「一体一日に何人と取引しているんだあいつ」 「もうすっかり夕方ですね」 「写真もかなり集まったしそろそろ奴を叩くか」 発信機と肉眼の両方でジミーの足取りを追い続けるも、時刻はすっかり午後六時を回っていて、気が付けば地下鉄の中はスーツ姿の人間たちばかりになっていた。車内には次の停車駅であるウォールストリート駅のアナウンスが流れるが、それも人々の声でかき消されてしまう。金融街であるこの地区のサラリーマンの数は日本とも引けをとらないほどで、普段車通勤である降谷にとっては久しぶりの満員電車だった。 「、こっちに来れるか?」 「あ、はい」 おそらくウォールストリートからもかなりの人が乗ってくるだろう。人混みに飲まれかねない、と降谷はを引き寄せてドアと自身の体で挟むように立つ。幸い次開くのは反対側の扉だ。こうしていればはぐれもしないし、日本人よりも大きなアメリカ人に潰されもしない筈だ。 「近いな」 「近い、ですね」 目と鼻の先にある互いの顔。拳一つ分の間があるとはいえその距離は近い。「少しの間、我慢してくれ」という降谷に、私の方こそすみません、とは口を開こうとする。が、駅に到着したのか車体にブレーキがかかってしまったために叶わなかった。 再度駅名のアナウンスが入るや否やすぐに扉が開いた。降谷の予想通り多くの人々が乗ってくる。その乗客の量は東都環状線を思い起こさせた。次の電車など待っていられないとばかりにぐいぐいと強引に押し寄せる圧力を前に、車内はみるみるうちすし詰めになっていく。そうしてホームにいた全員が乗車するころには、二人の間にあったスペースはすっかり消え去っていたのだった。 「おっ、と」 「・・・っ!」 電車が発進した反動でバランスが崩れる。体制を整えるために降谷が扉に左腕を突っ張れば、の視界は完全に眼前の男以外シャットアウトされてしまった。ふとかち合ったブルーグレイの双眸から逃げるように視線を逸らすものの、どこを見ても彼の衣服にぶつかってしまう。それからまたも車内が大きく揺れるものだから、彼女は咄嗟に降谷の胸元を掴んだ。 「すみませ・・・っ」 すぐさま離そうとするのを降谷が制する。 「いいから。そのまま握ってろ」 「・・・はい」 肺が膨らんで、縮んで、また膨らんで、縮んで。 手のひらから伝わる降谷の温もりと、布越しでも十分に分かる筋肉質な体。それだけ密着しているのだと改めて思い知らされる。 (・・・降谷さんの、呼吸) 顔を下に向ければ、触れ合う下半身が距離の無さをありありと物語っていて、を殊更意識させる。肌がじんわりと熱くなるのを感じた。 「・・・?大丈夫か?」 混雑の息苦しさから顔を赤くさせているのだろうか。そう思った降谷が首をかしげての顔を覗き込む。やんわりと唇を噛んで、逸らした瞳を揺らして。秒とも立たずに理解がいった。照れから頬を赤くしていたということに。 (あー、くそ、かわいい) 彼女が自分との近さを気にしている。それで顔を赤らめている。ふつふつと、胸に何かが沸き上がった。 (時々、後先なんかどうでもよくなる) 覚悟とか、そんな理屈染みたもの全て捨てて、潜入捜査官でも公安職員でもないただの降谷零の気持ちだけでぶつかりたくなってしまう。 「」 少しだけ、低い声で降谷は囁いた。雑多な車内で声が届くように、耳元に。唇が触れるか触れないかのところで、ただただ優しく。ぴくりと揺れた肩。良い反応だとばかりに降谷は反対側の手をもぞりと動かして、彼女の頬にそっと触れた。電気が通ったかのように震える白い肌。指先に伝わる産毛の柔らかさがやけに生々しい。 「ふっ、るや、さん!?」 「顔、赤い」 「そ、それは、降谷さんが、」 ああ、今彼は、とてもいたずらな顔をしている。 