「あっ来たな来たな犬の面のねーちゃん!」

胸躍るその時が今週も来たのだ!と、ナルトは勢いよくナイトキャップを脱ぎ捨てた。落ちたばかりのキャップが無惨にも少年の素足に踏まれていく。そのことに全く気付いていない(もはや気付いたところで気にも留めないだろう)少年はというと、窓を軽く小突く犬の面をその目でしっかりと確認するや否や、すぐさま鍵を開錠しにかかっているところだ。

「ニッシッシ」

鼻歌交じりの少年の機嫌は頗る良さそうだ。きっと彼女のナルトに対する真摯さが、たとえ面を外さないとはいえ伝わっていったのだろう。公園での出来事をきっかけに、ナルトの心は犬の面の女に徐々に開かれていき、今ではすっかりそうなのだった。
会う回数を重ねる度に、二人の会話が増えていく。ナルトからは犬の面の女の表情は解からなかったが、頷いたり、笑ったり、時には怒られたりと、まるで友達のような、はたまた姉弟のようなそれはナルトにとって非常に喜ばしいことだった。そうした温かさを感じるその空間が、いつの間にか欠かせないもへと変わっていき、ナルトは週末がとても待ち遠しかった。

「ねーちゃん!」
「よ、いたずらっ子元気?」

これでもかと顔をくしゃくしゃにさせる少年の笑顔に、面の奥の瞳が弓なりになる。八百屋や魚屋で食材を探す彼女からもまた鼻歌が零れていたことを、少年が知る日はきっとやって来ないだろうが、週末が待ち遠しいのはどうやら犬の面の女にも言えることだった。

「あ、先週持ってきた野菜食べきってないな」

冷蔵庫を開けて直ぐに彼女の視界に入ったのは、先週持ってきた野菜が悲しくもそのまま転がっている光景だった。全くと言って良いほど手がつけられてないそれらは、幾分萎びていて、大根や蕪の葉は力なく下を向いている。
ジロリと振り返れば、一体何のことだと言わんばかりにナルトが頭の後ろで手を組み口を窄めて顔を逸らしたので、彼女はため息を一つ付くと、色の変色した食べられそうに無い部分だけを取り除きながら、今日持ってきた新鮮な野菜を奥から詰め始めたのだった。

「あのさ、あのさ、ねーちゃんが毎日来てくれればいいじゃんか」
「ナルトが私の仕事してくれるなら毎日でも来てあげるけど?」
「ちぇ、つめてーの」

へん、と口を曲げてナルトがベッドに飛び込み布団の中に潜り込む。ペタペタと、子供らしい足音を立てながら。

―少し、近寄りすぎだろうか。そう思うことが犬の面にはしばしばあった。
あくまでこれは任務の一環であり、幼い子が一人でも生活できるように手助けをするためのものなのだ。この任務の前任者は干渉は一切せずに、ただ食材や生活必需品を届けては異変が無いかをシステムチックに確認するのみであったという。そんな前任者と比べて自分の行いがその領域を超えているのは明らかだ。
もちろん彼女も最初は最低限のラインを超えるつもりは無かった。なにせ生活を一緒にする訳ではないし、ナルトが今よりも大きくなりもっと一人で色んなことができるようになれば、この任務自体存在しなくなる。いつかはナルトの傍を離れなくてはならないのだ。それを今のナルトが理解しているかどうかは解からない。つまるところ距離が近くなればなるほど別れがつらくなるのである。ならば面など邪魔なものを外せばいいような気がしてしまうが、いつどこで死ぬか分からないのが忍の人生、情が増えるほどに心に傷を負うのは残されたナルト自身なのだから、不用意に面を外すことだけは憚られた。
けれど公園で弱っている少年の姿を見て感情を殺せという方が難しかった。忍としてまだまだ若いからなのか、女という生き物が男に比べて感情的であるからなのか。それを一体どの感情で呼ぶのが正しいのかは彼女には分からなかったが、前任者のような無機質な態度で任務に臨めるほど、世の中を上手く渡っていく術は持っていない。そうして当初決めていたラインを超えれば超えるほど、彼女は悩まずにはいられなかったのだった。

(どうしたものかね)

それは自分の中に抱く問題のことでもあり、そして冷蔵庫の野菜のことでもあり。どちらかといえばその重みは今は野菜の方にあるようで、彼女はナルトが野菜に手をつけなかった理由を考えた。もちろん嫌いだからという部分が大体を占めるが、それだけではないことに気が付いていない訳ではない。

(甘えてるんだろうなあ)

