「ただい、・・・え?あ、え?」

は家に入ってから予想もしなかった光景に思わず目が点になった。それもそのはず、なにせ家の中にはの知らない女がカカシに手首を掴み上げられていたのだから。さらに見ればカカシのベストが若干寛げられている。彼はぱっとその手を離したものの、女の片足はカカシの足に差し込まれたままで、腰もまたお互い密着したままで。紛れもなく見てはいけない場面を目にしたが困惑するのも当然だろう。

「え、?」

困惑したのはどうやらカカシも同じようだった。というのもがこうしてドアを開けるまで、彼女の気配が全くなかったからなのだ。恋人以外の女を家にあげたものだから、自分の家といえどカカシはこれまで一切気を抜いたりはしなかった。どんな気配でも察知できるようにしていた筈なのに、ドアが開くまで気が付かなかった。これは一体どういうことなのか。
娘は娘で彼女を気にする素振りもなく、手でカカシの髪の毛をくるくるいじったり、布地の上から鎖骨に指を這わせていた。

「あ、あの、その、えーと、ええ、と」
、違うから!」
「で、出直し、て」

の口元が震えていた。この場にいてはまずいと悟ったのか、くるりと向きを変えて出て行こうとする。誤解もいいところだとカカシは泣きたくなった。なんて最悪なタイミングだ。今彼女にいなくなられては話が解決できなくなると、踵を返し消えようとしていた彼女にカカシは大きく口を開いたのだった。

!そこから一歩でも動いたら殺す!」
「え、こ、ころ、殺す?」

にはますますわけがわからなかった。普通それってこっちの台詞じゃないの?と。なぜ殺すとこちらが殺気付きで言われなくてはならないのだろう、と。とはいえあのカカシに殺気を放たれては動けるものも動けない。彼女はゆっくりと二人の方を向き、ごくり、と唾を飲み込んだ。すると今の殺気に当てられたのか、娘にもその影響があったらしい。しかし娘のプライドと精神力はずば抜けて高かった。唇を噛み締めて、意地でもカカシから離れまいとしていた。

「ほら、早くどけ、アンタ話になんないんだよ」
「まだ今日は終わってないわ!カカシは私のよ、私の言うことを聞き・・・ッ」

女性を乱暴に扱う気はなかったが、梃子でも動かぬ娘にカカシは苛立ち眼光鋭く射竦めた。
に向けられたものとは比べ物にならないほどの威圧を浴びてしまった娘の身体から力が抜けていく。彼女は己の体重を支えることもできずにその場で腰から落ちていった。
は彼らの会話から、この状況になにか理由がありそうだということを察知したものの、すっかり萎縮してしまった娘を一体どうするのかとカカシを注視する。

「この一日俺は君をちやほやされてばかりのお嬢様だと思っていた」

その言葉に、見逃してしまいそうな程僅かに娘の瞳が動いた。

「だから君の話を聞いて、正直少し見直したんだ。でも最後のはいただけない。まだ姉を殺してくれと頼まれた方が良かったよ」
「・・・え?」
「君は利口だ。金で何もかもが手に入らないことを知っている。満たされない心を抱えて生きる強さも持っている。だから今君が俺にしようとしてることが本当は望んでしたいことじゃないって、君はとっくに気が付いてるんだろ?」

今まで娘の身近な人間は、誰一人としてこのようなことを口にはしなかった。誰もが付加価値の方に飛びつき、娘の持つ本来の人間性をなにも見ようとはしなかった。カカシにしても、これまでに今回と似たような任務を請け負ったことが何回もあった。しかしそのどれもが金に物を言わせてカカシを手に入れようとする輩ばかりで、この娘のような人間はいなかった。金があれば何でも言うことを聞くと信じて疑わない可哀想な人間と、この娘はまるっきり違う。だからこそカカシはこの娘に対して冷酷にはなれなかった。
娘はただ虚ろな目のまま、何も答えられないでいる。

「柵から逃げるのも一つの手だ。持ってるものを全て捨てればいい、金だって捨てればいい、家族を捨てろとは言わない、ただ少し距離を置いてみるんだ。遠く離れた所で。地位も名誉も捨てた生活は案外、人付き合いも自分自身も気楽かもしれないよ」
「そんな、こと」
「ま、君にはそれができると思うから言ったんだけど」

