※同期ヒロイン。降谷さんはn徹目です。なんでも許せる人向け。










ぶるりと寒さが駆けあがる。衣服の隙間という隙間から容赦なく忍び込んでくる冷たさだ。ここぞとばかりに廊下の暖房は消え去っていた。経費削減できるところは徹底的にと経理が口をすっぱくしている甲斐があるというものじゃないだろうか。全館一貫型の空調設備が整うだなんてのは、きっとこの日本から犯罪が消えた時だろうと皮肉の一つすら零したくなるほどに、この時期の庁舎は室内との気温差が激しい。
とはいえ今は五時だ。早朝だ。おまけに日曜日だ。そんな日のこんな時間に庁舎にどれだけ人が残っているかを考えればたかが廊下の暖房を切るなんてこと、特段情け容赦ないどころか当たり前の話なのだが、それでも働いている人間がいるのだから最低限の配慮ぐらいあってもうんたらかんたらとさして重要でもない事柄に対して苛立ちを覚えてしまうのは、睡眠が足りないからだとよく分かっている。どうでもいいことを気にし始めるのは大抵徹夜が三日目に突入した辺りからで、そこから先はもう記憶そのものが危うい。
次は一体いつ家に帰って寝間着で眠れるのやらと上着を取りに企画課に戻れば、まさにオアシスと言っても過言ではない温かさが体を包み込んだ。もう誰が外になんか出てやるかとも思うが、この計画書(確定版)は明日の朝一の実働部隊に渡すもので、このあと登庁する局長から判を貰わねばならない。
自転車操業にもほどがあると人知れず(知ってくれる人間も今はこの部屋にないが)ため息を零してまた極寒の地へと踏み出せば、上着も羽織らずシャツ姿の同期が自分の少し前を歩いているではないか。ヒールの音が、静かな館内に等間隔に響いている。



足を止めた彼女が振り返る。揺れる髪の毛に、露になる顔色に。丸の内を歩いていそうなOLとはお世辞にも形容できない疲れ切った表情に、ふと頬が緩む。かの有名なカエサルが議場で言ったあのセリフが脳裏を過ぎりかけたが、意味は全然違う。裏切りじゃなく共感だ。だめだ。頭が死んでいる。今すぐにでも仮眠室に飛び込みたい。

「降谷さん」
「顔が死んでる」
「資料作ってたので」

てっきり仮眠でも取っていたのかと思ったが(なにせ深夜二時頃に姿を消して以来企画課に帰ってはこなかったのだから)、ラップトップとともにずっと資料室に籠っていたらしい。いちいち資料やら何やらを企画課に持ち運ぶ手間を考えれば資料室にとどまる方が合理的と言うものだが、あそこは埃っぽく電気だってそんなに明るくはないだろうに。おかげでシャワーが最高でしたと半目で笑う彼女の顔はやはり死んでいた。

「エレベーターは?」
「ああはい、乗ります。局長に一番で判をもらいたいので。ドアの隙間からこれをねじ込んでやろうと」

これ、と言いながら彼女は手にしていた薄っぺらいクリアファイルをひらひらさせてみせる。できたてほやほやのそれにはぎっしりと文字が敷き詰められていて、図面の乗ったいくつかの紙もまた挟み込まれていた。
降谷さんも判子ですかと聞かれたので、ああ、と答えれば、私の方が前を歩いてたんだから私が先ですからねと言われてしまった。それを言うなら上着を取りに戻ろうとした時に君はいなかったんだから俺の方が先だろうと思ったが、なんだか子供じみているような気がして何も言わなかった。そういうところは意外と冷静なのも徹夜続きならではだ。

「泥参会の幹部、とうとう顔を出したらしいじゃないか。これからどんなアプローチを?」
「言いませんよ。手柄横取りされたらたまったもんじゃないので」

エレベーターのボタンを押す。アクリルでできた小さなそれは普段よりも冷たい気がした。すぐさまフロアランプが光るのは人のいない時間帯のメリットの一つかもしれない。ドアが開き切る前にするりと体を滑り込ませた彼女の仕草からは、一番は譲らないと言われているような気がした。そんな小さな背中に続いて箱に入りながら言う。アドバイスできることがあるかもしれないと思っただけだ、と。中央に向かって重たげにドアがスライドする。完全に閉まりきったのを確認した彼女から、ふう、と小さく息が吐かれた。

