「それにしても、ウィルスソフトよりも大事なんでしょうか指紋偽造って」 「やはりそこだな」 約二時間、往路以上に速度を上げて走ってきた。帰りは自分が運転すると言ったの言葉を降谷が聞くことはなく、反対に、街に戻るまで眠っていると良いと言った彼の言葉を彼女が聞くこともなかった。もはや景色を楽しむ速さではなかったが、ハイウェイを灯す街路灯がない以上、夜の濃藍が染み出す風景はどこを見ても代り映えがしない。それどころかこの暗さでは、ヘッドライトに照らされた道路の伸びる画が距離感を失わせてしまうのか、ますますアクセルが踏み込まれていく一方だった。スピードメーターをちらりと覗き見たが、今見たものはなかったことにしようとしたのは言わずもがなだ。 「変装の達人なら、隠すほどのものじゃないですよね」 「ああ。変装術に偽造された指紋がこの先加われば怖いものなしだしな」 「組織の人たちだってそっちの方が納得しそうなものなのに・・・」 「なのに彼女は隠した。ふむ」 一体何を考えているのだろうか。の言う通り、変装の得意なベルモットにとって、指紋を作り出すことぐらい明るみになったとて別に困りはしないだろうに。特定の誰かの指紋を作り出すことは、採集の手間さえ抜きにすればさして難しくはない。けれどゼロの状態から作り出すのは違う。いちいち街で不特定多数から指紋を集める姿こそ滑稽だ。それをソフトとプリンターが解決してくれるというのならこれ以上画期的なものはないだろう。なにより万が一にも任務中に指紋を残してしまったとしても、偽造されたものなら決定的な証拠逃れの手助けにはなる筈である。 それに彼女は自分自身が変装するだけでなく、周りの人間を変装させることもしばしばだ。もちろんバーボンとして行動する降谷も度々その恩恵に与っている。組織の活動が潤滑になることこそあれ足を引っ張りはしないというのに、彼女はそれを隠そうとした。 「降谷さん言ってましたよね、ウィルスソフトはもしかしたらジンって人には知らされてない命令かもって。でももしそれが命令じゃなかったとしたら、怪しさ満載すぎて余計に首突っ込みたくなりません?」 「順当に考えるならそうだろうな。命令じゃないのなら誰だってその真意を探りたく・・・ああ、そういえば、彼女時々言っていたな、”A secret makes a woman woman”って。指紋ソフトの方ももしかしたら明るみになっても良かったのかもしれん」 「・・・さすが大女優、私には一生言えない言葉です・・・」 「ま、君はすぐ顔に出るしな」 「なっ、それは」 「俺のせいだって?」 冗談めかして笑って見せればは恥ずかしそうに口を噤んでしまう。だがそれを気取られぬようにすぐに口を開いた。 「あっ、でも、指紋ソフトの存在を隠したいってことは、組織には知られたくないことがもうあるってことも考えられますよね、偽の指紋を作ってまで秘密にしたい、みたいな・・・」 「え・・・?」 降谷が一瞬を見やる。が、案の定まだ消え去らない恥ずかしさから視線を外されてしまう。再びフロントガラスに戻った彼の目はどこでもない一点を見つめているようだった。そして呟く。「そういう見方もあったな」、と。あまりにも小さな声で末尾まで聞き取れなかったらしい。隣から、「え?」と声が上がる。 「これからの危機回避のことばかり考えていたが、もうすでに起こしたことの火消しの線もあるのか」 「と、いうと?」 「いや、あくまで可能性の一つだ。彼女は・・・もしくは幹部以上の誰かが過去になんらかの重大なミスをしていたのかもしれない」 だとしても火消しに奔走するようなタイプにはあまり見えないと思い浮かんだところで、同時にこれ以上は考えてもあまり意味がないという気もした。一度頭を冷やして、もう一回最初から今回の出来事を見つめなおしてみた方が良いのかもしれない。できうる限り組織のメンバーの経歴を探るとともに。目下のところジンに頼まれた仕事は全てこなしたのだ。