夢も見ないほどに眠り落ちた、とてもたおやかな目覚めだった。カーテンの隙間から差し込む朝の光の棚引きに、降谷の瞼がうっすらと開かれる。ぼやけるまなこを擦ろうと腕をもぞりと動かすと、ふと何かに当たった。ああそうか、とそっと布団を捲れば、昨夜眠る前に後ろから抱きしめたがこちらを向いていた。すやすやと、気持ち良さそうに眠るとても無防備な姿。なにもしないからただ一緒に眠りたいだなんてずるい言葉は、この表情を前に幾ばくかの罪悪感を呼んだが、そんな気持ちは一つのベッドで体温を分け合いながら迎える朝の多幸感にすぐに負けてしまう。
気骨な指が彼女の毛先にいたずらに絡む。くるくると遊ばせてその指通りを堪能すると、今度は頬の丸みを下からなぞり上げた。今日もきっと良い天気だ、と起こす意味も兼ねて、桃色に色づく形の良い唇にも指先を這わす。やんわりと押し返してくる弾力は、確かに昨日奪ったものだ。

(・・・忘れられなかった)

初めてと、唇を合わせたあの夜のことが。
素性を知らないという興奮も確かにありはしたけれど。決して一時の気の迷いに流されたものではなかったからこそ、心の底からずっと望んでいたのだ。それが今、己の腕に収まっている。規則正しい呼吸を浮かべ、力の抜けた体をこちらに預け、おだやかな顔で眠っている。それらを精一杯肌で感じながら降谷は思った。この愛しさに包まれる気持ちを一体なんと呼ぶべきだろうかと。額にかかる前髪をそっと退けて、慈しみに満ちた眼差しとともに唇が落とされた。

「ん・・・」

ぴくりと瞼がひと波揺れて、声が漏れる。頭をそっと撫で、足の甲ではのふくらはぎをするすると滑らせながら目覚めを待った。重なり合うまつ毛とまつ毛が重たげに離れて、焦点の合わぬぼやけた瞳が露になる。人の視界は、映像よりも光を先に受け入れるらしい。部屋に差し込む棚引きに条件反射で眉を顰めて彼女は瞼を閉じた。時間をかけて再び瞳が開かれれば、まだ少し気重そうにとろんとしていた。

「おはよう」

耳に降りかかる柔らかな声が、夢と現実の狭間からを引き戻しにかかる。近くに佇む男の顔を前に、彼女はハっと目を見開いて咄嗟に両手で顔を覆った。一昨日その役目を担ったのは布団だったが、変わらぬ仕草に降谷は、ふふ、と鼻息交じりに嬉しさを零す。

「ぐっすりだったな」

初な反応がたまらないと指先を伸ばして髪を耳にかけてやれば、案の定色づいたそれが姿を現した。こそばゆさからは肩をよじらせて、そろりと開いた指の間から降谷の顔を覗き見る。口角の上がる口元が、昨夜のキスの距離を彷彿とさせて仕方なかった。

「おはよう、ございます」
「ほんとすぐに顔が赤くなるなあ」
「降谷さんにだけですう・・・」

ほらまたやっぱりそういうことを言うのだからとは布団を被るように身を丸まらせると、上から、「それは嬉しいことだ」と見えなくとも笑顔で言ったのだろう声が鼓膜を揺らす。

「う、墓穴掘りました?」

もしかしてまたやってしまっただろうかとちらりと瞳を覗かせたその姿は、降谷からしてみれば上目遣い以外の何物でもなく、むしろ物凄いスピードで穴を掘りまくっているとばかりに心臓がふるふると震えるのを感じた。

「掘った掘った」

リップ音とともに額に一つキスを落としてから降谷の体が大きく動く。ベッドに上体を起こすとスプリングがしなりを上げた。二人の体温で暖められた布団の中に部屋の空気が入り込む。は恥ずかしそうにおでこを押さえながら、つのる思慕の眼差しで彼の背中を見つめていると、再び睡魔がゆらりと流れてくるのを感じた。いけない。もう起きなくては。夕方には飛行機に乗るのに連日の忙しさから何一つとして荷物をまとめていないのだから。腕に力を入れると、くるりとこちらに向きを変えた降谷の手が伸ばされる。

