「と、そんな感じだな」 「はい、頑張ります」 どこまでも続くアスファルト。舗装されたそこをキラキラと輝かせる午後の日差し。波間のきらめきにも似たそれは宝石のようだった。子供の頃は綺麗だなんだのとはしゃいでいたっけ、なんて過ぎゆく景色をは助手席でぼうっと眺める。あるのはただ延々と続く真っ直ぐに伸びた道と、どこの誰が所有しているのだか分からない牧草地。日本と標識が異なるのも、走る側が違うのにも慣れたころ、もはやここが国道なのかも定かではなかったが、降谷の運転する車の揺れが心地良いのだけは確かだった。 「そういや昨日は六万歩歩いたらしいぞ、俺たち」 「えーそんなにですか?だから体がバキバキなのかあ」 「さすがにちょっと疲れたな、昨日は」 「ですね。瞼閉じたのかも記憶にないですもん」 あれだけ町中をあちらこちらへと行ったり来たりしたのだ、ホテルに戻ってシャワーもそこそこにベッドに倒れ込んでしまった。互いが互いを意識することなく眠りに落ちたのが良かったのか悪かったのかはさて知らぬところだが、おかげで睡眠時間はばっちりだ。目が覚めたのは正午近く。それもこれもオスカーを訪ねる旨をジミーに取り次がせたところ、午後四時以降なら会えると言われたからだ。そんな時間まで眠りこけたのは久々だった。 教えてもらった住所はニューヨークから二百キロ以上も離れたところにあった。昼食を済ませてレンタカーを急遽借りたのだが、車を貸してほしいと言う降谷に、車はあるが二十五歳以下はヤングドライバーフィーが別途必要だと店員に告げられた彼は、些か不服そうな顔をしていた。二十五歳より上だと強めに反論すれば、店員は驚いた顔で渡されたパスポートを見ながら、「君本当に二十八歳なの?二十歳じゃなくて?」とびっくりするものだから、それを聞いていたがくすくすと笑うと、「じゃあそっちの彼女も二十歳越えてるの?高校生かと思った」と付け足されてしまい、すぐさま顔をムっとさせた。その隣で降谷が笑っていたのは言を俟たない。 国際免許証がなくとも君の英語力なら緊急事態でも大丈夫だろうと最低限の手続きで車を借り、道中に必要な物を近くのスーパーで調達し、そうしてあとは目的地に着くまで延々とドライブという訳だ。 「はい、降谷さん」 がさごそと、ビニール袋から何かを出したが「口開けてください」と言う。 「ん?」 ぽこんと口に放り込まれたのは、何粒かの丸い塊。徐に舌の上で転がすと表面は滑らかだった。飴玉かと思ったが、舐めていると次第に引っかかるようにザラザラとしてくる。かと思えばすぐに卵の殻が割れるように亀裂が入り、それがコーティングであったことに気が付いた。 「チョコ?ああ、n&nか」 「時々、すごーく体に悪いもの食べたくなりません?」 「着色料一杯とかジャンクフードとか?」 「そうです、ほら見てください、舌真っ赤でしょ」 んべ、とは舌を出してみせる。ちらりと横目で覗けば舌の表面に人工的な赤が色付いていて、幼い子供がはしゃぐような姿はまるで無防備だった。 「りんごあめ食べたみたいだ」 「あ、りんごあめも楽しいですね」 「もう少しでそんな時期だな。で、俺は何色なんだ?」 「ふふ、何色だと思います?」 前を見ながらでは口元に近付いてきた彼女の指先しか記憶になかった。選択肢はそんなに多くはない。赤と黄色と橙と緑と青と茶色の六種類。お揃いと言われたならそれはそれで可愛げがあるが、きっと赤はないだろうと降谷は思った。それに茶色もない筈だ。中のチョコレートも茶色で面白みに欠けてしまう。となると四種類だがそこから先は皆目見当もつかなかった。 「緑?」 「残念、違います」 「黄色?」 「それもハズレです、正解は青でした」 運転を片手に切り替えて日差しよけのミラーで先程のと同じように舌を出せば、これまた人工的な青がほんのりと付いていた。確かに。体に悪そうだ。 「なんで青?」 「降谷さんの目の色だからです」 彼女は続けて、「でも、降谷さんの灰色がかった青とは似ても似つかないんですけどね」と付け足して、青色のそれを自身の口に放り込んでいた。まさかそんな理由で色を選んでいたとは知らなかった降谷は予想外の返答に目を真ん丸にさせたが、すぐに喉をくつくつと鳴らして笑う。 「そうか」 「へへ」 どうしてだろう。このあときっとまた骨の折れる作業が待っているだろうに、なぜだか後ろに過ぎていく景色が気持ち良い。地平線の見える中をどこまでも二人で突き抜けて、喉が渇けば水やコーヒーを飲み、腹が減ればスナックやパンを食べて、何てことのない、でも二人だからこそ楽しいと感じる会話をして、それでやっぱり果てのない道を進んでいく。