「銃を渡すのはあなたの方ですよ」

静かな林に若い男の声が響く。背中にぶつかったそれに急いでオスカーが振り返れば、そこに立っていたのはロッジに入ったと思われた降谷の姿だった。

「な、なんでそこに」
「家に入ったのにって?ええ入りましたよ。一歩だけですけどね」

確かに自分は奴が入っていくのを見ていたのに。瞳を揺らした男は動揺からか口をわなわなと震わせている。一方降谷は拳銃を構えたまま、普段よりも鋭い眼差しを向け、間合いを詰めにかかった。削れた芝をちらりと横目に入れながら。

「さあ、銃を下ろしてもらいましょうか」
「良いのかな?こっちには君の連れが」

いるんだよ、と再び振り返ると、今度はからも銃口を突き付けられていた。分かっていたがそりゃあそうか、とオスカーは心の中で自らを嘲笑う。だから何が何でも奪っておきたかったのに。そんな声が聞こえてきそうなぐらいに苦虫を噛み潰したような顔から舌打ちが零れていく。

「遅くなってすみませんね、
「話を延ばすのは向いてないってつくづく思いましたよ私」
「そうですか?上手でしたよ」

二対一。二人のうちどちらかを撃てばすぐにもう片方に撃たれてしまう。かといって二人を一気に仕留めるだけの早撃ち技術は持っていない。これが不利な状況というのは子供にだって分かることで、その上女の口ぶりからして挟み撃ちにするのは計算の上ときたものだ。

「どうして俺の動きが分かったんだ」
「何パターンか起こり得る事態を想定して、その数の分対処法を用意していただけですよ」

ふ、と肩を揺らして降谷は笑う。できる準備は徹底的に。それも探り屋に必要な条件の一つだ。大体の住所と家の特徴をマップで確認し、地形を把握することからそれは始まる。
今回のケースでは、オスカーの家が本物であろうとそうでなかろうと何かしらのトラップがあるという前提の下、彼が家の中にいる場合と外にいる場合とを分け、外にいるならばどのように仕掛けてくるかを想定した。こちらが二人組で且つ別行動をしていると分かれば、家の中に仕掛けたトラップで運が良ければそれで一人片付く。それに大抵の場合は遠くからどんな人間が来たのかを確認するだろう。狙撃をするためには―相手が組織の一員と分かっている以上、報復の観点からそう簡単に命を奪ったりはしないだろうが―家の周りを動き回る人間よりも、一定の場所にとどまり見張りをしている人間の方が好ましいからだ。そんな風に考え付く限り相手の動きを予測することは、どんなトラップを仕掛けたかということを考えるよりも容易い。ニューヨークから二百キロも走ってきたのだ。作戦を立てる時間は十分にあった。

「さあ、銃を」

また一歩、じりりと降谷が詰め寄れば、オスカーは「わかったよ」と盛大に嘆息をもらし、手にしていた銃を地面に落として両腕を上げる。

「オーケー、家の中で話そう」
「進んでください。下手な真似でもしようものなら」

続きを遮るように「わかってる」と返事が飛んだ。前後で挟み撃ちにしていた二人がゆっくりと体勢をずらしてオスカーの両脇に移動する。銃口を向けたまま、が地面に落ちた銃を拾い上げてボトムスに挟み入れると、男の手が上着に差し込まれるのが見えた。警戒から二人の殺気が飛び、カチャリと金属音が揺れる。

「煙草だって」

慌てた素振りで取り出した新品の箱がちらつく。スーパーでもよく見る銘柄で特段怪しくはなかったが、「家で吸ったら?」とが小言を挟めば、彼は「匂いが付くのがいやなんだ」と答えた。

「じゃあ火は彼に点けてもらう。それなら文句はないでしょ?」
「それ以上彼に近付いたら撃つわよ」
「・・・怖いね、あんたの連れ」
「ふふ、でしょう」

ニヒルな笑みでライターを当てがうオスカーの胸が僅かに膨らんだ。橙が灯り、ゆらりと先端から燻る白が天へと昇っていく。垂れた髪の毛を耳にかけ、肺の隅々まで煙を染み渡らせるように深く息を吸い込んで、充足に包み込まれた顔とともに息を吐き出す。
流れる紫煙と甘い香り。顔を顰めるほどのものではないとはいえ、非喫煙者の二人からしてみればこの状況も相俟って気持ちの良いものではなかった。ロッジに近付くにつれ火の点いた紙がじわじわと口元へ上がっていく様と、地面に落ちていく灰と。日本では受け入れられないそれもまた同じだ。

