「あれは微妙だった。よくあの味で企画通ったな」
「えっ、すごく美味しかったから三回ぐらいリピートしたけど」
「馬鹿舌。亜鉛飲め亜鉛」
「はあ?馬鹿舌は降谷さんの方でしょ」

なんとなく、仕事の話がプライベートのそれに変わっていって、コンビニで発売されたばかりのあれが美味いとか、社員食堂のカレーの味が微妙に変わっただの、指になじみの良いボールペンはどこどこのブランドのものだとか、上映中の映画のあれこれとか、そんな他愛のない話を数えきれないほど繰り返して、もう何分過ぎたのか、いや何時間過ぎたのかももはや分からなくなっていた中、何度も笑い、呆れ、ため息を吐き、時にはアイロニカルな悪態も飛べば、軽い口喧嘩だってした。
天井の隅に設置されている半円型の監視カメラを誰が見てるのかはさて知らぬところだが、個室居酒屋じゃないんだぞ、と小言が飛んできそうだ。もちろん映像だけでこちらの声は届いていないだろうが、緊急事態真っ只中の人間に到底見えないのは確かだった。

「くしゃみでそう・・・」
「くしゃみ」
「残念だけど言われたってとまら・・・、ふえ、へ、へっくしゅん!」
「唾飛んだぞ」
「ちゃんと手で覆いました。失礼しちゃうわ」
「ふっ、君の間抜け面が見れて嬉しいよ」

冗談気味に反応してみせたものの、ちらりとを見やればすっかり鼻先が赤くなっていた。そういえば、換気用のファンから微妙に隙間風のようなものが流れている気がしなくもない。閉じ込められた当初に比べれば室温だってグッと下がった気がする。
男と違って女の方が寒さを感じやすいというのだから、上着を置いてきてしまった彼女が冷えるのは当たり前だ。そりゃそうだ。誰だってエレベーターに閉じ込められるつもりで最初から乗ったりはしないのだから。

「ほら」
「あ・・・」

脱いだ背広を彼女の肩にかけると、肩の縫い目がだいぶ下を向いていた。体格差がはっきりと浮かび上がるようでなんだか視線を奪われてしまう。こうして見ると彼女も生物学的に女だということに改めて気付かされた。
彼シャツとやらが巷を騒がせているらしいが、これもこれで結構良いのかもしれない。口を開けばつっかかるような発言の多い彼女が今はそれなりに可愛く見えるときたものだ。そんなだからついこちらも、脱いだばかりでまだ生温かかったろう背広を与えたことを申しわけなく思ってしまった。
かすかだが、冷たさがセーターの繊維をすり抜けて入ってくるのを感じた。たしかに。長時間この風に当たっていたらじわじわと体温を奪われてしまうことだろう。

「着とけ」
「だいじょうぶ」
「いいから」
「これくらいへっちゃらよ」
「なんなら脱ぎたてのセーターも着せてやろうか?」
「・・・背広、お借りします」
「ん。上が体調を崩したら示しが付かないだろ」

背広を脱ぐため襟元に手を伸ばした彼女を制したらば、彼女は小さな声で、ありがとう、とくるまるようにそれを深く羽織りなおした。最初からその言葉が素直に出ると可愛げがあるのに、と言うと、うるさい、とジト目で睨まれてしまう。前言撤回、それなりに可愛いなんてあれは嘘だ。こんなにツンケンされでもしてみろ。大概の男が逃げてくぞ。

「あれ?そういえば彼氏はどうしたんだ、まだ続いてるんだろ?」
「いつの話?気付いたら連絡取れなかったわよ。アドレスも変わってたし、ラインだってブロックされてた」
「へえ」
「そりゃあちょっと忙しくて全然返事できなかったけど、だからって何も言わずに消えることないでしょうに」