少しだけ、苦手だった。男を意識させずにはいられない嗜虐的なこの顔が。人々の声がなかったら。電車の走行音がなかったら。きっと。きっと胸を突き破りそうな心臓の音が聞こえてしまうに違いないのだから。 「俺が?」 「・・・ッ、は、離れましょう」 「・・・なあ」 聞いてほしいことが、ある―…。 (・・・いや、こんな地下鉄で言うことでもないか) 喉元まで出た言葉があまりにもこの状況にそぐわなくて、降谷は唇がむずむずするのを感じた。続きを体の奥底に沈めれば、耐え切れずにふっと笑みが零れる。我慢できないにも程があった、と。 「・・・降谷さん?」 「なんでもない」 「なんでもないこと、ないですよね」 「いや、キスできそうなぐらいに近いなって」 だってほら、と吐息がぶつかったかと思えばするすると親指が頬を這う。その感触には背中をぞくりと震わせながら、体を駆けあがる熱を消そうと必死になった。 (・・・ずるい。降谷さんは、ずるい) 自分ばかりがどうしてこんなに火傷するほどの熱に浮かされてばかりなんだろう。そんなのあまりにも。あまりにも、癪だ。 は息を呑んでそろりと顔を上げた。何かを決意したような瞳が、まっすぐに降谷を捉える。かと思えば伏し目がちに視線が唇へと落ちていく。刹那、いつかの夜がの脳裏に浮かび上がった。知っている。自分は確かにこの唇の感触を知っている。 「キス、しちゃいましょうか」 紡がれた声音は僅かに震えていた。けれどもそんな言葉が返ってくるとも思っていなかった降谷を驚かすには十分だったようで、彼は何が起きたのか分からず思考が止まってしまっている。 「・・・え?」 今なんて。なんて彼女は言ったのだろうか。キスと、言ったのだろうか。 「い、今、なん、て」 ぱちくりと、目を開けたまま。素っ頓狂な声とともに。 明らかに動揺した降谷を前には思わず吹き出す。 「っぷ、冗談です、冗談ですよ」 「な」 「あー降谷さんの面白い顔見れました」 「・・・タチが悪いぞ」 「先に手を出してきたのは降谷さんですからね」 少しはしてやったりというものだとくすくすとした笑い声が漏れると、次の駅を知らせる無機質な機械音が響いた。案の定この混雑でかき消されてしまい、駅名を確認できなかった周囲の何人かから「え?次ってどこ?」と声が上がる。 (・・・こまった) 彼女の行動は時々まるで予想のできない子供のそれだ。健気な小動物に見えるかと思いきや、今のは完全に、そう、完全に男を落とす魔性の顔(もちろん降谷談だが)だった。はあ、と降谷は心の中でため息を吐く。炎のような揺らめきを持った瞳はすっかり冷まされ平生を取り戻していた。 「それにしても、ここで止めるのは惜しいな」 「もう次終点ですよ、ジミーも降りますってば」 「終点じゃなければ良いみたいな言い方だな」 「え、あ、そ、そういうつもりじゃ」 「ふっ、分かってる、冗談だ」 * 多くの人々が乗り換えのために向かったホームとは反対に、出口に向かう人々はとてもまばらで、階段を上り地上に出たならば、そこには青々とした芝生から浮かび上がる壮大なニューヨーク湾の景色が、橙の強くなった西日に濃く照らされていた。 「わあ、自由の女神!」 「なんだかんだ端から端まで来てしまったな」 「一日乗車券買っておいて正解でしたね」 「まったくだ」 北へ南へ、東へ西へ。それもこれもジミーがマンハッタン中を縦横無尽に駆け回るからだったが、彼を押さえるには背が湾に囲まれているこのバッテリーパークは絶好の場所かもしれない。自由の女神のあるリバティ島へのフェリー乗り場はもちろん、その全体を写真に収めるために多くの観光客や地元民はいるものの、公園の端など場所さえ選べばいくらでも人目に付かないところはある。 