「こんなことになるなら、家にいれば良かったかな」

ひとり言のように呟かれた言葉が煙と共に消えていく。煙草の成分がそうさせるのか、左右両方から銃口を向けられているにしては彼はとても落ち着いていた。錯乱状態に陥られるよりは全然良いというものだが、降谷にはどこか腑に落ちない点があるのか、瞬きをすることすら忘れ隣を歩く男に注意を向ける。

(その余裕はどこから来る?)

家に仕掛けられているトラップからだろうか。はたまた二人の人間から銃を突き付けられていたとしても、聞き出したい情報のために殺されないという自信からか。それともー…。

(まだ何か策があるのか?)

もしこの状況を打破するだけの何かがあるとするならば。その思いからちらりと周辺を見やるが、家の周りにあるのは、降谷の側にぐるぐるに巻かれた汚いホースと錆びた自転車、の側に蓋の開いたボックスタイプのゴミ箱の計三つだけ。怪しいと言えば怪しい。けれども怪しくないと言えば怪しくない。これらの要素から人は一体何ができるだろうか。
降谷が必死に考えを巡らす中、ロッジの階段に足をかけたオスカーから、「まあでも」と声が上がった。

「悪あがきって大事で・・・しょ!」

言うや否やゴミ箱に投げ入れられた、すっかり短くなった火の点いたままの煙草。点のように小さな橙が描く放物線が、まるでスローモーションのように降谷との目に映る。

「じゃあね!」
!危ない!」
「ッ!」

オスカーが逃げ出すのと、降谷が飛び込むのと、が立ち止まるのと、そしてゴミ箱が爆発するのと。
その全てが同時だった。コンマ何秒の世界。全ての音が遮断されるような不安。言いようのない焦燥がその場に残された二人を襲った次の瞬間、辺りに怒号が響き渡る。燃え上がる炎、立ち上る黒煙、火山の噴火にも似た膨らみから放たれる熱を帯びた爆風、一瞬の内に武器と化した土や石の礫。それらから守るように降谷はを抱えて地面へと倒れ込む。勢いに煽られて数度転がる二つの肢体。服越しの肌に伝わる、地面からの大きな振動。木々の細枝で休んでいた鳥たちが、不穏な音に一斉に鳴き声を上げ飛び去って行った。

「い、たた・・・」
「・・・っ、大、丈夫か」

土埃の起こる中、背中に飛んでくる石の威力が弱まったのを感じて、彼は腕に閉じ込めた存在の無事を確認する。ぎゅっと閉じられた瞼がゆっくり開かれた。

「ふ、るや、さ・・・っ」

顔に泥が跳ねてはいるが焦点はしっかりと合っている。肝が冷えたとばかりに降谷は安堵の息を漏らした。それまでの張り詰めた空気が一気に緩み、肩から力が抜け落ちる。「良かった・・・」と息だけで言葉を紡ぎ、項垂れるようにの首元に顔を寄せれば、のしかかる重みが増えたことに彼女から慌てた声が上がった。

「降谷さん!?降谷さん怪我は!?」

もぞもぞと背中に腕を回して、土や砂利をぱらぱらと払いながら大きな傷はないかと手を這わせる。

「大丈夫、君が無事で安心しただけだ・・・」
「ほん、とに?嘘じゃないですか?」
「ああ、音の割には威力が全然なかったからな」
「ごめんなさい、私がもっとしっかりしてたら・・・っ」
「何言ってる、俺だって予想してなかった。怪我してないだけで上出来だよ」

たとえ予想できたとしてもあの一瞬ではどうすることもできなかった。おそらく灯油か何かを貯めた中に爆竹か小型爆弾でも入っていたのだろう。金属片やら殺傷性の高い爆薬が入っていなかったのは不幸中の幸いだった。
けれども分からなかった。食器を割ってガラスや陶器を入れることもできたはずなのに、それをしなかった理由が。昨日の晩にジミーから連絡を受けただけでは十分な用意ができなかったのかもしれないが、なればこそ余計にあり合わせの材料を有効活用するものだというのに。とはいえど。今はそれを考えるよりが無事であること、それが降谷の心の全てだった。

