※映画の内容に関する描写はありませんが、サミット会場爆破の前日のお話です。








紺青の水平線を走る丹色の帯。夜の果てを告げる一羽の鴎が、薄暗い水面を横切った。




















世界が終わる静けさというのはきっと、こういう感じなのかもしれない。車を降りた降谷は思った。人の声はどこにもない。潮騒と、加減を知らぬ鴎の声。耳に流れてくるのはそれだけだ。
水面は海底を思わせるような深い色をしていて、波打ち際を揺らぐ弱い光源が、これからやってくる黎明を慎ましやかに示している。夜と朝の狭間。それは一日の間で最も神秘に満ちた時間だった。
潮の湿りを含んだ風が降谷の髪を遊び去る。砂浜へと続く階段を降りると、硬いコンクリートに積もった柔らかい砂の感触が靴の裏から伝った。一歩進むごとに靴が砂に沈んでいく。中に砂が入らぬよう、地面と靴底を水平に保ちながら彼は進んだ。向かう場所はただ一つ。舛花色をした瞳が捉えていたのは、白く泡立つ細波の際に佇む小さな後姿だった。



名を呼ばれては振り返る。髪のゆらめきが、ルドベキアの橙を思わせるような東の空の底光りに照らされていた。降谷が近付くほどに、水気を吸った砂が固さを増していく。

「零さん」

弓なりに目を細めて声の元へと歩み寄るの手には、サンダルが握られていた。きっと足を遊ばせていたに違いない。彼女らしい、と降谷の眉が思わず下がる。素足が砂を踏むごとにできた軌跡が、波に攫われては消えていき、彼女が波打ち際を離れれば、乾いた柔砂がマニキュアで彩られたつま先を覆った。

「まさか電話に出るとは思わなかった」
「すみません、遠かったですよね」
「いいんだ。君に会いたくて来たんだから」

ふ、と笑ってみせた降谷には眉根を寄せて、けれども照れくさそうにはにかんだ。東都からここまでは車で四十分ほど。サミット前で忙しいだろうに、わざわざ時間を割かせてしまったことが申し訳ない。
のそんな気持ちは降谷には筒抜けだったのだろう、彼は風にそよいだ彼女の髪を優しく耳にかけ、そのまま手を滑らせて二、三度頭を撫ぜた。慈愛に満ちた眼差しが彼女に降り注がれる。

「ちゃんと寝てますか」

それは明け方の時分にはそぐわない問いだった。

「心配ない。そういう君こそ」
「私も大丈夫です」

「零さんの顔見たらもっと元気出ました」とは続けた。刹那降谷は動きを止めたが、すぐさま再び笑みを浮かべて彼女の手を掬い取る。指を絡ませずに握ると、ぴたりとくっついた手のひらから温もりが伝わった。人肌の温かさと心地良さ。体がほぐれるようなこの安らぎは、一人では得ることのできないものだ。手と手の触れ合う優しさは、海の偉大さとよく似ている。
二人は渚を歩き、押し寄せる柔波が届く間際まで近付いた。そこからさらにが降谷よりも一歩前に飛び出す。浅黄の浜に立つ彼女の足首を撫でる海水は、透明に揺らいでいた。それに気が付いた頃には、薄闇にぼやけた顔の輪郭もはっきりと分かるまでに明るくなっていて、はるか彼方の島の影もすっかり浮かび上がっていたのだった。

「気持ち良いですよ」

彼女の言葉はまるで誘っているかのような弾みを持っていた。私服姿のと違ってスーツの降谷は一瞬悩んだが、彼女と海辺を歩きたいがためにここまで車を飛ばして来たのだ、気にするものでもないと裾を織り上げ始める。左足の靴を脱ぎ、靴下をはぎ取る。反対側も同じようにすると、彼は彼女よりも一回りも大きく、ごつごつとした足先をそっと水に馴染ませた。

「ね」
「ああ」

泡立つ白波の爽やかな冷たさ。海開きにはまだ少し早いとはいえ、もう四月も末だ。寒さを感じるほどの水温ではなかった。
降谷は足に触れるものに感覚を研ぎ澄ませる。やんわりと、肌の熱が奪われていく気持ち良さ。濡れた砂に足が沈む不思議な感触。丸みを帯びた小さな貝殻。泡の一粒一粒に、時折混じる指の先ほどの小石。耳にこだまするせせらぎに、先程よりも潮の匂いを濃く感じた。

「よ」

大した力も込めずに降谷が右足を蹴り上げる。水面をなぞるように上げられたつま先から、いくつもの水飛沫が飛んだ。雫の一つ一つが宝石のように散っていく光景に、は思わず目を奪われる。すると、視線の先の男から不敵な笑みが返ってきた。仕事中には決して見せないその顔は、会ったこともない十代の面影を髣髴とさせる気がした。
多くはなくともその頃の話を聞いたことがある。きっと昔はこんな風に無邪気な顔をよく見せていたのだろう。そんなことを思いながら、彼女は離れてしまった降谷の手を取った。小麦色の小指にだけ、自身の小指を絡ませる。
口角を上げた男から、声にもならないほどの小さな息が漏れた。ほどけないように力を込め返すと、弧を描く渚の中、二人は波形の紋を踏み進んだ。

