「うーん人肌って何度だ?」

我ながら間抜けな問いだと思いつつも、哺乳瓶の中のミルクが何度なのか分からないのだから、忍として生きてきた時間なんてほんとうは大したことがないのかもしれない。持っていてなんとなく温かい気はするが、このぐらいの湯に浸かったら気持ちが良いだろうなと感じるということは、人肌よりもまだ熱のだろう。それならもう少し冷まさないといけないと一旦作業台に置けば、異議ありそうな喃語が背中から響いた。

「いでででで、こ〜らミライ、髪引っ張っちゃだめでしょ」
「うっう」
「おっとマスクも引っ張っちゃだめだぞ」
「うー」

早く飲ませろと言わんばかりに背負ったやんちゃっ子にガシガシと体を蹴られる。体は小さいが立派な王女様と家来の図だ。そんなお腹を空かせた王女様のために、ボウルに張った冷たい水に哺乳瓶を浸すと、急に髪を引っ張る手が止む。下を向いたままでは彼女の表情こそ窺えないが、いつも紅がやっている手順通りに進めたことを、音から察したのかもしれない。体のあちこちが未発達なのと引き換えに、幼い子供の感覚器官は大人よりもずば抜けている。

「えーとなんだ、分離しないようにこまめに振る、と」

そう言いながら背中を揺らすとこれまた引っ張られる後頭部。子供はなんにでもおもちゃにしてしまう天才だねまったく。

「うっ、うあぁう」
「はいはいもう少しだからな、ほら、この顔でも見て笑ってよ、はいブー」
「あいうー」
「お、良い子だねえ」

紅からもらった育児メモはすでに、飛び跳ねたお湯のせいでところどころふやけてしまっていた。高熱にうんうん魘されながらも作ってくれたメモは、この数日を生き延びる生命線だ。インクが滲んで読めなくなったとなれば、困るのは自分だけじゃなくこのあと帰ってくるもだからとなるべく水場から離れたところにそれを置く。

「あっちは落ち着いたかな」
「う?」

紅の看病をしたら帰るから、とは言っていたが、日が暮れる前には帰ってくるのだろうか。正直、心細い。そりゃあ看病するなら女同士の方が何かと都合が良いだろうから俺がミライを見てるよ、なあんて言ったものの、やっぱり一人より二人の方が良い訳で早く帰ってきてほしいと思ってしまう。任せてよ、と胸を叩いてみせて見送った筈なのに、今ではすっかり影分身の一人でも残してもらえば良かったとさえ考える始末だ。なら自分で影分身したら良いじゃないかという話でもないのだから、自分がとても情けない。

「ま、一番不安なのはお前だよな」

なにせ急に母親とは違ってごつごつとした背中の人間におんぶされているのだ。自分がどういう状況に置かれているかなんて、まだ人見知りも始まっていないこの子に分かりはしないのだろう。けれどもきっとなんとなく、ただぼんやりと、なにか日常とは違う雰囲気には気が付いていそうなものだ。
朝からおしめを変えたり、いないないばあをしてみたり、おしめを変えたり、体を揺らしてみたり、おしめを変えたり。そうだな、おしめばっかり変えてるな。でもそういう苦労はこの子の環境の変化に比べればなんてことはない。

「だいじょーぶ、紅はきっとすぐ良くなるから」
「う?」
「悪いなミライ、それまでの我慢だ。ほうら、ご飯にしよう」

哺乳瓶が視界に入るや否や、彼女は興奮したように小さな手をぎゅっと丸めてきゃっきゃと騒ぎ出した。おぶられたまま飲む気満々といった風だが、まずは背中から降りてからだぞと声をかける。ベッドに腰掛けて、彼女をしっかりと腕に抱えて前側に移動させた。小さなお尻を支え、頭を起こして飲ませやすい体勢を取ると、ミルクを前に目をきらきらと輝かせたミライと目が合った。純粋無垢な瞳はあまりにかわいらしく、あまりに眩しい。

「よーしよし、ゆっくりだぞ」
「あうーっうーっ」

哺乳瓶の乳首をなるべく奥に入れてやってとメモには大きく書かれていた。その通りに小さな口にすっぽりとはめてやれば、これまた小さな舌が懸命に巻き付いてくるのが分かる。えんぴつを握るように哺乳瓶を持ち、吸う力に合わせて角度を調節した。軽快に喉が動く様は生命力に満ち溢れ、そのおこぼれに与りこちらも自然と心が弾んだ。
とはいえ、沢山飲みたいからとそのスピードに合わせすぎても吐き戻してしまうから良くないらしい。飲み口を上あごにあてて、ミルクがすぐに無くならないよう注意する。