ウィルスソフトが組織から与えられた任務だったのか否かを確認してから、指紋製造の件をどうするか考えても遅くはないだろう。 「なんにしても、これでやることは解決したわけだ」 「ほんとにお疲れさまでした。でも私あんまり役に立たなかったですね、すみません」 「そんなことあるわけないだろ、よくやってくれたよ。というか前線に出させる気はなかったのにすまないことをした」 「謝っちゃだめですよ、私が望んだことなんですから。・・・あ、そういえばなんであの時撃たないでって言ったんですか」 あの時。彼女が言ったのは、降谷とオスカーが肉弾戦になった時のことだった。威嚇射撃の一発があれば、きっと空気を変えることができただろう。そうすれば余計な殴り合いなどせずとも良かった筈なのに。 「・・・悔しかったんだ、自分にも、あの男にも」 「くやしかった?」 「君に発砲したろ、あいつ」 「あ・・・気付いてたんですか?」 「当たり前だ」 別行動のメリットは沢山ある。けれど同じぐらいデメリットもある。防御面は特にそうだ。オスカーがに発砲したあの時、降谷の心臓を襲ったのは身の毛のよだつ恐怖だった。消音機付きではどのように着弾したかまで聞き取るのは難しい。それもロッジの裏口にいたのだからなおさらそうだ。無事だからこそ今こうして笑っていられるが、自分の手で守ることもできずに彼女が怪我をしていたとしたら、それほどおぞましいことはない。 「私、意外と運が良いんですよ、ほら、山田を捜査してた時も怪我しなかったじゃないですか」 「肝が冷えることが多くてかなわん」 困ったように降谷は笑う。遠くの方にはちらほらと光が浮かんでいた。ニューヨーク市までもうまもなくだ。ハンドルをぎゅっと握りなおして、徐々に速度を市内交通に適したところまで落としていく。途中、反対車線を大型トラックが通り過ぎていった。目が眩むほどの大きなライトから放たれる光が、運転席を直に照らす。くっきりと浮かび上がる降谷の横顔を見て、は言った。「降谷さん、やっぱり運転変わります」、と。けれど再び断られてしまった。大丈夫だとばかりになんてことなく笑う彼の顔は、一見普段と変わらない。彼女はじっと、納得のいかなそうな顔で隣を見続けた。 相手への配慮や見栄を越えたところに根付くある特性。弱味になる部分を押し込めてしまうのは、複数の顔を持つが故のものなのだろうか。無意識の内にそうする術を身に付けてきてしまった彼の精神は、ひどく現実離れしている。しかしそれを上手く伝える言葉を彼女は知らなかった。どうしたら良いのか分からず、薄暗がりの中に視線が俯きがちに落ちていく。代わりに口を開いたのは降谷だった。 「そんなに疲れてそうに見えたか?」 こくり、とは首を縦に振る。 「・・・そうか」 「夢を見たんです、降谷さんの」 「俺の?」 「追いかけても追いつけなくて、それで、次の瞬間には、全部無かったことみたいにして私に笑うんです」 「・・・へえ」 「降谷さんが強い人だって、よく分かってます。でも私、そんなのばかりは、やですからね」 ぽすん、と降谷の右肩にの拳が当てられる。触れているのかいないのかも分からないぐらい軽かったにもかかわらず、その一突きは鉛のように男の胸に重く落ちていった。 近付く街の光を見続けたまま、降谷は「そうだな」とハンドルから右手を離して、力なく落ちていく、自身よりも小さな拳を覆った。瞬間、俯いていたの顔が上がる。「降谷さん?」、と引き気味になる手を離さぬように、彼は力を込めた。雁字搦めになった糸のように力強く握られた指を、一本一本解いて己の指を絡ませる。反応できずに彼女の手のひらは開かれたままだ。ドリンクホルダーの上は決して置き心地の良いものではなかったが、気になどしてはいられなかった。 「君にはそんなこと、しているつもりはなかったんだけどな」 苦笑とともに紡がれる、柔らかな声。降谷は親指でそろりと這うようにゆっくりとの肌を行き来しながら、さらに続けた。 「君と出会う前、思ったことがある。