快晴。雲ひとつない澄んだ青空。新緑の葉の影を透き通るような光が仰ぎ、葉脈の流れをはっきりと視認できるほどに降り注ぐ日差しの元、カカシとはとある公園にいた。公園といっても遊具はほとんどなく、お飾り程度の滑り台が設置されているだけの簡素なところで、その滑り台も風雨によって生じた錆に蝕まれ、塗装がいたるところでぽろぽろと剥がれていることからよりこの場の寂しさが浮き彫りになっている。ただでさえ広く見える公園はことさらその色を増していて、そのためここは普段からあまり人気のない場所なのだった。 しかし人目を気にせず犬を走らせるのには丁度良いと、家からさほど遠くないこの公園をカカシは気に入っていた。小さくカットした犬のおやつが入った袋を右ポケットに、これまた適度な大きさに破った新聞紙にトイレットペーパーを敷いた簡易排泄処理セットを左ポケットに装備したカカシは、辺りをきょろきょろと見回して人がいないことを確認すると、リードの金具を外してを解放してやる。するとしがらみがなくなってすっきりしたのか、は一度体を震わせてから大きく足を蹴りだした。空気抵抗などまるで気にせず思いのままに走るその様は見ていてとても気持ちが良い。 土の匂いと草の匂いが混じり合って、それが風に乗って消えていく。とてもおだやかな午後だった。 |
「、取ってこい」 ゴム製の柔らかいボールがカカシの手から弧を描いて草むらに飛んでいく。待ってましたとばかりにが目を輝かせて舌を口の端から垂らしながらギャロップで追いかけると、その背中はあっという間に緑の中に消えていった。あまりの速さに後姿がまるでもう一つのボールのように丸く見えたぐらいだ。 (・・・あれ?) 少し遠くに投げすぎてしまっただろうか。普段ならばものの数秒で見つけて帰ってくるというのに、一向に姿を見せる気配がない。こうして外に出て且つリードをしていない時は、カカシから決められた距離以上離れないようにと日頃からパックンと協力して訓練を行っているとはいえ、いつだって不測の事態は起こりうるものだ。ひとたびそのことが頭をよぎってしまえば、心地よかった初夏の香りをまとった風の音は、すぐさま胸をざわめかせる不協和音へと変わりはじめる。その思いからカカシは一心に草むらへと走りだした。 「!」 普段は少し走ればすぐに端がやってくる気がするのに、こういう時に限って果てがないように長く感じてしまう。まるで夢の中で必死に駆けている時のように。 「・・・!」 向かいながらの一吠えがカカシの耳に入った。ちゃんと近くにいることが分かる喜びも束の間、その声音にはなにかしらの不穏―正しくは警戒というべきかもしれない―が含まれて、少年の警鐘をより一層打ち鳴らす。 ありったけの力で駆け抜けながら周囲に目配せをすれば、大木の後ろの辺りの草むらがゴソゴソと動いているのがわかった。きっとあそこにいるのだろう。その場へと脇目も振らずに足を動かせば、どうやらの他に人間もいるらしい、大きな影がぐらりと揺れていた。の低く唸る声から、誰かはわからないこの影の人物に彼が警戒していることが読み取れる。そしてカカシが愛犬の名を呼ぼうとしたまさにその時、いったいなにが起きたのだろう木の裏から、それはそれは大きな声が寂れた公園に響いたのだった。 「いってええええ!」 少し高めの、カカシから聞いてもそれが明らかに自分と同じ子供だとわかる声。歩をゆるめて訝しげにその場を覗き込めば、そこにはカラスの濡れ羽を思い起こさせるような黒色をした短髪の少年が涙目で自身の指先をさすりながら、フンっと鼻息を荒げるの傍に立っていたのだった。その様子から彼がに噛まれたのだということがすぐにわかる。すると息を切らして呆気にとられているカカシに気が付いたのか、愛犬は先ほどとは打って変わって明るい声色で彼の名を呼ぶように吠えて駆け寄っていくと、彼の足元で尻尾を小刻みに振りながらぐるりと一周し、鼻をひくひくとさせて匂いをしっかりと確かめてからおとなしくおすわりをした。そんな可愛らしい相棒に視線を落とせば、なにかを期待しているかのようにの尻尾がふわりと揺れる。 「そいつ、お前の犬?」 黒髪の少年が徐に近づいてくる。刹那、きっとなにかされたのだろうが唸り声をあげてカカシの後ろへと後ずさった。