「・・・降谷さん信用ならないからなあ、使えるものは使っちゃうんだもの」

ふふ、とは肩を竦めて笑ってみせる。それまで張り詰めていた声の空気が一気に和らいでいくようだった。言葉遣いの変化は単に警察学校時代の名残というだけのことだが、二人の時にのみフランクになるこの感じ、実は嫌いじゃない。もちろん、秘密の社内恋愛だなんて甘酸っぱいものでは決してなくて、ただ純粋に、背中を預けられる数少ない相手が近くにいるというのが心地良いだけなのだ。

「心外だ」
「何階だっけ」
「十二階だ。忘れるな」
「何徹目?」
「忘れた。そっちは・・・そうだな、まあ普通に徹夜明けってところか」
「そう見える?化粧の腕が上がったのかしら」

ボタン操作のために彼女の顔は窺えなかったが、きっとさっきのように半目で自嘲気味に笑っているに違いない。振り向いた顔にはそうじゃないかと思わせるかのような、頬の筋肉が動いた形跡があった。そうして自分と同じように背を持たせかけて、エレベーター特有の浮遊感の中、お互いどこでもない宙にぼんやりとした視線を投げかけたのだった。

「女子にも容赦ないなこの職場は。今度コンシーラーでも買ってやろう」
「性別関係なくここに一歩でも踏み入れた時点で犬よ犬」
「その意見には同意するしかないな」
「ま、コンシーラーはもらうけど」
「もらうのか」
「くれるって言ったじゃない」
「ブランド物より機能性重視な」
「それなら三本買ってね」

それって結局ブランド物とどっこいどっこいじゃないか、と言えばファンデーションも付けてくれて良いのよ、と返ってきたので、なら制汗剤の一つぐらいプレゼントしてくれと言うと、彼女はいたずらっ子のような笑みで、女の子からモッテモテのCMでやってるやつ買ってあげる、と言った。そんな香りのするものを纏ったところで、一体この庁舎のどこに男の尻をきゃっきゃと追いかけてくれる可愛い女がいるというのだろう。そういう女の大概は警視庁にしかいないと昔から決まっている。反対に、交通課のあの子がどうだの生活安全課のこの子がどうだのと女の尻を追いかける話は、どちらの建物だろうと変わりはないのが現実だ。
尻。尻か。そういえば。尻と言えば今日こいつはパンツスーツだった、なんてだからどうしたということを思い出して、何の気なしに視線を落としかけたところで彼女が口を開いた。慌てて視線を泳がせる。やましいことをしようとしていたわけではないが、かといって健全な目の動きだったわけでもない。行き先を失った視線をそのまま階数板へと持っていってふと覚えたのは、小さな違和感だった。

「・・・着くの遅くない?」
「奇遇だな、全く同じことを思っていた」
「ねえ、動いてる?エレベーター」
「・・・動いてないな」

そうなのだ。確かに浮遊感はあった筈なのに、目的の階に着く気配が全くない。故障?と隣から怪訝な声が上がる。

「ちょっとボタン全部押してみろ」

こくりと彼女は頷いて急いで手を伸ばす。ボタンのランプは正常に作動していて押せば薄い橙色に光ったが、肝心の本体がうんともすんとも言わない。

「普通止まるにしてももっと大きな音するだろ、がこーんとか、ドンっとか」
「音もなくスっと止まるなんてこのエレベーターやる気あるの?」
「やる気?言ってる意味がわからんぞ、おい、非常用ボタン押せ」

命令ばかりするなと言いたげな目で睨みつけられたが、緊急事態は緊急事態。言われるがままに彼女の人差し指が電話マークのボタンへと力強く動く。

「・・・」
「・・・」

数秒待っても、数十秒待っても返事はない。再度長めにボタンを押すが、結果は同じだった。

「どういうこと?二十四時間対応してるんじゃないの?私たちなんか二十四時間以上稼働してるのに」
「管理会社と契約してないんだろ。国家機関だしな。管理室か守衛室とは繋がっているんだろうが・・・まだ朝の五時だ」