一度でも立ち止まってしまったら、きっと前には進めないだろうと」 自分を動かしてきたものも、自分を支えてきたものも、どれもが他の誰でもない自分自身が作ってきたものだった。実体のない思念。ただそれだけが、自分の背を押してきた。 「自分を奮い立たせるために、余計なものは捨てようと決めていたんだ」 誰かに心を完全に許すことはできなかった。だから思い出だけで十分だった。思い出はいつどんな時でも美しい。優しいものだけじゃなく辛く悲しいものであったとしても、記憶は儚さと結び付き、唯美的な世界へと昇華する。心に寄り添う記憶を集めて守ることは、道を作ることと一緒だ。だからそれ以外は余計なものだと、信じて疑わなかった筈なのに。 「けど」 「・・・けど?」 「全部、君に奪われてしまったよ」 「わたし、に?」 「そう。、君に。君の傍でなら、色々なことを乗り越えられる気がしたんだ」 たとえ後ろを振り返ったとしても。たとえ自分の立ち位置を見失ってしまったとしても。たとえこれまで見て見ぬフリをしてきた恐怖と不安の数々に押し殺されてしまいそうになったとしても。 「でも、私はなにも、持ってないです」 「なにを持っていて、なにを持っていないかなんて、自分じゃ分からないものだ。俺がもらった沢山のものはきっと、君からしてみれば何気ない言葉だったり仕草だったのかもしれない。でも確かに、くれたのは君なんだ」 「・・・」 「信じられないか?」 「そんな、こと」 「・・・話したいと思った。色んなことを。俺のこれまでも、これからも。いいやちがう、きっと聞いてほしいと思ったんだ、君に」 自分の記憶の、一番奥底にあるものを。初めて泣いた日のことを。幼馴染と喧嘩した日のことを。ばかみたいに笑った日のことを。途方に暮れたこと、仲間と競い合ったこと、心が満ち足りたこと、上手くいったこと、いかなかったこと、苦痛に押しつぶされそうになったことも、立ち上がろうと決心したことも。共感が欲しいのではない。同情だって欲しくもない。ただ傍で、聞いていてほしいのだ。己の歩んだ道の一筋一筋を。 「ああそうか、かっこいい俺なんかどこにもいないというのを知られるのが、どこか怖かったのかもしれない。だから無意識の内になんでもない顔をしていたのかもな」 「降谷さん・・・」 「でも今気付いた。良いんだ。、君になら」 そういう俺を、見られても―…。 刹那見開かれたの瞳。静かな車内にそっと響いた降谷の声音には、かすかに歓喜の色が含まれていた。 大きくなった街の明かりがブルーグレイの瞳に反射し、その中で、宇宙の色を溶かしたような光が車の流れに沿って次々と流れていく。「?」と紡がれた時にはもう、彼女の胸にせり上がった熱が涙となって零れていた。心の中に溢れる熱は、やはり言葉にはならずに喉の奥でしびれるように消えていく。一気に息を吸うような、乾いた呼吸で空気を震わして彼女は泣き続けた。ぼろぼろと、こみあげるままに。 が手放しで泣く姿は降谷には初めてのことだった。頬を拭ってやることができない代わりに右手に力を込める。すると、驚くほどの強い力で握り返された。皮膚に食い込むぐらいにぎゅっと強く。重なり合う皮膚が互いの温度を分け合うように馴染むのとは反対に、彼女の指先は少し冷たかった。 口を噤んで、ただただ手を繋ぎ合う。どのぐらいそうしていたのかは分からない。けれどきっと、望んだものは今ここに、二人の間に与えられた。それで十分だった。 * 「あ〜お腹いっぱい」 「腹ごなしに歩いて帰るか」 「賛成です、デザートまで食べちゃいましたもんね」 帰って寝るだけにしては些か食べ過ぎてしまった。深夜も近い時間だというのに、店の外は溢れるネオンで明るく、行き交う人の量もちっとも減っていない。どこかの誰かが言っていた。ミッドタウンを照らすこの人工的な明かりはまるで光の洪水だと。そんな眠らない街をホテルに向かって歩き出せば、酒飲みが増えたからかことさら陽気な声がそこかしこに響いていた。 「それにしても、なんだか久しぶりに呼ばれました。