人懐っこい我が相棒がこんなにも警戒しているのだから、用心するに越したことはないとカカシは気を張ったのだが、次に眼前の少年から放たれた言葉は怪しい気配など微塵も感じさせない、なんとも気の抜けた声であった。 「噛まれちった」 まだ痛いのだろう、少年のまつ毛が濡れている。彼はに噛まれた右手をぷらぷらさせながらカカシに差し出した。確かに痛そうだ。血こそ出てないものの、まだ小さいが故の鋭い愛犬の犬歯と前臼歯の跡がくっきりと残っている。ここまで噛まれてしまってはきっとその内腫れてくるだろう。その経験がカカシにはあった。以前とぬいぐるみのおもちゃを引っ張り合って遊んでいたら、つい間違えて噛まれてしまったのだ。愛犬は瞬時に離れたものの、目の前の少年と同じように跡が残ってしまい、それがしばらくしたら内出血で腫れてしまったのである。もちろんに悪気があったわけではないし、普段ならば甘噛みにとどまるものの、遊びに徹している時はそうもいかない。怒っていないとはいえ痛みが残ったのは確かで、それを思えば少年の痛さを身に染みて理解できるカカシだった。 「なにしたの?」 「なにって、可愛いから頭撫でようとしただけだよ」 「なのにこいつときたら」と少年は眉間に皺を寄せて頬を膨らませる。しかし痛い思いをしたというのにへの興味を失っていないのか彼はすぐさま頬を元通りにさせると、今度はチチチ、と舌打ちをして犬の興味を誘おうとしていた。いかにもやんちゃっ子という名が似合いそうな彼の行動を眺めながら、カカシはこんなにも好奇心旺盛であるのに一体なぜ少年が噛まれてしまったのかと不思議に思った。なのでもう一度噛まれた手を見やれば、その噛み跡が手のひらではなく手の甲についていることに気が付く。もしかして、とカカシの脳裏をある考えが過ぎった。 「あのさ、もしかして上から触ろうとしたんじゃないの」 「上?」 「こんな風に。頭の上に翳すように」 そう言いながらカカシは後ろにいたの頭に今言った通りに手を伸ばす。 「あ、確かに、そんな風に触った」 「このやり方は犬が怖がるんだ」 「げ、まじ?」 人間側から見たらば、手の甲を上にしてそっと差し出すのは優しい素振りのように見えるかもしれない。よしよしと頭を撫でられるあのイメージがそっくりそのまま浮かぶのかもしれない。しかし背丈の異なる犬からすれば自身の顔程もある大きさのものが上から振ってくるのだ。信頼関係が成り立っていなければ、それはどんなに人間側に敵意がなかったとしても犬にとっては脅威にしかならない。だから自分の身を守るために犬は吠えたり噛みついたりする。もおそらくそれだろう。この少年が触ろうと手を上から伸ばしたのが怖かったに違いない。 「なあ、どうやって触ったらいいの?」 「手のひらを上に向けて、あごの下から触るようにするんだ。そしたら敵意はないって伝わるから」 「お〜よしよし、さっきは悪かったな」 カカシがやってみせたように少年はしゃがんで手のひらを上に向けて顎の下へと差し入れた。先ほどのやりとりのイメージが強かったからかいまだ警戒を解けなかっただが、カカシと話している様子から危険ではないということを感じはじめていたらしい。背筋を僅かに張るもその手を静かに受け入れたのだった。 「もふもふしてるうぅ」 柔らかな毛並みが少年の手を包み込むと、彼の頬がみるみるうちに緩んでいくのがカカシの目に映るものだから、表情がころころと変わるやつだなという印象を受けた。そんな少年の笑顔に緊張がかなりほぐれたのかは口を半開きにしながら目を細めていて、彼の手がこめかみや眉間を這い出すと、とうとう気持ち良くなったのか大きな欠伸を一つ零す。最初の手順さえ踏めばかなり人懐っこい愛犬に若干の嫉妬を覚えながら、カカシは一人と一匹のやりとりをじっと眺めていた。するとが草むらにころがるボールを回収してきて少年の前にぽとりと落としおすわりをしたので、その行動が何を意味しているのか分からなかった少年が疑問符を浮かべて首を傾げる。カカシが「投げてって言ってる」と補足してやると、合点がいったのか少年は「なるほど!」とグーの状態にした右手を左の掌にぽん、と乗せた。そして足元のボールを拾って、その加減が上手く掴めなかったのだろう一回目はすぐ近くをバウンドしてしまい、がそれを取ってくるのに数秒もかからなかった。