※終戦後一年くらいのお話です。





靄に包まれた視界。三メートル先すら目を凝らさなければ確認もままならない。この辺りの気候をよく理解していたにとっても、今日は一段と霧が濃く感じられた。
彼女は任務を終えるや否や、護衛のために訪れていた水の国のとある島を後にしたのだが、あまりにも視界が悪すぎて思うように前に進むことができない。

「やっぱり判断誤ったかな・・・でも、」

手から提げている、袋状に包んだ木の葉印の風呂敷をちらりと見やった。それは護衛の依頼人から貰った、彼女にとってとても大事なものだった。天気が悪くなるだろうから一晩泊まるといい、と依頼主から声をかけられたものの、手にしたものを恋人に早く見せたい一心で飛び出したのだが、事はそう上手くは運ばないらしい。
半時ほど道なりに進むと、彼女は遠くの霧の中でぼんやりと浮かぶ影に気が付いた。あれは一体なんだろう。息を潜めて近くの大木の陰に瞬時に隠れ込む。

(・・・血の匂いがする)

微かに鼻に引っ付く血の匂い。戦闘でもあったのだろうか。心を落ち着かせて辺りの様子を探ってみる。特に怪しい気配はしなかったが、しかし確かに冷ややかとした空気が辺りを支配していた。
ごくりと生唾を飲み込む。足音を立てないように、細心の注意を払いながら霧の中を進んでみれば、幾人かの大人の男が倒れている姿が彼女の視界に飛び込んだ。

「っ大丈夫ですか!?」

は辺りの安全を確認するや否や、すぐさま男たちの元に駆け寄った。足元に荷物を静かに置き、その状況の把握に神経を集中させる。彼らは全部で三人だった。その内の二人にはもう脈が無く、残る一人はなんとか息をしているといった具合で、彼女は急いでポーチから救急パックを取り出す。
彼らの体には―死んだ二人は首元に、息のあるこの者は腕に―およそ人にはつけられないような大きな歯型があり、その傷口の周りには灰色の毛が絡まっていた。付近を見渡せば、地面にも同じ色の毛が無数に散らばっている。獣に襲われたのだろうと予想がついたが、如何せん大きすぎる歯型には目を見張った。近くに斧や槍が散らばっていることから、ここに倒れる三人はおそらく一般人で、退治のためにやってきたのだろう。無惨にも返り討ちにあってしまったという訳か、と判断しつつも彼女は息のある男の応急処置を急いだ。
彼女は医療忍者ではないため、チャクラを使って傷の治癒を行うことはできなかった。だが危機的な状況に対処するぐらいの知識と腕は備わっている。すぐに痛みを取り除いてやることができなくとも、生存率を上げることはできるだろう。

「すぐに町に連れて行きますから、頑張って」

男は汗ばんでいて呼吸が荒い。体も熱を持っている。細菌感染かもしれない。人間に飼育されている動物と違って野生の獣には細菌が多いため、内部で感染を起こしているのだろう。皮膚に飛び散った血の色と乾き具合から、そんなに時間は経過していないようには見えるが、噛まれたのが一体どのぐらい前のことなのかは想像も付かない。救急パックに入っている解熱剤を使うのは憚られた。細菌を殺すために体の熱が必死に戦っているため、今は下手に体温を下げないほうが良いだろうとは解毒剤だけ打ち込んだ。素早い手つきで血止めをしたのちに、薬草とともに患部を包帯で巻いていく。
その最中、一層霧が濃くなったような気がした。こうも悪天候では非常にやりづらい。一刻も早く手当てをして、ここを離れてしまわねばならなかった。そうでなければ、男を町まで連れ帰るのに多くの時間を費やしてしまう。それに、彼らを襲った獣が戻ってくる可能性もないわけではない。いくらここの天候に慣れているとはいえ、土地そのものに明るくない彼女からしてみれば、獣と戦うのは御免だった、のだが。

(ッこれは)

霧から漂う微かに違和感のある匂い。明らかに自然現象ではないそれ。
目の前のことにばかり注意を張っていたせいか、周囲に変化に気付くのが遅れてしまったらしい。咄嗟に息を止めたものの、どうやら少し吸い込んでしまったようで、数秒も経たない内には視界がぐらりと揺れるのを感じた。

(まずい、このままじゃ・・・)

この煙を放つ正体が獣なのか人間なのか、それすらもわからないまま意識を失うわけにはいかないというのに、急速に脳が働かなくなっていく。日ごろから対薬物訓練を行っているとはいえ、それすらも凌駕するほどの浸透の速さだ。そのあまりの速さに彼女は皮膚からも入り込んでくるのでは、と思い至ったが時既に遅く、体のバランスを取ることもままならずその場に倒れ込んでしまった。

(・・・っカカ、シ)

