鉛のように重たい体が木陰に崩れ落ちる。色の変わり始めた草木のざわめきには、青年の荒い息遣いが溶け出していた。
上忍になって以来、一人で赴く任務が増えたのはきっと気のせいではないだろう。責任の重圧というのは、里からの信頼に比例して増えていく。もちろん嬉しさはある。けれど肉体的には疲労が溜まる一方だ。そんなことを考えながら、ネジは腰のポーチに手を伸ばした。指先が震えて中に何が入っているのかよく分からなかったが、目当ての物がないことだけは確かだったようで、小さなため息が一つ零れ落ちる。
戦いは圧倒的に数的不利だった。そういう状況はどちらかといえばネジにとっては得意分野だったが、それでも複数人の上忍クラス相手では事も中々上手く運びはしないのが常だ。しかし神経を巡るこの感覚からして命に別状はなかった。ただ身体がびりびりと痺れているだけで、少し休めばまともに動けるようになると予想は付くが、敵襲に遭う可能性を考えれば、いくらここが火の国の国境内とは言え早く里に戻らねばならなかった。

(・・・誰か、来るな)

足音が聞こえる。それも、土の擦れる大きな音。忍にしては随分無用心な歩き方だ。一般人か、とすぐに察しがいったものの、ネジがもたれ掛かっているのは大木ではなく針葉樹のように幹が細いものだ。見つかるのも時間の問題か、と動かぬ体に無理やり鞭を打ちクナイに手を忍ばせた、のだが。

「君、大丈夫?」

ひょこりと木陰から顔を出した一人の若い女。午後を照らす陽光が、波間の輝きのように彼女を白い双眸に映し出していた。













「・・・ありがとうございました」

それはまだ少し呂律の回らぬ声だった。と名乗った女は「良かった」と胸を撫で下ろす。その笑顔の邪気のなさにしばしば拍子抜けを食らってしまったネジだが、そういう顔をするからこそ、初対面の人間からの手当てを受けることができたのかもしれない。
聞けば彼女は木の葉隠れに事務所を構える建築業者だった。しかも山岳地帯のような危険が伴う作業現場を常とする業者で、彼女は現場の補助として働く事務員兼作業員らしい。川の流れの速い渓谷や山間部といった足場の悪いところでは、怪我人がよく出るという。その応急処置をするのが彼女の主な仕事なのだそうだ。
そんな彼女の鞄の中には沢山の医療品が入っていた。痺れに効く解毒薬も丁度持ち合わせていたようで、木の葉に戻って病院を受診するまでのごまかしぐらいにはなる筈だ、とカプセル型の注射を打たれてから五分もすれば、ネジの顔色はすっかり平生のそれを取り戻していた。体の痺れが緩和されるのもそんなに時間はかからないだろう。それまでしばし休むべくは鞄を整えて青年の隣に腰を降ろす。

「煙草、吸ってもいい?」
「・・・どうぞ」
「あ、煙草嫌いだな、その反応は」
「その、」
「ごめんね、吸っちゃうけど」

助けてもらった手前、どうしてそれを断ることができようか。ネジが言い訳を呑み込んでいる間にはポケットから取り出したそれを一本口に加えた。揺れる空気に乗って僅かに漂いやってくる甘い匂い。忍の鼻にとっては強い以外の何物でもなかった。すぐにライターを伴った彼女の手が口元へと伸びていく。このあとやってくるだろうさらに刺激のある匂いに耐えるため、ネジは新鮮な空気を彼女に気取られぬようできるだけ深く吸い込んだ。橙の光がじわりと紙に移っていくのを眺める彼の顔は、とても怪訝そうだった。

「大人を前にそんな嫌な顔したらだめでしょ」
「常識ある大人なら未成年の前で吸ったりしないだろ」
「あ、本音が出た」
「・・・」

ふふ、とは目を細めて、何かを諦めたように溜息を吐く青年を見た。白い肌にコシのある黒い髪がよく生えている。目を奪われるほどに美しい、雪のような瞳はこの里ではあまりにも有名だ。その内実を彼女は詳しくは知らなかったが、きっと彼も優秀な忍の一人としてその界隈で名を馳せているのだろうことは思い描くことができた。

