店内に乾いた鐘の音が響き渡る。「いらっしゃいませ」、の一言が安室の中で条件反射となってから早いもので一ヶ月が経とうとしていた。空気を揺らす小気味良い奏を耳に、彼は洗いあがったばかりの食器を戸棚にしまってから午後一番の客に顔を向けた、のだが。

「・・・これは珍しい、じゃないですか」

と呼ばれた薄手の黒いコートに身を包んだ女は、風に攫われて乱れてしまった髪を手櫛で整えながら安室に微笑みかけた。鼻先がいささか赤みを帯びている。それだけ外は冷えているのだろう。扉からするりと抜けてくる風も、心なしか朝より勢いを増しているようだ。木枯らしとまではいかずとも、夏も終わって間もないこの頃の、まだ寒さに慣れぬ肌をじわりと秋冷えが襲う。
そろそろ冬の新作を考えるのも良いかもしれない、などと考えていたこともすっかり忘れてしまった安室は、邪気なく笑う彼女を前にごくりと息を飲んだ。こんなところまで組織の人間が一体何をしに来たのだろう、と。

「今日はまたなんの御用で?」
「バーボンに会いたくて来ちゃった」

ふふ、との肩が僅かに竦む。 それは緊張を一気にほぐすような、そんな拍子抜けの笑みだった。

「ほう。いつになくいじらしいことを言いますね」
「なんちゃって。ベルモットに頼まれたから仕方なくよ、仕方なく」
「そんなことだろうと思いましたよ」
「あとちゃんと仕事してるか見てきてって」
「仕事・・・って、ポアロのですか?」
「さあ?私には何のことだか」

彼らの会話に被さるように、バックヤードと思しき奥の部屋から、「安室さーん、休憩行ってきますね」と梓がひょこりと顔を出す。客がいるとは思っていなかったのだろう、の姿を目に止めると、彼女は慌てた素振りで会釈をした。
そんな恥ずかしそうにはにかむ彼女に、可愛らしい店員だ、とも会釈を一つ。それから彼女は、ダークブラウンの調度品で設えられた室内のいたるところにじっくりと視線を配らせた。素朴ながらもシックで落ち着きのある佇まいにあるのは、談話の弾みそうな広々としたテーブル席と、コーヒーを淹れているところを申し分なく眺めることができるカウンター席、そして座り心地の良さそうな少し大きめの椅子。壁に掛けられたメニュー表には喫茶店らしいメニューが並んでいて、ハムサンドイッチの文字の横には「オススメ」と赤字のシールが貼られている。くるりと向きを変えれば、窓から優しく降り注ぐ太陽の柔らかな光が、すぐ側にあるテーブルの表面をワントーン明るくしていた。

「ここがあなたの城なのね」
「誰もいませんし、カウンターはいかがですか?」

こくり、とが首を縦に振る。彼女は中央の席を選び出すと、コートのボタンに手をかけた。カウンターの中から安室がその姿を横目で盗み見る。エプロンの紐をぎゅっと結び直しながら。
袖から腕が引き抜かれていく。肩の関節が服越しに動くのがよく見えた。組織の人間は好んで黒を着る、だなんて一体誰が言い出したのだろう。確かにアウターは黒が多いかもしれない。けれど任務時以外は割と自由気ままなものだ。

「秋らしい色ですね」
「昨日おろしたの」
「マリーゴールド、とってもお似合いですよ」
「口が上手ね」
「本音ですよ。それで、お飲み物は何に?」
「コーヒーをお願い」

辛子色と形容しない辺りがいかにも安室らしい。「かしこまりました」、と彼は目尻を下げてすぐさま作業に取り掛かかった。
戸棚から出されるガラス製の器具に細かな部品。その一つ一つの具合を確かめる男の顔はまるで何年も修行を積んだ職人のようだ。は頬杖を付いてカウンターの奥に立つ男を注視した。真ん丸とした瞳で、穴が開くぐらいに。

「気になりますか?」
「とっても。サイフォンってあんまり見ないから」
「流行りのカフェばかりに行ってるからですよ」
「そんな風に見えてたの?金欠だから家でばっかり飲んでるのに」

