蒼天から陽光が降り注ぐ。光にきらめく新緑が風にそよめき、絵に描いたような雲がうっすらと広がる、そんな一日だった。
正午を過ぎてまだ間もない時分にもかかわらず、まるで人気の無い湾岸道路近くの倉庫街。その一角に止まっている一台の車、ポルシェ356A。そこにはハットを目深に被った銀髪の長身痩躯の男が、紫煙をくゆらせながら黒の愛車に凭れるように立っている。車中にはもう一人いた。エラの張った顎を持つ、サングラス姿の男。光を通さない目元からではその素顔を窺うことはできないが、やはりどこか厳めしい。
そこへさらにもう一台、白い車体がやってきた。垂れ下がる銀髪から覗く男の眼光が一際鋭さを見せる。視線の先、「新宿330 と73-10」のナンバープレートを携えたRX-7から現れたのは、物々しい彼らとは正反対の雰囲気を放つ一人の若い男だった。

「バーボン、遅かったじゃねえか」
「これでも急いだ方なんですよ。なにせ急に呼び出すんですから。それでジン、用件というのは?」

フン、とジンは気に入らなそうに鼻息を荒立てる。自分から呼び出したくせに無愛想な態度だ、とバーボンは浮かべた笑顔の裏で思ったが、そもそもこの男の愛想の良い姿というものは組織に入ってこのかた見たことはなかった。

「今すぐニューヨークへ飛べ」
「どういうことです、もっとちゃんと事情を説明してほしいものですね」
「ベルモットの奴が組織に隠れてニューヨークでコソコソしてやがるんだよ」
「・・・それは組織の命令ですか、それともあなた個人の?」

ジワジワと攻め寄るような威圧を放つ口元から煙草が零れ落ちる。全身黒の装いであるからか、橙の光が上から下へ流れていくのがよく見て取れた。綺麗に磨かれた革靴に踏まれるそれを追ったブルーグレイの双眸は冷然としていて、今この時彼は降谷零ではなく、確かにバーボンの顔をしていたのだった。













「今日あなたとこうして話ができて本当に良かった」

ジョン・F・ケネディ国際空港から車で約三十五分、大きく分けて五つのエリア―マンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、ステタンアイランド―から成る、ニューヨーク市ブルックリン地区にあるクラウンハイツにはいた。いわゆるアメリカン・コミックスの世界と違って高層ビルが立ち並ぶようなエリアではないが、ブルックリンの中でも有名とされるブラウンストーンで作られたアパートメントが道路に面して伸びる、落ち着いた住宅街だ。
世界各国からの移民の多さが挙げられるこのニューヨーク市だが、ここクラウンハイツにはヨーロッパからのユダヤ系移民に加え、前世紀中頃辺りから増えたカリブ海諸島の移民を中心に数多くの人種が共生している。敬虔の念が深い前者と、開放的な生活を好む後者とでは折り合いが悪く、人種偏見による争いが数え切れないほど勃発したものだが、二〇〇〇年を超えてからは再開発地区として住居エリア化されただけではなく、様々な企業が出資するブティックや外食施設などが進出し、今はとても穏やかな場所なのだった。

「ごめんなさい、本当はもっと早くに来たかったんですけど」
「いいのよ、警察官って休みを取るのも大変でしょう?それなのに日本を出ようだなんてもっと大変なことだもの」
「そう言ってもらえると助かります、私も今日お話できてとっても嬉しいです」

石造りでできた概観とは裏腹に、カントリー風の内装で統一された目に優しい色合いの部屋の中。そこを行き交う文書としてではなく話し言葉としてのドイツ語。久しぶりにしてはちゃんと話せている気がする、とは内心胸を撫で下ろしながらクラウスの母と会話をしていた。出された紅茶は子供の頃からクラウスがずっと好きだったものだという。お茶菓子は彼の母お手製のチーズケーキで、空港まで迎えに来た彼女からふんわりと甘い匂いがしていたのはこれが原因のようだ。