「ほら、起きるぞ」

何の気なしに手を伸ばす。思いのほか強く引かれてぐいと起こされれば、頬に触れそうなほどに間近に迫る相手の顔に心臓がどきりと高鳴った。

「心臓に悪いです降谷さん」
「誉め言葉しかでてこなくてなによりだ」
「・・・!」

素早く触れて、離れていく。こんなにも簡単に唇を奪われたのは初めてのことだった。




*




マンハッタンのど真ん中、セントラルパーク。南北に約四キロ、東西に約八百メートル。都心にあるとは思えないほどに広大な敷地を持つこの公園には、公園という枠を超えるほどの施設や名所が沢山あった。自然保護区、遊歩道、湖、プール、アイススケートリンク、スポーツ用の芝エリア、記念碑、劇場、城などなど挙げればキリがないほどで、その殆どが元々の自然を利用して造られたらしい。
犬の散歩にジョギングをする人々、九千あるというベンチの各所で読書に耽る人たち、噴水の水飛沫を浴びてけらけらとはしゃぐ子連れの親子。初夏を間近に控えた公園の至るところには、ビニールシートを持ってやってきた人々が思い思いの時間を過ごしていて、日陰に長居するにはまだ肌寒いらしくみな日向に陣取っていた。時間が流れるにつれ太陽も動けば、彼らもまた日の当たる方へとずれていく。恋人と会話を楽しむもよし、仲間とカードゲームをするもよし、自然と向き合いスケッチをするもよし、楽器の練習をするもよしの、まさに地元住民の憩いの場だった。

「ん〜気持ちいい。ピクニック日和ですねえ」
「今回はコーヒーだけじゃなくがっつり買い込んだしな」
「レインボーベーグル買っちゃいましたね」
「ふふ、体に悪そうな色だった、さ、敷けたぞ」
「ありがとうございます。降谷さんがまだこれ持ってたなんて、ちょっとびっくりしました」

とんとんと、二人の下に敷かれているフェルト地を叩く。それはいつか英国庭園に持って行った、あのシートだった。とっくのとうに捨てたのだとは思っていたが、話を聞けば捨てるに捨てられなかったらしい。荷物になるからと一度は捨てようとしたものの、空港で見たニュース速報がそれを阻んだという。忘れもしない邂逅の街が降谷に残したものはとても大きかった。
あの時感じた心の穏やかさをもう一度感じたい。『私のしたいことの一つに、「降谷さんがしたいことをする」があるからです』、と言われて朧気に浮かんだのはそれで、触り心地の良い温かな布地に手を滑らせれば、彼女の素性を探ったあの頃がありありと目の前に浮かぶようだ。

「普通の女の子みたいに無邪気に笑う君が何者なのか、必死に考えたものだよ」
「ばれたらどうしようってひやひやしてました」
「そうか?結構楽しんでたじゃないか、靴まで脱ぎ散らかして寝っ転がる裏社会の人間なんてそうそういないぞ」
「その靴を綺麗に整えてくれる降谷さんみたいな人もいませんけどね」
「はは。あの時は、こんな日が来るとは思いもしなかった」

心さえ乱されていなければもっと早く真相にたどり着いたのだろうけど、と懐かし気に微笑んで、降谷はスリーブの付いたカップをに差し出した。香ばしいローストの香りを楽しむように鼻を動かし、一口流し込む。さざ波のように風に揺らぐ新緑に包まれた中で飲むコーヒーは格別だった。
春の終わり、初夏のはじめを照らす日差しはまだ柔らかさを残していて、幾分高いところに位置した積雲が季節の変わり目を告げている。遠くの方では木漏れ日がいくつも筋を作り、子供たちが日向だけを踏む遊びをしては甲高い声を響かせていて、近くを時折ボールを加えた犬が全速力で駆け抜けていく。またその近くでは仲睦まじげなカップルが内カメラを掲げて写真を撮っていた。反対側では日がな一日本と向き合っているのだろう眼鏡をかけた大学生らしき若者が、小難しい顔で堆い本の塔を相手にしている。聳え立つ摩天楼の中の箱庭は、どこを切り取っても穏やかそのものだった。

