夢と現実の境。浮上する意識の最中。藺草に混じる麝香と竜脳の香り。後頭部に感じる布越しの人肌。あなたの夢を見ていた気がする。そんな甘く儚い記憶が薄れゆくのとは反対に、覚醒していく頭の中。

「起きたか」

低くて太い声が柔らかに響いた。けれど彼は私と目を合わせることなく手を動かし続けている。締め切りが近いのだとここに来た時言っていた。その時の、「期限を守るんですね」と驚いてみせれば、「わしのことをなんだと思っておる」と鼻をつままれたことすら愛おしい。こんなにも近づくことを許すくせに、こんなにも簡単に触れてくるくせに、それ以上踏み込ませないずるい大人。

「自来也先生」
「なんだ?」
「好きです」

やはり彼はその双眸で私を捉えてはくれない。でも良いのだ。そんなことで傷つくほどのもろい心はもう捨ててしまったから。
黄昏時のおぼろげな静寂が私たちを包み込む。もう何度言ってきただろうこの二文字の言葉。どうしてもとどかないこのたった二文字。沈みかけた西日に照らされて橙に染まる先生の長い髪の毛が、手の動きに合わせてゆらりと揺れた。先生の髪は綺麗だ。女性のような艶やかさはなくとも、得体の知れない魅力が眠っている。チャクラを練りこませて毛針として武器にする時の先生の顔も好きだ。目じりが上がって引き締まった精悍な顔立ち。くらくらする。湯町で女性を口説く時の、官能を射るようなあの瞳もたまらない。皮膚に刻まれた皺がまた良い味を出していて、それは大人の色気そのものだ。

「・・・すき」

くるくると先生の毛先を指に絡ませる。先生は答えない。本当に意地悪だ。受け容れることなどないにせよ、だからといってはっきり断りもしない。あなたのそういう態度が私にけじめをつけさせないというのに。そう、全部自来也先生のせいだ。全部全部、何もかも。私は悪くない。人を好きになる気持ちに罪は何もない。自分を正当化してしまうのも先生のせいだ。そんな子供じみたことを聞いたなら、きっと先生は「ひよっこよの」と笑うのだろう。だから私は指先に力を入れて、先生の毛先を引っ張った。するとすぐさま聞こえる「いでで」の三文字。良い反応だと心に満足が染みわたる。筆を置く音がするや否や、先生は大きなため息をついて、自身の太腿に頭を預ける私にその双眸を投げかけた。

「・・・たっく、若いおなごがそう軽々しく口にするな」
「若い女は好きな人に好きって伝えたらだめなんですか」
「そういうことじゃない」
「じゃあどういうことですか」

結局いつもこうなってしまう。明確な出口を与えてくれないまま。そして彼はまた執筆に戻ろうとする。だからそうはさせるかと先程よりも強く髪を引っ張ってやる。成人を過ぎてもこんなことしかできない子供。けれどその子供はいつだってこの人に対して本気だから、こうやって真正面からぶつかっていくしか術を持たない。それを先生がどんなに軽々しく越えて行こうとも、私にはそれ以外何も持っていないのだ。決して先生を困らせたい訳じゃないのだけれど、いつも堂々巡りのまま先へ進むことができない。
幾重にも経験を重ねてきた重厚な眼差しが私を覗き込む。その瞳に映る私ときたら、逃げ出したいくらいの鋭さが宿っているじゃないか。でもそれでもそのままでいて。少しで良い、少しで良いから私のことを見て。あなたが美しい文字を紙に綴るように、あなたの脳裏に私の欠片を刻んでよ。

「湯町の女の人にはすぐに手を出すのに、どうして私はだめなんですか」
「だめなものはだめだ」
「ずるい」
、もう今日は帰れ」

ほら、「もう帰れ」じゃなくて「今日は」だなんて。完全に私を拒んだりしない。もういっそのこと膝枕の体勢を良いことに、先生の着物を剥いで舐めてしまおうかしら。先生のそこは正真正銘目と鼻の先だ。湯町のその道のプロからしてみれば、私の技量なんてお子さまかもしれないけれど、少しでも反応すればそれこそ主導権が手に入る。ねえ先生、私のこと好きじゃないけどここはしっかり反応してますね、って。本当のところどう思ってるんですか、ちゃんと聞かせてくれたら最後までご奉仕しますよ、って。
先生はどんな風に余裕のない表情をするんだろう。どんな風に果てたい気持ちを我慢する声を出すのだろう。

「・・・おぬしがいると仕事にならん」
「ずーっと筆を動かしてたのに」
「全部ボツじゃ全部」
「私のせいですか?」

自来也先生は眉を顰めて口を噤むと、また筆を取った。竜脳と麝香。植物と動物の混じる香り。やっぱりあなたはずるい人だ。















(2016.11.20)              CLOSE