午前六時。無機質なアラーム音が部屋を劈く。四回目が鳴るか鳴らないかのところでのそりと布団から伸びてきた、小麦色の腕。

「ん〜・・・」

カーテンの隙間からは朝の優しい光が零れていた。目覚めはそんなに悪くない。普段の生活と比べれば十分に睡眠は取ったし、なにより時差のずれから布団に入ってすぐに寝落ちたのだから。
それなのに。なぜだろう。この微妙に消え切らない疲労感は。いや、答えは最初から知っている。愚問だ、と降谷は大きな欠伸を一つして、サイドテーブルを挟んだ向こう、壁側のベッドに丸まった白い蓑虫、否、すっぽりとふかふかの布団を被ったを見やった。彼女は反対を向いていて、彼の目には頭の後ろしか映っていない。

(・・・なぜダブルルームだと思っていたんだろう)

ツインだよな、普通。もともと女友達同士で泊まる予定だったにしても。部屋が一緒というだけで欲望が留まるところを知らずに勝手にダブルルームを作り上げていた気がしなくもない。たとえダブルだったとしても、さすがに付き合ってもいない男と一つのベッドを共にしたりはしないか、と寝起きにしてはやけに冴えている頭で考える。とはいえど。数日間生活を共にするのだから、一緒に寝ることになっていればそれはそれで大変だったというものだ。精神衛生を健全に保つのには必要不可欠なことだしこれが正解だった、と降谷は意を決して布団から起き上がった。



とんとんと彼女に覆い被さる布団を軽く叩くと、「んぅ」と言葉にもならない声が漏れて、もぞもぞと身体が鈍く動き出した。寝返りを打った彼女の身体が窓側の方を向く。瞼は閉じられていてまだ夢の中を彷徨っているらしい。気持ち良さそうな寝顔を前に降谷は思わず眉根を下げて微笑みを浮かべる。できればこのままゆっくり寝かせてやりたかったが、書き置きでも残して一人出て行ったならばきっと彼女は怒るのだろう。だからもう一度彼は名前を呼んだ。瞼がピクリと反応を示し、ゆっくりと開かれ露になった焦点の合わぬ瞳。重たげに何度か目が瞬く。

「おはよう」
「・・・おは、」

力の抜けた声が、はたと止まる。それと同時に瞳と瞳がかち合う。刹那、彼女は顔をハっとさせて、もぞりと布団を鼻が隠れるあたりまで引き上げた。

「おはよう、ございます」
「おはよう。どうした?」
「寝起きの顔は、ちょっと」
「なんだそんなことか。可愛いのに」

言うなりはぶわっと顔を赤くして、頭の上まですっぽりと布団に隠れてしまう。

(あ、朝からこんなの無理!)

慰めにしても言葉のチョイスが悪すぎる。初回からこんな状態でどうする自分、まだ夜は今日と明日の二回あるのに、と布団の中で盛大にため息を吐く傍らで、完全に蓑虫状態になってしまった彼女に降谷が声をかける。顔洗って歯を磨いてくるから、と。布団越しに聞こえる声がその裏に何を意味しているのかは明らかだった。バタン、と洗面所のドアが閉まる音と共に彼女はゆっくりと布団を引き下げる。

(・・・ほんと、スウェットが意外すぎて)

スーツがデフォルトとはいえ私服姿も何度か目にしたことはある。どの姿も洒落ていて、タイプで言えばスマート寄りな格好が主だ。寝巻きもワイシャツのようにボタンを留めるタイプのものだと思っていたからか、スウェットは彼女にとって予想外だったようだ。

(ゆるい感じは普段見れないから嬉しいけど、破壊力・・・)

これもまたいわゆるギャップ萌えと言うやつだろうか。う〜んと頭を悩ませながらが着替えに手を伸ばす一方、降谷は握り締めた歯ブラシを右へ左へと動かしながら、どこを見るでもなくぼうっとした顔であれこれと考えをめぐらせていた。

(トレーナーもいいな)

大きめで、膝よりやや丈が上の、裾が少し絞られたロングトレーナー。ルームウェア界の人気を不動のものとしている、あのもこもことした女の子らしい寝巻きも良いけれど。これはこれで凄くナチュラルで良い。いずれにしても部屋着という外では見れない室内の格好には、夜を共にした者しか味わえない特別感がふんだんに詰まっている。

(抱き心地、良さそうなんだよなあ)