って」 「本名を呼ぶわけにはいかなかったからな」 「この名前を使うって言われて、いつかは呼ばれるって分かってはいたんですけど、いざ呼ばれると」 「呼ばれると?」と降谷が続けると、は僅かに眉を下げて、「・・・少し、羨ましいなあって」と意識して耳を傾けねば聞こえないほどの声量で言った。自分のどうしようもないわがままな部分だと分かっていたからこそ、この声が隣を歩く彼に届かなくても困ることはなかった。けれど降谷はそれを聞き逃さない。雑多な音が飛び交っていても。どういう意味だと口を開きかける前に、言葉が続いた。 「あ、タイムズスクエア、着きますね」 ほら、と指を差された方に視線を向ける。ひと際ネオンの明るい看板が群をなす島はすぐそこだった。虫の泣き声に耳を馳せる夜の静寂なんてもの、ここにはありはしない。あるのは希望を抱いて明日を夢見る女優の舞台広告に、シャンパンを片手にこちらに向かって不敵な笑みを浮かべる俳優のパノラマボード、新発売のドリンクの映像や切り絵のように太い線で描かれたライオン、何種類ものディスプレイを見つめ上を向く人々と、それから浮かれ調子の華やかな空気を裂くように通り過ぎていく車の波だ。 ガラス張りの高層ビルの間に立つ格式ある劇場も、ファストフード店の横に立つ創業百年越えの老舗も、その奥に見える夜空も、全てがさんざめく彩光とその余波に照らし上げられて一つの街を作っている。それが世界の中心で、世界の交差点。人種も、国籍も、性別も、年齢も、職業も、ここでは何の意味も持たない。今ここにあるものが作り上げる一つの景色こそが唯一だ。 「どうして、羨ましいと?」 立ち止まったのは、一昨日の晩にが降谷に助けられた所だった。あの時と人が違うだけで周りの様子は殆ど変わらない。買いたてのショッピングバッグを肩から提げて歩くのも、塊のように隙間なく集まってセルカ棒で写真を撮るのも、パトロールをする警察も。 巨大な広告塔の明かりに、二人の輪郭がぼやけた。 「・・・降谷さんと初めて会ったのが、だからです」 子供じみた、おかしな話なんですけどね。困ったように笑いながら、彼女は続けた。「もちろん同じ人間なんですけど、なんていうか、あっちの方が自信があったのかなって」、と。 (・・・好きになって、しまったから) 彼の傍は居心地が良い。自然体でもいられる。けれどそれと同じぐらい、思うように行動できないこともある。人が持つ感情の中でも好きという気持ちは厄介だ。今まで気になりもしなかった一つ一つの言動が、相手にどう映るのか気になってしまうのだから。だけどだったあの頃は、完全にこの状態になる前の自分だった。ただそれだけだ。答えを彼女はよく分かっている。 「キスしたいって言ってくれたり、名前を呼びたいって言ってくれたり、色々、嬉しかったんです。ドキドキしそうじゃなくて、ずっと、ドキドキしてました。でも、もしその裏にがいたらって」 「なんでまたそんな・・・」 「だって私、上司に怒られてばかりだし、降谷さんや風見さんの役に立ててるかも分からないし、自分で自分にもやもやするっていうのも、あれなんですけど」 だから気持ちが混交する。隣に立って胸を高鳴らせながら同時に襲い来る不安を押し込めて。与えられた言葉の一つ一つに歓喜しながら同時に自分がその言葉に合致する人間なのかを憂いて。そうやって常に相反する感情に揺さぶられながら、相手の存在を切望していた。 「それをずっと、考えていたのか?」 「・・・あはは」 口を噤んだを降谷は真ん丸にした瞳で見続けた。くだらないと、思われてしまっただろうか。穴が開くほどに見つめられ、平静な気持ちを失いはふと目を逸らす。気まずい沈黙だったのか、それとも心地の良い沈黙だったのか。雑多な街の音だけが、しばしの間二人を包み込んだ。 なんだかとても女々しいことを言ってしまったのではと考えることを放棄すると、彼女の耳に急に外の世界が大きく流れてきた。その音を景色と絡めて彼女は思う。