この香りはもしかして、と任務から帰宅したばかりのナルトは鼻をくんくんと動かした。キッチンから空気に溶け込みやってくる甘い香りが満たすのは肺だけではない。身体の疲れを吹き飛ばすほどに心も満たしてくれるのだ。

ねーちゃんたっだいま〜」

良い匂いがするのだからきっと彼女もいるのだろう。そっと近寄って後ろから抱きつくのもベタで良いかもしれない。そんなことを考えながら忍び足でリビングの扉を開けたは良いものの、どうしたことだろうそこには誰もおらず、弱火にかけられた鍋だけがぐつぐつと静かに音を立てていたのだった。

「なんだ、いねーのか」

思惑の外れたナルトががっくりと肩を落とす。とはいえ落ち込んだところでいないものはいないのだ。火も点きっぱなしであったことだし、そんなに長時間出かけはしないのだろうことが窺える。ならばシャワーでも浴びてが帰ってくるのを待つとしようじゃないか、と彼は浴室へと消えていったのだった。














「遅いなーねーちゃん」

ナルトが風呂から出ても彼女は帰っていないようだった。依然として音を立てる鍋に一抹の不安を覚え、念のためと火を消せば部屋の中がとうとう無音になる。鍋から漂う甘い香りもなぜだかあまり体に染み渡っていかない。この世に一人残された気さえしてしまったナルトは、タオルでごしごしと髪を拭きながらソファに座り込んだ。

「・・・腹減ったなー」

毛先から垂れてくる水滴をあまり意に介してはいないようで、ただぼうっとしながら手を動かしているといった感じだ。そうこうしているうちにも時間はどんどん経過していき、待てど暮らせど帰ってこないに痺れを切らし始めるのはもう目前に違いなかった。

「誕生日なのになー」

ぽつりと呟いた言葉が宙を漂って消えていく。
そう、今日はなにを隠そうナルトの誕生日だ。とは特になにを約束したわけでもないのだが、昨夜キッチンに置かれた水に浸かった小豆を目にし、自身の好物を作ろうとしてくれているのは一目瞭然だった。きっと祝ってもらえるのだろうとそれを糧に今日の任務を頑張ったというのに。朝早く家を出て行ったため、ナルトはまだ今日は彼女と一言も言葉を交わしていない。だから「ナルト」と名を呼ぶ声も、「おかえり」も、「誕生日おめでとう」も。欲しい言葉はまだ彼の胸には与えられないのであった。

(ほんとだったら料理してるねーちゃんを後ろから抱きしめて、なに作ってんのって、そしたらちょっと危ないでしょナルトォなんて言われちゃったりして)

横に置いてあったクッションをぎゅっと抱え込み、ああでもないこうでもないと脳内で妄想を繰り広げれば次第に顔の筋肉が緩んでいく。この顔を見たならばきっとは呆れることだろう。しかしフラストレーションの溜まった青年にとってはもうそれは止まるところを知らないのだった。

「ちょっとだけ・・・あーでもなー、よくない気も、いやでもんんんー、そう、練習!ねーちゃん帰ってきた時の練習!」

妄想が波に乗ってきたのだろう、邪な下心を前に良心はいとも容易く崩れ去る。そうして素早く印が結ばれる。ボンっと大きな煙と共に現れたのはエプロン姿のだった。

「おおー!良い感じだってばよ」

普段一緒にいるだけに完成度は中々高いようだ。
分身が「どうしたの?」と首を傾げてくれば、その中身が自身であるにもかかわらずドクドクと心臓が高鳴ってしまう。

「それ!それってばたまんねーやつ!」

ナルトはの首を傾げる仕草が好きだった。名前を呼ぶ時や、凝視する時などに決まって彼女がするこの仕草。単純に可愛いという理由でもあるが、その瞬間だけは彼女の時間が自分のものになるからだ。余計なことを考えず純粋に自分だけを見てくれるのがたまらなかった。
エプロン姿の彼女をキッチンに誘導させると、先ほど風呂に入ったせいなのか分身の彼女の髪が揺れるたびにシャンプーの香りが鼻をくすぐって仕方ない。同じものだというのに、自分から香るのと彼女から香るのとでは全く意味が違うのはどうしてなのだろう。

(う、これはねーちゃんじゃねーの、落ち着け!)