風呂から出てきた時の、トレーナーからすらりと伸びた健康的な足。火照って膝頭や足首が赤くなっているのも良かった。それに布団に入る瞬間にちらりと覗いていた太もも。柔らかそうで、手の平にしっとり吸い付きそうなあの感じ。

(・・・いかんいかん)

性的な目で見すぎだ、と雑念を消すかのように降谷は力を込めて歯を磨く。これだから男って生き物はどうしようもないのだと思いかけたところでふとあることが頭を過ぎる。

は、)

どういう人を好きになって、どういう人と付き合って、どういう人と思い出を重ねてきたのだろう。彼女に聞かない限りその答えは一生手に入らない。今ここで考えたところで野暮なことは分かっているし、過ぎたことからはなにも生まれはしない。だけれども。

(・・・そりゃいたんだろうな、死ぬほど好きな相手)

つのる思いを流すかのように、降谷はコップに溜めた水でいつもより長く口をゆすいだ。




*




「コーヒー熱いのでお気をつけて」
「いいのかご馳走になって」
「昨日の比じゃないのでむしろお昼も私が持ちたいぐらいです・・・」
「そんなの気にしなくていいのに」

ホテルから地下鉄の駅までの動線上にあるベーカリーで朝食を買った二人は、ダウンタウン行きのホームで電車が来るのを待っていた。七時前の、通勤途中のサラリーマンが多い景色はどこか日本を髣髴とさせなくもない。もっとも、座れる雰囲気こそしないものの押し合いへし合いになるだけの人がいる訳でもなく、到着した電車に乗り込めばそれなりに余裕はあった。入ってすぐのポールに二人は掴まり、まだ買って間もないコーヒーに口を付ける。

「は〜あったまりますね、パンどれから食べますか」
「うーんそうだな、ベーグルからにしよう」
「ベーグルは・・・っと、はい、どうぞ」
「ん」

作りたてのふっくらとしたベーグルに、カリカリに焼いたベーコンとふわふわのオムレツを挟んだホットサンド。一口含めば朝にピッタリの食材が口の中でまろやかに混ざり合う。美味い、と頭だけでなく胃袋も起きるのを感じながら降谷がの手元を見れば、グレーズのかかったドーナッツに綺麗な半円が刻まれていた。

「なんだかアメリカ人ぽいぞ」
「ふふ、旅行は人をミーハーにしますからね。そういえば降谷さんの名前はアメリカでも違和感ないですよね、ほら、あのサッカー選手の、もともとミッドフィルダーだった、えーと」
「ああ、レイ・カーティスか?そういや今はアメリカでプレーしてるらしいな」
「あ、その人ですその人」

他愛のない話をしていると、すぐ近くから何かが擦れるような高い音があがった。一体何だろうと振り返るとそこには飼い主の肩に提がる大きい鞄からひょっこり顔を出した犬―アラスカン・マラミュート―が鼻をひくひくとさせているではないか。どうやらベーコンの匂いに刺激されたらしい。くうん、と鼻を濡らして食べ物を強請る顔はとても愛らしく、隣に立つ連れの両目がきらきらと輝いていくのを降谷はばっちりと目にしてしまった。思わず頬が緩んでいく。
なぜ鞄にすっぽり収まっているのかと言えば、数か月前にニューヨーク市が制定した法令が原因だった。地下鉄に乗車する際、鞄に入らない動物を乗車させることを禁止したが、それを受けて中型サイズ以上の動物―と言っても主に犬だが―と暮らす飼い主たちが、とにかく大きなカバンでペットを運んでいるとニュースになっていた。
写真で見るだけでも可愛さが溢れているというのに、実際はそれ以上だ。鼻を鳴らす愛犬をよしよしと宥めながら飼い主の男が、「ごめんね、食いしん坊なんだこいつ」と言う。が、「これが犬用のビスケットだったら良かったんだけど」と返すと、目的の駅に着いたのか男は、「今度はビスケット持ってきてくれよな。じゃあね、良い一日を」とウィンクを残して去っていった。日本では中々出会えない返しだと降谷とは顔を見合わせてふふふと笑う。

「かわいかったですねえ」
「頬がゆるゆるだぞ」
「あの可愛さにはあらがえませんもん」

そうしてペイストリーもコーヒーもすっかり胃に収まる頃には、目的地であったトライベッカにあるフランクリンストリートに到着していた。降りた瞬間の、二人の間をすり抜けるように流れていった穏やかな風とカモメの鳴き声が耳に優しい。

