家に帰ることが寂しいと思った。おかしな話だ。自分がずっと暮らしてきたところなのに。
何一つ不自由のない自分の城で、不定期な時間に寝起きしては、食べきれるぐらいの食事を作り、鍵を閉めて出ていく。そうやって生きてきた。どんな時も。自分を裏切らない唯一の世界のはずなのに、いつからだろう、そんな普通の生活に違和感を覚えたのは。

「満月か」

ゆらゆらと。
お猪口に映る真ん丸の月が、酒の水面に揺らされている。

「一人酒も悪くはないんだけど、ね」

そう、誰にも干渉されない時間は大事だ。けれどもこんなに月が綺麗な日はそれを誰かと分かち合いたい、なんて思ったりもして。

「はは、年取ったかな」

誰か、なんてどの口から出たことか。心に浮かんだのはたった一人しかいないのに。

「・・・昔はよく慰霊碑で話を、あ」

夜の帳が下りる中、こちらへと歩く見知ったあの顔。声をかけ呼び止めて、酒瓶をちらつかせてみれば。そいつは普通に歩いてきたって一分とかからない距離を、ご丁寧にチャクラの無駄遣いでやってきてくれたのだった。それも、ご満悦の表情で。





















「そういやお前ん家ここだったな」

髭を生やした熊みたいな男は、煙とともに現れたかと思えば、勝手知ったるなんとやら、戸棚から予備のお猪口(もといの)を取り出すと、十五年ものの銘酒を零れる寸前まで注いで一気に飲み干した。
貰い物の酒で元手はゼロとはいえ、そこそこ良いやつをこいつ。しかもさも通りかかりましたみたいな顔をしやがって。呼び止めたのは間違いだった気がしなくもないが、まあそんな心の狭いことを思ってもしょうがない。

「うめえなこいつぁ」
「任務帰り?」
「ん?いや、まあ、なんだ」

アスマは視線を逸らして頬をぽりぽりと指で掻いた。意外と嘘が下手糞な友人が何を隠そうとしていたのかなんて、こちらは手に取るように解かっている。
彼のこれまでの恋人遍歴はそこはかとなく知っているし、見た目どおり男らしい奴であることも知っているからこそ、こういう一面が不思議だった。
ま、そういうところが女心をくすぐるのかね。いわゆるギャップというやつが。

「あのさ、気付いてないと思ってるわけ?」
「・・・そうだよな、バレてるよな、そうだよあいつを送ってった帰りだよ」

そう言うとアスマはまた豪快に酒を仰いだ。

「・・・順調?」
「付き合い始めで問題あったらたまったも・・・ん?と喧嘩でもしたのか?」
「いや全然。全く。仲良いけど」
「なんだよそりゃあ、・・・惚気かよ」

一人ゲラゲラと笑う大男を他所に、何かアテになるものはないかと冷蔵庫を探り始める。
職掌柄、腐りやすいものは置かないようにしているからか、中にあるものといえば調味料やら漬物やら味噌やら、そんなものばかりだ。
漬物も味噌も悪くはないが、過度な塩分と酒は次の日身体が浮腫む。明日の任務で五代目に小言を言われるのも面倒くさい。しかし実はそんな五代目の方がよく浮腫んだ姿で執務室にいたりもするのは言を俟たない。それも、痛みに疼く頭を抱え、お付きのシズネに介抱されながら。(口に出したら病院送りは間違いないだろう。)

(・・・あ)

唯一それらしいものを発見したといえばしたのけれど。

(食えるのかこれ・・・)

それはおそらく三、四日ほど前だろうか、夕食で残ったほうれん草のおひたしだった。添えられた鰹節がすっかり水分を吸ってしなしなだ。ラップを半分外して匂いを嗅いでみれば。

(・・・すっぱい匂いがする)

食べれそうな気配を微塵も感じさせないというのに、ラップを再び被せて冷蔵庫に元あったようにそっと置く。

(こういうの、ちょっと切ないんだよねえ)

本来なら食えないものを入れっぱなしにしてもしょうがないので捨てるべきなのだが、どうしてもそれが憚られる。
が作ってくれたおひたし。一緒に八百屋に行ったこととか、エプロンをつけた彼女が調理する姿とか、笑いながら会話をした時間とか。そういったことを思い出してしかたがない。食べられないと解かっていても、ゴミになるしかないと解かっていても、いざゴミ袋に捨ててしまえば、あとはもう生ゴミの日を待つしかないただの廃棄物、なのだ。

「なんかあったか?」
「いや、なんにも。漬物でも食う?」
「ちげーよ、お前自身だよ」

扉を閉めるのと、振り返るのと、同時だったと思う。

「え」

ほらよ、と酒瓶を勧めてくるアスマをまじまじと見つめると、彼はニヤリと笑った。ああ、嫌だね。コイツのこういう顔。
ベッドを背凭れにするように座り、お猪口を持った腕をぐいと伸ばせば、乱暴に注がれる小さな滝。だったらもっと丁寧なんだけどな、と目の前のアスマを必死に恋人に変換してみようとしたが、無理だった。
今度は月ではなく電球が映し出された水面に口を付ける。まあ、これもこれで悪くはない。

「お前がを手放すなんて想像はつかないが、もしそうなるとしてもよく考えてからにしろよ」
「はは、心配ありがと。ま、でもむしろその逆かな」
「お?とうとう結婚すんのか?」
「そこまでは、まだ、考えてないけど」