バー以外の店も大抵深夜一時まで開いているなんて流石世界のど真ん中だとか、こんなに肌寒いのに真っ裸でギターをかき鳴らす、もはやコンセプトがよく分からないターザンの恰好をした人の周りで盛り上がる人間の熱が凄いとか、きっと女性が扮しているのであろうピエロが観光客の前でおどけてみせる姿が可愛らしいとか。それを人は現実逃避と呼ぶのだと気が付いたころ、隣に立つ降谷はなにか憑き物でも取れたかのように、ふっきれた顔でくすりと笑っていた。 「降谷さん?」 「すまない、君があまりにも可愛くて」 「い、いまのどこが可愛かったんですか、意味わかりません・・・」 「いや、時々明け透けにものを言うくせに、そんなことで悩んだりするんだな君も」 「そんなことで」よりも「明け透けに」の方が気にならないでもないとは神経の端にズキズキしたものを感じるが、主眼はそこではない。今は口を挟むまいと脇に置いて、「そんなことで悩むから」と言いかけてはたと声を詰まらせた。そんなことで悩むから恋なんです、と言うことができずにすぐさま「大変なんです」と続けたが、どちらにせよあまり意味がなかった気がして顔を背けようとしてしまう。けれど降谷に名を呼ばれてしまった。 「俺とバーボン、どっちが君にとって大事なんだ?」 「どっちがって・・・そんな、どっちも大事です、だってバーボンも、降谷さんだから」 「なら答えは出ているじゃないか。君とだってそうだろ。・・・だけど」 その先を言わぬまま、降谷は腕時計に目を落とした。「もうこんな時間か」と呟いて、短針と長針が近付くのを見とめる。休むことなく光を映し続ける辺りを一瞥すると、今ここにあるものがすべてなのだともう一度言い聞かせるかのように、夜の波が肌に染み入ってきた。 「なあ。年末のカウントダウンを知ってるか?」 「みんなで騒ぐっていうあれですか・・・?」 「それも間違いじゃない」 「・・・花火が上がるっていう?」 「うん、それも間違いじゃないな」 「?」 一体何を思っているのだろう。相手の考えが分からずにが首を傾げると、甘やかに目を細める降谷の顔がやけに鮮やかに脳裏に刻まれていくのを感じた。瞳に反射するネオンが宝石みたいに、はたまた星のように煌いて、まるで魔法にでもかかってしまったかのように彼の織り成す動きから目を離すことができない。 「、おいで」 伸ばされた手のひらに、は降谷の顔を窺いながら、おずおずとためらうように手を重ねる。 「あ・・・」 そっと握られるや否やその手を引かれ、人ひとり分あった距離が瞬く間に詰められる。手のひらから消えた熱は、今度は腰にあった。 「年が明ける瞬間に、キスをするんだ」 「キ、ス?」 かち合ったのはどこまでも澄み渡る空気にも似た、揺らぎのない眼差しだった。不敵な笑みでもなく、あやす時のそれでもなく、ただ一心に、胸を鷲掴みにする気骨な双眸だ。 「そう。そのキスっていうのは、頬なんかじゃない。君の、ここに、するんだ」 ここに、の声と重なるように降谷の指先がの顎を掬う。そろりと伸ばされた骨ばった親指が、唇の形をなぞってゆっくりと滑っていく。瞬間、電気が走る。肌が産毛立ち、触れられたところが燃えるように熱を帯びた。 (・・・キス、される) すぐ先の未来への予感。けれども絡んだ視線をほどくことはできなかった。いや、告げていたのだ。ふつふつと沸き上がる心臓が、その瞳を離してはならないと。視界の隅にぼやけて映る大きな時計の秒針が、刻一刻と頂点に向かって進んでいた。いつかの時と同じように、から音が失われていく。聞こえるのは、自分の名を呼ぶ男の声だけ。見えるのは、胸を焦がすこの彼の顔だけ。感じるのは、腰を引く美しい腕と、口元を攫う繊細な指先だけ。そうして端正な顔が近付いてくる。全ての景色を奪い去るのと、全ての針が重なったのは、同じだった。 「ふる、や、さ、」 壊れ物に触れるかのように優しく押し当てられた熱い唇。一瞬にして何もかもが溶かされる。はゆっくりと瞼を閉じて、降谷の背に回した手に力を込めて甘受した。触れ合うだけの軽いキス。