「、すぐにこの画面に出てる区画を頭に入れてくれ。小道を使って逃げられたら二対一とはいえ厳しい」 そう言って降谷は携帯の画面に出した公園内のとある地図をに差し出した。いよいよその時がやってくる、とは無言で頷き真剣な眼差しで地形を脳裏に焼き付け始める。彼女のその姿と、鋭い目つきでジミーの姿を追う降谷の姿からは、先程キスをするだのしないだのといったやりとりをしていた二人には到底見えなかった。 「覚えたか?」 「はい」 「もう少しすると湾を背に道が二本出てくるがその先は繋がっている。俺が左側を行くから君は右側を行って木の陰に隠れていてくれ」 「分かりました」 「君の姿を見られるわけにはいかないが、もし奴が銃を所持していたらこれで適当に威嚇を頼む」 携帯と引き換えに渡されたのは、降谷がジミーの家から持ち出した拳銃だった。いつの間に、と思いながらはそれを受け取る。ご丁寧にもサイレンサー付きで。どこまでもぬかりのない男だ。 「降谷さんは?」 「もちろんある」 「・・・立派な犯罪者ですね私たち」 「あとで教会に懺悔にでも行くか」 「絶対に行きません」 「ふっ、そう言うと思ったよ。とはいえ気を付けるんだぞ」 教会でセキュリティチェックがあったとは言え調べが入ったのは鞄だけ。ジミーが何も持っていないという証明にはなっていない。防弾ベストも着込んでいない今、撃たれでもしたら大事どころの騒ぎではなくなる。 (・・・こんなにも、命のやりとりが近いところで、降谷さんは) これから起こるだろう出来事を前に、はごくりと息を呑む。自分とて潜入捜査は経験してきた身だけれども。降谷が背負うそれとは全くと言って良いほど比にならない。十分なバックアップもないままにこうして前線に赴いては命の危険が漂う中に身を潜めている。一体どれだけ精神をすり減らしてきたのだろう。一体どれだけ覚悟を決め込んできたのだろう。それでも彼を奮い立たせるものとは。無理やりにでも背中を押させるものとは、一体―…。 (もしかして、幼馴染っていうのは) 幼馴染を失ったのだと言ういつかの言葉。ひょっとしたら、組織と何か関りがあったのかもしれない。そんな考えがふと過ぎる。 「?」 「あ、はい」 「大丈夫だ、そんな顔するな」 「え、あ・・・その」 困ったように笑う降谷の姿がの胸を痛いほどに締め付けた。こんな時でさえ自分を慰める言葉をかけるなんて。焦りも動揺も彼には見えない。きっとそれだけこういう局面に遭遇してきたのだ。たった一人、大きな闇に向かって生きてきた彼の人生にかかる苦渋。だからこそ、今みたいな言葉を彼に言わせてはだめだったのに、と彼女は歯を食いしばる。 「待機以外に、何かできることはありませんか」 眉根を寄せる彼女の傍らで、降谷が足を止める。きょとんとしたブルーグレイの瞳が、一瞬にしてバーボンから降谷のそれに戻る。木々のざわめきも、水の匂いも、カモメの鳴き声も。すべてを遠くに感じた。 「そうだな・・・、今だけでいい、名前を呼んでくれないか」 こんなに近くで、自分を送り出そうとする人間が、これまでにいただろうか。こんなに近くで、凛と自分を見つめる美しい瞳が、これまでにあっただろうか。 柔らかな唇がゆっくりおずおずと動く様を、降谷はただ一心に見つめた。 「れい、さん」 「もういっかい」 「零さん」 「うん」 誰かを無性に抱きしめたいと思う時、それはきっと愛が目に見えない器の容量を越えてしまった時だ。男は守るものができると弱くなるという。強ち間違いでもなんでもない、真理にも近い言葉なのかもしれない。世の中には、楽しいことも、辛いことも沢山ある。苦しい時、それを乗り越える誰かが一緒にいてくれたらと思うことだってしばしばだ。