(うーん困った)

この地下鉄に乗れば四十五分ぐらいでタイムズスクエア近くに出るわ、とクラウスの母との別れを惜しみつつ家を後にしたものの。よくある鉄道会社側の事情による運転見合わせで、は途中駅での下車を余儀なくされてしまっていた。
なんとかマンハッタン内部のロウアー・イースト・サイドまでは来ることができたが、宿泊予定のホテルがあるセントラルパーク近くまではまだまだ距離がある。タイムズスクエアやファッション工科大学に面する七番アベニューを見つけることができればホテルまでは一本道だが、このニューヨーク市、碁盤のように張り巡らされたアベニューとストリートからできているため、慣れてしまえば簡単に掴める土地勘も、来たばかりのにとって瞬時に理解するのは非常に難しいことだった。
クラウスの母との別れ際、彼女は「幸運を祈るわ」と人差し指と中指をクロスさせていた。俗に言うクロス・フィンガーというやつだ。指を重ねることによってその形が十字架のように見えることから、その力が幸運に繋がると言われているらしい。その祈られた幸運が果たしてマンハッタンに辿り着くことなのか、それとも降谷とのことなのかは神のみぞ知るというやつだが、とりあえず中心地であるミッドタウンに出ることは叶わなかったようだ。

(とりあえず一旦地上に出よう)

アップタウンと書かれた方面の地下鉄を乗り継ぎどういう訳だか行き付いてしまった三番アベニュー駅。改札を出てちらりと辺りを見回せば、日本の感覚でそれなりに大きな通りが広がっていた。雑多なビル群やこじんまりとしたカフェにショップが所狭しと立ち並んでいて、人通りも少なくはない。午後五時を過ぎたとはいえ日の入りまではまだまだ時間に余裕もあることから、下手に地下鉄に乗って訳の分からないところに出るよりは散歩がてら景色を楽しむ方が良いかもしれない、とはスーツケースの持ち手をしっかりと握り、携帯のアプリからマップを起動しようとした、のだが。

「えっ、あれっ、ネット切れちゃったの!?」

鞄の中に入れておいた、日本を発つ前に申し込んで借りてきた某会社のモバイルWi-fi。空港に着いた時は確かに問題なく作動していた筈なのだが、おかしなことにうんともすんとも言わないのだ。これがなければ無料Wi-fiのある場所や契約している携帯会社の海外ネットワーク以外にネットに繋ぐ方法はない。だが後者は一日三千円近くかかってしまう。国家公務員とはいえど若い彼女の給料はたかが知れている。そのうえ情報収集のためにかかった費用は経費扱いにはならず全てポケットマネーからだ。明日からの降谷との旅を楽しむためにも無駄遣いはしたくはなかった。

「・・・まあいっか、まだ明るいしきっとなんとかなるなる」

勘が正しければ先ほどよりはタイムズスクエアに近付いている筈で、日が暮れるまでにはおそらく辿り付けるだろうし、それでどうにもならなければどこかの店員にこのホテルに行きたいのだと頼みタクシーを捕まえてもらえば良い。旅のトラブルは楽しむに限る、と楽観的な考えからは人気の多そうな方に向かって歩き出す。

(ワイン専門店に、高級食材店に、わ、パーティー用品店なんてあるの?さすがアメリカだなあ)

いつもどこかしらでパーティーが開かれていて色んな人が浮かれて騒いでいる、なんてものはたまに見る海外ドラマでのワンシーンだが、ネオンに彩られた町で騒ぐ若者のイメージがどことなく脳裏に焼き付いている。

(ペット用品店がびっくりするほど大きい・・・あ、あれはなにかな)

カジュアルなレストランから中華料理店、スタンドで売られているホットドッグにアイスクリーム。四方八方から漂う色々な香りが混ざって都会の空気が作られていた。その中に並ぶ雑貨屋や日用品店の真新しさからは縦横無尽にあちらこちらの通りを抜けて、食指が動くままに店を見物していく。だがしかし、その結果。

「・・・迷った」

いやもともと迷子ではあったのだけども。欲望の趣きにまかせて自由気ままに歩いてしまったと後悔するにはもう遅く、気が付けば細道ばかりが続く通りを行ったり来たり彷徨っていたのだった。

