木の上から、遠くのアスファルトがもやめいているのが見えた。それもそのはず、気が付けばもう八月の半ばだ。陽炎の出るこの暑くて暑くてどうしようも無い日に、木陰とはいえ大木の枝に腰を降ろして休んでいるとは、私たち―私が幹側で、テンゾウは外側―は一体どういうマゾヒズムだろう。
自然の風が気持ち良いのは凄く分かるのだけれど、なにも真昼にこんなところにいなくても、ということを伝えたら彼は「もう少ししたら帰ろう」と言い、成り立っているようで成り立っていない会話の続きはさらに変な方向からやってきたのだった。

「君の名前を美しいと僕は思う」

彼は時たまわけの分からないことを言う人である。暗部にいすぎて普通の感覚を失ってしまったのか、それとも暑さに脳が溶けでもしてしまったのだろうか。とでも思えば人はきっとなんて辛辣ことを、と口を挟むかもしれない。けれどこれにはちゃんと訳がある。だってテンゾウは前に言ったのだ。「名前ってそんなに大事かい?」と。
彼曰く「名前なんて存在を認識するためのもの」でしかないらしい。それから彼は続けた。だってそうだろう、僕と君の間には男と女という明確な違いがある。けれどその違いを除けば僕たちは人間だ。でもここで問題が生じる。人間という名称も他の生物から区別するための名に過ぎないしね。そういう意味で僕たちの持つ名前も他人との区別のための、いわば記号のようなものだ。だって世の中探せば同姓同名なんてザラにいるっていうのに、名前が自分のアイデンティティを示したりするかい?僕が僕という個性を持っているのは中身の問題だし、君が君という個性を持っているのももちろん中身が問題だ。それに暗部にいるなら君だってそういうことを思ったりしないのかい?僕たちは本名を語ることも素性を明るみにすることも基本的には許されない。そりゃあカカシ先輩みたいなのはちょっとイレギュラーだし、見た目に特徴がある人だってその枠から少し外れるかもしれない。でも僕らには常に偽名が与えられる。この年になるまで一体何回名前を変えてきたか君は覚えているか?潜入任務ともなれば名前だけじゃなく中身も普段とは違う人間にならなくちゃならない。そんなことを繰り返してるうちに、名前なんて意味のないものになってしまうんだ。
とまあそんなことを言われた日には、なんて寂しいことを言う人なんだろうと思いはしたものの。彼の出自は複雑で且つ苦労人であるからこそ、どうしてそういう考えに至ったのかということがわからないわけではなかった。とはいえ良くも悪くも、物事に対してどこまでも終わりなく考えてしまう彼の思考を休ませるには、とにかく全部出させるのが一番だ。
頭の回転の速い(時々抜けてるところもあるけれど)彼は、瞬時にああでもないこうでもないと熟考を巡らせ、その時々に一番合う答えを導いているように見えて、案外心に溜め込んでしまっている本音が多かったりもするのだから。

「どうしてあなたがそれを言うの」
「わからない。考えても理由が見つからないんだ。でもそう思う」
「へんなの。・・・嬉しいけど」
「もっと素直に喜んでくれてもいいのに」
「だって名前なんてどうでもいいとか言うのがいけないのよ」
「あはは、それもそうだ」

この大木のどこかにしがみ付く蝉が、体感温度をさらに上げるような鳴き声を上げた。
なんとなく手持無沙汰で足を前後にぶらぶらと揺らすと、テンゾウは笑いながら「子供みたいだ」と言った。だから私は早く帰りたいのだとばかりに、「血流を良くしてるの」と言うと、その心を読み取ったのか彼は「ごめん」と一言加えたのだった。

「もう、折角の誕生日なんだから」

お祝いのための準備を色々としてるし、続きもしたいのに。

「今日が本当に僕の誕生日かどうかなんて全く分からないのに?」

自嘲気味の返事が来ると、まずかったと思ったのかテンゾウはため息を一つついて、また「ごめん」と言った。

「・・・、手を握っても良いかい」
「はい、どうぞ」

一回り大きな彼の手が私の手を包み込む。私よりすこし体温が低いようだ。
ぎゅっと握ってみたり、肌を滑るようになぞってみたり、感触を確かめるかのように色々な触り方を彼はするも、それもすぐにおさまる。そして、どこを見ているのだろう私にはわからぬ視線を遠くの景色に投げかけながら、彼はぼんやりと言葉を紡いだのだった。

「昨日、ちょっとヘマをしてね。久々にもうダメかもって思ったんだ。そしたら僕の名前を呼ぶの声がして、それが心地よくて、またに名前を呼ばれたいって思った。名前なんてどうでもよかったのに、甲も、テンゾウも、ヤマトも・・・他の名前でも、君が呼んでくれるなら悪くないと思った。そしたら急に僕は君の名を呼びたくなった。って。一回呼んだらもう一回呼びたくなって、それで気が付いた。君の名前がとても美しいと。なんとか切り抜けて夜森の中で色々と考えごとをしてたら、なんだか久々に頭がぐるぐるしたよ」
「テンゾウの良いところだけど悪いところよ、それ」
「僕もそう思うよ」

そして彼は微笑むのだった。
ジリジリと日差しが青々と茂る葉の間から入り込む。こちら側からではその日差しのせいでテンゾウの顔がよく見えず、目を細めると彼は手を私の上から退けて、印を結んで幹からオーニングのような日よけを生やしたのだった。この一瞬のために装飾まで。まるで楼閣のように先端に飾りが施されている。地味に細かいというべきかお洒落というべきか悩むものの、この装飾は確かこの前テンゾウが読んでいた建築本に載っていたあのデザインに近い気がして、結局かわいい人だという結論に至る。木から木を生やすことに若干の違和感を覚えつつも、やはり木遁は便利だと思った。

「自分が分からなくなるよ。名前は沢山あるし、いつどこで生まれたのかも定かじゃない。それに暗部や根にいれば記憶操作だって珍しいことじゃない。僕だって知らないうちにそういうことをされていたかもしれない。大蛇丸の実験体だったってこと以外は何一つ確信がもてやしないしね。そうしたら、僕って一体なんなんだろうと嫌でも思ってしまうわけさ。今日が誕生日だっていうのも嘘かもしれないし」
「たとえそうだったとしても、テンゾウが生まれた日が365日のどこかにあるのは本当だわ。だってあなたがここにいるんだもの」
「・・・そういうものかな」
「そうよ。それに私といる今を否定されたら、私も嘘になってしまうわ」
「君は嘘じゃないよ」

ばかね。ならあなたも嘘なんかじゃないでしょ、と頬にキスを落とすとテンゾウはただでさえ猫目の大きな瞳を、さらに大きくさせた。
大事なのは今ここにいるあなたであって、過去に何があろうとそんなの関係ないのに。自分の本質を探ることにはある種の意味があるのかもしれない。でも捉われてしまうことには何の意味もないと思うのだ。

、キスしていい?」
「ふふ、どうしたの、一々聞くなんて」
「なんだか壊れものみたいで。触れたらいなくなりそうだから」
「なんの御伽噺?それ」

重なる唇に、壊れものはあなたの方じゃないの、なんて思ったりして。

「人目から隠れてするキスって、ちょっと背徳感があって良いと思わない?」
「テンゾウって結構変態よね」
























(2015.8.14)               CLOSE