それからは口を尖らせて、ここぞとばかりに溜まりに溜まった鬱憤を晴らしにかかった。
仕事が忙しいということを承知で付き合いをスタートさせたものの、デートはおろか連絡も中々できなかった、と。運よく休みが重なって外に出かけても、急遽仕事に呼び出されることもしばしばで、上手く信頼関係を築けずに最終的には仕事と俺とどっちが大事なんだと言われたという。それって普通女の台詞じゃないの、と彼女は鼻で笑っていた。
その上公務員とはいえ守秘義務のある案件を扱うことから、仕事のことはほぼ話せないと念押しして理解を得たにも関わらず、眠っている時に携帯を触られて中身を探られそうになったらしい。身辺情報とは関連しない番号のロック故に未遂に終わったと言うが、これが指紋認証にしない理由だと眉間に大いに皴を寄せて、お世辞にも綺麗とは言えない表情で彼女は怒りとともに指紋認証の危険さについての蘊蓄を言葉に乗せていた。
たしかに開けてはだめだと言われた箱のように、秘密のひとひらを知ると人はその全貌を明らかにしてみたくなるものだ。けれども自分たちは公安警察。自らが抱えている情報のじの字だって相手に漏らしてはいけない。たとえそれが同じ公安の仲間であっても、だ。自分自身が特別な人間だとは露ほども思いはしないが、かといって普通なわけでもない。こういう立場にない誰かと交際をするとき、常に何かしらの制限がつきまとうのはもはやどうしようもないことだった。

「ま、この仕事に就いたことを恨むんだな」
「・・・なんか癪だったからフェイスブックであいつの名前検索してやったの。そしたら新しい彼女とのツーショットがあってさあ、彼女の手料理は世界一美味しい!って書いてて。コメント欄に何てあったと思う?お前元カノの料理いつも焦げてるって嘆いてたもんな、って」
「いつも焦がしてるのか」
「いつもじゃ・・・ないと、思う、けど」
「語尾が小くなってるぞ」
「うるさいなあ、料理する時間もないほどに毎日働いてるんだからしょうがないじゃない。しかもその返信が、そうなんだよ、でも上手いって言わないと包丁飛んできそうでさ、って。汗垂らしたにこちゃんマーク付けて!だーれが包丁なんか飛ばすかってーの!」
「はは、包丁というか拳銃だろ、君の場合」

だって警察官だもんな、と付け足すと彼女はことさら眉間に皴を寄せてこちらを睨みにかかった。けれどすぐさま眉を落として、もう何か月も前のことよ、と諦めたように呟く。遠い目を浮かべたまま、少し長めのため息とともに。
花が萎んでしまったように急にしおらしくなった彼女が、なんだかいつもよりも小さく見えてしまったものだから、まあそういうこともあるさ、とぽんと彼女の頭に手を乗せてがしがしと撫でる(というよりは揺らすに近かったかもしれない)と、彼女は膝を抱える細腕に頭をもたせかけて、すっかり消沈した声音で口を開いた。

「そういう降谷さんこそ、この前可愛いって言ってた女の子とどうなったの?」
「女の子?」
「ほら、私が無理やりバーに連れ出されたあの日。隅っこにいる女の子が可愛いって私に言ってたじゃないの」

はてそんなことあっただろうかと記憶を探って十秒ほど。もしかして。自然と口から、ああ、あの時か、と零れ落ちる。

「別件で追ってた対象に近付くためにわざと聞こえるように言ったんだ、彼女、そいつと関わりがあったからな」

言うや否や彼女から素っ頓狂な声が上がった。あんぐりと口を開けて、訝し気に俺を見やる。

「一杯飲んで帰ろうって話だっ・・・、やだ、じゃあ私降谷さんに使われてたの?」
「まあ、そういうことになるな」
「なんだ、あのあと私先に帰されたからてっきりよろしくしてるのかと思ってた」
「まさか。情報を引き出すために少し飲んだだけで、彼女には何の感情も持っていない」
「たったの少しも?」
「これっぽっちも、だ」