正確には五時十七分だったがそんなのどうだっていい。何時にしろ守衛室は年中無休で動いているのだ。誰かしら人はいる。けれども出ないということはもしかしたら舎内パトロールに出ているのかもしれない。守衛室に人も残せない人員配置だなんて一体何を考えているんだろう。これも経費削減の成果なのだろうか。いやそんなことだってどうでもいい。ボタンはまたあとで押すとして、携帯から誰か呼び出せばなんとかなるだろう、と思ったのだが。

「なんで圏外、、君のは?」
「充電死んでるの。ごめんね」
「・・・まあ何とかならなかったら風見辺りが気付いてくれるか」
「彼顎で使われまくってて本当にかわいそう」
「信頼と言ってくれ。それに顎じゃなくてちゃんと口を使ってる」
「・・・三徹超えたら家から出ちゃいけない法が制定されれば良いのに」
「言っておくが君もだいぶ頭やられてるからな。ほらもう一回非常ボタン」
「自分で押せばーか」




*




「天井から脱出する?」
「あそこから脱出してなんとかなるのはアクション映画の中だけだ。諦めろ」
「五時間かあ、トイレもシャワーも行っておいて正解だった」

はあ、と彼女からため息が上がった代わりにどさりと落ちたのは腰だった。半ば諦めに近い声で、降谷さんも座れば?と見上げられ、無言で自分も胡坐をかく。
五時間。それが俺たちが解放されるまでのおおよその時間だった。それもこれも非常用ボタンから守衛室に連絡が繋がったのは三回ほど試したあとのことで、案の定パトロールに出ていた守衛が色々手配をしてはくれたが、現在専門の業者が警視庁側のメンテナンスに赴いているらしく、こちらに来れるのはおそらく五時間後ぐらいだと言う。人命よりメンテナンスが大事だなんて一体どういうことだと文句(実際はもっと口が荒かったが)を飛ばしたが、警視庁での作業が大規模であるために、途中で中止したらば困る人間が大量に出てしまうと訳の分からない言い訳をされてしまった。
要はたった二人が困るより大勢が困る方が困るといった具合で、いたいけな国家の犬二匹は見事に切り捨てられてしまったわけだ。働き通しで腹を空かしてくうんと鳴いているのに酷いことをするじゃないかと噛みつけば、管理室の人間とどうにかならないか試してもみるからとにかく落ち着いて待っていてくれ、とそのあとは無機質な機械音がスピーカーから届くのみで、俺たち二人が解せぬという顔をしたのは言うまでもない。

「ん〜なんとかドア開かないもんかな」

開いたところでどこかの階と階の間だったらどうする、と言いかけたその時。よもや目を疑う光景が広がるだなんて一体誰が予想できただろう。

「・・・!?」

おいおい、なにしてる。結婚前の女だろ。そんな女が結婚前の男の目の前で四つん這いになってドアに近付いていくんじゃない。

「お、おい!」

尻。尻だ。とにかく尻がある。グラビアアイドルも顔負けに突き出された尻だ。こんな尻を前に動揺しない男がこの世の中のどこにいるだろうか。いくらこの職場の比率が九対一で圧倒的に女が少なく、その上誰もが男受けなど全く気にせずバリバリ働くキャリアウーマンだったとしても、だ。むしろこの比率故に職務中にこんな体勢に対する免疫などまるでない。いや何を言っている、比率なんて関係なしに根本的にこの体勢と遭遇すること自体がおかしいだろうに。何の撮影現場だここは。
そもそものやつときたら、動きやすいからと普段からタイト目のスーツを着用しているのがここにきて完全に仇となっている。手が伸ばされ、前方へとシャツが引っ張られて浮かび上がるのは背中から腰にかけてのラインで、そこから下はまさにピチピチと言うに値する、外側に衣服の皴が伸ばされた張りのある臀部が綺麗な曲線を描いている。彼女をそういう風に意識したことはまだ一度としてない、と思うのだが、いや、正直これは誰だって釘付けになるというものだ。