「匂いが強いものは、忍にはキツいので」
「いいよ言い直さなくて」
「これも本音です」
「ネジも吸う?案外吸ってみたら匂いなんて気にならないかもよ」

自分よりも高いトーンが頭の後ろの方でリフレインする。名前を呼ばれることなんて珍しくもなんともないことで、呼吸をするのとなんら変わりないことなのに。なんて、そう、なんて簡単に距離を越えてくる人間だ、とネジは思った。

「吸いません」
「そう」

吐き出される紫煙がゆっくりと秋の空に登っていくのを青年の瞳がぼんやりと追う。どの辺りであのはためきは消えてしまうのか。夏と比べて遠くになった雲まで届くことはきっとないにしても、それでも延々と揺らいでいく気がするのだから不思議なものだ。
視線を戻すと目に入ったのは煙草を挟む彼女の指先だった。ほっそりと伸びたそれは、忍ではないものの手をしていた。けれど短く切り揃えられた爪先はささくれだらけで、作業現場での救助活動が原因なのだろうことにすぐさま察しがいく。

「・・・美味しいですか、煙草」
「仕事の後の一服は特に。子供の君にはまだ分からないか」
「俺は子供なんかじゃ、」
「ごめんごめん、一人前の忍だもんね」

その言い方こそが子供に対するものなのだ、という反論がネジの口から出ていくことは決してなかった。




*




橙と紫の混じる時分だった。肌をちくりと刺すような風が街を吹きぬけ、夕飯時の家々から漂う食事の支度の匂いが一つになって流れていく。人々が買い物袋とともに岐路に着く中を逆走するように、ネジは阿吽近くの川沿いを歩いていた。

「あ、この前の。具合はもういいの?」

二つ先の曲がり角からまたもひょこりと現れた姿にふと足並みがやわらいだ。は見知った青年の姿を見止めるや否や軽快な足取りで近付いていく。くしゃりと笑う彼女の顔が夕焼けに映えてやけに明るい。目を奪われていたのが一瞬のことだったのか、それとも数秒のことだったのかはネジには分からなかった。

「ええ、もうすっかり」
「良かった。気になってたんだ、どうしてるかなって。忍は治癒力も高いんだねえ」
「医療忍術のおかげです。それがなければ普通の人と変わらない」
「医療忍術ってすごいね」

僅かにの眉尻が下がる。「ならどうしてそんな顔をするんです」、とネジが問うと、彼女は困ったように、「どう頑張っても私にはできないことだもの」と言った。
チャクラは誰の内にもあるものだが、それを忍術として使用するにはある程度素質が必要だ。どれだけ努力を重ねてもどうにもならないことがこの世の中には沢山ある。そんな一人を青年はよく知っていた。もっとも、その彼の場合は素質だなんて馬鹿らしい、とそれ以上の努力を我武者羅に重ねる人間だけれども。とはいえ、忍術が使えないことを一番よく理解しているのは他の誰でもない、その彼自身だ。

「少し付き合ってくれない?」

彼女の手が煙草を吸う時の形を模す。

「・・・身体に悪いですよ」
「吸わない人はみんなそう言うの。でもそんなの百も承知で喫煙者してるのよ」

嗜好品にケチを付けられるのが嫌なら誘わなければいいのに。そう思う心とは裏腹にネジはため息がちに呟いた。「一本だけなら」、と。その言葉を待ってましたと言わんばかりには満面の笑みを浮かべる。
近くの橋の中央まで二人が歩を進めると、あの時と同じように空気に独特の匂いが乗り出した。柔らかな唇に食まれたそれから上がる煙が、ネジとは反対の方向に流れていく。一応彼女なりに気を使っているらしい。香がゆっくりと熱せられていくように彼女の煙草の先端も色が移ろいで、小型の携帯灰皿に灰が落ちる度に、明るい橙が顔を出しては灰色を増やしていった。

