「はい。ええ。その件でしたらあと一時間以内には」

冷静沈着、勇往邁進、博学多才、精明強幹。

「え、あと三十分?」

他の追随を許さぬ優秀な人間、それが風見裕也だ。

「はい。わかりました、なんとかやってみ・・・いえ、必ず終わらせます。それから例の件ですが・・・」

デスクに書類を軽く叩きつけて整えながら、今にも室内から出ていきそうな男をは視線だけで追った。電話の相手は彼女には分かっていた。若くして周りを束ねる立場にある彼に、そう、普段どれだけ上の人間に対しても表情を崩さず気骨な精神で臨む彼に、ああして冷や汗を浮かべさせることができる相手は一人しかいないのだから。
の視線が瞬く間に左へと滑っていく。視界からオリーブ色の背広が消えるや否や、彼女は分厚い書類の束を抱えて立ち上がった。拍子、青いファイルが一つ滑り落ちる。それはデスクの上の、明らかに積む量を間違えた資料の山からだった。適当に、けれどもこれ以上被害が大きくならないよう直すと、彼女は急いで風見の後を追いかけ出す。フロアを大股で力強く歩く彼女のヒール音に、眉間に皴を寄せデスクと対峙する同僚たちがそぞろに顔を上げては視線を投げかけた。

「風見さん」

部屋を出ると、まだほんのりと湿度のある籠った空気が肌を襲った。秋を迎えて間もないこの頃にはそこかしこに夏の香りが残っている。袖を捲りたい衝動には駆られたが、眼前に立つ男の一糸乱れぬ姿に早くもその気を失ってしまう。
かく言う風見は部下の声に振り返りこそしたものの、未だ携帯電話を耳に翳していた。瞬間、二人の視線がかち合う。鋭い眼差しとは裏腹に、声音はどことなく締まりが悪い。また無理難題を押し付けられているのだろう。が腕に抱える書類に一筋の皴が刻まれたが、その様子に気が付くこともなく彼は視線を逸らし、年下の上司と二、三会話を続けたのちに電話を切った。

「降谷さんですか」
が知る必要はない」
「ほんっと無理ばかり言いますよねあの人」

勢いのままに呟いた流れでは、「これお願いします」と紙の束を手渡した。
いくら自分たちが警察庁から降りてくる案件を扱うとはいえ、人員には限りがあり、その人員たちには人権がある。彼女がそんなことを言えば、風見は薄い眉を眼鏡の奥で歪ませながら「無駄口が多いぞ」と零し、今しがた受け取ったばかりの書類に軽く目を通し始めた。刹那、彼の三白眼が大きく見開かれる。

、これ・・・」
「なんとなく、優先させた方が良い気がしたので」
「本当に勘がよく働く奴だ」

驚嘆を含んだ笑いが小さく吐かれる。彼女から受け取ったものは、先程降谷から三十分以内に仕上げろと命じられたものだった。厳密にはあといくつかの資料のコピーが必要だが、もうほとんど完成しているようなものだ。これを女の勘と称するのかは分からない風見だったが、男社会に見事に溶け込む彼女の手腕には、常々目を見張るものがある。

「あとは資料室か」
「こっちがどれだけ大変か知ってるくせにああだこうだといつもいつも。この書類やっぱりあと三時間ぐらい手直ししてやりましょうか」

卓越した洞察力と推理力と行動力を持つ降谷はいつも風見に膨大な量の指示を出す。それだけ彼の能力が買われているということでもあるが、何日もまともな栄養を摂らず、碌に寝てもいないのだろう顔色の優れない上司を見るのは、にはどうにも忍び難いものがあった。

「お前な」

薄い眉がまた形を変えた。ため息交じりの声だが、本気で呆れているのではないことはすぐに読み取れる。
いくら直轄部隊と言えども降谷と面識のある公安職員は少ないのだから、彼女の言い分も分からなくはない。部下の不満を汲み取ることなど風見にとっては造作もないことだ。しかし同時に面識の少なさ故のすれ違いを上手く説明できないこともまた確かだった。
とはいえこの上司ほどではなくとも降谷と対面し、ともに現場に出た経験がにも幾度かある。彼女からしても、降谷零という男が決して部下にできもしない仕事を押し付け、ほくそ笑むような人間でないことは百も承知していた。だが風見の現状を思えば吐き出さずにはいられなかったのだ。そんな子供じみた思いが出てしまったことに、彼女は煮え切らない表情でため息を吐いた。