結婚の二文字を散らつかされると、どうして男はそわそわしてしまうのだろう。
もちろんそういうことだって一応ちゃんと考えてはいるつもりだ。だってこれから先、以外の女とどうにかなるなんて、想像もつかないし。それに覚悟がないとかそういう部類の話でもない。じゃあ何なのかと問われれば、それらしい答えが無いわけでもないのだが。

「・・・なんていうかさ、家に帰るのが寂しいと思ったんだ」

仲の良い友人ではあるけれど、そこは男の持つ下らないプライドなんだろう、弱い部分を見せるようで、なんだか恥ずかしかった。
とはいえこいつも今は彼女持ちだ。仲間内の中じゃこいつが一番俺と立場が近い。

「たとえばと付き合う前は、この一人部屋で、一人分の食事を作って、食べて、寝て、起きて、いってきますも言わずに任務に行って、電気のついてない部屋に帰ってきてさ」

それが普通だったし、むしろそんなことどうでもいい事柄の方に属していた。
だってそれは生きるために外せない物事の一つで、どう足掻いたってそれら無しには生きられないのだから、そんなこと、息をするのとなんら変わらないレベルの話だ。

「それがお互い家に泊まりあったりしてるうちに、食事を作る量も増えて、あいつの私物も増えて、向こうの家にも俺の私物が増えて」
「・・・まあ、わからなくねえな」
「そんな日々を送ってたら、家に帰るのが少し嫌になったんだ。この部屋、こんなに狭いのに、広く感じちゃったりなんかしてさ」

伏し目がちにアスマを見やれば、こいつも同じような目で、床をぼうっと眺めていた。
共感できる節でもあっただろうか。アスマもそんなこと思う?なんて女々しくて聞けはしなかったものの、きっとこいつもそんなこと思う日がくる、絶対に。

「お前とっていつから知り合いだったんだ?」
「いつから?が五、六歳?の頃からかな」
「はあ!?ご、ごろ・・」

思わず咽そうになったのだろう、息を詰めたアスマが目を真ん丸にしてこちらに顔を向けた。

「・・・お前、意外と一途なんだな」
「いやまあ、意識し始めたのはもっとずっと後だけどさ」

正直、いつからが恋だったのか覚えていない。だってあいつときたら、怯えた目で俺を見ていたし、最高機密レベルの体質だし、とにかく自分の中でどう処理していいか分からない相手だった。なんとなく心の逃げ場ではあったのは間違いないけれど、でもそれは恋と呼ぶには程遠かった。俺のことを本気で気にかけてくれていた数少ない相手とはいえ、任務で里を出てから次会ったのなんてその六年後だ。
六年もあれば人間変わって当然だ。昔のままではいられない。そういう方面でもそうだ。にとって俺が初めての男じゃないように、俺にとってもは初めての女じゃない。
それなのに人間の心は勝手なもので、あいつが里に戻ってきた時の少し大人になった表情や仕草に反応して、挙句の果てにはあいつが慕っていた先輩に嫉妬までして。
でも多分、決定的だったのは、生きていてくれて嬉しいと言われた時だろう。心が軽くなった気がした。救われた気がした。暗闇に光が射した気がした。その場凌ぎの付き合い相手とどうして比べることなどできようか。
彼女を大切にしたいと思う心や、失いたくないと思う心も、全てが自分にとっての精神的安定に繋がっている。だから恋というよりは、人間関係の延長のような気がしてならないし、それを思えばきっともっと昔から惹かれていたんだろう。

「でも意外だったぜ、お前は絶対年上の女だと思ってたんだけどよ」
「ま、と出会ってなかったらきっとそうだったろうねェ」
「見た目か?それとも身体か?」
「・・・この酔っ払い」
「ハハハ、けど、俺も思ったりするさ」

アスマは俺を射抜くと、これが年取るってやつかな、と付け足した。

「俺はきっと紅と結婚するんだろうなってことをよ」
「へえ?」
「それで子供作って、シカマルんとこにでも弟子入りさせて、煙草ふかしてぬくぬく毎日暮らすのさ、きっとな」

それを口にしてる時の友の目は至極優しそうだった。
ああ、きっとそうなるよ。命のやりとりをしている俺たちだけど、そんな日常がきっとやってくる。次の世代へと繋いでいく、そんな日が。

「あのさアスマ、悩んでる答えが何かは知ってるんだ」
「お?」

と一緒になったら、そりゃあ幸せになれる自信はある。いってらっしゃいを言ってくれる相手がいて、いってらっしゃいを言う相手もいて。おかえりを言ってくれる相手がいて、おかえりを言う相手もいて。
毎日顔を合わせてたら、喧嘩をして顔も見たくない、なんて日もあるだろう。一人になりたいと思っても、それでも帰る場所は他にはない。ただ一つ、一緒に暮らす屋根の下だけ。
けど、それがなんだというのだろう。の癖なんてもう色々見てるし、その逆もまた然りだ。それでも一人帰路に着く寂しさの方が嫌なんだ。もうそれってさ、そういうことなんだよ。男って本当に情けない生き物なんだよ。


「きっとさ、大きな幸せを前に、怖くなったんだ」


二人分の食事を作って、二人分のベッドで寝て。


「なんだそら」


この家じゃ少し狭いだろう。


「・・・あのよ」


見慣れた景色に別れを告げるのは、寂しくない。


「大丈夫だよ、お前となら。・・・大丈夫だ」


心の穴を、埋めてくれる人がいるから。


「ったく、くよくよ悩んでねえでとっとと結婚しちまえばーか」



















(2015.3.17)
(2016.7.29 修正)               CLOSE