「大きな仕事があって、少し里を離れるの」

ふと、の言葉が宙を舞う。

「遠いところですか?」
「ううん、火と砂の間だからそんなには」
「危険は?」
「他の組合ができなくて、うちに回ってきた案件なの」

夕日にきらきらと照らされた川面を覗く瞳の切なさ。彼女は言った。忍になりたいなあ、と。ならば忍を雇い現場に連れて行けば良いだなんてことを、ネジには簡単に口にすることができなかった。
正式な手順を経て忍の同行依頼を申し出るには多くの費用が必要となる。戦闘の見込みがなくとも危険地帯となればそれなりな額になるだろう。定期的な雇い入れとなればそれはなおさらだ。それが十分にできるほどに財源が潤っている業者は数えるほどしかいない。
いつだったかネジに回ってきた護衛任務は、小さな町に住む全員が少しずつ資金を出し合ったものだった。忍は人々のために在るべきなのに、と思った記憶が彼にはある。もちろん里とて慈善事業ではないのだから、収入を得なければそこに住む者たちの生活も危ういのだが、それでも少しおかしな話だった。

「私は現場員じゃないから待つことしかできなくて。待つ身はつらいね」
「待っててくれる人がいるから、前線に出る人間は強くなれるんだと思います」

昔の自分なら、きっとそんなことは思わなかっただろう。次々と脳裏に浮かぶ仲間の姿に、青年の顔つきが刹那柔らかくなった。

「そうは言うけどそれでも待つ身はつらいのよ、でも呼ばれたところでそれって怪我人が出たってことだから、呼ばれたくはないんだけどね」

どっちに転んでもつらいことだらけだ、とは困ったように笑って煙草に口付ける。肺の隅々まで煙を渡らせるような、そんな呼吸の仕方で、深く吐かれた息に白はほとんど混ざっていなかった。

「俺を助けてくれたじゃないですか」
「それ、励ましてくれてるの?」
「そんな顔をするから」
「そっか、ありがと」
「・・・それに、出る方も不安はあります。俺だって、自分がいない間に里に何が起きるか分かったものじゃないですから」

自分よりいくつも若い青年が、自分が抱えるものより大きなものを抱えている。そのことを自覚した時、この青年が今までと全く違う姿に見えたことには気付いた。
幼い頃からあれやこれやを叩き込まれて、命のやりとりの近くに立たされて、それでもその道で生きていくと決意した忍の覚悟を人はどれだけ知っているんだろう。
この世の中に忍がいるということも、そうでない者がいるということも、どこかあまりに当たり前に捉えていたけれど。どの道を選ぼうと、何重にも絡まった葛藤というものはある。自分にも。そして彼にも。

「君が背負うものはとても大きいのね」
「忍にとって里は命と同じですから」

迷いの無い声音と煙草の煙が、顔を出し始めた夜の冷たさに消えていく。その時、落ちかけた太陽に別れを告げるかのように一塵の風が二人の肌を攫っていった。
そよぐネジの黒髪。鴉の濡れ羽にも似た深い色。から窺える彼の横顔にはまだ少しあどけなさが残っていたが、凛とした眼差しは一人立ちした立派な人間のそれで、今までに出会った誰よりも美しい人だと心が告げていた。

「ネジに大切にされてる里が羨ましいや」
「その中には、ちゃんとさんもいます」

瞬間、の目が見開かれた。煙草を落としそうになってしまった彼女を不思議がったネジが思わず首を傾げる。

「名前」
「え?」
「初めて君に呼んでもらえた」
「あ・・・、なんと呼ぶべきか、その、考えて」

なんとなく、チャンスを失ってしまったということもある。けれどそれ以上に、どう呼ぶのが正しいのかを考えていた。年も仕事も住んでいるところも何もかもが違う二人だ。あの森で出逢わなければきっと、この先その機会は無かったに違いないのだから。

「ふふ、嬉しいね。もう一本吸っちゃおうかな」
「さも一本しか吸ってないみたいに言わないでください」
「うん?なんのことかな?」
「三本目です」

呆れたような声がの耳に届く。君の隣は煙草が美味しい、なんて言ったらばまた彼は今みたいな顔で笑うのだろう。でもそれも良いかもしれない。ふかふかと、その思いが煙に乗って流れていく。
目を細めて微笑んだ彼女の口元に橙が灯った。橋の手摺に頬杖を付いて、そのまま遠くに視線を投げかけたまま彼女が言う。「できることを精一杯してくるね」と。
翳りゆく陽を吸い込んだ彼女の瞳を、煙草の匂いの染み付いた指先を、ネジは息を飲み込んで、ただじっと、柔らかく見つめていた。












(2017.10.13)   CLOSE