絶好のドライブ日和と呼んでも良い気分だった。 「少し飛ばそう」 そう言って降谷はアクセルを柔らかく踏み込んだ。次第に不安になるぐらいにエンジンから唸り声が上がる。馬力はあるがあまり新しい車ではない。だがどろどろとした排気音は耳に心地良く、体に掛かる圧が僅かに大きくなったのを感じて、彼は今度は強くペダルを踏んだ。速度を示す矢印がぐんぐんと十二時の方へ向かっていく。きっと、加速度と快感はどこかで繋がっているに違いない。 「ひ、速い」 「もう少し暖かければ窓を開けたいところなんだがな」 ホテルの部屋に備え付けてあったテレビの気象予報曰く、今年は春も終わりだというのに例年より冷え込みが続いているらしい。今日も天気は良好で澄み渡る青空が広がってはいたが、日中ですら二十度を超えない肌寒さにこの速度では窓を開けたら風邪をひきそうだった。ドライブといえば風を感じるのも楽しみの一つであることを考えれば少々物足りない気もするが、体は働く資本、しかも二十代も後半だ、それなりに大事にしてやらねばのちのち後悔することになる。 「なんだか楽しそうですね」 「そうか?」 「ええ」 「そうか」 そりゃあ楽しいさ、だって隣に君がいるんだから。君といるときだけは、バーボンでも、公安としての降谷でもない、ただの自分でいられる。そんなことを言ったなら、ほのかに耳を染めるんだろう。そういう彼女はいつだって見ていたいけれど。 楽しいことは全部が終わってからにしようと降谷は口角だけ上げて、ラジオのボタンに手を伸ばした。少しの乱れはあるが聞くのには何の問題もない。激しいドラムの音がフェードアウトしていくと、しばしの無音ののちに、流れるようなピアノの音色と女性シンガーのハミングからメロウな曲が始まった。もう十年も昔の曲だった。今も時々町中で耳にするR&Bのラブソング。メロディはそれなりに覚えているのに、タイトルまでは出てこなかった。 * 「住所はこの辺りなんだが」 「・・・空気の美味しそうなところですね」 小高い山を背に、見渡す限りの草原。草花はもうまもなくやってくる夏を今か今かと待ちわびているように、青々と茂り太陽に向かってすくすく伸びている。二人が来た方の、かなり遠くに見える家屋の辺りはいくらか手入れがされているようだが、ここは全くの無法地帯だった。近くにあった柵のようなものから、かつては羊や牛や何やらがいたことが窺える。木材は苔も生えないほどに風化していて、杭のように刺さっている地面を見れば、からからに乾いて塊になった土が盛り上がっていた。 「あまり人が住んでいるようには」 「見えないな」 木々に囲まれた山の麓にちらほらと建物が見えるが、どこも日の当たらなそうな日陰にあった。ロッジ風の作りからして誰かの別荘かもしれない。湖や川があるわけではないが、都会の喧騒から離れて大自然の中をゆっくりするにはそれなりに良さげではある。とはいえ彼女の言う通り、人の気配を感じさせないところばかりだ。降谷は「うーん」と喉の奥を震わせる。 「今時それなりのパソコン一つあればソフトなんて作れるのに、こんなところに住んでいるとは」 「自然が大好きな穏やかな人だと良いんですけど」 「そうだな、十円ぐらいなら賭けてやってもいい」 はは、と乾いた笑いがから漏れる。往々にして裏社会を生きる人間の気性は荒い。人払いのためにこんな場所を住居に選んだのだろうが、ニューヨーク市からここまでは車で二時間半近く離れている。トライベッカに住むジミーと組んで仕事をしている割には不便そうだった。 「まああの中のどこかにある家が本当に奴のものなのかも分からんしな」 そう、二人の目に映るものが実際にオスカーの根城なのか定かではなかった。おびき出された可能性だってある。何しろ約束を取り付けたのはジミーだったのだから。いくら降谷とに戦闘の意思がなかったとしても、向こうからしてみれば生計を立てる手立てを荒らされているのだ。警戒の一つや二つ当たり前だろう。ネズミ捕りにかかったネズミにならないよう細心の注意は必要不可欠で、雑木林が近づくにつれ二人は感覚を研ぎ澄ますように深く息を吸い、辺りを慎重に見回した。 「、銃は?」 「いつでもばっちりです」 彼女はとんとんと自身の腰を叩いて、スキニーと体の間に忍ばせていることをアピールした。なにしろ旅行の準備しかしてこなかった彼女にとってはホルスターなど持ち合わせてはいなかったし、内ポケットの付いた上着も持ってはいなかったのだから。 