「こういうの、すごく良い。とまたしたいと思っていたんだ」
「私も。降谷さんとしたかったです」
「頭が空になるというか、気持ちが軽くなるというか」

降谷は空を見上げた。果てのない、どこまでも美しい青が瞳を焦がす。英国庭園といい、セントラルパークといい、こういった景色は中々日本では見ることもできなければ、こうして何でもない平日の昼間からのんびりすることもできなかった。いい年した大人が昼間からレジャーシートを敷いて河川敷に横たわる姿は世間的にはあまり良しとされないことの方が多いし、公園のベンチで本を読むだけで不審者だと通報されることもあるというのだからひどい話だ。
大人になると、時間がどんどん過ぎていく。子供の頃はあれだけ長いと思っていた茹だる暑さの夏も、厳しい寒さの冬も、今ではあっという間だ。師走には口をそろえて大人は言うのだ。今年も一年あっという間だったねと。同時に時間がないと悲鳴を上げて、色々な物事を言い訳付けて蔑ろにしてしまう。だからこそ、ただ太陽を求めて、芝生のベッドで一息つく。心の余裕を取り戻すその行いが、精神の休養そのものだということに気付かされたのは彼女と出会ってからだった。

「・・・時々、どちらが本当の自分か自信がなくなって、それでどちらでもない自分が言うんだ。お前の生き方はそれでいいのかって。かといってもう後戻りはできないし、まあ、したいとも思わないが」
「後悔、してますか?」
「まさか。かけがえのない友たちに出会ったし、なにより君と出会った。後悔なんて、する筈がないんだ」

確かに失ってしまった人たちは少なくはない。別れを告げられなかったことに対する後悔はもちろんある。だけれども、自分が歩んできた道を否定してしまったら、それこそ大切なものを失うことになってしまう。自分と関わってきた人々が生きた証を、紡いだ言葉を、刻まれた思い出を、そのどれもを守る一番大きなものは、いつかあちらへ行くその時まで、今を生きていくことだ。生きることは、彼らへ届けられる唯一無二の愛情なのだから。

「それに、君は俺の行いを光だと言ってくれた。だからもうきっと、本当に大丈夫なんだ。なんて、君の言葉がいつも俺の心を攫っていくこと、君は知らないんだろうな」
「そんな・・・降谷さんこそ、そうなんですからね」
「俺?」
「なにが正しいとか正義とか、答えが沢山あるから私には上手く説明できません。でも、教えてくれましたよね、守りたい人たちのためならってあの話。あの時だけじゃなくて、そのあともずっと降谷さんの瞳に嘘はなかったと思うんです。いつもすごく真っ直ぐで、凛としてて。だから私にとっての道標なんです」

ひだまりのような温かさ。今自分を包むものはそれだと降谷は思った。「ありがとう、」、と恥ずかしそう返して彼は目を細める。それはとても、うつくしく、やわらかな目の細め方だった。その姿がいつもの胸を掴んで仕方がない。彼の微笑みはまるで闇夜を照らすともしびだ。つつましく、品があり、繊細で、けれども力強い。どこまでも自分をいざなうきらめき。彼が抱えてきたものを一つでも多く知っていきたい。そんなことを思える相手に、人は人生で何回出会うのだろう。
年を重ねて気が付いたのは、人との付き合い方や友達の作り方がしばしば分からなくなることだった。てっとりばやく逢瀬を重ね、短い時間で相手のことを知ろうとし、たいして好きではなかったとしても、付き合ってみたら好きになるかもしれないなんて夢を描いてくっついてしまう。よくある話だ。何人もそういう人をは目にしてきたし、いつか自分も現実を見てそんな風になっていくのかもしれないなんて思ったことも無きにしも非ずだ。
四半世紀生きてきて、それなりに色んなことを経験してきた。それで分かったのは、十代の頃の、衝動がすべてを突き動かすようなあの恋の熱気に包まれることはもうないということだったのに。全部君に奪われてしまったなんて、彼もひどいことを言うとは思った。全部奪っていったのは、そっちのくせに。そんな甘い皮肉すら、愛おしく感じる。

「・・・なあ、もう一つ、言っておきたいことがある」
「はい」
「俺には、追いかけているおと、ッ!?」
「え?降谷さん?どうし・・・あ」

言葉の途中、目を丸くして肩をびくりと跳ねさせた降谷が後ろに振り向く。どうやら何かが臀部に当たったらしい。すぐさまも彼の視線の先へと顔を向けると、そこにいたのは一匹の猫だった。鼻周りを八の字に分けるように耳先から背中、尻尾まで灰色の毛が流れていて、胸元や足先は雪のように白い。猫は桃色の鼻と口を動かして、「みゃあ」と高い声でおすわりをして降谷を見上げている。