「すみません、分かってます。私たち以上に降谷さんが凄いのも、大変だっていうのも。あの降谷さんに仕事任されるってそりゃあ嬉しいことですし、期待に応えたいとは思いますよ、でも」
「ならあまり降谷さんを困らせるな。ほら、資料室に行くぞ」

でも、の続きが呑まれたのを風見はさして気にはしていないようだった。少しは自分の体調のことも気にしてほしい。そんなの想いが届く日は一体いつやってくるのだろう。
僅かに彼女の表情に翳りが差したのを風見は見逃さなかった。押し黙り、自分をジっと見上げてくる部下を前に、彼は訝し気な眼差しを向ける。

「・・・?」

今の彼を動かすのは、仕事というよりも降谷そのものであることを彼女は知っていた。年下の上司といえどもその実力は警察庁随一であるし、その彼から仕事を任されるということは自分たちにとっての誇りだと言っても過言ではない。もちろんプレッシャーも相当だが、達成した時の喜びもまたひとしおだ。
降谷の右腕になるために、降谷に追いつくために、そう、盲目的ではないにしろある種の恐怖すら抱くほどに彼は今、降谷零の背中を見つめては追いかけている。その後ろをさらに追いかけている人間がいることなど微塵も知らずに。

「・・・じゃあ」
「?」

空回りする彼への想い。言葉は彼に届くこともなくどこかへ消えてしまう。泣けてしまいそうなほどに悔しいこの気持ちの名前を知っている。けれどもにとってなにより悔しかったのは、今目の前に立つ彼でなければ落ちることもなかったことだった。部下の前では毅然とした態度で立ち振舞い、常に最前線で構え的確な指示を飛ばす。仕事のために己を殺す精神の強さを持ちながら、降谷に振り回されるその姿こそ、の瞳を焦がす「風見裕也」なのだ。

(やだなあ、惚れた弱みって)

は一歩踏み出して、距離を詰めた。ヒールの音が廊下に軽く響く。伸ばされた細腕に、彼女が一体何をしようとしているのか風見が頭を働かせた時にはもう、焦点の合わぬ領域に彼女が入り込んでいた。

「・・・じゃあ、風見さんのことは困らせても良いですか?」

軽くネクタイを引っ張られる。思わず前のめりに体が動けば、鼻先が触れてしまいそうなほどにの顔が目の前にあった。切なげな、けれどもどこか芯のある瞳に、ふわりと香るシャンプーの甘さに、唇に塗られた薄い桃色に。今まで一度たりともそんな素振りを見せたことのなかった彼女に、どうして感覚が奪われないでいられようか。

「・・・は?」
「・・・」
、お前いま、なんて」

吐息の触れ合う近さのなんと非現実的なこと。動揺と狼狽を浮かべた風見とは裏腹に、のそれは平生と全く変わらない。彼女は視界の端に映るうっすらと色付いた耳輪に満足気に目を細め、すぐに手を離した。

「・・・なんでもないでーす、資料室行ってきます」

微動だにできず風見はその場に立ち尽くす。ネクタイを引かれた感覚だけがやけに強く体に残っていた。
タイの皴が元の形状を取り戻すようにゆっくりと広がっていく。けれども彼の思考は元に戻らない。一体何が、今何が。小さくなっていく部下の後姿にぼんやりと視線を飛ばせば、彼女は何事もなかったように歩いているではないか。

「・・・」

それから数秒して、急に何かを思い出したように風見は再び大きく目を見開いた。

「・・・は!?」
「風見さん、資料室行かないんですか?」
「え?あ、ま、待て
「待ちませーん」

















(2018.6.12)   CLOSE