「風見鶏のある家・・・は、あれか」 道に転がる乾いた枝が踏むたびにパキパキと音を立てる。雑草の生え方や枝の転がり方からして掘り返したような跡はない。そんな道なき道を進むと風見鶏―実際には鶏ではなく馬だったが―のある家が見えてきた。ジミー曰く、オスカーはそこにいるらしい。隣家との間隔はざっと見積もって三百メートルはくだらなかったが、遠目に見える家々は何年も掃除がされていないのだろう、埃っぽい窓ガラスの隅が割れていた。その一方でオスカーの家の窓は綺麗な透明だった。カーテンの落ち着いたベージュがよく見える。中の様子は分からないがドアへと上がる木製の階段には真新しい土の跡があり、人の気配が窺えた。 「あそこが本当に奴の家かどうかはさておき、家の周りにトラップが仕掛けられている可能性は大いにある。まずは俺が様子を見てくるからはここにいてくれ」 「はい」 「背中は任せたぞ」 「はい!」 ロッジ近くに生える木の陰からは歩いていく降谷の後姿を見つめた。どうか、危険なことはなにもありませんように、と。 (降谷さん・・・気を付けて) 不気味なほどに静かだった。鳥の鳴き声もなければ風もない。足元で枝と砂利が擦れる小さな音がするだけ。肌寒いにもかかわらず、嫌な汗が出そうではごくりと息を呑む。組織が直接絡んでいる案件ではないとはいえ、組織の誰かが関わっている事柄にここまで深く足を踏み入れたのは彼女にとって初めてのことだった。だけれども。 (ちょっと、嬉しかったりして) 背中を任せると、言われたことが。一緒に行動する手前、足手まといは嫌だからこそ、その言葉が彼女を勇気づける。 (それにしても、本当にこんなところに暮らしてるのかな) ライフラインはどうなっているのだろう。見たところ碌に電気も通らなそうなほどに素朴な家屋だ。いくらパソコン一つで色んなことができるとはいえ、それなりな機関のセキュリティを破るようなソフトを作るには色々設備も必要だろうに。それとも家に一歩でも踏み入れば外観の古さとは打って変わって最新鋭の物ばかりあるのだろうか。 降谷が家の角を曲がりロッジの階段に足をかける。一定の距離を保ったまま、その後ろ姿を追うようにも雑木林を慎重に進んでいく。 (あれ・・・?) 足音を立てぬよう前進していると、ふと何かに気が付く。 (・・・枝の音が、しない) ここに来るまで無数に落ちていた筈の枝が、この辺りだけ全くと言っていいほどなかった。雑草は相変わらず生え放題だが、それでもよくよく目を凝らしてみるとその下の芝が不自然に盛り上がっているところもあれば、反対に過剰に地面に食い込んでいるところもある。地面を掘って、何かを埋めて、元に戻した。そういう感じだった。人の気配など微塵も感じなかったところにじわじわと湧き上がる人工的な欠片の数々。いた。確かに誰かがここにいた。それこそが、オスカーだろうか。ごくりと息を呑んだ、その瞬間だった。 「・・・ッ!」 空気を切り裂く直線的な音。すぐ傍の芝が僅かに跳ねて飛んでいった。削り取られるように。間違いない。これは拳銃だ。しかもサイレンサー付きの。位置は後ろから。素早く振り返って木を背にする。拳銃を構え、息を殺して辺りに目を配らせた。静かな空間に、鼓動がやけに大きく響くようだった。 何秒、いやもしかしたら何分この体勢でいたのかは分からない。じっと前を見据えていると、五十メートルほど先の木陰が揺れた。次第に草の踏まれる音が近くなる。確かに人の足音だ。ゆっくりとした足取りで、こちらにやってくる。は深呼吸ののちにトリガーに指をかけた。 (男・・・) まず目に飛び込んだのは、足元だった。ジーンズにスニーカー。太さや骨格から男だとすぐに分かる。そして草陰から上半身が露になった。額の真ん中で分けられた、肩まで伸びた髪の毛に、片側からだらしなく垂れるよれたシャツ。無精髭のせいか老けて見えるが、目を凝らしてみたならジミーよりも若そうだ。 「あれ、そんなに動じてないね。怖くなかったの?」 拳銃を手にやってくる風貌とは違い、喋り口はとても穏やかだった。にじり寄るというよりは普通に歩いてくるといった様子で、割と落ち着いているのか呼吸の乱れがない。 「・・・びっくりはした」 が答える。男はきょとんとするもすぐに笑った。「正直だね」と言いながら。 「ジミーから聞いていたよ。男に仲間がいるということを。こんなところに普通女の子は一人で来ない。