声には出さなかったが多分、多分だ、少しぐらい興味持てばいいのにという彼女の心の声が聞こえてきそうだった。そんなことを思われてもだ、興味がないものは興味がないのだから仕方がない。
我慢してハニートラップまがいに抱けとでも言うのだろうか。そんな馬鹿な真似誰ができるというのだろう。背中に爪痕でも残されたら?爪痕だけならまだいい、あんあんと喘ぎながら血が滲むほど引っかかれて、皮膚片を持っていかれでもしたら?どさくさにまぎれて髪の毛を一本抜かれでもしたら?それに何より、避妊してたとしても体液が残ってしまったら?隅々まで体を洗ってやるから一緒に風呂に入ろうだのシャワーを浴びようだなんてそんな台詞、口が裂けても言えるわけがないし言いたくもない。
そんなだから、ハニートラップなんてものは何もかもが面倒くさい仕事から成り立っている。もとより好きでもない相手に勃つほど(いや、男ってものは上半身と下半身違う生き物だから断言はできないが)、十代みたいな爆発的な性欲があるわけじゃないのだ。ああでも、もし今みたいに徹夜続きだったら。溜まるものはある。いわゆる疲れマ、いや、いい、忘れよう。

「あーあ、いつになったら理解を示してくれる恋人ができるのかなあ」
「君を最大限理解してくれるのはデスクに山積みの書類だけだろ。一日中ピッタリ寄り添ってお似合いじゃないか」
「なにそれ、むしろあれらはうら若き乙女の人生をぶち壊す核兵器でしょ」
「うら若き・・・?売れ残りの間違いだろ」
「恋人のいない降谷さんに言われたくない」
「それもそうだ」

はあ、とため息を吐いて彼女はそっぽを向いてうめき声のようにがらがらの声で呟く。もう三十路間近かあ、と。きっと別の未来があったのだろうにという嘆きがそこには含まれていて、それを聞いてなんとなく、警察官じゃなかったらどんなことをしていたのだろうかということを想像してしまった。否、しようとした、のだけれど。この道以外の自分の姿なんてものは何も浮かばなかった。

「お腹空いたね」
「そうだな」

もう何時間が経ったのだろう。気落ちするのがいやで携帯の画面を見ることはもうできなかった。狭い箱の中には外の景色なんかありはしない。外の景色か。そうだな。いっそのことガラス張りタイプのエレベーターだったら気晴らしの一つや二つあったのかもしれないし、手を大きく振って助けを早く呼ぶことだってできたのかもしれない。
けれども壁に囲まれたこの空間じゃ、何時なのかも、太陽がどこまで上っているのかも分からない。匂いもなければ新鮮な空気もなく、ただ無機質なファンの音を延々と聞くだけの、そう、あるのは一人だったらば気が狂いでもしそうな時間を過ごすことのこの苦痛さのみだ。
少しだけ、宇宙飛行士が受ける訓練に似ていると思ってしまった。もっとも、彼らの場合は真っ暗闇で無音の中を耐えねばならないらしいが。それを考えれば同期と一緒なだけありがたいというものだ。緊張することもなく、むしろ家にいるかのように自由気ままに過ごしているのだから。家か。そうだな、今日は帰って洗濯をしよう。本当は日の出てる時間帯に干したいものだが。そういえば、太陽の匂いというのは、綿に含まれる繊維やセルロースが陽の光によって少量分解され、アルデヒドやアルコール、脂肪酸に変化したものらしい。それを知った時、あのなんと形容したら分からないものが科学的に立派に解明されているだなんて、少しだけ寂しいと思った記憶がある。

「何が食べたい?」
「肉」
「料理名を言え料理名を」
「焼き鳥」
「タレ?塩?」
「断然塩」
「断然タレだろ」
「タレは降谷さんの色じゃん」
「意味が分からん」

それなら塩は君の色なのか、なんてことが脳裏を駆け抜けていった。いやいやどういう意味だ、塩色って。頭も疲れ果ておまけに腹も減ると人間てやつは本当にポンコツだ。

「唐揚げも、春巻きも、ハンバーグも、カレーも、ハヤシライスも、醤油もみんな茶色。みんな降谷さん」
「ハンバーグと醤油は濃すぎだろ」
「それ以外は認めんのかい」
「誰が茶色だこの馬鹿」

こつんと軽く肘で彼女を小突く。骨折れた、治療費払え、と小学生みたいな返しなのに、心は全くこもっていない棒読みだった。もういい加減そういうやりとりにも飽きてしまったと思ったら、隣からふと視線を感じて横を向く。
じっと、穴が開くほどこちらを見ている。なんだ、なんなんだその段ボール箱に詰め込まれて公園に置き去りにされた犬猫みたいな瞳は。人間不信そうな、それでいてどこか期待を孕んでいそうな。きゅっと結ばれた彼女の口が開かれるのがやけにゆっくり見えて仕方なかった。