だから降谷は思うのだ。彼女の元に帰ってきたいと。どんな関係でだって良い。上司と部下でも、それ以上でも、それ以下でも。こうして彼女に名前を呼んでもらえるなら、きっとどこまでだって頑張れる気がしてしまうのだから。 彼女と出会う前はそんなこと思いもしなかった。そう、彼女と出会う前は組織を狩り尽くしてやりたいという思いと、一人の男を追いかける人ならぬ憎しみに呑み込まれた体が、ただただ自分を動かしていた。強かった。単純に、強かったのだ。それなのに。 大丈夫、君を置いてはどこにも行かないから、なんて言ったなら、それはなんだか死亡フラグみたいだと降谷は内心笑った。 (だとしても、俺はそれをぶち破る人間でいたいが) * ジミーの足音に降谷は自身のそれを重ねる。芝生と違って舗装された道は音を消すのには都合が良かった。だが尾行を続けてきたこれまでと違ってここからは異変を感じ取ってもらわねばならない。この辺りに詳しい男のことだ、跡をつけてくる怪しい奴を撒こうとこの先にある道に入り込むことだろう。隅に追い込んだと思わせて、右側の道へと逃げるか逆に追跡者を追い込むかのどちらかのはずだ。 音が鳴るようにわざとかかとを地面に擦り付けて、鋭い視線を送りつける。はたとジミーの動きにぎこちなさが生じた。咄嗟に降谷は近くの大木に身を寄せる。男はハンチング帽を目深にかぶり直し、僅かに顔を背後に向けた。自分の後ろを歩く誰かがいる。そう思ったのは間違いないだろう。そこからさらに一歩、また一歩とその存在を匂わせながら近付いていく。先程まで優しかった木々のざわめきが一瞬にして不穏になった。 降谷とジミーが左側の道へと入っていくのを確認して、も忍び足で言い渡された方へと寄っていく。幸いにもこちらはかなり葉が生い茂っていて隠れる場所は大いにあった。それぞれの道の合流地点近くの巨木に隠れ、音をたてぬようにしゃがみ込む。視界は良好、大きく深呼吸をし、セイフティをゆっくりと解除し射撃体勢に入った。 何かがいる。実態の掴めない何かにジミーの鼻息は荒かった。木に隠れるか、いや、立ち止まるよりは進んだ方が良い。それにたとえ相手がどんなであれ逃げ切る自信はそこそこにあった。伊達に色んな人間相手にやりとりをしてきた訳ではないのだ。土地には明るい。この先は行き止まりのように見えてまだ道がある。虚をつくならそこだ。 次第に男の足並みが速くなっていくのを降谷は冷静に見つめながら、ポケットから携帯を取り出した。用意していた画面を一度タップする。すると、前を歩くジミーの携帯が鳴りだした。彼はびくりと肩を跳ねさせる。 「ったく誰だよ!」 ちっ、と大きく舌打ちをして乱暴に尻ポケットから携帯を取り出すも、画面に浮かぶ“Withheld number”の文字列。誰だか分らぬ相手に構っている暇はなく、再び舌を鳴らして携帯をしまおうとした、その時だった。背中に硬い何かが当たったのは。 「・・・!」 「動いたら、大事な体に穴が開きますよ」 若い男の声。もの優しい喋り口には射るような殺気がその低いトーンに含まれている。もしかして、今の着信は。画面に気を取られる一瞬を狙っていたのだろうか。たらりと冷や汗が米神を伝った。ジミーはごくりと息を呑む。果たして逃げ切れるのか。銃口を突き付けられているとはいえ、咄嗟に引き金を引けるほど人間の反射神経は素早くはない。例えば降伏するフリをしてジャブをかます。たった一秒でいい、怯ませることができたなら。上手く逃げ出せる筈だ。足首に忍ばせたナイフで足を刺しても良いが、それではモーションに時間がかかりすぎる。不意を突くならやはり一気に振り返って顔面に拳を叩きつける方が得策だ。 