「地図もないし、お店もないし」

あるのは沢山の木々とその合間から見えるテニスコートだけ。来た道を戻ろうにも店ばかり目にしていて通りの特徴を見逃してしまっていたし、それに碁盤のような地形が仇となってどこから来たのかも確かではない。北に進めば―もはやどちらが北なのかすら把握してはいなかったが―いくつも枝分かれした分かれ道があるもそのどれかを進む勇気は無く、南に進めばなにやら怪しげに見えなくも無い建物が建っている。右往左往しながら、さてこれはいよいよ海外ネットワークに繋ぐか否かの決め時かと答えを決めあぐねていた、そのときだった。

「そこのお前、何をしている」

どこからともなく聞こえた日本語が、やけに大きくの耳に響く。音のする方に振り返ると、そこにはニット棒を被った背の高い、腰まで伸びた長い黒髪を持つ男が立っていた。

「さっきからここでうろうろしているようだが、薬の売人じゃないだろうな」
「ち、違いますただの迷子です」
「そんなこと胸を張って言うものじゃない」

男はひどく目つきの悪い顔をしていた。おそらく今この瞬間がというよりも、平生からしてそうなのだろうという印象だ。鋭い目つきに、特徴的な隈を持っているこの男の姿は、の目に威圧的なオーラを放っている風に捉えられた。流暢な日本語とその風貌から日本人かとも思われたが、相手の瞳がマラカイトグリーンにも似た色をしていたことから純日本人ではないと察知がいく。
そんな男の視線が、訝しげにの体を上から下へと攫っていった。肌の白さが瞳の色を一際目立たせているようで、心の底まで見透かしてしまいそうな独特な雰囲気さえ感じてしまう。

「あの、私怪しい者じゃありません・・・」
「往々にして怪しい人間はみんなそう言う。まあいい、どこへ行こうとしているんだ」

薄手のコートのポケットに手を突っ込んだまま、男が一歩、また一歩と近付いてくる。距離が縮まるとその背の高さがさらなる威圧感に変わり、思わず後ずさりをしたくなっただが、やましいことはなにもないどころかもしかすれば相手がよからぬ人物だということもありえるのだ、ここで弱気になる訳にはいかなかった。ごくりと生唾を飲み込んで、スクリーンショットで保存しておいたホテルの住所を出しかけるも、信用していない相手に滞在先をわざわざばらしてどうする、と慌てて画面をタイムズスクエア周辺の地図の写真に切り替える。

「タイムズスクエアに行きたいんです」
「タイムズスクエアというのは大体六番街から九番街までのことを言うんだが」
「え、そうなんですか?」
「知らないのか」
「し、知りませんでした、その、世界の交差点って言われてるところに行きたくて」
「それならまだ五本も向こうの通りだ。分かりもしないのに一人で出歩くんじゃない」

はあ、と男が大きな溜息を吐く。よもや目の前に立つ若い女が日本の警察庁に勤めているとは露ほども思っていないのだろう。面倒臭そうな表情ではあるものの、その言葉にはどうにも僅かばかり迷子の日本人を案じている雰囲気もあった。とはいえ、専ら下準備の不十分な観光客に対する憂い以外の何物でもなかったのだが。

「ごめんなさい・・・」
「通り魔に会いたくないなら明るいうちにさっさとこのエリアから抜けるんだな。ここを出た通りを右に真っ直ぐ行くと七番街が出てくる。そこをまた右に曲がってひたすら真っ直ぐ歩くんだ。分かったらさっさと行け」

しっし、と追い払うかのように手を動かした男は、言うが早いかぶっきらぼうな目つきのままの横を通り過ぎて行こうとする。それを彼女は、「あの」と慌てて引き止めた。

「なんだ」
「ありがとうございました」

振り返った男は何も言わずに彼女が行く方とは反対の道を曲がっていった。去り際の、鴉の濡羽を思わせるようなコシのある髪が尻尾のように風に靡いていく。
突然の出来事に彼女はまたも生唾を飲み込んだ。今の彼は一体何者だったのか、と。自分と同じような観光客には見えなかった。ならばきっとこの辺りに住んでいるのだろうが、仕事帰りという風にも見えなかった。外見だけで言えばどこかの反社会組織にいてもおかしくはなさそうだが、それを思っては折角道を教えてくれた相手に失礼というものだ。

(・・・い、良いお兄さん?だった?)