「・・・ねえ、今度で良いからさ、料理、教えてよ」

飛び出た言葉のなんと予想できなかったことだろう。が、俺に対してつっけんどんな態度ばかりのあのが、手を貸してやろうかと言っても断固として拒否し続けたあのが!
あまりにも稀有すぎて反応できずに目を瞬かせていると、彼女は気まずそうに、ごめん、今のなし、忘れて、と零す。ちがう、ちがうんだ、イヤだとかそういうことなんかじゃなくて、ただ、そう、ただ驚いただけなんだ。彼女が好きな食べ物はなんだったろうか。さすがに焼き鳥を家で作るのは手間もかかるし、近所に炭で焼かれた肉の香ばしい香りをばら撒くテロになりかねない。いや、それはどんな料理も一緒か。帰り際に漂うカレーの匂いなんか一人暮らしには大打撃だ。どこの家から香るんだろうなんて考えなくともまず自分の家からじゃないのだから。家に帰って、人のいないしんと冷たい空気の中で、ゼロから食事を作るあのやるせなさ。料理は嫌いじゃないしむしろ研究のし甲斐もあるというものだが、こんなにも徹夜続きではその気になるまでが大変なのだ、じゃなかった、考えが脱線した。
なんだったか?料理を教えてほしい?予備のエプロンはあっただろうか?いやエプロンぐらい彼女に持ってこさせれば良いじゃないか。そうだな、エプロンか。彼女が、エプロン?着れば少しは、いやかなりは女らしく見えるのではないだろうか。私服の上に身に付けるエプロンも良いが、スーツにエプロンもかなり良い。作業しやすいように袖をまくって露になる腕なんか最高だ。暑い夏にまくるのとはわけが違うし、髪の毛をまとめる仕草も色気がある。それらの所作は仕事でだって見れる光景かもしれないが、目的が業務ではなく料理であることによって印象が全く違うのだ。そんな姿を想像して、思わずごくりと息を呑んでしまった。

「家を燃やさないと誓うなら教えてやっても良い」

ああ、なんで男ってやつはこんなことを延々と考えていながら、口から出る言葉はかっこつけたものばかりなんだ。彼女が人の脳内を読み取る能力を持っていたらきっと白い目で笑うに違いない。

「なにその誓い、馬鹿にしてるの?」
「馬鹿になんかしてない、大まじめだ」
「ますます意味分かんないんだけど」
「料理が下手なやつは大概隠し味を入れたがるのと早く仕上げたいがために火加減を気にしないからな。君にはその素質があると見た」
「い、いくら私だって家を燃やしたりなんかしないわよ!降谷さんのばか!」

なんてやつだ、と彼女がむすっとした顔で俺を睨んだ。睨んだ、のだが。


(は・・・?うそ、だろ)


それは荒れ狂う波間に振り落ちる雷のような、はたまた正確な射撃で心臓を一突きされたかのような(されたことは決してないのだが)、まさにそんな一撃だった。

(・・・かわいく、見える?こいつが?)

一体何が起きたのか、自分でも本当に全く分からなかった。だって彼女は怒ってる顔なのに、同期の同僚なのに、手柄を取り合う仲なのに、なによりいつも俺にツンケンしてくるくせに、それなのに、今この瞬間、物凄く可愛く見えてしまうなんて―…。

「・・・」
「な、なに?」

胸が大きく高鳴った。急すぎて、意味が分からない。今までなんとも思いもしなかったのに、なぜこのタイミングで。けれども天啓に打たれるとはまさにこのことで、そこから先はもう上空三万メートルの成層圏から真っ逆さま、頭の中の彼女への印象がどんどん書き換えられていくのが手に取るように分かった。
俺の背広にくるまって普段より小さく見えるところなんか、まるで小動物だ。がさつなくせに料理が下手なところを自覚して願いを請うところも、寒さから鼻を赤くするところも、何もかも、心を鷲掴んで仕方ないじゃないか。人間は死ぬ間際になると子孫を残そうとする野生の本能が活性化されるらしいが、そうか、もしかして俺は、いや、俺の秘めた本能とやらは、この狭い箱の中で起こり得るだろう万が一の事態をいち早く嗅ぎ取りでもしたのかもしれない。