「なんだか凄くお洒落なところですねトライベッカって」
「映画にでも出てきそうなところだな」

マンハッタンの南、ここトライベッカのそこかしこに軒を連ねるレンガ造りの建物。かつては倉庫街でもあり様々な企業がその名を掲げていたが今ではすっかり住居エリアとなっていた。地価の高騰で高級化したからか、小洒落たカフェから日用雑貨品店まで、そのどれにもどこか上品さが漂っている。都会的とはいえ決して近代的な建物が並ぶ街ではないが、だからこそ往年の映画で目にするようなニューヨークの景色が広がっていて、どこを切り取っても画になるところだ。

「ジミーの家はここからどのくらいですか?」
「この先を行ったハリソンストリートにあるらしい、十分くらいだろう」
「はーい」
「昨日も言ったがベルモットがニューヨークのどこかにいる。子供騙しかもしれないが、これ、ないよりはマシだろ」
「わ」

そう言われての頭に乗せられたのは、今この瞬間まで降谷が被っていたキャップだった。まだほんのりと彼の温もりの残るそれは、彼女には少し大きかったのか鍔が手前にずり下がる。

「ちょっと大きいな、でもそれぐらいが目深に被れて良いか」
「ニューヨーカーぽいですか?」
「ああ、ぽいぽい」
「あ、今適当に返事しましたね」

くつくつと降谷は喉を鳴らしながら、「スキニーとよく似合ってるよ」と言って前を向く。露になった彼の髪を風が攫っていく様が、の目に鮮やかに映った。彼の姿は外国の景色によく馴染む。映画に出てきてもおかしくないぐらいによく融和している。その姿をしっかりと目に焼き付け、彼の曲がる方へと曲がって行けば、現れたのは人気のあまりない住宅街だった。物騒な気配があるわけではなく「閑静な」と言うのが正しいかもしれない。けれどそこかしこに散らばるカフェやブティックのある通りを通ってきた者からすれば、細道のここは少しだけ奇妙な雰囲気があった。

「この辺りだな」

通りの名を見て降谷は歩みを止める。すると近くの建物の陰にを立ち止まらせて、「失敗した時は手筈通りに」と言った。彼女は声を出さずに頭だけを縦に振る。
ジンから新たに入った連絡によれば、ジミーは古物商を営んでいるという。出勤は大体七時半頃で、先ほど彼らが下車した駅が最寄りらしい。彼の家と駅を結ぶ経路は今通って来た道以外にはなく、それまでの間にすれ違わなかったということはまだ彼は家にいる可能性が高い。すでに面は割れている。あとは発信機を仕込むだけ。仕掛けるのは降谷だがもし取りこぼしてしまった場合の出番という訳だ。しかし彼のことだ、そんな心配はいらないだろうと思いつつ、息を潜めて彼女は降谷の動向に注意する。
十分ほど経っただろうか。とある建物から一人の男が出てくるのが見えた。ハンチング帽のせいではっきりと顔を窺うことはできなかったが、その風貌や髪の長さは写真で見た男そのものだ。若くもなく、かといって初老すぎという訳でもなく。三十代半ばといったところだろう。すぐさま降谷はホテルから小脇に抱えて来た新聞を広げて通りへと出ていった。あたかも読み歩きでもしているかのように。
ジミーの姿に気付いていないフリをしながら前へと進めば、細い道地で案の定肩と肩がぶつかった。よろけるような素振りで振り向きざまに降谷は男のジャケットの襟裏に指先を伸ばす。広げられた新聞はジミーの視界を上手く遮るように操られていた。

「すみません!」
「おい気をつけろ!ここは道が細えんだよ!」

チッと舌打ちをしながらジミーは何を気にするでもなく通りを歩き、が潜む角をも過ぎ去っていく。その姿が小さくなるのを確認してから、降谷は彼女に合図を送る。やはり自分の出番などなかったと彼の元へ行けば、「新聞が役に立った」と彼は笑って近くのゴミ箱へそれを投げ捨てた。

「まずは家から捜索だな」

ジミーの家は門のない古びたアパートだった。名前が半分消えかかっているポストから番号を確かめて部屋へと階段を登る。一階―日本で言う二階―に上がってすぐの部屋が彼の城だ。見張り役を務めるの傍ら、降谷は上着の内ポケットから鍵開け専用の工具と手袋を取り出した。日本のドアとタイプが違うという懸念はあったが、彼の手に掛かればなんてことはないらしい。すぐにがちゃりと解錠される。ノブを握って内側へと押すと、油の足りなそうな音が鈍く響いた。