「・・・ほんとに、こんなことに巻き込んでしまっ、」

最後までは言わせまいとは背中から回した指先で、降谷の唇を押さえてしまう。謝らないでください、も、私が望んだことですよ、もそこには無い。ただふるふると、顔を左右に振る、それだけだ。

「顔、土だらけですよ」

眉根を寄せて、今にも泣きだしそうなほどの声音でが微笑む。唇に添えられた手は、今度は彼の頬に伸ばされた。ぎこちなさそうに、ゆっくりと。肌の熱を確かめるように、指先の一本一本で。ただただ慈愛に満ちた瞳を一心に向けられる。この時ばかりはきりりとした降谷の眉も下を向いていた。

「君こそ」

胸につかえる大きな恐れを身の内に沈めて降谷も笑う。それは充足が自然と零れ落ちる、優しい笑みだった。

「なんだか、体力使いっぱなしの二日間ですね」
「その分夕飯が美味しいな」
「ふふ、きっと食べ過ぎちゃいますね」
「立てるか?奴を追いかけよう」
「はい!」




*




「どこか当てが?」

汚れた身なりもそのままに、二人はロッジ裏の林を、四方に張り巡らされた木の根に足を取られぬよう、注意しながらできうる限りの速さで駆け抜けた。

「ああ。奴の居場所は大体掴んでいる」
「え?いつの間に」
「地図には載っていないがさっきここを抜けたところに舗装された道があった、そこに車が一台、おそらく奴のだ」

辺りに人が住んでいる様子はない。なのに道―舗装されたといっても小石や砂利だらけだったが―に止まっていた車は錆もなく新しかった。状況的にそれがオスカーのものと考えるのは妥当だろう。なるほど、それで到着が遅かったのかとは思った。だがあの時降谷に許された時間からして何十分も無かったにもかかわらず、そこまで足を伸ばしていたのは見事としか言いようがなかった。でなければ今頃、このだだっ広い草原と林の中を右往左往していたに違いないのだから。

「車に乗って逃げられたら大変ですね」
「大丈夫、タイヤは潰してある」
「わ、流石です」

あらゆる状況を想定して十分に用意を整える。備えあれば患いなしとはまさにこのことで、一体どこまで考えを広げているのか頭の中を覗きたくなるほどに、降谷の判断力と行動力には驚かされる。

「奴だ!」

葉の青く茂る林を抜け、視界に一切の邪魔が無くなったころ、二人の目に飛び込んできたのは今にも車を発進させようとしているオスカーの姿だった。思うように進まずに四苦八苦している横顔が窓越しに浮かんでいる。

「反対側に回ります!」
「ああ!」

二手に分かれて走ってくる人間たちの姿に気が付いたオスカーは、焦った顔でペダルを何度も何度も踏み込んだ。しかしまるで言うことを聞かない。痺れを切らして舌打ちと共にハンドルを力の限り握りこぶしで叩きつけ、すぐさまドアから飛び降りる。髪を揺らしながら道路横の芝を必死な形相で逃走にかかる男の姿は、酷く滑稽だった。

「まったく。世話の焼ける男だ」

まだ彼とはやや距離があるも、降谷は足を止めて銃を構えた。右手でグリップの一番上をしっかりと握り、反対側から包み込むようにあてがった左手をトリガーガードに密着させる。体の重心を前側に置き、肩幅に開いた右足を半歩引いた。動く標的だが真っ直ぐ走っているだけの規則的な動きだ。歩幅や手の振りから軌道は計算できる。深く空気を吸い込む。肺が一杯になったところで息を止めて、指の腹で引き金を引いた。

「ぐあっ」

サイレンサーに軽減された銃声。上半身に返ってくる重い反動。地面に倒れるオスカーの体。狙い通り右の二の腕をかすめた銃弾。彼は血の垂れる傷口を左手で痛そうに押さえている。一気に距離を詰めると額に脂汗を浮かべた顔が振り返った。怒りを込めた瞳が鈍い光を放つ。

「次は本当に当てますよ」
「・・・くっ」

ここまできて捕まってなるものか。そういう眼差しだった。まだ捨てられていない闘志をひしひしと感じながら降谷が一歩距離を縮めると、汚い罵声とともに手負いの体が飛び掛かった。