「・・・あ、あれ?降谷さん?どうしたの?」

頼むから顔を窺うように覗き込まないでくれ。上目遣いで俺を見ないでくれ。化粧をしているとはいえ君のまつ毛が長かったなんてこと、普段の自分じゃ気付きもしなかったんだから。

「具合、悪くなった?ねえ、降谷さん?」

言葉を紡ぐ彼女の唇の動きがやけにスローモーションに見えて仕方がない。そう、本来なら彼女の唇の形を覚える予定もなかった。触れてみたいと思う予定もなかった。なかったのに。キスがしたい、あのうっすらと桜色に色づく彼女の柔らかそうな唇に、今すぐにでも噛みつきたい。せめてグロスかなにか塗りたくってくれていたなら、少しは気持ちがとどまったかもしれないのに、なんでそんな軽いテクスチャーのリップだけなんだ。

「君が、可愛く見える」
「・・・はあ?え?な、急になに、なに言ってるの」

皮膚をぶち破りそうなほどに心臓がうるさくて、今にも呼吸が乱れそうだ。獣だなんて言われても否定できないぐらいに目が座っているに違いない。だけどももうから視線をそらすことができなくて、釘付けにされたまま、気が付けば体が勝手にじわりと動いては、彼女との距離を詰めにかかっていた。

「すごく、キスしたい」
「いやいや、意味、が、って、ち、近い」

豹変した(自分で言うのも本当にアレなんだが)俺から逃げるようにが後ずさる。その構図はまさに蛇に睨まれた蛙だった。美味しい餌を追いかける俺はさながら肉食動物といったところで、それを思えば彼女の瞳が潤んでいるように見えるというものだ。けれどそんな彼女にとっては悲しきかな、ここは小さな箱の中。壁に背中が触れるや否やびくりと肩を震わせた。ハっと目を見開き素早く後ろを確認して、おそるおそる、再び無言でこちらを向く。

「て、徹夜続きで、こんなところに閉じ込められたから、だよね?」
「わからない、でもとにかく、急に君が可愛く見えて仕方ない」
「いや、あの、だって、そんな、私だよ、私」
「そうだな、君だな」
「いっいやいやいやいや、降、谷さん?」

首まで傾げられて、つのる劣情がを今にも爆発せんとしていた。前のめりになってそろりと手を伸ばす。その手と俺の顔とに彼女の視線が交互に揺れるのをしっかりと見つめながら、顔横の髪を掬って耳にかけてやった。柔らかくて、滑らかで、指通りが良い。指先が産毛をするりと抜けるこそばゆさからきゅっと瞼が閉じられる。露になった耳の輪郭をゆっくりとなぞると、たったの数秒で面白いぐらい赤く染まってくのが分かった。男も顔負けなほどにバリバリ働く彼女が、こんな反応をするなんて。背徳。魅惑。興奮。焦燥。そんな感情たちに、心が呑み込まれていく。

「なあ、
「・・・っ」

耳元で、ワントーン低い声で名を呼んだ。吐息の混じる声色に彼女の肩が跳ねる。鼻先をくすぐる石鹸の香り。そういえばシャワーを浴びたと言っていたっけ。男女共に支給品のシャンプーだろうになぜだか良い匂いがする。気取られぬように何度かすんすんと息を吸い、その香りを楽しんでからいざ困った顔を覗けば、彼女は顔を赤くして、必死に視線を合わせまいと目を泳がせてばかりだった。動揺している。瞬きがやけに多い。
彼女とはかれこれ長い付き合いだ。警察学校で出会い、同期入庁を経て、数々の仕事をこなして今日この日に至る。色んな顔を見てきた。満面の笑みも、怒り狂う顔も、苦しい顔も、悔しい顔も、泣き顔だって、美味しそうに食事を頬張る顔だって、何日も働き通しの死んだ魚のような顔だって。知らない顔なんてないと思っていたのに。
知らない。こんな彼女の顔を、俺は知らない。こんなにも美味しそうな、理性をぐちゃぐちゃに壊す顔を、彼女の歴代の男たちは見てきたというのか。