娘の瞳から涙が一粒零れ落ちたのを封切に、彼女はその場でずっと滝が流れるように声を荒げて泣いていた。その慟哭はまるで今までの全てを流しているかのようで、止まることを知らずただただ咽び泣く。そんな娘にはそっとタオルを差し出したのだが、娘は目の前にしゃがみこんだを一瞥すると、タオルを受け取るどころかその身をそっくりそのまま飛び込ませた。
自分の苦しみを理解してくれたカカシが選んだ相手に、間違いはないと思ったのだ。そうして延々と、鼻水が流れようが、化粧が落ちようが、娘は体力が尽き果てるまで涙に掻き暮れた。



*



「普通言いますかね、彼女に向かって殺すって」

泣き疲れて眠ってしまった娘をカカシの背に乗せ彼女の家まで送った帰り、未だ活気の残る短冊街の中央通りを二人は家に向かって歩いていた。
じとりとがカカシを睨む。

「だってああでもしないとお前どっか行っちゃったでしょ」
「しかも殺気付き」

居酒屋の客引きを避けながら、ごめんごめんとカカシは笑った。がフンと鼻で息をするも、微かに困った顔ですぐにくすりと微笑むのを横目に、どうやらそこまで機嫌が悪いわけではないようだと内心ほっと息をつけば、普段のトーンで彼女は話し出したのだった。

「でもちょっと驚いちゃった」
「部屋に知らない子がいたから?」
「まあ、それもあるんだけど、それよりもね、なんていうのかな、カカシ、ちゃんと先生なんだなって」
「え、なになに」

はカカシのように上忍師ではないため、教師という立場で下忍と接することはほとんどなかった。カカシと任務を共にする機会も最近では減ってしまったし、お互い仕事をしている姿を見ることもあまりなかった。だから普段カカシが子供たちとどのように過ごしているか、というのが中々解からなかったのだ。子供と接すると称するにはあの富豪の娘は大人寄りだったが、それでも暗部で黙々と従事する以外のカカシを見ることができて嬉しく思ったのは確かだった。

「ふふふ、かっこよかった?」
「やだ、カカシ喜ぶから言わない」
「良いこと聞いちゃった。あ、それよりもさ、なんでさっき気配消して帰ってきたの」

どんな気配でも見逃すまいと気を張っていたカカシにとって、が家に帰って来たのが解からなかったこと、そのことに対し少なからず情けなさを感じていた。それは反対に、彼女の凄さを認める意も含まれてはいるが、しかしそれ以上に何故気配を消さなければならなかったのか、それが気になって仕方がない。もし彼女が気配を消して家の中の不穏な空気を察知していたならば、ドアを開けることはしなかっただろう。それならば理解できるのだ。しかし彼女はドアを開けて居間にいた自身と大富豪の娘を見るまで、なにも気が付かなかった。それがカカシには解からなかった。

「今日遅くなるって言ったから、カカシ、夕飯とか考えてなかったでしょ?でも任務が早く終わったから、夕飯の材料買いに行ったらね、秋刀魚が凄く大きくて安かったの。だから、驚かそうと思って」

それから彼女はこう続けた。安さに負けてかなり多めに買ったから、焼く以外にも何が作れるかを考えていた、と。
つまり疑問の答えは、カカシを驚かせる為に気配を消していたものの、調理方法を考えていたから周りの気配に気が回らなかった、と意外にも可愛らしいもので。
深く考えていただけにカカシはその場でがっくりと肩を落としたのだった。安心したといえばしたけれど、と心の中で付け加えて。待ち行く人々が肩を落とす彼の姿を横目に歩いてい行く。数歩先を行くに追いつくためにカカシがまた歩き出せば、小料理屋から出汁の良い香りが鼻を掠めて腹の虫をくすぐった。

「ねえ、出汁巻きも作って」
「じゃあ卵買って帰ろ」
「ん。あ、
「なあに?」
「ありがとな」
「出汁巻きに?」
「違う違う、俺の隣にいてくれてってこと」

翌日カカシが執務室に行くと、綱手は大層ご機嫌であった。どうやらあの娘、当初の予定通りきっちり報酬を支払ったらしい。中々筋の通った女だ。綱手はカカシに大盤振る舞いとばかりに一週間の休暇を与えた。もちろんこちらも約束通り、付きで。







(2014.3.29 フレイムダンス=オレンジ系の色の名前)CLOSE