それを踏まえて二回目は先ほどよりも遠目に投げてやると、は目を輝かせてすっ飛んで行ったのだった。 「あいつすげーかわいいな、名前なんて言うの?」 「」 「へえ〜か。お前は?」 「え?」 まるで初対面とは思えない話しぶりにカカシは一瞬戸惑ってしまった。小さいながらに人との距離間を細かく計算していた彼にとって―さらに言えば同年代の子供と輪になって遊ぶようなタイプではなかった彼にとって―、この少年のような接し方をされるのは非常に不慣れであったからだ。 「・・・カカシ」 「俺はオビトっていうんだ。よろしくな、カカシ」 少年―オビトは口角を上げ顔中の筋肉全てを使って笑顔を作った。カカシならば絶対にしない笑い方であったからこそ、にかっと歯を見せる彼の笑みが印象鮮やかに脳裏に焼き付いていく。太陽みたいに笑うやつだとカカシが思ったのも束の間、草むらからボールを見つけたが犬特有の斜め走りで戻ってくる。迎えるべくオビトが手を広げて待っていると、うまくスピードを落とすことができなかったのか、はたまたちゃんと主人を見分けていたからか、はオビトの腕をスルーしてその後ろにいたカカシに飛びつくように帰ってきた。そんな姿が可愛くてカカシの心にはぽっと明るい火が灯る。反対に見捨てられたオビトはむすっとした顔をしながら振り返ると、「このやろ〜」とのあとを手を振り回して追いかけ始めた。 最初はオビトもも遊びのつもりだったのが、次第にムキになってきたのか―もはやどちらが追いかける側かも追いかけられる側なのかもわからないが―その動作が荒っぽくなってくる。おもちゃのようにあちらこちらへと移動する少年の手を追いかけていたからか、ふと振り上げられたのにつられてがジャンプをした。するとどうやら着地の時に彼の歯がオビトの短パンのポケットに引っかかってしまったらしい。勢いに任せてジャンプしたその姿勢が同じく勢いに任せて沈んでいくのに合わせて、彼の短パンも下がっていくではないか。その光景がカカシの目にはスローモーションのように映っていた。次の瞬間にはの着地と同時に露になる子供用の白い下着。ところが当の少年は一瞬なにが起きたのか理解できていないらしい。ワンテンポ遅れて足元に風がよく抜けることに気が付き下を向けば。 「ギャッ、ギャー!!!」 オビトの顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていった。それは耳にまで及んでいてまるで茹でダコのようだ。事の次第を察知したのか彼は急いで短パンをずり上げる。そんな彼を横目に、はどこかばつが悪そうに「くぅん」と情けない声を洩らしながらカカシの元へと戻っていった。自分と遊んでいたならば起こり得なかっただろう光景に、カカシは終始視線を外すことができずに思わず見入っていると、若干涙を浮かべているのだろうか頬を朱に染めた少年の瞳とかち合ってしまう。 「・・・っくく、あははっはは」 自然と体の奥底から笑いがとめどない波のようにこみ上がってくる。 事故とはいえ初対面でズボンが落ちるやつがいるなんて。全力で犬と相手をし、全力で遊んで、パンツを晒すだなんてそんなハチャメチャなことがあるのだろうか、なんて。 少年の恥ずかしさに沸騰して五月蝿い声を上げ続ける姿に、どうして笑いを堪えることができただろうか。 「おいそんなに笑うなよ!」 「だ、だって、っはは、ズボン落ちるとか、あははっ」 「くそ〜〜〜よくも、よくも笑ったな!」 腹を抱えて笑うカカシをオビトはジト目でぎろりと睨むと、大きな声で「」と叫んだ。すると気まずさからか今まで静かに息を潜めていた犬の耳がピクリと反応を示す。 (こんなに笑ったの、いつぶりだろう) あまりに笑いが止まらないカカシの白い肌を、滴が一つ伝っていった。そして気が付いたのだった。自分がこういう状態になるまで笑っているということに。 普段の生活において、もしかしたら父ともこんなに馬鹿笑いしたことはないかもしれない。優しくて、博識で、誠実で、時折おちゃらけることもあるとはいえ、任務で帰りの遅い父親の疲労の溜まる顔を見ていたら、中々くだらない話もできなくて。それでも父とは心が繋がっていると思っていた。だから寂しいとは思わなかった。