「・・・いやなら逃げろ」
「・・・に、逃げさせてくれないのは、降谷さん、でしょ」

それもそうだ、と彼女の体の横についた腕を上げて、逃げ道を作ってやる。選択肢は与えた。あとは彼女がどうするか、だ。キスするのか、しないのか。決めるのは他の誰でもない、彼女自身だ。嫌なら蹴るなりなんなり好きにすれば良い。そんな訳の分からぬ謎の強気が眼光を強め、目の前の彼女をこれでもかと射抜く。

「ほら、今なら逃げ放題だ」
「・・・っ」

は油の足りなそうな機械のようにぎこちなく横を向いて、逃げ道を一瞥した。それからまた同じ動きで俺を見る。かち合った瞳ははらはらと揺れていて、いかにも、私に決めさせるのかお前は、と言いたげだった。それなのに、どこか迷いを孕んだ熱が確かに浮かんでいる。なあ、実は少し、君にも期待があるんじゃないのか。

「逃げないのか?」
「だ、って」
「だって?」
「・・・あ、頭、おかしいのかも、だって、私も、降谷さんが、かっこ、よく、見える」

消え入りそうな声で言葉が紡がれるや否や、彼女が顔を俯ける。そこからは、もう頭なんか働きやしなかった。ほんとうか、君もとうとう気が狂ったのか、なんて思いながら彼女の顎をそっと救って、顔を上げさせた。

「あっ・・・」

わななく唇、震えるまつ毛、こちらを覗く不安げな双眸。それらすべてがちくちくと胸を刺激する。安心させる言葉なんて何一つ見つからずに、親指でそっと唇を一撫でした。瞬間、ぞくりと何かが背中を駆けあがる。指の厚い皮ですら柔らかいと感じるのだ、ここに口付けたら、一体どれほど気持ち良いのだろう。



返事はなかった。徐々に顔を近付けると、彼女が遠慮がちにそっと瞳を閉じる。完全に無防備な姿だ。薄く塗られたヌーディカラーのアイシャドウが瞼の上できらきらとしていて、太陽のないこの空間で、そのきらめきがやけに肌を明るく見せていた。互いの吐息が絡み合う距離で、ゆっくりと、彼女の唇に己のそれを重ね合わせる。互いの熱のわななきが一瞬にして融け合うような皮膚の触れ合いに、体までもが溶けていきそうだった。

「ん・・・」

軽く触れるだけに留めるはずだったのに、から漏れた、鼻にかかる上擦った声が艶めかしくてアドレナリンが過剰に分泌されていく。彼女の後頭部に手を差し込んでさらにぐっと距離を詰め、離しかけた唇を再び押し付ける。下唇も上唇も甘く食んで、隙間から舌をねろりと忍ばせた。びくりと竦む肩もお構いなしに舌先で彼女の熱い赤をつつけば、胸元をぎゅっと掴む小さな手がいじらしい。ワイシャツと違ってどうせセーターだ、いくら掴まれても大した皴にはならないし、なによりそうしなければならないほどに彼女の呼吸を乱しているのが自分だというその意識が、信じられないほどの興奮を呼んだ。
遠慮がちだった舌が徐々に大胆になっていけば、唾液のぶつかる水音が次から次へと耳に響いては性感を刺激する。何度も何度も角度を変えて互いの熱を貪り合い、求肥みたいな感触だとかいう馬鹿げたことも何も考える余裕がなくなって、すっかり真っ白になった脳内が、なにかいけないものにも似た快感の信号を全身に送り出していた。

「っは、ぁ・・・ッ」

淫らな音を立てる一方で、開いてる手が無意識のうちに彼女の足に伸びていた。指の一本一本で踝を撫で去って、くすぐるようにほんの指先でふくらはぎの曲線をなぞり上げ、性的な意図でもって手全体で太ももを這い回る。

(あー、まずい、止まらない・・・)