やるなら早い方が良い。ぎゅっと拳を握る。腰に力を入れ、空気も裂きかねない速さで体を捻った、のだが。 「なっ」 「僕の顔でも殴ろうとしましたか?なら止めた方が良い」 横っ面を狙ったはずの拳がいとも簡単に避わされる。涼しやかに避けてみせた男は、不気味なほど爽やかな笑みで手首を掴み関節を外側に捩じってしまう。 手先に力を入れる瞬間を、見られていたのだろうか。また厄介な相手に捕まってしまったものだ、と再び後ろを向かされたジミーはぎりりと奥歯を噛むが、今すぐどうにかなる相手ではないと思い知り嘆息を漏らす。下手に動いたら命が危ないと、これまでの経験が知らせていた。 「・・・何者だ」 「ベルモット。この名でピンと来たんじゃありません?」 「てめえ、まさか」 ジミーには何か思い当たる節があるらしい。ふむ、と降谷は男の背中を見つめた。組織の人間が尋ねに来るだろうというのはやはり想定内だったようだ。となればバッグの取引はカモフラージュ。今日彼が複数人としていた取引こそがベルモットの狙いだったという訳だが、問題はその中身だ。 「あのババアの仲間って訳か」 「ババア」の箇所に眉をひくりとさせる。口の悪さからそう言ったのか、それとも彼女が変装をして彼に近付いたのかそのどちらかは分からない。だが容姿に関する言葉は避けた方が無難に思えた。 「話が早くて助かりますよ。さあ、ゆっくりこちらを向いて下さい」 「・・・」 「下手な真似はしない方が身のためです。近くで僕の仲間があなたを狙っていますから」 「・・・っち、わかったわかった」 両腕を上げてジミーが振り返る。寸秒、にわかに瞳が揺れた。目の前に立つ男の姿に些か驚いた様子だった。その訝しげな眼差しは、本当にこの男が組織の人間なのかと言いたげだ。けれども不敵な笑みを浮かべる相手に嫌な緊張が走る。伸びてくる腕がやけに恐ろしく見えて、後ずさりしようにもさせない圧を放っていた。 銃口を向けられたまま体のいたるところを探られてこそばゆい。足に隠したナイフはすぐに見つかってしまった。鉄のぶつかる乾いた音が地面に響く。逃げる手立てを完全に断たれた今、反撃の意思は彼には残っていなかったのだった。 「彼女と一体どんな取引を?」 「非売品のバッグだよ、日本じゃ手に入らねえってな」 あくまで白を切るらしい。やれやれ、と降谷はため息を吐く。 世の中には数えきれないほどの情報が真偽を問わず山のように転がっている。正しいものを得るための道は険しい。何も絵柄のない白字のジクソーパズルの中からたった一ピースを選ぶような、はたまた辺り一面に置かれた無数の箱を手探りで一つ一つ開けていくような、そんな途方もない労力を消費しても無駄足を踏むこともある。いやむしろ無駄足ばかりだ。しかしその地道な作業なしに重要な情報は何一つとして得られない。痛いほど分かっていた。それに比べれば今回のケースは楽な方だ。あらかじめ必要な情報は与えられていたのだから。ならばもう少し、穏やかに話を進める余裕を忘れてはいけないというものだ。 「今日一日、貴方の行動を観察させてもらいました。随分色々な方達と会っていましたね」 「・・・ずっとつけてたのか」 「おかげで写真もビデオもばっちり撮れましたよ」 「はっ脅そうって?」 「争いごとはあまり好きではないので。穏便に済むならそれが一番だ」 そういうことを言う人間に限って滅法力が強いことをジミーは知っていた。最初から力でものを言わせる奴は吠える犬と一緒だ。 風に揺らいで西日を反射させる水面が横目に見える。日が暮れでもしたらますます命が危うい。長期戦はごめんだ、と腹をくくった瞳が帽子から覗く。 「あの女にバレてもいいのか、お前がここにいるって」 「構いませんよ、組織の命令ですから。