だって離れていても気持ちはきっと一緒だったからだ。けれど心の及ばない体の深部では、どうにもこうにも寂しさが出口を失い溜まりに溜まって大きな塊と化していた。父の温かな手が頭を撫でてくれない夜の多さ。一人で食事をして、一人で風呂に入って、一人で広い布団に潜り込む日々。思い合う気持ちだけでは足りないことも世の中にはごまんとあるのだ。が来てからその鉛のような錘は一気に軽くなっていたとはいえ、父じゃなければ満たすことのできないものが沢山あった。 それなのに、まだ友達にもなっていない―だって出逢って一時間も経っていない―相手を前に、こんなにも腹の底から笑っている。 「、今度はカカシのズボンを引っぺがせ!」 「ワン!」 「えっ、嘘でしょ、こら、!」 「さっきの敵は今の友ってな!」 「わーっ!」 * 町を闇が覆っていた。昼間の穏やかさが嘘のように空には分厚い雲が鈍く流れている。その下に流れる道を、時折雲間から覗く月の灯りだけを頼りにサクモはある場所へと歩を進めていた。任務終わりで疲れているのだろう、その足取りは酷く重たげで靴も若干引きずりながら歩いている。砂利の擦れる音だけが、やけに浮き立つように響いていた。 角を左に曲がってとある入り口を抜けると、数え切れないほど多くの同じ形をした石が並ぶ拓けた場所に出た。その中を迷うことなくただ一心に目的の石の前へ突き進む。するとそこは、ふた月ほど前に雑草を抜いて綺麗にしたばかりだというのに、もう新しい芽が顔を出していたのだった。 「すっかり五月もおしまいだ」 遅くなってしまった、と心の中で詫びるとサクモは静かに膝をつき、道中大切に持ってきた一輪の薄い橙色をしたカーネーションをそっと添えてやる。すると、雑草の青に混ざって繊細な花の香りが彼の鼻を掠めた。彼は先ほど山中花店の店主、山中いのいちがこの花は他のものに比べるとスパイシーな香りが特徴的なんだと言っていたことを思い出す。その時は他にもたくさんの花があってわからなかったが、こうして雑草と比べてみると彼が言っていたことがよく分かる。それにこの橙色を選んだのもいのいちだった。さすが専門家といったところで、サクモが桃色のカーネーションを買おうとしていたのを目にするや否や、それを誰に贈るのか瞬時に察知したのだろう、彼は花言葉とともに橙色のものを差し出したのだ。目を細めたサクモを見つめるその時のいのいちはどこか切なげだった。 「最近任務詰めだからか、君の声がとても聞きたくなる」 腕を伸ばして、石に刻まれた名前を指でなぞった。自分の苗字を受け取ってくれた、ただ一人の人。もう二度と聞くことの叶わぬ彼女の声を耳にすることができたなら。自分はどこへだって飛べるし、なんにだってなれるのに。 「だめだな、すぐにそんなことを考えてしまう」 自嘲の混じるため息を吐きながら、サクモは胡坐をかいて完全に腰を落ち着ける。草の冷たさが臀部から伝わった。 手持ち無沙汰になった手で近くの雑草を抜き始めるが、そのどれもが数センチほど草を残してしまう。こんなにも力を入れることができないぐらい疲れが溜まっていることに彼自身も気が付いていなかったようで、刹那目を見開く。 「カカシが傍にいるのに贅沢な悩み、とか言うのかもしれないな。・・・はは、まったく。その通りだ」 会いたくてももう二度と目にすることができないのは彼女のほうだ。自分以上に彼女のほうが成長を見守ってやりたかった筈だろうに。 疲労が溜まると弱気になって仕方がない、とサクモは邪気を払うかのように頭をぶるぶると振って笑顔を作るが、上がった頬の筋肉はまたたく間に下がってしまう。しじまの海に身を沈めた彼の表情はとても険しかった。 月明かりが石を照らすと、彫られた名前の溝に苔が生えているのが彼の目に映った。その苔が、サクモには自分と彼女との距離を明確に浮き上がらせている気がしてならなかった。肢体を動かし日々活動する自分と違って、ここはこれからどんどん苔むしていくのだろう。 動き続ける者には決して生えることのないそれ。 最愛の彼女は、もうどこにもいない。 「・・・君は、どうして」 一塵の風が肌を撫でて消えていく。 少しだけ、雨の匂いがした。 (2016.3.28) CLOSE (橙のカーネーションの花言葉:純粋な愛、あなたを熱愛します、清らかな慕情) |