条件反射でひくつく布越しの肌をまさぐり、悶える様を楽しんでいると、突如もぞりと動いた彼女の手につねられてしまう。これ以上はダメだと言いたげに、彼女の手のひらが今度は床を大きく押すものだから、立ち上がろうとした手を引いて逃がさんとばかりについぞ壁に縫い付けてしまった。体のバランスが変わって、余韻もなにもなく唇が離れていく。

「はあ、は・・・」
「・・・っは、」

互いに肩で呼吸して、言葉もなく顔を見つめ合う。うっすらと涙の浮かぶ瞳が上目遣いでこちらに向けられているのがなんともたまらない。

「・・・
「・・・っ」

してしまった。キスを。合わせてしまった。唇を。心地良くて、最高に気持ちが良くて、もう一回したいとすぐに邪な気持ちが喉をこみ上げた瞬間、先に口を開いたのはの方だった。

「・・・ほん、とは、誰よりも先陣切って飛び出してくの、すこし心配」

彼女の空いている側の手が徐に俺の口に伸びてきたかと思ったら、切なげな双眸とは裏腹に、付いてしまったのだろう薄い口紅を力強くぐいと拭われる。男のものとはちがう、すらりとした指先は、唇の熱さと違って冷たかった。

「いま、なんて・・・」
「・・・もー言わない」

それから彼女はふいとそっぽを向いてしまった。恥ずかし気に降ろされた視線は床のどこかに向けられている。浮き上がる首筋に艶めかしさを感じながら、何も返事をすることができずに彼女の方に顔を向けたまま、あることを思った。自分のことを、いつもどこかで多少なりとも心配してくれていたのだろうか、と。いつもあんなに口を開けば棘ばかりで、仕事の出来を争ってばかりのこの関係に、そんな、淡雪みたいな気持ちを隠していたのかもしれない、だなんて。

「なあ」
「なに?そろそろ手、放してほしい」
「宇宙飛行士が宇宙のあの何もない空間で一番欲しいものは、方角らしい」

手が疲れたからと言うのを無視して出た言葉を前に、彼女の眉間に皴が寄る。あまりにも脈絡がなさすぎだろうと言っているかのようだ。

「・・・頭大丈夫?」

まあ話は最後まで聞いてくれよなんて気の利いたセリフの一つも言えずに、首を傾げた彼女に向かって言葉を続けた。

「方角が分かるってことは、帰るところが分かるってことなんだ」
「・・・うん?」

たとえば、外にいる時、庁舎の中では気付けなかったことに気が付くことがある。空を思わせる満開のブルースターの青や、雨の日のコンクリートから沸き立つ土と風の入り混じる匂い。朝の清々しい空気の美味しさや、陽が落ちる前のあの切なさや侘しさが顔を出す夕暮れ時。春に粉雪のようにかろやかに舞う桜の花びらの綺麗な桃色に、枯れ木の賑わう冬前を精一杯彩る紅葉した葉の見事な色彩。それら色々なことを、より近くで知り、変化の一つ一つを肌で感じ取ることの美しさを、文字通りなんの含みもなく、ただ美しいのだと感じることができるのは、自分がどこに帰るべきかを知っているからだ。信じて部下を待つ恐怖と不安が彼女に最善の選択をもたらすのならば、俺はここに帰ってくるために前線で最善の選択をする。だからいつでも一番前を走らねばならないのだ。

「俺はもうその方角を知ってる。だから心配するな。ちゃんとここに帰ってくる」

自分でも、つい真剣な顔をしてしまったと思う。眼前の彼女は軽く息を吐いて言った。そういうところが、ちょっとむかつく、と。

「頭も良くて、運動もできて、仕事もできて、視野も広くて、何でも気付いて、おまけに顔も良くて、今みたいなことさらっと言っちゃってさ、そんなの、そんなのちょっとずるいよ」
「・・・褒めているんだよな、それ」
「ぜんぜん、褒めてない」
「・・・耳、赤くなってる」

その瞬間、ぶわっと彼女の顔が赤くなった。なんだこいつ、もしかして、耳が赤いっていう自覚症状がなかったのか。嘘だろ、だって自分の体だろ、意味が分からない、ますます可愛く見えてきたじゃないか。