「意外と綺麗ですね」
「そうだな、意外だ」

あまり手入れの行き届いていなさそうな身なりとは打って変わって整理付けられている室内を見渡す。リノベーションされたばかりなのか傷一つない綺麗な壁紙が貼られていて、家具調度も割と新しそうだ。古物商故か段ボール箱やビニールに梱包されたものこそ多いものの、それを除けば住み心地の良さそうな部屋だった。こういうとき土足文化はありがたい、と二人はそのまま部屋の中を進んでいく。パッと見た限り特に怪しいものがある訳でもなかったのだが、玄関からでは死角になって見えない部屋に足を踏み入れるや否や、二人の視界に入ってきたのは壁一面に掛けられた数え切れないほど多くの拳銃だった。

「こりゃ家で待ち伏せするのは危険だな」
「ガンマニア、だったら良いんですけどね・・・」
「見ろ、引き出しの中。弾の数も凄い」

がらりと引き出したそこから出てきたのは、これまたぎっしりと埋め尽くされた銃弾の山。どれも未使用のものばかりだが何本か箱から抜かれた形跡もある。デスクに置かれた領収書からして買ったのはどうやら最近のようで、護身用にしては殺傷能力の高いものばかりだった。何かしら命に関わることをしているのではと推測せずにはいられない。
続いて重ねられた紙の束をぺらぺらと捲りながら概観する。見る限りベルモットが言うように非売品や限定先行販売のブランド物の商品に関するもの、さらには本業である古物商としての書面ばかりだが、この物騒な部屋の状況からでは彼女がジミーとバッグのやりとりだけをしたというのはどうにも信じられなかった。

「あ・・・降谷さん、本棚の本、どれも本じゃないです」
「げ、なんだこれ」

背表紙から天地や小口に至るまで。どこをとっても本そのものの作りだが、表紙を開けると中は箱のような作りの収納ケースになっていて、そこにはいくつものUSBが密閉袋に保管されていた。本棚に立てかけられたそれらを一つずつ開けてみると、色や形は違ったがどれからも大量のUSBが出てくるではないか。

「迂闊に手を出したくはないが・・・そうも言ってられないか、あとでホテルに戻って見てみよう」
「あ、なら私のノート使ってください。こういう時のためのを持ち歩いてるんですけど、癖で日本から持ってきちゃったんですよね」
「職業病というのは恐ろしいな。だが良いのか?壊れるかもしれないぞ」
「大丈夫です、どんどん壊しちゃってください」
「ふっ、頼もしい限りだ」

がリュックサックから取り出したノートパソコンを机の空いたスペースに広げている間に、降谷は本箱から一本のスティックを取り上げる。

「はい、いつでも大丈夫です」

頷いて、差込口にUSBを挿入すると、「データを構成中」の表示の後に一つのファイルが立ち上がった。その中にあったのは骨董品に関する写真やその説明書きがされたものばかりで、一見すると顧客向けに作られたカタログといったところだった。怪しいものは何もない。けれども本に見せかけた収納ケースにしまっている時点で怪しくない筈がないのだ。しかもよくよく見たらばファイルの保存の仕方も少しおかしい。「1」と書かれたファイルをクリックすると、沢山の写真とワードデータと「2」のファイルが出現し、「2」をクリックするとまたも多くのデータと一緒に「3」が現れる。トップファイルにそれぞれの番号が振られたものが一覧できるよう並んでいるのではなく、ファイルを開く度に次のファイルが出てくる仕組みになっていて、カタログにしてはどうにも操作が不便だ。

「・・・これは」

「ファイル15」まで開いたところで降谷の手がはたと止まる。一つの画像に対して一つの説明書きのワードファイルが並んでいたこれまでと違って、そこには一つだけどの画像にも対応しないファイルが存在していた。何かがおかしい、とおそるおそるそれを開けば、中には「受け取り日時、場所」と書かれたフォーム欄の下に連絡用の番号が記されていた。

「普通、十五回もファイルを開けさせた最後に連絡先を置くか?」
「隠したいことがあるって言ってるようなものですよね」
「ああ。ここから先は本人に直接聞くか」








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