公園で虚ろに暮れていたナルトに光を齎したのは間違いなく彼女で、少年にとって犬の面の女は予想外に生じた繋がりだった。
あの夜、ナルトが彼女に手を引かれ家に帰った後、心空っぽにベッドに腰を下ろしていたら、いつの間にか食事が用意されていた。そしてそれが終わると更にいつの間にか風呂も用意されていた。濡れた頭を拭かれた時、心の底から気持ちが良いとナルトは思った。それからだった。一言、また一言と少年言葉が止まらなくなったのは。
どのぐらい喋り続けたのか解からない幼子の他愛も無い言葉を、犬の面はずっと聞いていた。それだけではない。喋り疲れて気がついたら眠ってしまっていたというのに、目が覚めたそこには、そう、朝日が部屋を照らしたそこに、彼女はいたのだ。「おはよう」と、降り注ぐ光のような優しいその一言がナルトの心に何を与えたのか。それは言葉では表せないほどの至上の極みであった。
「ちぇ、つめてーの」という先の一言も本気で彼女を冷たいなどとは思っていない。布団の中でナルトは満面の笑みを浮かべ、彼女をどうやって驚かそうかとあれやこれやと考えていたのだから。

「おーい、おちびさん?」

犬の面は残りの食材を冷蔵庫にしまうと、次に部屋を掃除しにかかる。ナルトが機嫌を悪くしたのではないと知っているからこそ、先に済ませなくてはいけないことをしようと思ったのだ。
一週間でよくもまあこんなに汚せるものだ、と彼女は脱ぎっぱなしの服やペアの揃わない靴下を拾い上げていく。そしてそれらをまとめて洗濯機に放り投げると、真夜中にもかかわらず洗剤を入れて回し始めるではないか。

(忍術の悪用ですよっと)

ふふ、と笑みをこぼし彼女が印を結び結界を張ると、五月蝿い洗濯機の音が一瞬にして無音へと変わっていく。これならばナルトが近所にとやかく言われることも無いだろう、とその表情は満足気だ。
それから彼女はくるりと向きを変えて、机の上やらベッドの周りに飛び散るゴミを拾い集め、適当なビニール袋にまとめていけば、部屋の中はあらかたすっきりしたようだった。
相変わらずカップラーメンばかり食べているようで、三代目から貰う生活費で購入しているのであろう、玄関横のラーメンボックスが満杯になっているのが目に入る。ナルトにとってラーメンは簡単に作れる食事というよりも、好物故に食べているという意味の方が強いのだが、彼女からしてみれば毎日飽きもせず食べ続けられることの方が驚きだった。

(ズボラなくせにまめなところはあるのよね)

衛生面でも食生活面でも不健康な生活を送るナルトだが、植物に水をやることだけは彼が継続する唯一の習慣だった。ベッド脇に置かれた観葉植物は、この不衛生な部屋の中で最も健康的に育っている。植物はベッドの横の大きな窓から太陽の光を受けるのに丁度良い場所に置かれていて、葉の先端まで鮮やかな緑の色を保っている。
それが少年の中で何を意味しているのか、犬の面には全ては解からなかった。だがしかし彼を理解する人間がいないことと関係があるように思えて仕方なかった。枯れてしまわないように、無意識の内に必死になってしまっている気がするのだ。それはまるで、人と人との繋がりのようで。
じんわりと、目の奥が熱くなるのがわかった。「ナルト」と心の中で呼びながら、彼女はベッドの上の布団の塊をそっと捲る。

(穏やかな顔しちゃって)

この時分だ、幼子には辛かったのだろう、ナルトはよだれを垂らしてすっかり眠ってしまっていた。



*



夜の帳が下りる中、彼女は徒歩で川沿いを通って家路を辿っていた。ナルトの家から大分離れたことだし、もう外してもいいだろう、と面に手をやれば、夜の冷ややかな空気が顔を撫ぜる。とても心地の良い空気に瞳を閉じると、どこからともなく彼女の名を呼ぶ声がした。

「あれ??」

自分の名を呼ぶ、聞き覚えのある声。音の方へ振り返ると、そこには同僚である、はたけカカシが立っていた。
任務を終えて帰ってきたのだろう、返り血がべっとりと装束に付いていて、毛先が若干濡れているところを見ると、どこかで血を洗い流して来た帰りなのかもしれない。なにせこの青年は彼女よりも年上で、里も一目するほどに腕も立つ。与えられる任務は誰よりも群を抜いていた。

も任務だった?」
「任務、なのかなあ」
「ああ、もしかして、ナルト?三代目から少しだけ話は聞いてるけど」

ナルトは四代目の息子であって、四代目はカカシの師匠である。毎日任務で多忙な彼も、遠目からナルトのことを気にかけていたのをは知っていた。
部外者であれば何も言う気は無い彼女だったが、カカシにならば話しても良いだろうとナルトの様子を事細かに伝えていく。真夜中の、人気の無い通りを優しく照らす街頭の数々を、順を追うように眺めながら。

「あの子、言葉を重ねるの。あのさ、あのさ、とか、じゃあさ、じゃあさ、とか。あれってきっと、気が付いて欲しいからなのよね」

何気ない言葉の裏に、自分の存在を認めて欲しいという意味が込められている。きっと本人も知らぬうちに。

「先生に、会いたくなっちゃうね」
、それは」
「・・・うん、ごめん」

水面に映った下弦の月が、ゆらゆらと揺れていた。






(2014.4.13)
(2017.5.18)           CLOSE