「なあ」
「なに」

いまだ縫い付けたままの手に力を込める。彼女の指先がぴくりと反応して、手首の筋が動いたのが手のひらに伝わった。

「もう一回、キスしても?」
「・・・二回目は確信犯なんじゃないの?」
「さっきのが事故だったとでも?」
「事故、でしょ。ちがうの?」
「フ・・・そうだな、事故、だな」

けれども顔は近付いていく。彼女だってそう言いながら逃げる素振りを見せたりはしない。なんだかんだいってその気があるんじゃないか、なんて期待とともに近付けば、俺の目を見ていた彼女の瞳が、次第に鼻筋を通り伏し目がちに唇へと落ちていった。ほら、やっぱり。
どちらからともなく縮まる距離。そうして、うっすらと開いたそこに触れるか触れないかのまさにその時だった。がくりと体が落ちる感覚に襲われたのは。

「うわっ」
「きゃっ」

慌てての腰を抱いて、壁に手をつく。うねるような低い機械音と共にエレベーターが作動し始めたのだと気い付いた頃には、文字盤の光が当初とは反対の、階下に向かってぐんぐん進みだしていた。

「う、動いた・・・!」
「ああ、やっと動いたな・・・!」

長時間だったかと聞かれれば確かに長時間ではあったけれど、早く過ぎてしまったかと聞かれれば早く過ぎ去ってしまった気もする。だが動いたことへの喜びは大きく、その感動からぎゅっと互いに抱き着いた。すっぽりと抱え込んだ彼女の体は自分のものと違って綺麗な曲線を描いている。背中に回された腕の細さにまたも性差を感じ、自分も彼女も照れくさそうに引きつった笑いを零して、ハっと我に返ったように腕を離す。ごめん、と言えば、同じように彼女も、ごめん、と言った。

「・・・私たち、同僚だよね」
「・・・同僚だな」

もう間もなく一階だ。衣服の乱れを整えて、何事もなかったかのように背中を壁にもたせ掛けて立ち、その時を待つ。
こんな確認が、一体何になるというのだろう。行けたら行く、は行かないだし、開けちゃだめだよ、は我慢できずに結局開けてしまう。怒らないから言ってごらん、は絶対に怒られるし、お年玉はママが預かっておくからね、で律儀に貯金されていた家庭がどこにある?ならば、それならば、同僚だよね、は同僚じゃないのでは?少なくとも、今日ここに閉じ込められる前の関係のままではいられない、気はするのだ。
寝不足で気の迷いだった。たったそれだけのことだなんて、お互い簡単に流せはするのだろうけども。でも、キスをしてしまった。あの感触を知ってしまった。きっとなかったことにできはしない。だってエレベーターが復旧していなければ、二回目をしていたのだから。変な話だ、あれほどこの箱が動くことを願っていたのに、それを惜しいとすら思ってしまうなんて。そうだな。二回目、二回目か。たしかに惜しいことをした。

「・・・俺たち、同僚だよな」
「・・・同僚だね」
「そうだよな、同僚だよな」
「そうだね、同僚だね」

鈍い衝撃が足の裏からズンと響いて、ゆっくりとドアが開かれた。その光景はさながらモーゼが海を割った時の映像そのものだ。もちろん現れたのは、そんな神々しい光景ではなく、眼鏡の奥に焦りの色を浮かべた部下と、どこか気まずそうな守衛室だか管理室だかの人間と、工具を抱えたつなぎ姿の数名の作業員たちだった。




















「それじゃあ私は判を貰いに行きますので降谷さん、風見さん、お先に失礼します」
「あ、こら待て、降谷さんと状況説明をしてから・・・って、ああ・・・」
「逃げたなあいつ」
「まったく・・・。降谷さん、大変申し上げにくいのですが、原因調査の一環で監視カメラの映像を提出しなくてはならなくて・・・」
「ああ、構わんぞ」
「・・・不躾ながら、その、とはそういう仲ですか」
「いや?ただの同僚だが」
「そうですか、そうですよねもちろんただの同りょ・・・え?同僚?」
「なあ風見、俺とは同僚だよな」
「・・・同僚、かと。すみません、いまいち状況が」
「・・・謝るな。君は間違っていない」
「え?あ、はい、そうですね、すみません」











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