「あの子から色々話は聞いて心の整理も付いてはいたんだけど、あなたの口からちゃんと聞けて嬉しかったわ。色々話してくれてありがとう」

「あの子」が誰を指しているのかはには明らかだった。そう、本来一緒に来る筈だったクラウスの彼女だ。彼女と彼の母は普段からも仲が良いようで、スカイプを通してよく休日に長電話をするという。そんな彼女は今日のことを非常に悔いていたが、どうしても外せない仕事ならば仕方がないというもので、来られない代わりにがどういう人間かをみっちり教え込んでいたらしい。ずっと会いたかったのよ、と空港での邂逅一番、目尻に皺を作って微笑む母の姿にクラウスが重なったのは言わずもがなだった。

「来て早々泣いてしまって本当にごめんなさい」
「謝らないでちょうだい、あの子のために涙を流してくれる人がいるのは慰めになるものよ。塩分出した分しっかりケーキ食べなさいね」
「はい、紅茶もケーキもとても美味しいです」
「ふふ、焼いた甲斐があったわ。ねえそれよりも、いつまで“Sie”で話すの?“du”では話してくれないの?」

両腕でもって頬杖を付いたクラウスの母が、前のめり気味にの顔を見やる。アイビーグリーンを思わせる二つの硝子玉にまじろぐこともなく覗かれてしまった彼女は、「そ、その」と躊躇いを浮かばせた。
敬称であるSieは初対面や目上の人間相手に使うのに対し、親称であるduは友人同士や近しい相手に使う。彼女の存在を前から知っていたとはいえ、初対面の友人の母親に対していきなりduを使うことはには憚られたのだが、向こうからしてみればその距離感がずっと歯痒かったらしい。

「・・・duで、良いんですか?」

何かを訴えかけるような仔犬の瞳に、はおそるおそる口を開く。

「du「が」良いの。寂しいこと言わないでちょうだい」
「そ、それじゃあ、duで」
「そうよ、Sieなんて私たちに必要ないもの」

でしょう、と首を傾げたクラウスの母は、「あなたがもう帰るなんて言わないようにポットにお湯を足してこなくちゃ」とウィンクを一つ浮かべて席を立つと、スリッパのかかとを鳴らしながらキッチンへと歩いていった。

(お母さん、凄く素敵で良い人だなあ)

ああやって笑うまでには想像以上の苦しみがあった筈なのに。なにより泣きたいのは自分ではなく彼女の方だったろうに。気さくに微笑む姿は本当にチャーミングですぐに心を鷲掴みにされてしまう。自分より早く逝ってしまった息子を慮る母の心を思えば胸がぐっと締め付けられるが、相手がそれを望まない限りむやみやたらと口にするのは不躾というものだ。

(本当に会えて良かった)

誰もいなくなってしまったリビング。手持ち無沙汰になった彼女はそっと辺りを見回した。整えられた部屋のあちこちに飾られている家族写真が、なんだかとても欧米らしい。
クラウスが警察官になってからも何かと理由を付けては毎年会っていたのだろう。私服姿の、まだ学生だったころの彼はやんちゃで悪戯っ子のような顔つきだが、制服に身を包む彼はキリリと一人前の大人のそれをしていて、自慢の息子だったことが良く分かる。ドイツで暮らす彼の父親も写真の中でどこか誇らしげに息子の肩を抱いていた。
そんな写真たちが、午後の柔らかな日差しに照らされてきらきらと輝きを見せている。しかしもうこの先家族全員揃った写真が並ぶことはない。その事実がの表情に翳りを落とさせる。

「今度は違う紅茶にしてみたわ。これね、あの子が送ってくれたの」

そう言いながら彼女はのすぐ前でポットの蓋を開けてみせる。シナモンやリンゴ、オレンジの香りがふわりと部屋の中に広がっていった。その香りを肺一杯に落としては言う。「なんだか冬の匂い」、と。するとクラウスの母は、「そうなの、全部冬セレクションなのに先週届いたのよ。まだ夏にもなってないのにね」とくすくすと笑った。釣られても笑うと、今度は困ったような声音で、「私のことなんか気にかけないで、早く良い人見つけて幸せになってほしいものだわ」と返ってくる。息子を想ってくれるのは有難い。けれど彼女には彼女の人生があるのだから、今すぐにとは言わずとも、いつかはちゃんと前を向いて欲しい。それが彼女の願いだった。