「ラグドール?」
「かっかわいい・・・!」
「野良猫・・・いや、首輪してるな、散歩中か?」

空気をふんだんに含んだ長い毛をぬって首元を確かめると、ヌメ革でできた細身の首輪が現れた。そのこそばゆさが気持ち良かったのか、猫はごろごろと喉を鳴らし始める。人懐っこい姿にが眉根を寄せて目をきらきらと輝かせるのを見て、降谷は彼女も手を伸ばしやすいようにと体勢をずらす。すると隙間を開けたくないとばかりに猫が詰めてくるではないか。

「甘え上手だなあこいつ」
「ふふ、降谷さん好かれてますね」

カーペンターズの有名なあの曲みたいだ、とは思った。彼の髪の色に、瞳の色に、吸い寄せられるようにやってきて。それを言ったらばきっと彼に、俺はそんなんじゃない、と笑われるのだろう。

「みゃうん」

胡坐をかく降谷の足に背中をこすり付けながら鎮座する。人慣れしているにもほどがあるが、ラグドールは猫にしては珍しくおおらかで人が好きな種類らしい。この公園のどこかに飼い主がいるのか、はたまた自力で散歩をしているのかは分からないが、きっと普段から色んな人々にこうしてよく構われているのだろう。
指が沈むほどに細く柔らかい背中の毛を、櫛で梳くように撫でる。シルクかと思わせるほどのなんとも言えない気持ちの良さに、いつだったかが言っていた三大正義の話を思い出して降谷は頬を緩ませた。確かにあれは間違っていない、と隣に座る彼女に視線を落とせば、猫の顎にそろりと指を沈ませて、なんとも恍惚とした表情だ。

「ん〜ふわふわでもふもふ」

至極満ち足りていそうに漏れる、「しあわせ」の声。喉を掻くように撫でられたことに機嫌を良くしたのか、猫は今度はゆっくりと尻尾を振っての足に背を寄せる。するとすぐさま彼女が「ひゃあ!」と両手で口元を覆い、猫の愛らしさに悶えながら嬉しそうに唸りをあげた。その姿があまりにも面白くて、降谷は柔らかい毛皮を弄びながら思わず吹き出してしまう。

(可愛いと可愛いの暴力だな、こりゃ)

くつくつと笑って猫と戯れるを眺めていると彼女から、「あ」と声が上がる。何かを見つけた時のような声音に「どうした?」と降谷が返せば、さらに明るくなった彼女の瞳とかち合った。

「この子、目の色が降谷さんと似てます」
「ほんとだ、近い」

つぶらという、まさに猫のためにあるような表現がぴったりのくりくりとした瞳。美しいブルーグレイをしたそれは降谷のものと比べて青みが強いものの、とてもよく似た色をしていた。「好きだなあ、この色」と愛おしそうに見つめるがぽつりと言う。ひとり言のつもりなのだろうけれど、その声は確かに降谷の耳に届いていた。好きなのは目だけか、なんて女々しい言葉を呑み込んで、彼は今の言葉を聞かなかったフリをし、人の平熱よりも高い猫の肌を撫で続ける。すると、毛に埋もれた見えないところで二人の指先がふと触れ合った。ふふ、と顔を見合わせて二人は笑ったが、不思議なことに触れた指先は猫の体温よりも温かい気がしたのだった。

「ルーシー!帰るわよー!どこにいるのルーシー!」

遠くから響いてきた女の声を聞くや否や、降谷との間にいた猫が血相を変えて駆け出していく。体重を感じさせないほどに軽やかなジャンプは鮮やかとしか言いようがなく、ルーシーと呼ばれた猫は尻尾を上手く使い、公園を大きく曲がって行ってしまった。

「あー・・・いっちゃいましたね」
「ひょんな来訪者だったな」
「かわいかったなあ・・・戻って来てほしいなあ」
「寂しいのか?」

ぽっかりと、熱のなくなったスペースでいまだくっついたままの二人の指先。降谷はいたずらな笑みで、先程ルーシーを撫でていたのと同じように爪先での指の腹をくすぐる。こそばゆいと彼女は口角を上げて指先を丸めようとしたところを、今度は指と指の間に己のそれを差し込み、逃がさないとぎゅっと握りしめる。