「んぐぐぐ、いや〜開かないか」
「・・・」
「ぐーっ」

こらこら、なにしてる。腰をくねらすんじゃない。絶景と言えば絶景だけれど、暴力と言えば暴力だ。視線を逸らしたいのに逸らせない。こんな緊急事態にも関わらず、ごくりと息を呑んで下着のラインをチェックしてしまうあたり男という性を疎ましく思う。きっとTバックに違いない。こんな男だらけの職場でTバック?そんな下着を履くとは一体何を考えているんだ。いやそれは間違いなくこっちだ。自分は一体何を考えているんだ。しかしだな、考えてもみろ。だってあの布の下にはほとんど下着に覆われていない彼女の生尻があるだなんて、そんなこと、そんな、こと。

「だめか。やっぱ無駄な抵抗ね」

力の入れ方が足りなかったのかとしまいに彼女は立ち上がって、ドアとドアの僅かな隙間に手をかけたが、希望などあるはずがなかった。だが俺の目の前に広がる景色には夢しかなかった。なにしろあの体勢から立ち上がったことで、臀部から太ももの付け根に皴が寄っているのだから。そうそう、パンツスーツの良いところは尻から脚にかけてキュッとしてるところなんだよなあ(スカートタイプの、スリットから覗く脚も最高だけど)とか、彼女の場合フィールドワークも多いからか尻全体がちゃんと筋肉で支えられてぷりっとしているのも良い、と腕を組んで真剣に思い至ったところで、一通り悪あがきが済んで満足した彼女が、やれやれ、と再び隣に腰を下したのだった。

「五時間ねえ、そんなにも長い時間ここにいたら息苦しくて死んじゃいそう」
「換気ファン用の吹き出し口があるだろ、窒息はしない」

さも何も見てはいなかったと言いたげな口ぶりで言葉が紡げたものだと自分でもよく思う。

「違う。降谷さんといることが、に決まってるでしょ」
「結構な言い方だな。一昨日そっちが情報を上手く拾えたのは誰のおかげだと思ってる」
「なにそれ、恩でも着せようっていうの?潜り込みやすいようにお膳立てしてあげたのは私の班よ。降谷さんに花を持たせてあげたの。指揮官自ら現場に通いまくって大した成果もなくお疲れのようだから」
「ほう、そのお膳立ての裏にあるのが俺たちの地道な情報収集だって忘れてないか?大体な、的確な判断を下すために現場を見ることは重要なんだ。情報は常に最新のものを手にしないと意味がない」

現場百回という言葉はこの世界ではある種格言のように崇めたてられているが、必ずしもそれが正しいとは思ってはない。むしろ一昔前の精神論にも近く、捜査に対して何の根拠もなくただほっつきまわるのは全く持ってナンセンスではあるが、そのぐらい現場を捜査し細かな点を見落とすなという含意そのものにはそれなりに共感している。
それこそ事件は会議室で起こっているのではないというあの映画の名言は的を射ているというもので、指揮する側だからといって狭苦しいコンクリートの中で待ってなどいられないのだ。自分の目で確かめたことこそ有益であり、逐一変化する状況をありのまま感じられるのはやはり己の体だけなのだから。

「ここでどっしり構えてる方が性に合うから良いの」
「現場で予想外のことが起きたらどうする。急な判断を仰いでいる時間が勿体ない」
「事前にチェックはしてるし、考えつく限りで何十通りも作戦パターンだって考えてるわ。部下たちとも密に連絡は取りあってる。もしそれでも対応できないことが起きたら判断は作業班に任せる。現場に精通してるのは彼らの方だから。ただ責任は全部私が持つ。それだけよ」
「そんなやり方」
「通用しないって?現に成果は上げてるし、始末書だってまだ一回も書いてない。でしょ?」
「俺が言いたいのは現場に出る方が合理的且つ臨機応変に動けるってことだ」
「いざとなった時の責任は取るって言ってるの。口出ししないで」
「このわからずや」
「頭カチカチ野郎」
「万年仕事女」
「色黒童顔」