薄れゆく意識の中で、足元に置かれた荷物に震える手を伸ばす。
胸中の叫びが、カカシに届くことは無かった。



*



数分後、霧の中から音も無く男が現れた。

「・・・さすがは新薬、これであの獣も当分はおねんねだ」

男は青い髪をしていた。顔には眼鏡をかけ、開いた口からは鮫のように尖った歯が窺える。彼、霧隠れの里の忍である長十郎は霧が収まる頃合を、自身に害の無いギリギリのラインから見ていた。男らしく腕を組んで立ってはいるが、柔和な雰囲気もまた纏っており、かと思えばその見た目に似合わぬ厳つい武器を背負ってもいる。
そんな彼の元に、最近水の国が有するこの島に、その平和を脅かす巨大な狼が現れたと知らせがあった。捕獲ついでに開発したばかりの新薬の効果を確かめてこい、と水影である照美メイからのお達しでこうして長十郎はここまで出向いてきたのだが、流れ来る風になにやら不穏なものを感じ、胸がざわめいた。獣と血の匂いの入り混じる、明らかに何かが生じた匂い。それでいてまだ動く何かがそこにいる、張り詰めた空気。
十分に注意はしていたが、今日はとりわけ霧が濃く、眼鏡越しの視界はより白みがかって間合いが取りづらい。ならばこの悪天候こそ丁度良いとばかりに、長十郎は早々に新薬に手を出した。容器にうっすらと色は付いているが、その粒子は目には見えないほど細かく、蓋をあけた瞬間に風に乗って霧の中へと泳いでいく。この薬の利点は、その細かさ故に皮膚からも浸透していくところだ。たとえ敵が呼吸を止めようとも、極僅かな隙間から体内に入り込むことができる。加えて開発されたばかりの超即効性。なかなかに優秀だ。
そして待つこと数分、彼は相棒ヒラメカレイで周囲の霧を薙ぎ払った。町を騒がす野獣はさて一体どんな顔なのかと、鮮明になりつつある視界でその正体が明るみになるのを待ってみれば―…。

「・・・は?」

そこにいたのは獣でもなんでもない三人の男と、一人の女。男たちの方は服装からしてこの近くの街の住人だろうが、女の方は明らかに忍装束だ。

「え、あ、あれって、木の葉の忍じゃ・・・」

もともとこれは国内の問題だ。国外の人間である火影にこのことは伝えていないのだから、木の葉隠れの忍が獣退治のためにわざわざやってきたとは考えられない。となれば何かの任務でこちらに来る予定があったと考えるのが定石で、それを裏付けるように丁度この道の先には町があり、火の国に卸している特産品を扱う商人たちも数多くいる。おそらく護衛任務の一種なんだろう。ひょっとしたらその途中か帰りに、倒れているこの男たちに出くわしたのかもしれない。
ということは、靄めく霧越しの彼女の影を自分は獣だと思い込んでしまったのか、と長十郎ははっとする。

「・・・や、やってしま・・・った」

しかもよくよく見れば彼女の手中にある包帯が、下の男の腕と繋がっていた。周りには救急パックが、封が開かれた状態で転がっている。どこからどう見たって彼女が介抱していたのだ。命の恩人に、自分はなんてことをしてしまったのだろう。

「・・・ん?」

さらに、彼女のもう片方の手が風呂敷に包まれた何かに伸ばされていることに気が付いた。興味本位でそろりと覗けば、何故それがここにあるのか、長十郎には全く分からないものが入っている。

「鉢・・・?なんでこんなもの・・・って、え!ちょっと待てよこの人って確か・・・」

しかし長十郎の関心の多くは、包みの中身よりも女の方にあった。倒れているため、顔に無造作に髪が散らばっているものの、骨格や表情など記憶にある人物とよく似ている。そう、自身の記憶が間違い出なければ、連合の会合や外交で木の葉を訪れる際によく見たあの―…。

「いやちがう、ちがうよね・・・?」

彼は息を呑みこんだ。認めてはいけない、いや、人の記憶なんて間違うことのほうが多い、と自身に言い聞かせながら、おそるおそる顔にかかる髪の毛を退けてみる。

「うっ、あっ、や、やっぱり火影の、恋び・・・ッ!」

刹那、米神を嫌な汗が伝った。

(あれがこうで、これがこうで、今は平和だけど、これが火種で連合が消滅して、霧と木の葉がぶつかって)

もしかして。いやもしかしなくとも。自分はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。間違い、そう、不運な事故とはいえ、ただでさえ他国の忍に手を出してしまったというのに、挙句その相手があの火影、はたけカカシの恋人だなんて。止まらない。汗が止まらない。

(こ、殺される・・・・・・っ!)

そう悟った長十郎の心臓が、これまでにない速さで鐘を鳴らす。

「うっうわああああ僕ってばなんてことを〜〜!水影さまああああ〜〜〜!!!」

静かな雑木林の中で、悲痛な叫びが木霊した。






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(2015.9.15)                CLOSE