「・・・降谷さんがいるから、寂しくないですよ」

胡坐をかいたまま、空いている腕を支えに降谷はに顔を寄せた。
数秒のあいだ、何も言わず、ただ見つめられる。そうして伏し目がちになっていく、柔らかく微笑んだ男の瞳。うっすらと開けられた唇が、僅かに傾いた顔とともにさらに近付いてきて、彼女も静かに瞼を閉じた。
上唇を優しく食まれてから、唇全体が覆われていく。昨夜したものとは比べ物にならないほどゆっくりとした速度で、互いの肉の柔らかさを確かめ合うような口付けだった。一度唇が離れて、瞳を開けば熱を宿したブルーグレイとぶつかる。二人して弓なりに再び瞳を閉じたらば、どちらからともなく唇を重ね合った。細胞の一つ一つが沸き立つねっとりとしたキスにつのる、互いへの慕情。じんわりと熱が全身に広がっていく舌の絡ませ合いには、言葉でも、目でも伝えられないものがあった。

「・・・追いかけている、男がいる」

ぎゅっと力を込められた手に、どくりと脈が流れていく。

「殺してやりたいと思うほどに、憎いんだ」

脳裏に浮かぶ、隈のひどい、目つきの悪い男の姿。幼馴染がいなければ、自分たちの関係はいとも簡単に崩れてしまう砂の城だった。気に入るとか、気に入らないとか、そういう簡単な言葉で片付けられは決してしないけれど、それでも一応、表面上は仲間だったのだ。

「私が、そんなのやめてくださいって、言えると思いますか?」
「・・・そうだな。分かっていた。君がそれを言えないということは。ずるい人間だろ、俺は」
「どんとこいです。どこまでもぶつかれば良いんですよ。そうすることでしか、見えてこないものもきっとあると思うから」

「でも、殺してほしくはないです」、と困ったようには笑う。降谷の背負ってきたものの全てに触れることはできないのかもしれない。だけれども、これから紡ぐだろう長い時間の中で、彼が後悔しない選択を一つでも多く選ぶことができたならば、きっとそれは、傍にいる身としてとても幸福なことなのだ。

「力を貸してほしいなんて言ったが、間違いだったんじゃないかと今もよく考える」
「間違いじゃないです」
「今回みたいにまた君を巻き込んでしまうかもしれない」
「巻き込んでください」
「何があっても守ると誓うが、それが果たせないことも、あるかもしれない」
「ふふ、守られてばかりの人間じゃないですよ、私。それに、背中を預けてもらえてすごく嬉しかったんですから」
「まったく・・・良いのか、俺なんかを選んで」
「もう、あれだけ押してきたくせに、いまさら引くんですか?」

少しだけ、降谷はばつの悪そうな顔をして、口を噤んでしまった。
そこはかとなく、気付いてはいた。降谷零という男が、己の持つ能力への高い矜持とは反対に、自己肯定感だけは低いということに。その姿がなんだかとてもいじらしくて、は繋いだ手を強く握りしめる。

「降谷さんこそ、私で良いんですか」
「何言ってる、君だから良いんだ」
「なら答えは一つしかないですよ」

そう言って彼女は自身に触れる手を、そして自身を見つめる瞳を愛おしさとともに脳裏に焼き付けて、ぐいと顔を降谷に寄せた。

「・・・!」

触れるだけのキスののちに、頬を赤らめて口を開く。

「降谷さん。私を見つけてくれて、ありがとうございます」

ああ、やはり。このとても甘やかな笑顔。花びらが舞うように優しく、草の芽吹きのように鮮やかで。彼女が笑うと花が咲く。彼女が笑うと全てが色付く。体の内側から色彩を溢れさせるのが、という人間の持つ力だと降谷は思った。
求められるということは、こんなにも温かだったろうか。蓋をして久しいその感情のせり上がりは、どうにも止めることができなかった。衝動のままに彼女の腰を引いて、これでもかというほど腕に閉じ込める。ゆるやかに細められた彼女の瞼に口付けて、額にこつんと己のそれを軽くぶつけた。鼻の奥がじんとして、目頭が熱くなるのを感じた。

「それはこっちの台詞だ」

ともに歩むことを、彼女自身が望んでくれた。それはとても、贅沢で、幸せで、美しくて。抱きしめた体から、くっつけた額から伝わる熱に降谷はゆるやかに唇をほころばせた。
自分の全てがゆっくりと彼女の中で息づいて、同じように彼女の全てがゆっくりと自分の中で息づいて、今日を生き、明日を生き、次の日も、その次の日も二人で愛を灯し、そう、髪の一筋まで、つま先の一本一本にまで沁み渡らせるように、そんな風に今この瞬間の体温を、息づかいを、心臓の音を分かち合えていけたなら。