気付いた時にはもう空気がどんと重たくなっていて、何か会話する雰囲気ではなくなっていた。狭い箱の中、三十路を控えた男女が二人、子供みたいな言い合いのあとに風船が萎んだように口を噤んで、俺は無機質な宙を見上げ、彼女は視線を落として指先を弄んでいる。
それぞれのチームにそれぞれの色があるのは良いことだ。だけれども、彼女の方針を全て肯定することはできなかった。責任は取る、だなんてそもそも自己犠牲が前提とも取れるやり方、部下の不安が増すだけじゃないか。おまけに万が一の事態に自分たちが下した判断で上司の首が飛ぶなんて以ての外だ。
もっとも、そういうタイプの人間はチームを組む時点で人選から外されているのだから、これ以上何かを言ったところで意味はないし、それになにより知っていた。作戦実行日には現場には赴かない彼女だが、それまでの下調べにはおそらくこの課の中の誰よりも外を歩き回っているということを。
ヒールの減りの早さ、デスクの上の絆創膏のストック、ボックス買いされたコールドスプレーと使い捨てカイロ。どっしり構えている方が性に合うと言いながら、綿密に計画を練る姿を、きっと、自分は誰よりも知っている。
男女平等なんてここではまだまだ未来の話で、自分が部下を携えるのと、彼女が部下を携えるのとでは意味が違ってくることを一番に自覚しているのは彼女だ。男社会の不条理さの中に飛び込んで、内側から喰らいついてやろうとしている姿を見ては、時々配属先がここでなければもっと心穏やかに仕事ができただろうにと思うが、この彼女の根性を放っておくのもそれはそれで勿体ない、なんて思うくらいには自分だけじゃなく課の人間も彼女の部下たちも、その力を認めている。

「・・・信じて待つって、苦しいの。怖いの。怪我でもしたら、ううん、それだけで済まなかったらどうしようって」

長い長い沈黙を破ったのは、彼女の方だった。ひとり言のように呟かれたそれが、狭い箱の壁にぶつかるのがよく分かる。

―ただ怖いの。指示される側から、する側になるのが。

ふとフラッシュバックしたその言葉は、もう何年も前のものだった。あまりにも衝撃的だったのをよく覚えている。後にも先にも、いや、先のことなんかは露ぞ知らぬというやつだが、少なくとも聞いたことがなかったのだ、彼女が弱音を吐きだすのを。警察学校時代、あの冷徹鬼ロボットと言われた教官の男女合同演習ですら彼女は泣きごとなんて言わなかった。疲れた、だの、死ぬ、だのそんな冗談交じりの言葉は数あれど、窓の奥の陽の傾きをじっと見据えながら、ぽつりと、そう、苦しみにも、つらさにも似た底知れぬ不安が渦巻いたあの時に零れ落ちたような言葉を、その後彼女が言ったことは、一度として、なかったのに。

「でも、その怖さが私に最善の選択をさせるの。だから私はここで待つのよ」
「・・・まあ、事前に何度も何度も現場に足を運んじゃ念入りにチェックしてるんだ、責めはしないさ」
「な、なんで」
「靴底」
「・・・そういうところまで見てるとか変態すぎて引く」

彼女のパンプスに視線を落とす。冷たげな言葉とは裏腹に、彼女は三角座りで抱えた膝を隠すようにさらにその身に寄せて、恥ずかし気に目を伏せてしまった。もじもじと、居心地が悪そうに唇を噛み締めて。けれども髪の毛の間から覗く耳はほんのりと染まっている。
その瞬間、妙な違和感が胸を襲った。なにかがぷつりと切れるかのような、蝋燭に火が点くかのような、はたまた一瞬呼吸を奪われたかのような。この瞬間を上手く言い表すことのできる言葉は見つからないが、とにかくなにか、ズレが生じるみたいな、そういう、なんとも変な一瞬が心臓を突き抜けていった。

寝不足が、とうとう変な作用でもって体に襲い掛かるようになってしまったのだと、信じて疑いもせず、俺は内心自分の年齢を呪ったのだった。








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