蓮根のように穴の開いた円形の濾過器に、布製でできたこれまた円形のフィルターがセットされていく。既に何度か使用された後なのか、フィルターはうっすらと淡く茶色がかっていた。それからすぐに沸かしたての湯が大きなフラスコに注がれる。熱で曇ったガラスを前に、「理科の実験みたい」と控えめな声が宙を漂った。ちゃんと聞いてますよ、とでも言うかのようにブルーグレイの瞳がに向けられる。その双眸が捉えたのは好奇心旺盛の硝子玉だった。
ヒーターでフラスコを温めている間に安室は湯通ししたフィルターをロートにセットし、竹べらのようなもので目を細めて何かを調整し出す。コーヒー屋さんに転職でもした方が良さそうだ、とは思ったが、バリスタはあんな風に悪い大人の顔をしたりしないか、と任務中の男の姿を思い出して困ったように笑った。

「どうかしました?」
「ううん、ねえバーボン、それってここで覚えたの?それとももともと?」
「どちらもですね。コーヒーは割と好きなので。まあでもここのマスターのコーヒー好きには感服しますよ」
「私はズボラだからいつもフレンチプレスだなあ」
「プレスも独特の美味しさがあって良いじゃないですか」
「でもあなたの淹れたコーヒーの方がきっと何倍も美味しいわ」
「おっと、そんなことを言われたらいつも以上に頑張らないといけませんね」

ふふ、と安室は笑って挽いたばかりのコーヒー豆を取り出した。瞬時に香りが室内に広がっていく。その香ばしさを胸いっぱいには吸い込んで、充足そうに息を吐いた。

「良い香り」
「マスターが買い付けてくるコーヒー豆は一級品ですから」

まもなくしてコーヒー談義が始まった。談義、というよりは安室が一方的にあれやこれやと話を振り、が相槌を打っていただけの、最早講義とも言う方が正しい気もする他愛のない会話だ。ポアロで取り扱っている豆は全てアラビカ種で、中でも標高900メートル以上にある木から採れるものしか扱ってないだとか、それもこれも焙煎時に起こるファーストポップに耐えるためだからとか、日陰栽培で作られるコーヒー豆は高く成長するフルーツの木の下で作られるために少し爽やかな味わいになるとか、サイフォンはいかにもコーヒーを淹れている感があって良いとか、マスターが近々最新鋭の焙煎機を導入しようか悩んでいるらしいとか、それで浅炒りと深炒りの豆を使ってテイスティング会を開きたいと目論んでいるとか。そんな話を長々と続けていたら、どうやら二回目の攪拌が終わったらしい。ロートの中のコーヒーはすっかりフラスコに落ちきっていた。

「はい、どうぞ。お熱いのでお気をつけて」
「ありがとう、いただきます」

ゆらゆらと揺れる濃い煤竹色の水面に化粧姿の顔が映る。立ち上る湯気から漂う香りは素人には細かな違いなど分からなかったが、普段自分が飲むものとは全く違うことだけは確かだ。一口。そっとカップに口を付ける。熱い液体が食道を通って胃に落ちるのがよく分かった。舌の上に広がるコクのある苦味。続いてこれぞコーヒーと言わんばかりに高い香りが鼻を抜けていく。喉越しはとてもまろやかで、フレンチプレスとは反対に繊細な味わいだった。

「普段プレスなら少し味が弱いかもしれませんね」
「ううんそんなことない、すごく美味しい」
「それは良かった」

カップの縁に残った赤色を拭う様に安室の視線がふと引き付けられる。例えば、あのカップからDNAを調べたならば。例えば、取手に付いた指紋を調べたならば。きっと、彼女について分かることがあるのかもしれない。ぼんやりと脳裏に流れ込む降谷零の顔を押し殺して安室は微笑んだ。
窓越しに伝わる小学生の駆け足と歓声。道路を走り抜ける車の走行音。ややくぐもったそれらとは反対に近くから鳴る、コーヒー器具が解体されるガラスのぶつかりを耳にはしばしコーヒーを楽しむと、鞄から白い封筒を抜き出した。

「これ。招待状。多分もう話は聞いてると思うけど」
「ああ、あの白井財閥のパーティーですか」
「頑張ってね」
「あれ?は行かないんですか?」

「その日までにベルモットが日本に戻って来なかったらね」、と彼女はまた一口コーヒーを嚥下する。飲みやすい温度になったようで、先ほどよりも全体の風味を強く感じた。こんなにもバーボンの淹れるコーヒーが美味しいのなら、組織所有の建物にカフェを作るのも強ち悪い考えではないかもしれない、なんてくだらないことを考えていると、眼前の男から、「なるほど」と返事が来る。「なら彼女が帰ってこないことを祈りましょう」と付け足されて。