「にしても、良い飲みっぷりだなあ」

自分も昔はこうだったんだろうか。記憶の果てを辿ってもたどり着けない当時あっただろう景色。もう知っている人間はどこにもいないけれど。いや、それはそれで恥ずかしいからどこにもいなくていいけれど。

「しっかり大きくなるんだぞ、ミライ」

戦いの世に呱呱の声をあげたこと。いつか大人になった時、彼女は何を感じ、何を思い、どう道を歩んでいくのだろう。
みんなが安心して暮らせる里を作ること。その状態を保ちさらに繁栄させていくこと。これからの自分がしなければならない政の中で、彼女は生きていくことになる。だから自分はこの幼子に恥じぬようなおのこと胸に刻まねばならない。火影という歴史の重責の名を。

「・・・はは、俄然頑張らないとな」

たいした大きさにもならぬこの声は、ミルクを前にしては彼女に届きはしないのだろう。最後の一滴まで飲み干したミライの口をタオルで優しく拭うと、どこか物足りなさ気な顔が俺を捉える。食欲があるのは良いことだとげっぷが出やすいように背中をさすると、かわいらしいそれが空気に溶けていった。

「おお、えらいえらい」

よしよしと頭を撫でていると、ドアが開く音がした。もしかして、とそちらを向けば、色々と荷物を抱えたが「ただいま」と靴を脱いで入ってくる。心細かった気持ちが一瞬にして吹き飛んでいくのが分かった。弾む心を押さえ切れていない俺の顔を、ミライはくりくりとした瞳をきょとんとさせ不思議そうに眺めている。紅を前にしたお前の気持ちだよ、と言いかけてやめた。正しくは、大切な人を前にした者の気持ちだ。

「ごめんね遅くなっちゃって、大丈夫だった?」
「おつかれ。ま、こっちはなんとかね」
「あ〜んミライちゃん、会いたかったよ」
「今ミルク飲んだところでさ」
「そうだったのね、えらいねちゃんとミルク飲んだんだねえ」

手洗いうがいに着替えに消毒完了、と手のひらを見せて催促するにそっとミライを預けると、は慣れた手つきで彼女を抱えてぽんぽんと背中をあやしていた。楽しそうにミライを見つめるは時折目を大きくしてみせたり、口を様々な形に開いてみせて目の前の幼子とコミュニケーションを取っている。これはよく紅の家に遊びに行っていたからなのかもしれない。

「あのねミライ、お母さんはね、ちょ〜っとおやすみが必要なんだって」
「どうだったの紅は?」
「細菌性の胃腸炎だって。サクラが薬を調合してくれたんだけど、こればっかりは時が過ぎるのを待つしかないって」
「そうかあ、ミライと会えないのは辛いだろうね」
「ためしにって影分身してくれたんだけど、そっちもやっぱりだめでね、私の置いてきた」
「はは、チャクラは一つだから仕方ないな。ま、この際だ。ゆっくり休んでもらおう」
「ほんとにね。ごめんねミライ、明後日ぐらいまでここにいようね」

ミライに会うためにお母さんは一生懸命頑張ってるからね、とが頬をくすぐると、ふにふにとした柔らかな頬が膨らんで、楽しそうな声が上がった。手と足が連動したように動く姿がかわいらしい。けれどもそろそろ眠くなってきたのか、さきほどよりも頭が重たげだ。の胸に頬を擦り付けるようにしたのを見て、おねむかなあ、と彼女は声を潜めてこちらを見る。

「ベッドに行くか」
「うん」

両腕でミライを抱きかかえるの背に腕を回して、専用のベッドに連れていく。大人用のベッドにくっつけられるよう、急いでテンゾウに作らせた甲斐があったというものだ。そっとちいさなちいさな体を降ろすと、同じようにも横になった。丸い背中を慈愛の眼差しとともに優しく撫でている。紅が持たせてくれた、いつも使っているというタオルをミライの傍においてやると、彼女は安心したようにそれをぎゅっと握りしめた。