なら君がもう一人の仲間って訳だ」 はジミーの名に眼前に立つ男がオスカーであることの核心を得る。と同時に、彼は話し合いの取次ぎをしたのではなかったのだろうかということを思った。お茶会とまではいかずとも、物優しい口調からして平和な話ができそうな雰囲気はあるものの、今の流れからしてそれはあまり期待できない。 「ようこそ、我が家へ」 「ベルモットに、何を渡したの」 「せっかちは良くない」 まあ待ちたまえと、とでも言わんばかりの表情でオスカーはさらに彼女に近づき、そして銃口を突き付けた。 「それを答えるには俺の身の安全が第一だ。さあ、銃を下ろして」 男の目から鈍い眼光が放たれる。互いに武器を所持していて、互いに撃たれたくなければ銃を捨てろと言うことができる状況にもかかわらず、そこにはかなりの圧力があった。とはいえど。そうそう簡単に下ろせるものではない。彼女とて、降谷の背中を守らねばならないのだから。 「なぜ?あなたこそ銃を下ろしたら?」 真っ直ぐな瞳で紡がれた拒否の言葉。返事の代わりにため息が一つ零れ落ちた。 「言い忘れてたけど、あの男、大丈夫かな」 そう言いながらオスカーはの背後にあるロッジに視線を投げかけた。「あの男」とは間違いなく降谷を指しているのだろう。彼女の眉がぴくりと動く。 「・・・どういうこと」 「裏口の方に回ったみたいだけど、リビングと寝室のドアにはちょっとした細工がしてあってね。開け方を間違えると即ドカンだ」 「・・・」 「もちろん、信じるか信じないかは君次第だけど」 淡々と喋る様子からでは嘘か本当かの判断は付かなかった。降谷ならば簡単にトラップを見抜いてしまうのかもしれないが、もし彼の予想もしないようなものだったら。口を噤んでいたは心を落ち着けるように静かに息を吐いて、ゆっくりと腕を下ろした。 「物分かりの良い人は嫌いじゃない」 「・・・さっき、なんで私を撃たなかったの」 「殺すのが目的じゃないからさ」 「それに」、とオスカーは目の前の彼女から視線をずらした。地面に向けられたそれを追うように瞳を動かす。先程弾が飛んできた横の、掘り返された形跡のある辺りを見つめる哀愁の色。 「そこは俺のペットの墓なんだ。荒らされたくなくて」 「ペット?」 「ああ。スズメがね、よく遊びに来てたんだ。餌を食べに。嘴にシミがある可愛い奴でさ」 「・・・どうして、死んでしまったの」 「へえ、死因を聞いてくれるなんて優しいんだね」 「そういう訳じゃ」 「ある日窓に衝突してそれきり。よくあるでしょ、透明な窓が見えなくて速度落とさず飛び込んじゃうって」 どう返すのが正解か分からずにが答えあぐねてしまった。自分の身の安全が大事だと言ったり、殺すのが目的ではないと言ったり、土に埋めたのはペットだと言ったり。好戦的な態度ではない彼は殊の外先程彼女が降谷に言った「穏やかな人間」に合致するのかもしれない。もちろん敵対者には容赦のない面もあるが、それにしては彼が手にしている銃はあまり手入れが行き届いていない。鉄が変色している部分がいくつかあり、それが示しているのは緊急時にのみ使うことこそあれ普段使いするものではないということだ。 憶測に過ぎないとはいえ、隠れた一面を知ると人は急に情が湧く生き物である。その一時の情を同情と呼び、それはとても厄介なものだ。なぜなら大抵の場合、安易な同情をしたが故に気が付いた時には足をすくわれてしまうのだから。 だから本質を見失ってはいけない。今彼女がすべきは降谷のサポートだ。心根が優しいという可能性があるからといって、はいそうですかとイニシアチブを渡してはならなかった。 「まあとりあえずその銃をよこして」 「あなたこそ銃を下ろして。私たちは話をしに来ただけ。あなたを撃つ気なんてこれっぽっちもないわ」 「人間の口って言うのはさ、信用できないよね。だから態度で示してもらわないと」 「だったらしまうだけで良いじゃない」 「それで安心できる?できないよね」 一歩、また一歩と雑草を踏みながらオスカーがに近付く。態度で示せというその用心深さが彼をこんな偏狭なところに住まわせたのだろうか。そんなことを彼女は思った。 「渡したら、話してくれるって保証がないと」 「大丈夫、保証するから」 「人間の口が信用できないってあなた自分で言ったばかりよ」 「そうだよ。そいつを渡してくれたら俺も態度で示すから」 さあ、と男の手が伸びたその時、の視線が僅かに逸れた。少し離れたところで、小枝の乾いた音がした。 「銃を渡すのはあなたの方ですよ」 つぎへ→ |