去年の今頃には確かもう桜は散っていた。それと比べて今年は春の訪れが少し遅い。ようやく桜の芽が顔を見せ始め、春の息吹が日に日にそこかしこに姿を現し始めた次第だ。アカデミーの入学式に訪れた父母たちはみな、折角の一生に一度の祝い日に間に合わなかった桜のことばかりを話題にしていた。桃色が満開の門前で、愛しのわが子の姿をシャッターに納めるのを何週間も前から楽しみにしていたのだから、残念だったとい愚痴の一つでも零さないと始まらないのだろう。
式も談話も終えて頃合よろしく人々が散り散りになれば、それまでの華やぎが嘘のように寂莫が辺りを包んだ。そうして日が暮れてからは、未だ冬の名残惜しそうな冷たい風が吹きはじめる。その時分になると、窓を閉める音がそこかしこから聞こえてきていた。
そんな季節の変わり目のある真夜中、街中の瓦の屋根を次から次へと最小限の音で駆け抜けていく犬の面の女は、今週もまたある家へと向かっていくのだった。



*



犬の面をした忍がナルトの前に現れるのは毎週土曜日か日曜日のどちらかで、早いもので今週でもう五回目、すなわち出会ってから一ヶ月が経とうとしていた。
身体の線の細さや、隠すことができない胸の膨らみから、その忍が女であるということは、アカデミーに慣れたばかりの幼いナルトにも十二分に解かることだった。声音は大人でもなく子供でもないと言ったところで、十代半ばぐらいだろうと想像されたが、子供からしてみれば、その年の人間は既に立派な大人として見られていたに違いない。
彼女は決まって真夜中にやって来た。幼い子供に全く好ましくない時間に現れては、一週間分の食料を置きに部屋に入ってくるのだ。その部屋も汚れていれば適度に片付けたし、時には簡単な料理を数日分まとめて作っていくこともあった。
勿論ナルトは最初はその面や身なりから、彼女を激しく怪しがった。火影からの使いと知るとその嫌疑は多少和らいだものの、抜けない猜疑心に警戒をほどくことができないでいた。なにせ一向に面を取ることが無かったのだから、暗部が具体的にどういう存在、どういう組織であるかを知らないナルトにとっては仕方なかったのだろう。
しかし多重に絡まった猜疑の糸がほぐれ出したのは存外早く、犬の面がナルトの家に通い始めて三回目にそれは起こったのだった。

(・・・いない)

その日は月が雲に隠れる日だった。任務が早く終わったために、日が暮れてまもない内に犬の面の女はナルトの家に訪れることができたのだ。暗部という所属柄、面を外すのはご法度。だから一緒に食卓につくことはできないが、せめて普段よりも豪勢なものを何か作ってやろうと思ったのだ。が、しかし中から人の気配はしなかった。どうやら少年は居ないらしい。
誰か友達と遊びにでも行っているのだろうか。彼女が彼の家に来るのは大抵真夜中のことで、日中の様子を知っているわけではなかった。それに、生活の援助をするのが与えられた仕事であり、監視はその内には入っていない。要は、少年の交友関係などについては殆どと言っていいほど知らないのだ。だから彼女は幾分心配になった。忍の卵と言えどアカデミーも卒業していない幼い子供が、この時分になっても帰って来ないことに。さらに言ってしまえば、彼を取り巻く事情は明るくはなかった。そう、誰もが彼の腹に眠る獣に口を閉じ、腫れ物のように扱うのだから。その意味からも、何か面倒なことに巻き込まれていなければ良いが、と不安は募るばかりである。

(一体どこに)

早くあの子を見つけなければ。彼女はすぐさま踵を返し、夜の街へと姿を消したのだった。



*



里の端から端へとナルトの気配を辿りながら走り、アカデミーや火影岩、一楽にも寄ったものの、犬の面の女は彼を見つけることができないでいた。

(どこなの、あの子)

そしてさらに走ること数分。研ぎ澄まされた感覚に引っかかった気配を辿った先は、ナルトの家から大分離れたところにある小さな公園だった。
砂場、すべり台、ブランコ、鉄棒と一通り遊具の揃った公園の隅に置かれたベンチに、ただひたすらに座って下を向く子供が一人。

(・・・!)