*




長髪の男に言われた通りに歩を進めること約十五分。陽が傾き始めた七番アベニューの交差点を右に曲がる。ドラッグストアや銀行のあるそこを五分も歩くと、H&NやForever25、Revi’sなど日本でも見慣れた看板が顔を出した。有名企業が軒を連ねる建物が密集し始め、サイレンが微笑むコーヒーショップを通り過ぎ、迫力のあるライオンの看板も後ろへと流れて行けば、次第にネットやテレビでよく目にする都会の喧騒がの視界に飛び込んでくる。碁盤の目状の町並みを斜めに切るように走るブロードウェイ。そう、そこはまさしくニューヨーク・タイムズの本社だった。隙間無く並ぶ高層ビルの間に孤島のように聳え立つそれは、知らない者がいないと言っても過言ではないほどに世界的シンボルの一つと見なされている。

「わあ、タイムズスクエア!」

うっすらと濃紺が姿を見せ始める空を背景に、眠らぬ街を彩る企業やミュージカルの巨大な広告ネオンが目に眩しい。気温もだいぶ下がってきたようで、肌を撫でる風も冷たくなっていた。日本ではすっかり汗ばむ季節だというのに、ここではまだまだ上着が手放せない。裏地が付いた厚手のカーディガンを上着に選んだのは正解だったが、首元が冷えるとは鞄からマフラーを取り出す。

「ここが世界の交差点かあ、凄いなあ・・・」

辺りを行き交う人々も、耳に入ってくる言語も、全てが多種多様に溢れている。まさにここは、世界の交差点の名に相応しい場所だった。
手を繋いでショーウィンドウを眺めるカップル。隙間無く密着しセルカ棒に取り付けられた携帯に向かって笑顔を向ける、アジアからやってきたのだろう女子の集団。カフェテラスで仲睦まじそうに一つのコーヒーを分け合う老夫婦。その横の席でラップトップを広げて打ち合わせに励むスーツ姿の男たち。向きを変えれば勝手に写真を撮るなと大道芸人に多額のチップを要求される観光客。空の酒瓶片手にふらふらと裸足で歩く中年の男。頬を膨らませてトランペットに命を吹き込むストリートミュージシャン。ベビーカーを押して歩くアラブ系の家族たち。パトロールに励む二人の屈強な警察官。ジャックラッセルテリアを七匹も連れて歩く若い女性。買出しに出されたのだろうエプロン姿のどこかのレストランの従業員。携帯を片手に自撮りを楽しむバックパッカー。

(不思議。こんなに人がいるのに、ひとりぼっちみたい)

あまりの壮大な都会の景色がそうさせるのか、それとも実際に一人きりでここに立っているからなのかは分からなかったが、数え切れないほどの人々の中に埋もれていくような、はたまた一人取り残されてしまうかのような、そういう寂寞がどこかにあった。けれども同時に、一人でいることを許され、大勢の中で寄り添い合っている気にもなってしまうのだから不思議だ。何一つとしてまとまりが無いにもかかわらず、この雑多な場には確かにある種のコミュニティが形成されていたのだった。

「明日また、降谷さんと来・・・」

言いかけて、はたと気付く。

(・・・会うんだよね、ほんとうに、降谷さんと)

仕事で会うのとは全く訳が違うのだということをは改めて思い知る。勢いに任せて誘ってしまったものの、いざその時をどう迎えれば良いのだろう。

(心の準備なんて、ぜんぜん)

意識している。明らかに。一緒に旅行ができるだなんて浮かれていたのはほんの昨日までの話で、降谷の言動の一つ一つにどうしようもなく心を揺さぶられる自分に明日からはなってしまうのだ。それを思えば、初めて会ったあの頃は何も気にしなくて良かったとすら感じてしまう。
そんな降谷との待ち合わせはホテルのロビーだった。つまりこの後ホテルに戻りチェックインを済ませ、適当に夕飯を食べ部屋で眠ればもうそこから先は彼が隣にいるということだ。時間は待ってはくれない。今も刻一刻とその時に向かって時計の針は動き続けている。それを意識すれば意識するほど彼女の心は落ち着きを失い、代わりに靄のような焦燥に襲われる。

(・・・どうしたいんだろ、私)