「なにそれ」

どうしてこの人はこういうことを簡単に言ってのけてしまうのだろう。そうか、心がこもってないからか。だからいくらでもそういう台詞が言えるのか。コーヒーカップを傾けたまま、は眉を顰めて安室をじとりと睨みつける。

「大女優の隣を務めるのは中々骨が折れますからね」
「なんだ、そういうこと。そりゃあ平民の隣なら気も楽でしょうよ」
「あれ?そう聞こえました?あなたの隣は居心地が良いっていう意味だったんだけどなあ」

困ったように、けれどどこか不敵な笑顔には素知らぬ顔を浮かべたまま、ぎりりと奥歯を噛んだ。不毛すぎる。こんなもの、とっとと捨てるが勝ちだ。ため息を一つ吐いて、彼女は静かにカップをソーサーに置いた。
陶器と陶器の当たる凛とした響きが静かな店内に広がっていく。コーヒーを飲む喉の音すら聞こえてしまいそうだ。誰かお客さんが来るのなら、どうか今すぐここに。それを切に願う彼女の心を知る由もない安室は、何食わぬ顔で塗れた手をタオルで拭って彼女の名を呼んだ。おそろしく、優しい声音だった。

「・・・あなたのその笑顔、時々怖いって思う」
「ひどいことを言う人だ」
「色んなことを見透かされそうで怖いわ」
「そんな全能の神なんかじゃありませんよ」
「時々あなたに落ちそうになるけど、その笑顔を見る度に正気に戻るのよね」

さらりと彼女が言い放つ。だから安室もさらりとそれを流してしまった、のだけれども。
うん? と首を傾げた彼の髪の毛がゆらりと揺れる。

、あなた今」
「なあに?」
「今自分が何を言ったのか、分かってますか?」
「落ちた、なんて一言も言ってないからね」
「まあ、そうなんですけど」

ぽたり。水道から水滴がシンクへと落ちていく。小麦色の手が蛇口を硬く閉めなおしにかかった。手の甲にはっきりと浮かび上がる血管はからは見えなかったが、袖を捲った腕は視界に入ったらしい。
彼女のこういう視線が安室は苦手だった。丸い瞳に見つめられるのを感じながら、なにが色んなことを見透かされそうだ、と思った。

「本当は、僕の顔を見に来てくれたんじゃないんですか?」
「そんなに乙女じゃないわよ私。用事も済んだしもう帰るわ」
「そうですか。あ、そうだ知ってます?明後日は「とおるの日」なんですよ」
「とおる?」
「ええ。10と6で。僕の名前、透なので」

差し出された千円札を受け取った安室がレジスターへと歩いていく。の瞳がゆるやかに左に流れた。後ろで結ばれたエプロンの紐は、途中で変にひっくり返ることもなくとても綺麗な曲線を描いて垂れている。シワのないシャツに、汚れひとつないボトムス。靴も綺麗に磨かれていて、見られることを意識した格好の中、片方だけ折られた襟がやけに浮き立つように映った。

「そういえばそんな名前だったわね、でも6は「る」にはならないような」
「細かいことは気にしたらダメなんですよ」
「そんな明後日には何があるの?コーヒーをサービスしてくれるとか?」
「ああ、それは良いですね。素直じゃないあなたの口実作りにはピッタリだ」
「物優しい言い方だけどバーボンって毒だらけよね」

ふふ、と口角を上げて安室が釣銭を確認している間にはコートを羽織った。長居こそしなかったが、暖かい室内で熱いコーヒーを飲んだのだ。きっとまた外を冷たく感じることだろう。

「はい、お釣りです」
「ごちそうさま。ベルモットに連絡よろしくね」
「もちろん。あとこれ、おまけです。あなたにだけ」

レシートとともに渡された、ポアロの名前の入ったショップカード。裏を返すとそこには手書きで書き足された文字の羅列があった。まだわずかにインクの湿り気が見て取れる。きょとんとした顔でそれを眺めた後にが顔を上げると、眼前の男が小さなウィンクをしてみせた。だから眉尻の下がった顔で彼女は言った。絶対に来ないからね、と。
再び乾いた鐘の音が響く。扉が閉まる音を聞いてから、安室は彼女が使ったコーヒーカップを洗いにかかったのだった。
















「やあコナンくん、いらっしゃい」
「こんにちは。ねえ今の女の人って安室さんの知り合い?」
「いいや?初めての人だったよ。なんでも仕事でこの辺りに来てたんだって」
「ふうん、そうなんだ」
「さ、今日は何を飲むんだい?」











(2017.10.8)   CLOSE