「このクソ野郎!」
「おっと」

頬を目掛けて男の腕が飛ぶ。あまりにも大きなモーションだった。軽々と降谷は避けてみせる。前傾姿勢のまま地面へと倒れ込むオスカーを横目に捉えた次の瞬間、扇を描くような足払いが下からやってきた。芝生がざわざわと音を立て、足が回された方へと靡いていく。怪我をしているとは思えないほどの身の翻しだ。しかし持ち前の動体視力ですぐさまジャンプしてそれを回避する。

「まだやる気ですか?」
「ふん、撃てるものなら撃ってみなよ」

ギラついた顔の唇がにやりとしなる。オスカーは知っていた。いくら銃で脅されようと、眼前に立つこの若い男が自分の心臓を撃ち抜けはしないということを。大事な情報源をみすみす殺すなんてこと、できるはずがないのだから。

(降谷さん・・・)

車の裏に回ったははらはらしながら繰り広げられる肉弾戦を正視していた。どちらかが大怪我でも負う前に収集を付けた方が良いのではないか。威嚇射撃の一つでおそらくこの空気は一変する。必要なのは流れを止める大きな音。数秒で良い。その数秒で事が収まるのなら。その思いからサイレンサーを外し、銃を構えた、のだが。

、撃たないでくださいね」
「え?でもバーボン」

ふるふると、左右に頭を振る。言葉もなしに、口角を上げて。一体彼が何を考えているのか、には全く分からなかった。

「あまり、手荒な真似はさせないでほしいんですがね」

地面に唾を吐くオスカーの前で、降谷は首を鳴らして腕を構えた。拳を作った右腕は脇を締めて体に寄せ、左腕は拳を目の高さまで上げ、肩で顎を隠す。腰を落として左足を一歩出し膝を曲げ、素早くストレートを打てるよう右足はかかとを浮かせて。どこから攻撃が来ても良いようにガードを固めると、ボクシングフォームそのものの構えにオスカーはごくりと息を呑んだ。

「そらぁッ!」

助走をつけ、顔面目掛けて左腕でストレートを飛ばす。ブルーグレイの瞳を睨み続けたまま。なんてことはないとまた避けられる。だがそれでいい。オスカーはふと視線を左に逸らし、降谷の意識を誘った。視界の隅で揺れる前髪と共にそれを追ってきた相手の瞳。よし、ここだ、と右側からフックでこめかみを狙った、のだが。

「なっこれも避け・・・!?」
「ふふ、上体が下がるのが丸見えですよ」

反動を付ける一瞬の動きを見切られてしまった。ならば蹴りだと足を振り上げようとすると、させないとばかりに降谷は懐に素早く詰め寄る。ハっとオスカーが目を見開いたのも束の間、鼻先が触れそうなほどに近付いて、平生と変わらぬ声音で呟いた。

「安心してください、手加減はしますから」

拳に浮き上がる血管や筋の武骨さからは考えられないほど朗らかな笑みだった。そのギャップが混乱を呼んだのか、オスカーは「え?」と身動きを取ることができない。瞬く間に降谷は身をかがめた。膝のバネを最大限に利用して背筋を伸ばし、一気に拳を男の鳩尾に打ち上げる。手本のようにきれいなアッパーだ。

「ぐあァッ」

激痛がオスカーの体を電気のように駆け巡る。構えの姿勢のないまま受けた一撃は言い表しようがないほどに壮絶だったらしい。横隔膜を打たれ呼吸を奪われた男は、言葉にもならない嗚咽を上げて芝から後ろの道路へとよろけていく。地面に倒れたらおしまいだ、と獣のように荒く呻きながらなんとかバランスを取ろうとするが、体に走る痺れのせいで上手く歩けずに大股になってしまう。これが手加減なんて冗談だろ。やけにはっきりした脳内でそんなことを考えれば、の足元がふと視界に入った。

「く、そ・・・」

捕まったら最後、吐かされるだけ情報を吐かされて殺される。そんなこと、初めから分かっていた。そしてもうここから逃げ出す術もないことも彼には分かっていた。だからこそ。ただでやられるわけにはいかない。せめて傷ぐらいは残してやりたいものだとオスカーは砂利にしては大粒の地面の砂を手に握ると、それを後方の降谷の方へと投げつけた。

