キーボードを叩く軽快な音が響く。深夜を過ぎたこのころ、窓の奥に見えるのは明かりの消えた家々ばかりだった。濃紺の夜空はすっかり墨を溶かした黒へと姿を変えていて、雲間に隠れて朧気に見えていた月も、今はもう窓枠から覗くことはできないところにあった。 そんな時分に、鮮明な光を放つモニターと向き合う一人の女を捉えるブルーグレイの双眸。、と名前を呼んでもきっと気が付かないのだろう。しかめっ面で画面と格闘すること早数時間、いやもしかしたらもっとかもしれない。なにせ降谷が帰宅した時にはすでにこの状態だったのだから。 彼が家を出る前、彼女は言っていた。今日は布団を干すのだと。本来ならば太陽の香りを一杯に吸い込んだ柔らかな布団にくるまり、一番にベッドに沈み込みたいだろうに。非番にもかかわらずこうして仕事に耽っているあたり、どうやら彼女も相当ワーカホリックらしい。 「、まだ寝ないのか?」 返事が来たのは降谷が口を開いてから数十秒ほどあとのことだった。一応聞いてはいるようだが、あまり感情のこもっていなさそうな乾いた声で「んー」と返ってくる。それも行き詰っているのか、キーボードの表面を爪で鳴らす等間隔のリズムと一緒に。 そんなに眉を落として苦笑しながら、彼は自分にしか聞こえないほどの大きさで「よし」と呟くと、すたすたと彼女の元へと歩いていく。 「先に寝るけど、ほどほどにな」 君も明日朝早いんだから、と続いた言葉と同時に、テーブルになにか硬い音がぶつかった。 「あ・・・」 ゆらりとゆるやかな曲線を描いて上っていく湯気がの視界にふと飛び込む。モニターから視線を外せば、普段愛用しているマグカップがすぐ傍に置かれていた。熱を含んだくゆる白に混じる、ミルクのほんのりとした甘い香りが肺をやわらかに掠めていく。 自分のために用意してくれたのだと気付き顔を上げた瞬間、落ちてきたのは一回りも大きな男の気骨な手のひらだった。 「わ」 「よしよし、おつかれ」 「零さん・・・ありがとう」 「ん」 かち合う瞳から窺えたものは、子供をあやす時の、と形容するのが一番近いかもしれない。どこか諭すような、そういう眼差しとは裏腹にの頭をくしゃりと撫でる手には僅かに力が込められていた。無理はするなよ、とでも言いたげな手つきだが、それでいてどこまでも優しさに溢れている。 上目がちに向けられた彼女の瞳に映る、部屋の明かり。疲労を覗かせつつも気丈に微笑む姿を前に降谷も同じように目を細めた。 「じゃ、おやすみ」 「うん、おやすみ」 白のスウェット姿がリビングを後にしたのを見届けて、は頭にそっと手を翳す。恋人の体温はすっかり名残を失っていたが、感覚的にはまだ残っている。ふふ、と口角を上げて彼女はマグカップにそっと手を伸ばした。 「あ」 思わず零れた言葉の先にあったのは、死角になって見えなかったカップの表面に描かれた、キャラメルソースのスマイルマーク。これを描くためにわざわざフォームミルクも作ったのだろう。その心遣いに胸が温かくなるのを感じながら、はカップに口付けた。絵柄が崩れるのは勿体ない気もしたけれど、冷めてしまう方が申し訳ないというものだ。 舌触りのなめらなミルクに混ざる、とろけるようなはちみつのやさしい甘さ。泡の細かいふわりとしたフォームに乗る温かなキャラメルソースが、凝り固まった疲れをほぐしていくようだった。 「・・・ありがと、零さん」 ほどけた緊張ののちに忍び寄るまどろみに、はモニターの光を強く感じた。早く目途を付けて布団に潜り込もう。キーボードに乗せた指が、再び軽快な音を鳴らし始めた。 (2018.1.8) CLOSE |