頬をかすめる鼻先から感じる呼吸に鼓膜を震わせて、溶けゆく粉雪にも似た去り際の熱に、淡い寂しさをつのらせる。ゆっくりと瞼を開けば、おだやかな色合いの瞳が向けられていた。 「・・・ばかだなは。どんな俺も俺なら、どんな君も君なのに。だけどそれだけじゃない、そういう君も含めて今ここにいる君こそが大事なんだよ」 「ここにいる、わたし?」 「ああそうだ。ここにいる君」 それを示すように、口元にあった降谷の手が皮膚を這って首筋へと滑り、「耳を真っ赤にする君のことだ」と耳たぶを遊んでは、やわらかく頬を包んだ。 (・・・そっか、そうだったんだ) 心に住み着いた靄めきがすっと退くのをは感じた。血が洗われるとは、もしかしたらこういうことを言うのかもしれない。部屋の空気が入れ替わるような、泉から清らかな水が湧き上がるような、はたまた押し寄せた波が引いていくような、そんな気分だった。 (くだらないことずっと気にして、そのうえ降谷さんのことなんでもかんでも知ってなきゃ前に行けないなんて、そんなこと、ないのに、そうよ、だって大事なのは・・・) 自分には何ができるだろう。そのためには何を知らなきゃいけないんだろう。そんなことばかり考えてきてしまった。それがただのエゴだと気付けずに。愛は一人でばかり紡ぐものではないというのに。 「ほんと、ばかですね、わたし」 眉根を寄せて、けれどもくもりのない笑顔を浮かべた瞳はうっすらと濡れていた。そんな淀みのない彼女を前に、釣られて降谷も口角を上げる。いつか自分の心を奪っていったあのきらめき。眩しくて、華やかで、通る道全てに花を咲かせそうな命のかがやき。それを伝えるのに、着飾った言葉はどこにもいらなかった。 「、君が好きだ」 つぶらな瞳から、涙がひとつ零れていった。これ以上は押しとどめられないというところまで溜め込んで、涙袋のなだからかな山を伝ってほろりと落ちていく、そんな涙の流し方を、ここまで間近にありありと見ることが人生の中で一体何度あるだろう。しかもその粒は街の大きな明かりを吸い込んで、高揚した頬に美しい跡を頬に残していったのだ。降谷が指先で優しく拭うと、濡れたまつ毛を伝ってまた雫がほろりと流れる。 「どうしようもないぐらい、君が好きなんだ」 「・・・っ」 「・・・返事は?」 「・・・き・・・、い、です」 「ん?」 「・・・くる、しい、です、好きが溢れて、くるしいです」 心を覆っていたものが無くなったと思ったところに流れ込んできたのは、とどまるところを知らぬ慕情が織り成す苦しさだった。好きが胸を詰まらせる。好きが呼吸を苦しくする。好きが涙を溢れさせる。零れる雫を拭いながら、鼻を啜り、は言った。 「すきです、好き、降谷さんが好き・・・っ」 聞くや否や降谷は力いっぱいにを抱きしめた。ああ、可愛い。情けない犬みたいに眉毛をハの字にして泣いて。鼻先も目元も赤くして、涙でぐちゃぐちゃなのに、なんでこんなに可愛いんだろう。 (好きが溢れて苦しいなんて、ほんとに、どこまで、) 心をかき乱したら気が済むのか―…。 背中に手が回されて、ぎゅっと服を掴まれて、ぴたりとくっつかれて。自分にしがみつくこの細腕を諦めることなんて、誰ができようか。 降谷は腕の中のを窺い見るように首を傾げてキスを落とした。涙のせいか少し塩気がする。けれどそんなのお構いなしに、ふっくらとした唇についばむように自身のそれを寄せてしっとりとするまで何度も何度も食んだ。目を瞑った彼女の顔が次第に上げられると、髪をかき抱くように手を忍ばて、舌先では唇をちょんとつつく。密着した体がひくりと跳ねるも背にある手が降谷を離さない。肌を突き破らん勢いで打ち鳴る心臓の脈はさながら続きを期待しているかのようで、ねろりと赤い高ぶりを割り込ませれば、もどかし気に先端部分を絡ませてくる、自分以上に熱いそれに興奮を覚えた。一旦引いて歯列をそっとなぞると、驚きからかくすぐったさからかは身をくねらせる。けれど逃がさないとばかりに降谷はぐっと彼女の腰を引き寄せて、舌全体で深く懐柔していった。 