「っ!」

彼はすかさず身をかわしたが、極僅かに砂が目に入ってしまったらしい。大したダメージではなかったが刹那視界を奪われ瞳を閉じてしまう。攻撃が来るだろうかと条件反射に身構えた。が、オスカーが向かったのはの方だった。自分を潰せば女一人ぐらいなんてことないとそう踏んだのだろう。ハっと目を見開いたその時にはもう、腕が彼女に伸びていた。

「オスカー!止ま、」

降谷の口から出ようとしたのは「止まれ」ではなく、「止まった方が」だった。のだけれど。
その全てを言い切る前に、オスカーから繰り出された力のないストレートはひょろりと避けられ、反対に手首を掴まれ本来ならば回らない外側へと捩じり上げられてしまっていた。

「んもう頗る往生際が悪いだから!」
「いででっでで、はぁ!?君なに戦えるの?」

そりゃあ警察官だからなあ。降谷は心の中で返事をする。
その間にも関節をぎりりと締められ前かがみになるオスカーの、頭をもたげて露になったうなじにとどめの一撃と言わんばかりに振り下ろされた銃のグリップ。

「私たちは話をしに来ただけだって言ったのに!」
「かはッ・・・」
「お互い痛い思いなんかしなくても良かったのに!」

人間の急所に硬い鉄が見事にヒットした。「あーあ」、と降谷はぽかんと口を開ける。あれは痛そうだと憐れそうに目を細め、痛みから涙を浮かべる、脳天に星でも舞っていそうな男を見やった。力なく地面へとうつ伏せに倒れた体はまだ立ち上がる意思があるのか空を掴むかのように手を伸ばしている。だが気持ちとは裏腹にもうそんな力は残っていないようで、数回咳込んだのちにようやく諦めの色を見せ始めた。

「やれやれ、本当に困った人だ」
「ひ、ぐゥ・・・ッ」

ため息を吐きながら降谷はオスカーの背中にどさりと腰を下ろす。まるでベンチに座るかのように。肺がつぶれそうなほどの圧迫を受け、男の体が大きく震えた。斜めに見下ろして、砂利の擦れる顔に小麦色の肌が伸びる。髪の毛を鷲掴み持ち上げる様は映画に出てくるような悪党そのものだ、とは思った。バーボンである今は、決してその形容は間違っていないが。

「手荒なことはさせないでくれと言ったのに、あなたときたら」
「・・・逃げ、切れると、思ったんだけどな」

呼吸しづらいのだろう。途切れ途切れに紡がれる言葉。しかし気に留める様子もなく降谷は話を続けた。

「ベルモットに渡したソフトというのは?」
「大した、ものじゃない」
「だったら余計逃げないでほしかったわ」
「まあまあ
「・・・君たち、組織の人間は、情け容赦ないって散々聞いてる。自分の命は可愛いからね、そりゃあ死に物狂いで逃げるさ」

言わんとしていることは分からなくもなかった。組織の中には冷酷非道な人間も多く、任務のためとあれば人の命を奪うことになんの躊躇もない。バーボンである降谷にもそれが求められるのが常で、実際行動に起こすのはできうる限りで避けてきたとはいえ、そういう人間を演じてきたのは確かだ。そんな彼がめったやたらに強硬手段に出るようなタイプではないことは、オスカーからしてみれば分かる由もないのだからなおさらだ。

「で?」
「・・・指紋製造ソフトだよ」
「指紋製造?また一体どういう経緯で」

「どういう経緯?そうだな・・・」と事の始まりを思い出すようにオスカーは目を泳がせる。そして言った。「二か月ほど前のことだ」、と。同業者の伝手でとあるプログラムの開発を頼めないかと言われたらしい。仕事が立て込んでいるだけでなく、目を悪くしているために細かい作業はあまりしたくないという理由から回ってきたそうだが、いざ蓋を開けてみればその依頼主が他ならぬベルモットだった。

「あのしわくちゃババア、とにかく注文が細かくてね」

ぴくり。「しわくちゃババア」の形容に降谷の眉が動く。ジミーの時といいそうそう簡単にあの姿を見せる訳はないと思っていた。容姿に触れなかったのは正解だったようだ。

「注文?」
「ああ。最低でも三百種類ぐらいは作れるものにしろとか、専用のプリンターも作れだのなんだのって。金の羽振りが良くなきゃブチ切れてたよ」
「へえ、なるほど」
「まあでも、ソフトはジミーを通してデータで事足りたけどプリンターはそうはいかなくてね。配送上の都合っていうやつ?国際貨物便が遅れてて、彼女の言う期限にはちょっと間に合わなかったんだ」
「ほう。そのソフトとプリンター、彼女以外に売りました?」