(でもね、お母さん、彼女は・・・)

幸せになるために誰かと結ばれなければならない。そんな考え方からは、世代間における価値観の違いが見える気がした。それもこれもは思ったのだ。クラウスの彼女が前を向いていないという訳では決してないことを。互い以上の相手などどこを探してもいないあの二人だったからこそ、彼女にとっての生きる意味はクラウスただ一人だけなのだ。仕事にも復帰して、それ以外の生活もすっかり彼女は取り戻している。長い時間をかけて自己と向き合い、様々な考えを巡らす中辿り着いた答えが、彼を想って残りの人生を歩むこと、だったのだ。傍から見れば喪に服しているだけだの病んだ愛だのと言うのかもしれない。けれどその場の感情だけで物を言っているのではないことがには良く分かっていた。なればこそ彼女の生きる道に口を挟む方が野暮というものだった。愛には様々な形がある。彼女が充足であるならそれで良いのだ、きっと。

「彼女にとってクラウスはね、唯一の人なのよ」
「ふふ、ほんと、困った子だわ」

諦めたように、けれどどこか嬉しそうに笑って、彼女は目尻に皺を作りながら紅茶に口付ける。ナツメグやジンジャーに混ざるフルーツの甘い香りに、クリスマスになったら一緒に食事ができたら良いと、そう思いながら。

、あなたもちゃんと良い人見つけるのよ。それとももういるのかしら?」
「残念ながら。仕事が恋人かなあ」
「まあ、年頃なのに。好きな人ぐらいいるんでしょ?」
「・・・、え〜と」
「ま!目を泳がせちゃって!その顔はいるわね?」

先ほどまでの話が嘘のように、クラウスの母は目をきらきらと輝かせ始めた。その姿は十代のうら若き乙女そのものだ。眩しい瞳から逃げるようには、「あ、はは」と視線を逸らしながら、「このケーキどうやって焼いたの?」と聞くも、そんなことはどうでもいいとばかりに、「どんな人なの?」と被せ気味に返事が飛んでくる。逃がさないとでも言いたげな笑顔を前に、彼女は観念するしかないのだった。

「お、同じ職場の人で・・・」

脳裏に浮かぶ、一人の姿。凛然と立ち振る舞う、気骨で聡明な男。
きっと今頃は、こちらに向かう前の最後の仕事に奔走していることだろう。

「あら、良いわね。かっこいいの?」
「・・・す、すごく、かっこいい」
「まあまあ!で?どういう感じの人?」
「どういう、感じ」
「どうしたの?」
「あ・・・私、その人のこと、実は全然知らないんじゃないかと、思って」
「どういうこと?知らないって?好きなのに?会ったことないの?え?あるんでしょ?」

格好の的だとばかりに、矢のような速さで次々と質問が嬉々とした声とともに突き刺さる。

「その、何をしてるとかは分かってるんだけど、でもその人自身のことをあまり知らないなって」
「ああ、オフの顔を知らないってことかしら」
「オフの顔・・・なのかなあ、でも性格とか中身の問題じゃないのよ。たとえばどんなところで育ったとか、どうして今の仕事に就いてるのかとか」

どうして組織を追いかけているのか、とか。それがの口から出ることはなかったが、むしろそれこそ彼女が一番気にしている部分だった。それもこれも、降谷が仕事という理由のみで潜入捜査をしている風にはどうしても見えなかったからだ。仕事に対する情熱と言われてしまえばそれまでだが、しかしそれだけでは説明の付かない何かが彼にはある気がする。命を、いやもはや魂すらをも懸けるに至らせた理由とは一体何なのか。彼の核心とも言うべきところを知らずして、自分のことを見てほしいだの、好きになってしまっただのと言うのはどこか身勝手な気がしてしまうのだ。