「んっ、ぅ」 艶を含んだ苦しそうな息継ぎが漏れる度に赤くざらつく舌が荒さを増す。何度も角度を変え、もはやどちらのものか分からぬ唾液をまとわせて、まだまだ足りないと舌を絡ませられながら、は思考が段々と遠のくのを感じた。果てを知らぬ思慕が理性を蝕んでいく。ここが世界の交差点で、眠らぬ街で、大勢の人々がいるだなんてことを忘れてしまうぐらいに。遠くの方でかすかに何かを叩く音が聞こえたような気がした、のだけれど。荒々しく口内を貪る舌技にすぐさま意識を引き戻されて目尻が下がっていく。上気した息が互いの産毛を撫で、後頭部に回された大きな手のひらにしっかりと固定されてしまえば、隙間などないほどに再び唇を塞がれてしまっていた。 恍惚として、眩暈にも似た感覚に身を寄せ合う二人の近くに、違う客を相手にしていたクラウンが忍び足で近寄る。音をたてぬよう、けれどもショーの一部だと言わんばかりに大袈裟なリアクションで周りにいる人間を引き留め、指を差してアピールする。なんだなんだとちらほら通行人が視線を寄せ、呆れて通り過ぎていく者もいれば、なんてロマンチックなのと足を止めて魅入る者もいて、クラウンにとってちょうど良い人だかりになったところで、彼は持っていた籠から何かを鷲掴むと、それを思い切り空へと舞いあげた。その瞬間、「わあ!」と歓声が上がる。 一体何の声だろう。降谷は舌を抜きつつも、名残惜し気に数回下唇をやんわりと食んでからようやくを解放する。瞼を開け、それに続くように彼女の瞳も露になると、雪のような何かが自分たちの傍でひらひらと舞っていることに気が付いた。 「っは・・・ぁ」 「・・・紙吹雪?」 「へ?あ・・・でもなんで」 肩で息をしたがふと脇を見やる。するとそこには自分たちのキスシーンを眺める観客たちがちらほらといるではないか。 「!?」 「ん?どうし・・・あ」 目を真ん丸にしたに続いて降谷も顔を向けると、何人もの人々から拍手と指笛が上がっていた。まるで映画のようなワンシーンだった、と彼らは満足げな顔でクラウンの持つ籠にコインを次々と投げ入れていく。ああ、自分たちはまんまと使われたのだと気付いた頃にはもう時すでに遅く、白地の肌にスポンジでできた、ひと際目を引く赤い鼻の顔が二人の方を振り返ると、切れのあるグッドサインを一つ掲げておどけた足取りで去っていってしまった。 小さくなるクラウンの背中をきょとんと見つめたのも束の間、降谷とは顔を見合わせて堪えきれずに吹き出す。 「やられたな」 「そうですね」 「良いことにするか」 幸せが綻ぶような笑顔で二人はくすくすと笑い合う。の髪に付いた紙吹雪のかけらをやさしく払うと、花びらのように落ちていった。同じように降谷の肩に乗るそれに彼女も手を伸ばして、淡い色をぼうっと見つめてはたと動きが止まる。 「まって、そ、そとで、キスしちゃ・・・っ」 キスをしてしまった。こんな公衆の面前で。事の大きさに気付いてみるみるうちに顔が熱を帯びていく。 「大丈夫、俺たち以外みんなすぐに忘れるさ」 だってここはアメリカなんだから、と降谷は辺りを見回すようにを促す。恥ずかしさから口元に手を当てたまま彼女の視線があちらこちらへと動けば、そこはなんてことのない、雑多な音が犇めき多くの人々が行き交ういつも通りの街並みだった。 「だろ?」 「う・・・」 「よしよし、さ、帰ろう」 差し出された手のひらの尊さ。重ねれば、一本一本の指の間を彼のそれがするりと通る。絡み取られて、縫うようにつなぎ合わされた。前を向く降谷の髪がふわりと揺れる。月の色。夜の明かりに照らされ逆光に透ける髪の色は、まさにそんな色だった。そこからうっすらと色付いた耳の端が覗いている。焼き付けなくては。炎のゆらめきにも似た熱の宿る瞳で、の脳裏に今この瞬間が刻まれていく。なんて美しく、眩しいのだろう。 愛を込めて握り返された手を引いて、降谷は歩き出す。一歩、また一歩と眠らぬ街に溶けていく彼らを、揺蕩う光の洪水がどこまでも包み込んでいた。 つぎへ→ |