「ねーちゃんここに立ってて?」
「こう?」
「そうそう」
「あ、どこいくの、ナルト」

リビングのドアから例の妄想を演じようとしていたのに、眉尻を下げて不安そうな表情をさせ自分の服の裾を掴む、もとい自身の分身にナルトはまるで火山が爆発したかのような衝撃を心に受けたのだった。

(まずい、まずいってば)

あってはならない。あってはならないと思いつつも、このままではツボを心得た自身の分身相手に間違いを犯しそうで恐ろしい。
なにせ普段は自分が年上ということを自覚しているからなのか、中々ナルトに甘えようとはしなかった。そのため日常生活における主導権は大体彼女の方で、ナルトがイニシアチブを握れる唯一の時と言えば夜しかない。だからこそ露骨にそういう可愛い台詞を放たれるのは非常に効果覿面といったところで、次第にナルトの瞳もギラつき始める、のだが。

「きもい顔してるってばよ」

唐突に吐き出された、分身からの辛辣な一言。
その身体に触れようと伸ばしたナルトの腕がピタリと止まる。

「おっまえなあねーちゃんなら何でも良いのかよ!ケダモノ!」
「だああああああ!ねーちゃんの格好でそんな口聞くなってばよ!!」
「うっせーな鼻の下伸ばしてたくせに!」

熱を帯びた欲があっという間に怒りへと姿を変える。頼むから好きな人の格好で、好きな人の声で、そんなことを言うな、と。生意気な口を聞く奴はこうだとナルトが術を解こうとすれば、すぐさま「私のことが嫌いなの?」と分身の猫なで声。胸に擦り寄ってきた上目遣いの分身の可愛さに一瞬動きが止まってしまうのも、惚れた弱みというものか。
そもそも分身にこのような自我があって良いのかとナルトは自問したが、記憶を辿れば過去には妙に女々しいタイプや気性の荒いタイプ、さらには臆病なタイプもいたことを思い出す。悪戯好きなタイプがいても仕方がないとは思うのだが、けらけらと笑う分身にどうしても怒りが沸いてしまう。ナルトはぐっと拳を握り締めた。

(ちくしょー!分かってるけど、分かってるけど!)

たとえそれが自分であろうと、愛しき人の形姿をどうして殴ることができようか。

「ねえ、なにしてんの」
「お前がそれを言うなってば」
「ち、ちがう今のは俺じゃなくて」
「はあ?」

腕の中にいる己の分身が突如慌てたような顔色でキッチンの外側を指差した。一体どうしたんだとナルトが差された方へ顔を向ければ。

「えっあっえ、えっ」

目をまん丸に開きながら、動揺が隠せなかったのか上手く言葉にならない声が次から次へと口から漏れ出す。そう、青年の視線の先にいたのは小さな紙袋を手から提げた、酷く呆れた、というよりも目の前の光景にどん引いた本人だったのだ。そのあまりの衝撃のせいか分身が煙と共に消え去ると、訪れたのは自身のみに注がれる冷ややかな視線。ナルトの背筋を冷たいなにかがぞわぞわと這っていった。

「お、お、おかえりー・・・ねーちゃん、はは、ははは」
「・・・私がいない時いつもそんなことしてるんじゃないでしょうね」

ああ、聞きたかった言葉の数々が。
「ナルト」、「おかえり」、「お誕生日おめでとう」。脳裏に浮かんだそれらがぼろぼろと崩れ去っていくのが瞬時に感ぜられた。なにが恥ずかしくてこんな姿を恋人に見られなければならないのか。幼い子供だったならまだ可愛いおふざけで済んだというのにこれはあまりにも、あまりにも痛々しい。しかも彼女は引いている。間違いなく引いている。それをひしひしと痛いほど肌で感じているからこそ嫌な汗が米神を伝っていった。

「違う、ねーちゃん、違うから、ぜってー違うから」
「・・・」
「シ、シンジテクダサイッテバヨ」

必死に弁明を試みねばならないにもかかわらず、中々上手い言葉が出てこないナルトはもはや蛇に睨まれた蛙状態だ。縮こまる金髪を前に、大きな身体がやけに小さく見えるものだ、とは思った。

「・・・次そういうのしたら許さないわよ」
「は、はい!いや、違う、ほんっとこれは今回限りっていうか、もう、たまたまっていうか」
「もう、今日はそんなことで怒りたくないんだから」
「えっ」