少しで良いから自分のことも見てほしい。そんなことを思うぐらいには降谷の心に自分の存在を望んでいる。それは確かだが、そこから先のビジョンが曖昧なのもまた事実だった。付き合えるものなら付き合ってみたいと思う欲望に忠実な自分もいる。けれどその気持ちを押し通すのはなんだか自分のことだけ考えている気がしてならないのだ。いかんせん自分は彼のことをあまり知らない。そう思うことが彼女にはしばしばあった。

(知らないことを気にかけるのはナンセンス、か)

先ほどクラウスの母に言われたあの言葉が脳裏にフラッシュバックする。
初めて逢った時から彼は既に決意の中にいた。固い信念の中で、目的に向かってただひたすらに真っ直ぐ駆け抜けていた。だから知らないことだらけでむしろ当然なのだ。頭では分かっている。そこに自分が何か介入できないかなんていうのは、厚顔無恥なことなのかもしれない。だけれども。押し寄せる波のような彼への欲求。そう、彼と関わっていく上で避けては通れないものが沢山あった。

(私にできることって、なんだろう)

仕事をする上で、食事をする上で、会話をする上で、一つ、また一つと降谷のことを知れるのがは嬉しかった。名前を呼びたいと言ってくれたあの時も、幼馴染が死んでしまったのだと打ち明けてくれたあの晩も、旅行の誘いに応じてくれたあの日も、家へと招いてくれたあの夜も。目には見えないところでも少しずつ心を許してくれていると思えたからだ。

(でも、私はなにも、持ってない)

彼の言葉や行動には宝石のように輝く不思議な力がある。それら一つ一つに引き寄せられ、信じてみたいと心を動かされ、追いかけるように日々を生きてきた。それなのに、自分は一体今まで何をしてきたというのだろう。
思い返せば少し受け身が過ぎたのかもしれない。降谷が悪戯で女を騙したりする人間ではないことは百も承知だ。その上で彼は自分に少なからず好意がある素振りを見せてくる。それに気が付かぬほどとて初心な訳ではない。しかし受け入れるには自信がなかった。釣り合うだ釣り合わないだのと答えの出ない悩みを吐き、その自信の無さを言い訳に彼からの好意に顔を背けていたのもまた確か。そうやって逃げ続けてきた間に自分は彼に何か一つでも、たとえそれが恋愛という意味においてだけでなくとも残したものがあるのだろうか。

(・・・だから旅行のこと降谷さんに言ったんでしょ、私のばか)

そもそも嫌ならここに来る筈もない。なのにわざわざ有給をもぎ取ってまで来てくれるのだ。それも直近の申請にもかかわらず、だ。そんな無茶を押し通すほど降谷がお人好しではないからこそ、これまで無意識の内に彼に甘え続けていた自分に腹が立つ、とから溜息が零れる。
知らないなら知っていけばいい。男女の仲にならなくとも、彼の力になりたいという気持ちに嘘はないのだから。彼の熱に慣らさないでほしい。そう思ったあの日が嘘みたいに、気付いた時にはもうすっかり呑み込まれてしまっていた。後悔はない。けれどつくづく厄介だった。自分の体である筈なのに、気持ちを上手くコントロールできない恋という感情が。

(ちゃんと、向き合わなきゃ)

そう思えば周りのネオンも一層輝いて見えるというものだし、明日降谷と待ち合わせてからも生きていけるというものだ。きっとこの景色だって心から楽しむことができるだろう。ならばそろそろホテルに向かうか、と暗くなり始めた道を歩き出そうすると、ふと後ろからトントンと肩を叩かれた。なんだろうとは振り返る。するとそこにはツーブロックヘアの、いかにも胡散臭そうな顔立ちの男が立っていたのだった。

「ねえ君一人でここに来たの?」
「え?」
「スーツケース持つよ、君のホテルまで送ってあげる」

爽やかそうな笑顔で、けれども強引な態度を前には思った。カモられている、と。それにしても雑なナンパだった。こんな風に来られては怪しさ百倍というやつである。大方スーツケースを運んだだろ、とぼったくられるかレイプ紛いに頂かれるかのどちらかで、事の大きさを考えればきっと金銭をせびる方だろう。この手のタイプは一歩でも日本を飛び出たならばいくらでも遭遇するシチュエーションだ。特にアジア圏の女性は目を付けられやすくもその例外ではないが、ヴィクトアーリエンマルクトの時のように数で囲まれさえしなければどうとでも対応はできる。