「ありがとう、、俺を見つけてくれて」

いつか血肉となって、自分たちに還ってくる、その日まで。












帰宅ラッシュ前の下り車線はことのほか空いていた。汗ばむ外とは裏腹に、車内は空調が行き届いて気持ちが良い。春が訪れる前は夏の太陽が恋しいと思ったばかりなのに、今ではすっかりニューヨークの肌寒さを欲してしまうのだから人間という生き物はつくづく勝手だ。

「まさかあのジンがバーボンに頼みごととはね」

はあ、と盛大に吐かれた息には煙草の匂いが混じっていた。車に乗る前にどこかで吸っていたのだろう。

「不本意ではない顔をしてはいましたがね」
「ま、そうでしょうね」

なにせ人に頼みごとをするような男じゃないのだからとオーバー気味に肩を竦ませてベルモットは笑う。皮肉のつもりにしても流石は世界的大女優、その笑顔はどこから切り取っても美しい。パパラッチの少ない日本は過ごしやすいのか、その肌はなんだか活気に満ちている。と言っても芸能記者たちも、よもやあのクリス・ヴィンヤードが変装もせずに街を歩いているだなんて思いもしないだろう。たとえ彼女だと分かったとしても、一人で歩く姿より、巷を騒がせる不倫疑惑のタレントを追いかける方が金になるというものだ。

「指紋偽造だなんて別に隠すようなものではないと思うんですがね」
「ふふ、変装術っていうのは明るみに出せないことが沢山あるのよ。それよりも、ジンに全部は話してないみたいじゃない。ウィルスソフトのことしか聞かれなかったわ」
「あなたが言ってほしくなさそうだったので」

フロントガラスを見つめたまま、何食わぬ顔で言ってのけたバーボンにベルモットの眉がひくりと動く。

「あら、そんな顔してたかしら?別に良いのよ、ジンに報告してもらっても。困りはしないんだから」
「ウィルスソフトはノックを調べるためにあの方から頼まれたもので、指紋ソフトはニューヨークで使うためにあの方に話を通していたんですよって?」
「正確にはそれだけじゃなくて組織のセキュリティレベルを上げる役割もあるみたいよ。ほら、ボスは石橋を叩きすぎて割っちゃうような人だから。心配性なのよ。ま、それに指紋の方も通り魔に化ける時に使いたかったのに間に合わなかったから、結局自分で拭くはめになっちゃったけど」

それならばなぜ二か月も前から、そして最低三百種類ものレパートリーが必要なものを作らせたのか。通り魔に化けるだけならわざわざ特注のプリンターも必要ないだろうに。バーボンの頭を過ぎるのはそのことだったが、今はそれを口にしたところで軽くかわされてしまうだろうことも分かっていた。使い時はきっといつか訪れる。その時まで、持てるものはしっかりと温めておくべきだ。

「それにお遊びもたまには必要じゃないかしら?何か隠してるんじゃないかって彼最近やけにしつこいんだもの」
「あの方懇意の秘密主義者ですからね、あなたは。ジンが気にくわないのも分かりますよ」
「あれは一種のやきもちね。ちゃんとボスも周知の取引だったし、私だって真面目に任務についてるんだから。それにしてもバーボン、あなた嬉しそうねえ」
「そう見えますか?そういうあなたこそどこか嬉しそうですよ。ニューヨークで何か良いことでも?」
「ふふ、いやな笑顔。次の信号右なの忘れないでちょうだいよ」
「大丈夫。ちゃんと分かってますから」

バーボンはハンドルを切って大きく右へと曲がっていく。「米花五丁目」と書かれた案内を過ぎて約五分。白い車体がとある喫茶店を通り過ぎていった。後ろへ流れていく景色を、ベルモットは顔を前に向けたまま、視線だけちらりとサイドミラーにずらす。その視線は、地上よりも僅かに上に向けられていた。

「ねえバーボン、ニューヨークは楽しかった?」
「まさか。ジミーがあちらこちらへと動き回るものでね。観光の一つぐらいさせてほしかったですよ」
「あら、連絡くれたら色々良いところ案内してあげたのに。カジノとか、バーとか、まあそうね、会員制の大人の遊び場、とか」
「ほう。あなたの隣を務めるのは色々大変そうだ」
「そう?あなたなら結構良い情報抜き出せると思うけど」
「ふっ、ご冗談を。ああでも、レインボーベーグルは食べましたよ。アメリカっぽい、体に悪そうなやつをね」
「なにそれ、すごく地味ねえ」










(2017.12.4 Beim ersten Schein der Dämmerung=差し染む曙光の傍らで) CLOSE