうだった。お互いに顔を合わせるのが仕事の時だけで、今みたいな身の上話をする機会がほとんどないからか、バーボンにとっては彼女の表情がとても珍しく感じられた。

「その時は何を食べたんですか?」
「ソーセージの盛り合わせね」
「ザ・ドイツですね」
「ここのザウアークラウト、他のお店とは比べ物にならないほど美味しいのよ」
「へえ、じゃあ僕はあなたのオススメにしましょう」
「それじゃあ私は今日のオススメの白ソーセージにするわ」

アイコンタクトで店員を呼んだベルモットが二人分のオーダーをする。白ソーセージにはザウアークラウトがつかないことを知っていたため、別皿で盛り付けてもらうよう願い出ると、店員の女性は「任せて」とウィンクで返事をした。そんな気さくなコミュニケーションにも外国らしさがあって気持ちがいい。レースのスカートがふんわりと風を起こして去ったのちに、ベルモットがミネラルウォーターに手を伸ばした。だがそれを制するようにバーボンが「僕が」と言う。どこかの誰かもこんな風に紳士的な振る舞いができたら、と彼女は銀髪の男を脳裏に描きながら伸ばした手を引いた。
ボトルの蓋が開けられて、ガスの抜ける音がした。バーボンはボトルの底を持って、ゆっくりとグラスに水を注いでいく。細かい泡が弾けて音を立てながら水の表面に上がっては消えていった。二つのグラスに水が注がれ、ボトルが元の位置に戻される。ベルモットは一つを手に取り、目の前の男に不敵な笑みを送ると、静かにグラスに口を付けた。瞬間、ぴりりとした爽やかな刺激が舌を包む。飲み口に付いた口紅をそっと指で拭う姿には非常に艶やかだった。

「それで、顔合わせのことだけど、音声をこっちにも流してくれない?」
「もちろん。念のためインカムも余分に持ってきたので、気になることがあればこれで教えてください」
「あら準備がいいわね」
「先回りして観察するのは探り屋の常套手段ですから」

バーボンから渡されたインカムは、小型のワイヤレスタイプだった。彼曰く、胸ポケットにトランシーバーを入れても、服の皺には違和感がないので使い勝手が良いらしい。本体もイヤホンも全てが片手に収まるサイズで、ベルモットはそれを鞄の中にそっとしまう。

「このあとひたすら電車の中だから退屈なのよ。面白い話の一つでも聞かなきゃ、やってられないじゃない?」
「リースリングとはどこで会うんですか?」
「フランクフルトよ。特急で三時間ってとこね」
「すみませんね、僕のお供をさせてしまって」
「いいのよ。ここの料理が食べたくてこっちに来たんだから」

バーボンは申し訳なさそうにベルモットを見た。本来ならば彼女はフランクフルト空港に降り立つ予定だったが、例の仲間の足止めが原因で彼女は急遽行き先をミュンヘンへと変更したのだ。もちろん彼も一人残されたからといって、迷子になるような玉ではないが、この地に来てまだ数時間しか経っていないにもかかわらず、彼女がいなければ分からなかったことが沢山あるのもまた事実。気さくに笑ってここの料理が目当てだと彼女は言ってくれるものの、これから長時間移動しなければならない苦労を思えば、その気持ちもひとしおだった。
だが彼女は人差し指だけ立てて顔の前で数度往復させ、「ノープロブレム」と言った。そのタイミングと店員が料理を運んできたのはほぼ同時で、グラスしかなかったテーブルにもくもくと湯気の上る大きな皿が置かれる。バーボンの方には、四角い皿の真ん中に高く盛られたザウアークラウトに立てかけるように数種類のソーセージが乗っている。店員が端から種類を簡単に説明し出した。牛百パーセントのもの、牛と豚のミックスのもの、腸なしの柔らかいもの、ニュルンベルガーという炭焼きのもの、テューリンガーというにんにくとハーブを練り込んだもの。さらに皿の端にはエストラゴン入りのマスタードが山のように盛られている。それぞれ違った特徴があるので食べ比べをしながら楽しく食事ができそうだ。一方ベルモットの方に置かれたのは、白の深めの容器に湯と一緒に浮かぶ太めのソーセージで、その名をヴァイスヴルストという。ヴァイスは白の意、ヴルストはソーセージのことで、この白ソーセージはミュンヘンをはじめとするバイエルン地方の名物だ。新鮮さが命、つまり言い換えれば痛むのも早いので、大抵のレストランでは昼過ぎには提供をやめてしまうが、観光地であるこの街では夜に白ソーセージを所望する客のために昼過ぎにも仕込んだり、肉屋から仕入れたりするところもしばしばある。このソーセージには粒が大きめの、甘い味付けがなされたマスタードを付けて食べるのが一般的だが、エストラゴン入りのものと比べると固さがゆるいため、こちらは小さな瓶に入れられて大きな皿の横に慎ましやかに置かれていた。そして最後に店員はプレッツェルが入ったかごを空いたスペースに置き、「Guten Appetit」と言って去っていった。

「ぐーてんあぺてぃーと?」
「召し上がれって意味よ」
「ああ、なるほど」








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