「生まれて半年ぐらいとはいえ、もう落ち着く匂いが分かるのねえ」
「赤ちゃんって凄いんだなって今改めて思ったよ」
「カカシもほらほら」

軽く布団を叩いたが俺を呼ぶ。自分の前へどうぞ、の意らしいが、の前に寝転がったのでは彼女からミライが見えなくなってしまう。だから背中側に潜り込んで、彼女の首筋に顎を乗せれば、自分にとっての落ち着く匂いがした。すんと鼻をうずめると、こそばゆそうな笑みが飛んだ。

「赤ちゃんってあったかいなあ」
「どれどれ、・・・あ」

入眠の邪魔をしないよう、指先にちょっと触れるだけのつもりで手を伸ばしたら、ぴくりと動いた小さな手先に人差し指が捕まってしまう。大人の男と生まれたばかりの赤ん坊とではこんなにも大きさが違うのに、びっくりするほどしっかりとした力だった。

「ミライ、寝ちゃいそう」
「ああ」

ミライの瞼がゆっくりと落ちていく。紅と生活する中で、ある程度睡眠のリズムが作られているのだろう。

「かわいいね」
「ん」

産毛からしっかりとした髪の毛に生え変わったとはいえ、それはまだまだ短く、まだまだ柔らかい。それなのに頬に影が落ちるほどまつ毛は長く伸びている。目元は紅に似てるな、と呟けば、同じこと考えてた、とから返ってきた。鼻や口なんかはアスマかな、と互いに目を細めれば、その間にもミライはもうぐっすり寝入ってしまっていた。一度眠っちゃうとしっかり寝る子でね、といつか紅が言っていたのは確かなようで、ついさっきまできゃっきゃとはしゃいでいたのが嘘のようだった。

「カカシ、午前中どうだったの?」
「ずっとおしめばっかり替えてた気がする」
「ふふ、じゃあおしめ替えのプロになったんじゃない?」
より上手かもよ」
「たのもしいこと。疲れてない?大丈夫?」
「まさか。全然。ミライかわいいからさ」

がいなくて少し心細かった。そのことは胸に秘めておこうと思うと同時に、こんなことも思った。近い将来、今みたいな話を彼女としたい、と。まあまずは籍を入れるところからだけれど。

「まあでも、ミルクあげながらさ、子育てってSランク任務より大変だなって思った」

そもそも自分の家が子育てに適した環境ではないというところからして、朝からずっと気を張っていた。床に物は落ちていないか、ミライを抱えて歩く高さにぶつかりそうなものはないか、うっかり手を伸ばした先に手裏剣がないかどうか。そういうことを確認しながら改めて部屋を見回すと、本棚から飛び出た本や、手を伸ばせばひっくり返せそうな植木鉢だって危ないものに見えてくる。こんなに家の中って危険だっただろうかと思えば思うほど、あまり物を置いていない部屋とはいえ全部捨ててしまいたくなってしまった。
それにご飯もそうだ。哺乳瓶の消毒から、ミルクを作り飲ませ終わるまでの所作ひとつひとつに見落としがないか注意しなくてはならない。安心安全の容器かどうか、美味しいミルクかどうか、吐き出させないスピードでちゃんと飲ませてやれるかどうか。慣れてしまえばなんてことのない作業なのかもしれないが、特に人様の命を預かっている身としてはハードな任務後と同じぐらい体力も精神も使うことに気付かされた。

「でも赤ちゃんって柔らかいし、なんだか甘い匂いもするし、かわいいし、最高」
「でれでれじゃない」
「妬いた?」
「まさか、カカシは良いパパになりそうだなって」
「じゃあ俺たちもそろそろ、」


自然の流れに身を任せても良いんじゃないか。の耳元で囁いて、耳たぶを軽く食む。肩を振るわせた彼女が可愛くて、それでまた俺は思い描いたのだ。彼女との子供が生まれる日のことを。

「ふふ、火影さまの仕事がひと段落したら、ね」
「そのころにはミライもすっかり動き回ってそうだなあ」
「生まれてくる子のお姉ちゃんになってもらおうっと」
「いいなそれ、そうしよう」

こうやって愛しい人を抱きしめて、好き勝手なことをつぶやきながら、目の前の幼子の成長を祈るということ。そうした未来が自分たちにもくれば良いと願いながら、そうした過去が自分の両親にもあったなら良いとも願った。

「ふああ、俺もなんだか眠たくなってきちゃった」
「もう、あくびってなんでうつるんだろ」
「はは、俺たちも少し昼寝するか」















(2020.6.14「赤ちゃん」「子守」「昼寝」toよしさん! )      CLOSE