「それって付き合う前から知ってないとだめなの?付き合ってから一つ一つ理解し合っていけば良いじゃない」
「そう、なんだけど、それにそもそも私なんかが釣り合う気もしなくて」
「釣り合うかどうかなんてフられてから言うべきよ、あらフられたなんて今から言っちゃいけないわね」

ごめんなさいね、とクラウスの母はすぐさまテーブルをコンコンと拳で二回叩く。それが一体何を意味しているのかさっぱり分からなかったは、首を傾げて彼女の手と顔に視線を行き来させた。

「どうして今机を叩いたの?」
「ああ、不吉なことなんかを言った後に木とか木でできたものを叩くのよ。ほら、木には神秘的な力が宿るって言うじゃない?だから幸運が来ますようにってね、ある種のおまじないね」
「へええ、すごく素敵なおまじない」

国や地域の数だけ文化も信仰も言い伝えも変わってくる。木や木製のなにかを叩くのは日本にない行為だが、気軽にできて良いものだとが感心していると、主眼を逸らされた―もちろん意図的ではなかったのだが―ことに眼前の女は痺れを切らしたように、「んもう、そんなこといいのよ」と声をあげた。

「それよりなあに?あなたまさかその人と顔見知りって程度なの?どこまでの間柄なのよ」
「ど、どこまでって、どこ・・・まで・・・?」
「食事は?デートは?キスは?セックスは?」
「セッ!?キッ、キス・・・まで?」

いやいやなんとも前のめりの圧が強い。顔立ちのはっきりした人間のそれはとても迫力がある。セックスって、クラウスママ怖いんだけど、とは引きつった笑いを零しながら紅茶の入ったカップを傾けるが、息つく暇もないほどの質問攻めのおかげですっかり冷めてしまっていた。その一方で若い頃からきっとゴシップ好きだったのだろう母親は眉間に皺を寄せ、なにやら難しい顔を浮かべているではないか。

「それ、ちゃんと口と口の話よね?頬とか手とかおでこじゃないわよね?」
「口と口の話ですうぅ・・・、でも」

お互い素性を隠してのキスでした。確かにキスをしたのは自分自身だったけれど、その自分はありのままの姿だったのではなく、相手を欺くための肩書きを持った姿だったんです。しかもそれは相手もそうで、だから何を着飾るでもない男女がするキスとは少し訳が違んです、だなんてことを一体どう説明しろと言うのだろう。
「でも」とは言ったものの、そこに続きはなかった。けれどクラウスの母にとって大事だったのは、彼女がしたキスがちゃんと口同士であることだったようで、口篭ってしまった部分をさして気にはしていないようだった。

「キスまでしといて何をそんなにくよくよ悩む必要があるの」
「だって・・・」
「いい?人間百パーセント互いの持つものを共有なんかできないの。理解だってできないし分かり合えもしないのよ。自分と同じ生き方をしてきた人なんてどこにもいないんだから。感じ方も考え方もみんなまるっきり違うわ。この土地に住んでる人間なんか特にね。争ってばかりの歴史がここにはあるけど、でも大事なのは分からないことに出逢ったとき、理由や背景を把握した上でそれを尊重できるかできないかよ。だめならそこまでの話。きれいさっぱりお別れしちゃえばいいの。別れっていうのはお互いにとって悲しいことなんかじゃなくて、より素晴らしい道を見つけることなんだから。今から知らないことの一つや二つ、そうねたとえ百個あったとしてもよ、そんなの気にするのはナンセンスだわ。だから大丈夫よ、、あなたの愛を貫きなさい。それがあなたの糧になるわ」
「マ、ママ・・・!」
「ふふ、あなたのママは日本だけじゃないのよ」

ね、と再びウィンクを浮かべて彼女は腕を大きく広げる。こちらへ来いとの合図だ。感動から眉根を寄せたは、紡がれた言葉を身の内へとしっかりと沈め、万物すべてを温かく包み込むような慈愛に満ちた腕へと飛び込んだのだった。









(Beim ersten Schein der Dämmerung=差し染む曙光の傍らで)
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