そんなこと。その言葉が意味しているのは。
途端目を輝かせたナルトに、彼女が手提げの中身を差し出す。

「ん?白玉粉?」
「あれ、お鍋の中見てないの?いつも物色するのに」

無造作に置かれたままになっていたエプロンを彼女は身に纏い、手を洗い始めた。水道から跳ねた水滴がナルトの方へ飛んでしまったのに気が付くと、「ごめんごめん」と首を傾げて微笑んだ。

(やっぱ本物のが何千倍も良いってばよ)

先ほどの冷や汗は一体どこへ消えたのやら、すっかり調子が戻ったナルトが白玉粉を片手ににすすり寄る。タオルで手を拭く彼女はまさに先ほどナルトが演じようとしていた相手本人であり、またそのシチュエーションに寸分の狂いもないことを自覚すると、消えかけた炎が胸の内に灯るのを感じたのだった。

「でもさー、ちょっと帰ってくんの遅くね?火もつけっぱなしだったし」
「ごめんね、近くのお店に行ったら無くって」
「餅でも良かったのに」
「だって最近白玉気に入ってるから」

彼女の言う通りだった。焼き目の付いた餅が小豆と絡むのもたまらなく美味しいが、最近では身の引き締まったもちもちの白玉の触感もまたナルトを虜にしていた。それを知っていたからこそ、彼女からしてはやはり今気に入っているものを食べて欲しかったのだ。

「三軒もまわっちゃった」

ナルトの手の中にあった白玉粉をが抜き取る。

「え、俺のために?」
「それ以外誰のために走り回るのよ、もう」

上目遣い、とはいっても身長差故にナルトからはそう見えてしまうのだが、自分のために奔走してくれたこちらを見上げるが今日一番に愛おしく思えて仕方がない。彼女が鋏を手にしているなど全く気にもせず、湧き上がる衝動そのままに腰を引き寄せ後ろからぎゅっと抱きしめれば。

「ちょっと、危ないでしょナルト」
ねーちゃん、好き、大好き」
「はいはい」

からしてみればくすくすと笑ってあしらったつもりなのだろう。しかし耳がほんのりと赤くなっているのをナルトは見逃さなかった。肩口に顔を埋めて匂いを嗅がれるのがこそばゆくは身体を捩るが、ナルトには解放する気はこれっぽっちもないらしい。それどころか手中の鋏を掬うように奪われシンクに放られてしまうと、くるりと向きを変えさせられてしまうのだった。

「ナル、ト・・・」

思った以上に近い距離にある青色の瞳。
真剣な眼差しが大人の色気を孕んでいて。

「・・・誕生日、おめでとう」
「へへへ、サンキュ」
「い、一緒にいてくれて、ありがとう」

気恥ずかしさから視線を逸らしてしまったの唇が塞ぎ込まれるのに時間はかからなかった。

「・・っん」

強引な口付けにはその身を退かせようとしたが、シンクとナルトにがっちりと挟まれているためそれは適わない。胸元を突き返そうと手に力を込めても、それ以上の力で深く深く吸い込まれ呼吸が憚られる。逃げ場はなかった。角度が変わる一瞬の隙に息を吸い込むのがやっとといったところで、我が物顔で押し入ってくる舌先の卑猥な音でとうとう耳まで侵され始める。こちらが応える以上にナルトのキスは執拗なのだった。
髪を掻き抱かれて、かと思えば首筋を這って。いい加減独り善がりになってきたところで満足したのか、獣じみた感触がようやく離れていけば、乾いた空気がお互いの唇を冷やしていった。より息が上がっているのはの方だが、ナルトも肩で息をしながら呼吸を整えている。

「俺さ、いつもより念入りに身体洗ったんだってば」
「・・・何が言いたいの」
「わかってるくせに」

の額にリップ音とともにナルトのキスが落ちてくる。

「その前に、ちゃんとご飯だからね」
「了解取ったからな!」
「はいはい」
「もーお腹ぺっこぺこ。夕飯なーに?」
「ふふふよくぞ聞いてくれました、お夕飯は手巻き寿司、しかも大トロ付き!」
「えー!すっげえ!豪華!まさかねーちゃん俺のために漁に出たんじゃ・・・」
「ばーか」







(2014.10.11)               CLOSE