僕が困ることなんて一つもない。でもあなたは違いますよね。今日撮りためたものをニューヨーク市警やFBIに送っても良い」 「・・・」 「彼女に何を渡したか教えてくれるなら、あなたのしていることに興味はないんですがね」 「・・・わかったよ、腕ぐらい下ろさせてくれ」 もうどうこうしようという気がないことを察したのか、降谷は「どうぞ」と言う。張り詰めた空気が幾分か和らぐ中、ジミーはゆっくり腕を下ろして何度か振った。指先に戻ってくる血の感覚。それを確かめるように指をぎゅっと丸めたり開いたりしながら口を開く。 「ウィルスソフトさ」 「ウィルス?」 「ああ、暴露ウィルスって奴だ。侵入先のパソコンのデータを盗むためのな」 「ほう。あのUSBの中身がそれなんですね」 それからジミーは続けた。自身が古物商の他にウィルスソフトの販売をしているということを。彼の話によれば、販売しているウィルスにはお遊びレベルのものから真面目なものまで複数あるらしい。簡単なものならメールやネットの履歴を引き出すだけ、その上なら画像やパソコン全体のデータまで、さらに上ならシステム破壊などのクラッキング行為の手助けまでと内容は様々で、目的や用途に応じて販売しているという。渡した偽カタログにある連絡先から顧客は品物を依頼し、双方にとって都合の良い場所で握手形式でUSBを交換し合う。最近はリベンジポルノなんて言葉のおかげでそこそこ繁盛していると彼は笑ったが、ベルモットに渡したものは販売する中で最も精度の高いプログラムということだった。 「それを売買していたって訳ですか」 ふむ、と降谷は考え込んで、上から下まで男の姿を眺める。呼吸が乱れた様子はない。確かに嘘は言ってなさそうだが腑に落ちない点がいくつか残る。 「そのソフト、どこまでのセキュリティが突破できるんです?」 「詳しいことは知らねえが、そんじょそこらの防衛システムは簡単に突破できるさ」 「国家機関でも?」 「さあな、なんなら買って試してみるか?」 ソフトについて先程まであれだけ饒舌だった彼の口から出た曖昧な返事。それが降谷の第六感を静電気のように刺激する。売り物に対して重要な情報を落としたくないのだろうか。いや、それにしては自分の仕事に関して明らかに喋りすぎだ。なのに肝心の効果については口を割らないだなんてそんなこと、商品を売買する上での信用問題とも言えるのに。どの程度の効果があるかも分からずに買う馬鹿がどこにいるのだろう。 そこから一つ可能性が浮かび上がる。このソフトは別の人物が作っていて、ジミーは単に運び屋なのではないか、と。家の様子からしてもソフト開発のための高性能なパソコンがありそうには見えなかったし、もちろんどこかに隠れ家があるのかもしれないが、どちらかといえばあれは用心のための家だ。隠しているとはいえUSBが見つかったところであの内容では売買の証拠にはならないし、拳銃もああやって飾っておくことでガンマニアの一面を演じれる。二〇一五年にアメリカが発布したサイバー攻撃に対する大統領令に比べれば、拳銃所持なんてものはたとえその弾が減っていようが可愛いものだ。となれば違うところに本拠地がありそうだが、ウィルスソフト自体に明るくないところを見ると彼の裏に誰かがいるのは確定だろう。 「詳しいことは知らねえが」、という一言はあまりにも失言だった。なんなら買って試してみろと豪語したのと同じぐらいそこも挑発的であったならば、先を読ませなかったかもしれないのに。とはいえ事の始まりに、「てめえまさか」と言った段階で、組織の一員が訪れることを知っていたと言っていたようなものだが。 しかし本題は別にある。なぜベルモットがウィルスソフトを欲したのか。