「大丈夫。結構よ」
「そう言わずにさ、一人旅なんて大変だろ?」
「生憎だけど旅じゃないわ。ここがホームなの。今から家に帰るの」

日本を発つ少し前から頭を英語脳に切り替えたおかげか、はたまた降谷から手渡されたメモのおかげか少しはまともな英語が喋れている気がする、とは内心英語を喋る自分自身に驚いた。そうして事を荒立てずに男を受け流そうとした、のだが。

「これも何かの縁だし家まで送ってあげるよ。ほら、行こっか」
「あ、ちょっと、勝手に荷物触らないで」

がしっかりと持ち手を握っているのもお構いなしに男の手が伸びてくる。どうやら一人で歩くアジア人を何が何でも逃がさないらしい。笑顔でにじり寄ってくる男に、「警察を呼ぶわよ」と言おうとしたその時だった。予期せぬ方向から「!」と名を呼ばれたのは。

「え?」

いくつもの言語が混ざる中に、一際浮き立つように耳に響く馴染みのある言葉。そんなこと、ある訳がなかったのに。けれど間違いじゃない。確かに自分の名前だ。それにそれだけじゃない。この聞き覚えのある声は―…。
徐々に高鳴る心臓の鼓動。周囲の雑駁で煩い音とは裏腹に、やけに全身を叩くように波打っていくじゃないか。おそるおそる、ゆっくりと声の方へと振り返る。

「・・・っ!」

瞳に映り込む一人の男。ミルクティブラウンの髪を揺らしながら小走りでやってくる、彼女の心をどこまでも揺らす、ただ一人の人間。

「待たせて悪かったな」

一体どうして。なんでここに。だって来るのは明日なのに。それを考える余裕はどこにもなかった。はただただ目を丸くして、次第に大きくなる男から目を放せない。まるでスローモーションのようだった。周りの音も、色も、匂いも世界からシャットアウトされる。今この時、彼女の視界に映るのは、自分に笑顔を向けるたった一人の男だけだ。

「ふる、や、さん」

間近に駆け寄るや否や、降谷はツーブロックの男の腕を遮るようにの手に自身のそれを重ねる。スーツケースを自分の側に回し、間髪入れずに今度は彼女自身をも引き寄せて、チークキスをしながらしっかりと片腕で抱きとめた。この光景を目にした男は、恋人が出てきたんじゃしょうがないとでも言いたげな諦めの笑顔で肩を竦めると、ターゲットを変えるべく静かにその場を去っていく。

(な、に、なにが、いま、なに、が)

手が触れ合った瞬間も、頬と頬がすり合わされた瞬間も。全てを自然にやってのけた降谷とは裏腹に、は全く身動きができずにただ瞳を大きくするだけ。どうやら不審な男が去っただけではなく、降谷が離れたことにもまだ気が付いていないようだ。そのあまりの動揺に彼は、「おい」と彼女の顔の前で数回掌をちらちらとさせてみせる。するとようやく、固まってしまった彼女がハっと我に返ったのだった。

「な、なん、で、ここに、」
「色々あってね」
「・・・そ、それ、に、ほっぺた」

上手く言葉が紡げないのを自覚すると同時に、感覚の全てが彼女の体内に再び飛び込んできた。人々の雑多な会話にネオンの明かりが溶け、飲食店や香水の混ざった夜の匂いが染み出し、肌をなぞる風がそれらを攫っていく。一時停止した画面が動くような感覚に似ているかもしれない。世界は普段と変わらずに動いていた。一人の女が一人の男と出会うという、取るに足らない出来事などまるで気にも留めていないかのように。けれど確かに今、の歯車は止まっていた。

「てっきりチークキスなんて慣れているのかと」
「どーいう、意味ですかそれ」
「ヨーロッパの文化じゃないか」
「ド、ドイツの挨拶はハグですハグ!キスなんて・・・」
「あのな、そんなに照れられたらこっちだって恥ずかしくなる」
「だって・・・、あれ、アメリカってキスでしたっけ?」
「人によるな」
「・・・嬉しそうに言わないでください」
「ま、なんにしても間に合って良かったよ」








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