髪を掴まれたまま、オスカーは首を左右に振った。ウィルスソフトはいくらでも作り手がいて、その構造も似たようなものが殆ど。そこから製造者を見つけるのは難しく、延々といたちごっこを繰り返すのみだが指紋偽造となるとそうはいかない。確かに犯罪を犯す上でとても便利な代物だ。しかし需要は低い。知人の指紋を量産できるともなれば話はまた変わってくるが、架空の指紋だけ使ったところで防犯カメラに映ってしまえばそれまでだし、そんなヘマをするような相手に簡単に売ることはできない。自身の安全のためにばら撒く訳にはいかないからこそ、誰に売るのかを見極めないとならなかった。

「こんなもの売ってみろ、裏社会の人間が溢れるようにやってくる」

ウィルスソフトに比べれば見返りは大きいのかもしれない。けれども人選に時間がかかる上、売り始めたらそれこそ物騒な世界の中心に足を踏み入れることになる。その危険性を考えれば、そこそこ足のつきにくいものをそこそこの値段で売る方が彼の性には合っているようだった。

「俺はひっそり暮らすのが好きなんでね」
「それでこんなところに暮らしていたというわけですか」
「まあね、まああの家にはもう長いこと戻ってないけど」
「それにしてもなぜあんな大した威力もない仕掛けを?ガラス片やカトラリーなんかを詰めれたでしょうに」
「そうだね、そうなんだけど・・・」

オスカーはくく、と笑って言った。「君は分かる?」と。その視線は降谷ではなくに向けられていた。彼女はあたかも「私?」と言いたげな表情を浮かべて降谷と目を見合わせる。彼に首を傾げられ、思わず彼女も釣られる。
オスカーと会ったのは今日が初めてだ。した会話も多くはない。けれどこの男には確信があるのだ。二人のしたやり取りの中にその答えがあるのだと。記憶の中のやりとりを掘り起こして、それらしい要素を拾い上げる。

「ペットの、お墓?」
「そ。ガラスとか金属片とかぶちまけちゃ、かわいそうでしょ」

銃が錆びていたのも好んで使いたくはなかったから。無暗に殺したりしないと言ったり、自身の安全をひどく気にする態度も全ては静かに暮らしていたかったから。過剰に気にするあまりの防衛対策だったとはいえ、心根はやはり臆病で優しい人間なのかもしれない。

「・・・どうして、あなたは」


それ以上は言わせまいとばかりに降谷は制止する。注意を促すような、はたまた諭すような調子にはハっと続きを呑み込んだ。彼女の心情は彼にはよく理解できた。けれども聞くものではないのだ、なぜ違法ソフトで生計を立てているのかなんてことは。たとえ法を犯したという事実があったとしても、正しさや意味というものは、その時々によって姿かたちを変えていく。煮え切らない背景があればあるほどその答えは人間の心を摩耗させ、判断を鈍らすだけなのだから。

「さあ、全部話した。プリンターはないけどソフトが欲しいならジミー経由で送るよ。だからそろそろ離してくれないか。あの女に君たちが来たことは言わないから」
「しかしあなたが口を割ったということは彼女に伝わってしまいますよ」
「いいさ、あれを継続的な顧客にするには骨が折れる。手は引こうと思っていたんだ」
「そうですか。日も暮れてきましたしね、お暇するとしましょう」

怒涛の出来事の連続で時間など露ほども気にしていなかったが、山の輪郭にすっかり赤味がかった橙が溶け出していた。雲はその色を吸い込み薄い朱色になっている。一日が終わる。一日だなんて言うほど、ここにいた時間は長くはないが、身に起きたことはその何倍にも感じるほど長かった。
降谷が立ち上がる。瞬間、肺だけでなく体一杯に空気を送るような呼吸が聞こえた。無言で腕を差し出すと、オスカーはニヒルな笑みで小麦色の手を掴んだ。

「ソファになったのは初めてだ。座り心地は良かったかい?」
「ええ、とてもね」
「そう。ふかふかの上着でも着てれば良かったかな」
「それはまたの機会に」
「その機会が来ないことを祈るよ」








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