解明すべき一番の謎はそこだ。それを使って何をしようとしていたのだろう。あの方にでも頼まれてどこかのシステムに侵入しようとでもしていたのだろうか。だとしたらそれは彼女でなくてはならなかったのだろうか。どの構成員でもできそうな任務と言えば任務だ。それとも個人的に侵入したいどこかがあったのか。そんな別の目的があったのならそれこそジンに隙を突かれる真似などしないだろうに。ならばこのソフトの存在がジンに知られるのは構わないということだ。 (・・・じゃあ何が目的だ?それとも気まぐれなお遊びなのか?) その線もあり得なくはない。彼女はやたらと目を付けられていたしそれを煙たがることだってあるだろう。ジンの性格を考えればすぐにでもどういう訳だと問い詰めるに違いないだろうし、彼自身に調べをさせた上で、あの方が必要としていたとか次の任務に必要なものだからとでも言ってしまえばそれまでだ。遊ばれた挙句裏で調べ上げたものが秘密主義者の皮を剥ぐものでなかったのなら、傷つけられたプライドが逆上でもしそうなところだが、それこそ恰好が悪いというものだし深追いするほど彼とて馬鹿ではない。これが狙いならベルモットはしばらく自由気ままな身になれるといえばなれるのだろう。 しかし、本当にそれだけなんだろうか。 (まだ何か、裏があるのでは) 何もかも、彼女の計算通りだと言うのなら。この取引すらも、ダミーなのだとしたら。ブランドバッグの裏でウィルスソフトのやり取りをしていたのを隠れ蓑に本当の取引が行われていたのだとしたら。可能性はある。それに先程降谷は言ったのだ、ジミーのしていることに興味はないと。必要なのはベルモットと何のやりとりをしたかだけ。なのに彼は蛇口から水が流れるように喋りだした。それは心の疚しさを気取られたくがないための行為そのものだ。おそらくソフト以外に注意を行かせないために、ベルモットから言われていたのかもしれない。ブランドバッグとソフトに関してはどれだけ喋っても良いと。 「もういいだろ、いい加減その銃を下ろせよ」 「ちなみに彼女、このソフトのことは洗いざらい喋って良いって?」 「は・・・?」 瞬間、深い眼孔に埋まった瞳が揺らぐ。浮かび上がる不安と動揺。瞬きの回数が極端に増えている。ドーパミンが溢れている証拠に他ならない。その瞳と降谷の平生と変わらぬそれがぶつかり合う。流れた沈黙が一体どのぐらいの長さだったのか、ジミーには分からなかった。 「ふっ、隠し事が少し下手のようだ」 「・・・」 「彼女がこれだけで終わるなんて思えなくてね」 「・・・っち、すかした顔しやがって」 不敵な顔で鼻を鳴らされ、ジミーは盛大なため息ののちに言った。「てめえみたいな奴が一番嫌いだよ」、と。それから彼は水辺に掛かる手すりに背中から凭れかかる。やはり自分には駆け引きよりも現場が一番似合っている。裏があるとバレた以上、そう簡単には殺されないだろう。ここまで来たらもう怖いものはない、と緊張をほぐすように首を回すと、骨が軽く音を立てた。 「あの女からは銀髪で目つきの悪い男が来るかもしれないって聞いてたのによ、まさかこんな優男が来るとはな」 「ほう。優男、ですか」 僅かに眉間を寄せた降谷に、ジミーは笑った。それは初めてこの相手よりも優位に立てる一瞬を見つけたという風だった。もちろん、活かせる場面は思い浮かばなかったが。 「聞いてたタイプとも違えしな」 「それで?一体彼女とは何を?」 「本当は別のソフトを依頼されてた。内容は知らない。運んだのは俺だが作ったのは俺じゃねえ。俺は現場専門だからな」 「それを作った人というのは?」 「オスカーという男さ。俺はそいつと組んで商売してる」 つぎへ→ |