「おや?一体こんなところで何をしてるんです?ずぶ濡れじゃないですか」
「傘忘れちゃったから、雨宿り」
「雨宿りというのは屋根のあるところでするものですよ」
「公園のどこに屋根があるって言うのよ」
「またそんな可愛くない物言いをして」

杯戸町第三公園、太い幹を生やす立派な八重桜の下。彼女はそこにいた。
冬の冷たい空気と、春の暖かい空気がぶつかる夜。菜種梅雨、とでも言えば聞こえは良いが、なんてことはない、ただの春の長雨だ。
そんな今年の春は、去年よりも一週間ほど桜の開花が早いらしい。満開とばかりに薄紅色の花びらたちが彼女の頭を守っているというわけだが、傘のようにはいかないもので彼女はすっかり濡れてしまっている。どのぐらいの時間ここにいたのだろう。濡れ具合からして少なくとも一時間はいたに違いない。立ちっぱなしでいるぐらいならタクシーなり拾って帰れば良いものを、と思いかけてふと気付く。すべては腕を組んだままの彼女の衣服に散らばった、錆びた赤色が物語っていたということに。

「なるほど、それじゃあタクシーも拾えないわけだ」
「ふふ、この木の下に埋まってるかもよ」
「それは怖いですねえ。まあ、飛沫具合からして車中ってところですかね。しかもその付き方、拳銃を撃ったのはあなたじゃなさそうだ」
「バーボンは何でも見抜いちゃうからなあ」
「誉め言葉とでも受け取っておきましょうかね」

一体どうやって帰る算段だったのかと問えば彼女は答えた。バーボンが来てくれる気がしたの、と。また飄々とした顔でそんな嘘を吐いて、と思ったが、彼女はそれ以上任務のことは答えなかった。

「ほら、入って」

傘を翳して隣に立つ。すると、いいのに、と返ってきた。自分が来る気がどうのと言いながら、優しさを見せたらすぐこれだ。

「・・・」
「・・・」

木の下では傘の布地に当たる雨粒は減り、雨音は少しだけ耳に籠るように響いていた。彼女がこの代り映えのない景色の中、長い間何を考えながら過ごしていたのかは全く見当が付かない。

「ねえバーボン」
「はい」
「晴れてたらきっと、桜の絨毯だったのかな」

雨風にさらされて、力のままに振り落とされてしまった花びらたち。折角一年養分を蓄えその身を開かせたというのに。こんな天気ではせいぜいあと二、三日で見るも絶えない姿になってしまうに違いない。雪のように舞う桜吹雪はあんなにも儚くて美しいのに、土の溶け出した水たまりに浮かぶ桜は、どうしてお世辞にも綺麗とは言えないのだろう。

「芽吹く時も、花が咲く時も、散る時も、人は桜に関心を持ちますよね。でも、こうして地面に落ちると、ましてや雨なんか降ってしまうと誰も見向きもしないんだ」
「どうしたの、お酒でも飲んできたの?」
「だから歩いて帰って来たんですよ」
「情報収集?」
「さあ?が待ってそうな気がして長酒したのかもしれません」
「はいはい」

呆れたように笑う彼女に傘を手渡し、濡れた服の上から上着をそっとかけてやる。やはり彼女はずっとここにいたのだ。布越しの肩はかなり冷たくなっていた。
上着が濡れちゃう、と脱ごうとした腕を制し、そのまま肩を抱いて雨の中へと一歩踏み出せば、とまどいながら彼女も歩みを進め出す。もちろん、傘を掬い取るのも忘れずに。どこに行くの、と言うから、どこに行きたいですか、と問えばそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう、しばし彼女は口を噤んで考え込んでいた。

「・・・コンビニ」
「コンビニ?」
「傘。でも私はお店に入れないからバーボン買ってきてよ。お財布はこれ使って」
「いいですよ傘ぐらい。でもこんな雨だからもう売切れてるかもしれませんよ」
「その時はあなたと相合傘で帰るわ、不本意だけど」
「相合傘、ねえ」
「・・・相合傘は、それ以外の言葉を知らないっていうか、だって二人で一つの傘って、」
「そういうことにしておきましょうか。そうだ、どうせセーフハウスかホテルでしょう、コンビニなんか寄らずにこのまま送っていきますよ、相合傘で。それにその方が早そうだ」
「その・・・、や、やっぱりお菓子も欲しいからコンビニ!」
「はいはい、お菓子は明日一人で買いに行ってください」

一歩一歩、進むごとに小さく水が跳ねる。濡れて汚れてしまった残念な桜の絨毯を歩きながらジタバタとうるさい彼女を宥めると、疲れているのか存外すぐに癇癪は治まってしまった。
おとなしく横を歩く彼女の歩幅は狭く、合わせるように速度を落とす。自分よりも低い背で、小さい体で、小さい足で。傍から見たらきっと傘を忘れた彼女を迎えに来た彼氏の図そのものなのに、おかしいかな彼女は先ほど誰かの命が尽きる瞬間を見ていたのだ。
あまりにも日常から逸れている。けれどもいつのまにか慣れてしまった。人間の感覚は皮肉にも、柔軟にできている。

「ねえバーボン」
「はい」
「さっきの話だけど、誰も見向きもしてないなんてことないと思うわ」
「ああ、桜の話ですか」
「だってバーボンは見てたじゃない。綺麗な面しか見ない人よりずっと強くて繊細だわ」
「そうですか」
「そんなあなたを私は見ちゃったけどね」
「ふふ、そうですか」





















(2018.4.3)   CLOSE