その姿のなんと悲愴に包まれていることだろう。
公園の街灯が一層それを強めていて、女は面の下で唇を噛み締めた。一体どうしてこの子ばかりがこんなにも心苦しい思いをしなくてはならないのだろうか。あの事件は確かに里に甚大な被害を齎した。民家の損傷といったそんな生易しいレベルではないほどの。けれど、だからといって何故その負の全てがあの子に向けられねばならないのか。彼は何も悪くない。彼に憎しみをぶつけるなんて、お門違いにも程があるというのに。

「ナールト」

一瞬の内にナルトの目の前に回りこんだ彼女は、しゃがみ込んで街灯が照らす金髪の少年を見上げた。
虚ろでどこに焦点を合わせるでもない青の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。瞬きでもすればきっと落ちてしまうだろう。

「ナ、ル、ト?」

再度静かに声をかけると、力の入らない虚ろな瞳がゆっくりと犬の面へ向いた。ナルトの目の下が赤くなっていて、少しだけ腫れているのが見て取れた。

「・・・一緒に、遊べなかった」

ぽつり。消え入りそうな声でナルトは呟いた。

「それに、みんな、迎えがくるんだ」

青の目から零れ落ちた涙がナルトの服に落ちていく。布地が瞬時にそれを吸収し、ぼんやりと色が濃くなる。そしてその染みの隣に、さらに滴が一つ。
ナルトの悲痛な叫びが解からぬほど、女は少年から遠い存在ではなかった。勿論件の事柄からこの界隈で少年の名を知らぬものはいない。ナルトはとりわけ有名―その意味はどちらかと言うと「人気」ではなく「奇異」だが―な存在なのだ。誰もがこの少年から遠ざかり、子を持つ親は一緒に遊ばせることを決してしない。忌み嫌われるまでの経緯があまりにも里にとって残酷であったが故に、彼は人々から相容れなかった。
しかし犬の面の女にとっては全く違う状況だった。暗部として三代目火影、猿飛ヒルゼンの近くで何年も従事してきたのだ。何も知らない一般人とはそもそもの立ち位置が違うのである。彼女にとってはナルトを嫌う理由など何処にも在りはしなかった。むしろ里の誉れと呼ばれたあの優秀な忍の、そう、友人が所属していた班の師でもある敬愛すべき人の子供に、愛しさ以外の何があるだろうか。
けれども任務に追われる毎日でナルトに割ける時間が無かったのも事実だ。嫌う理由こそ無いとはいえ、結局彼女自身も真正面からナルトと向き合って来なかったのだから、他の人間とは違う、などと言える身分ではなかった。そんな折に彼女にこの援助話が回って来たのは偶然のことだった。
彼女の前にも、三代目の命で陰からナルトを援助者がいたが、先日殉職したという。アカデミーにも入り、生活費などは三代目自身が工面もしていることから、もうそろそろそういう役割りは良いかと思われたが、彼からしても如何せんカップラーメンばかり食べる野菜嫌いの少年を放っては置けなかったようだ。
贖罪というにはあまりにエゴの部分が強すぎるようにも思えてしまうが、仮にそうだったとしても、この少年と向き合う時間が貰えるのなら。不必要な苦難を取り除くことができたなら。引き受けない手はなかった。

「でも俺には、こねーんだ」

虚ろの上にうっすらと悔しさを浮かべたナルトが、半ズボンの裾を硬く握る。すぐさま幾重にも皺を作る布地が少年の爆発しそうな心を物語っていた。

「だれも、こねーんだってば」

唇を噛んでふるふると震え出す。幼い子供が、声を上げて泣くのを我慢している。大きな大きな心の痛みを、何処にも吐き出すことができずに身体の中に溜め込んで、こうして夜に一人虚ろに沈んでいる。
誰もこの子の苦しさを理解しようとしない、手を差し伸べようとしない、傍に居てあげようとしない。
何も罪など持たない幼子が、何故こんなにも辛い思いをしなくてはならないのだろうか。
ナルトからは見えない面の下で、女は眉根を寄せた。

「ナルト、おうちに帰って、ごはん食べよう」

ズボンの上で握り締められている手を、彼女は包み込むように優しく覆ってやる。すっかり冷えた手に、少しでも自身の熱が伝わるようにと。
せめて少しでも、この少年の心の傷が癒せることを祈って、彼女は子供特有の湿り気を帯びた手に力を込めた。






(2014.3.27)
(2017.5.11修正)              CLOSE