「海外の方はその後どうだ」
「欧州で要マークされてる人たちの入国記録は変わらずです。ただ、」
「ただ?」
「ただ、ヒースロー発羽田行の便で一人出国停止になった男がいるんですが、どうやらその関係者が東都にいる、と先程。現時点ではサミットとは関係無いそうですが、今しがた報告したばかりなので、監視を越えて取り調べまで行うかはこの後の会議次第ですね」
「その情報の信頼度は?」
「問題ないです。欧州含めその他の地域も、今日の昼までには報告が上がるかと」
「そうか。言える範囲で良い、会議で他にも情報が上がったら教えてくれ。警備局に回ってくるのを待ってはいられないからな」

遊泳禁止のここは、にとって人と落ち合うのに都合の良い場所だった。多くの人々は大抵の場合千槍海水浴場に向かうからだ。千槍海水浴場では、夏には数えきれないほどの海の家が建つだけではなく、一年を通して潮干狩りも楽しむことができる。観光客向けの設備が整い、常に十分な数のライフセーバーに守られているそこと違い、ここには波打ち際から数メートル入っただけで急に水深の深くなる箇所がいくつもあった。加えて漁港からもかなり距離がある。そのためここに訪れるのは散歩や写真撮影が目当ての人間ばかりで、夏場のほんのわずかな時期を除けば一年中人の少ないのどかな海岸だ。早朝ともなればそれはますますそうだった。ネックなことといえばスーツ姿が浮くぐらいだが、私服に着替えることなど大した労力の内に入りはしなかった。

「会場に何か不審な点でも?」
「いや、会場内の点検は明日行うんだが・・・」

ふと立ち止まった降谷が続きを呑み込む。引っ張られるのにも似た感覚を覚えたが振り返ると、彼はゆっくりと瞼を閉じて、そしてまた同じようにゆっくりと瞼を開けていた。その視線はただ真っ直ぐに、水平線に投げかけられている。波の音以外静寂に包まれたこの海岸を射抜く瞳の鋭さを、は隣からそっと窺い見た。

「零さん?」
「すこし、胸騒ぎがする」
「・・・何も起こらないと良いですね」
「それを願うばかりだな。、サミット当日はどこに?」
「会場にいます。来賓の警護と通訳の補佐を」

庁舎の人間が引っ張り出されるほどに現場は常に人手不足だった。二万二千人もの警察官が警備に当たるとはいえ、動ける者は多いに越したことはない。なによりこのサミットには警察組織だけではなく、国家の威信もかかっている。霞が関界隈の緊迫した空気は日に日にその圧を増し、産毛の先まで逆立つほどだ。

「もしもの時、無茶だけはしないでくれ」
「それは・・・ちょっと約束できないですね」
「まあ、そう言うとは思ったよ」
「零さんだって。私が無茶しないでくださいって言っても無茶するくせに」
「・・・ふっ、それもそうだ」

顔を見合わせて、降谷とは困ったように笑い合う。
二人で共に仕事ができるのは、黒ずくめの組織が絡む時のみ。それ以外はそれぞれの業務を日々こなしている。今回のように警察組織全体を挙げてのプロジェクトであれば共有できる情報も多いが、普段はそうはいかない。手元にある情報のほぼ全てに秘匿義務が生じるのが常だ。守りたいと願う相手が従事していることの一つ一つをすぐに知ることができないのだから、部署が違うというのは時に歯がゆく寂しいものだとは思った。だがそれは降谷からしても同じことだった。

「夜は何を食べたんだ?」
「おにぎりです。梅としゃけ。あとお味噌汁」
「睡眠は?」
「仮眠室の一番良いベッド勝ち取りました」
「あはは」

「君らしい」と降谷の声が続くと、も同じ内容を彼に問い返した。答えはおおよそ似ていた。きっと庁舎近くのコンビニは、今や前年度の何倍も売り上げを叩き出していることだろう。
浅波を踏み歩いた二人の後ろには、点々とした足跡が続いていた。後ろの方は波の揺らぎにほとんどその形を失っている。常に空にあるはずの星の光も、肉眼ではもう確認できなかった。跡も残さず消えてゆく。跡はあるのに誰にも分からない。それはまるで、彼らの日常のようだった。
反対に、浜の端にある岩場はだいぶ大きな形で二人の瞳に映っていた。どうやら海岸の半分ほどもう歩いてしまったらしい。

「なあ

全て終わったら、何を作ろうか。わずかな沈黙のあとに、降谷の穏やかな声が澄んだ空気に溶けた。時期は遅いが山菜の天ぷらも良いかもしれない。ああでも、最近は少し暑くなってきたから麦とろも捨てがたい。醤油漬けにした鮪と、白味噌漬けにした鯛も添えて。それなら二杯目はお茶漬けにもできるしな。あ、お茶漬けも食べるなら水わさびとぶぶあられも買うか。そんな楽しそうな声を聞きながらはくつくつと笑う。

「お買い物行かないとですね」
「そうだな。ああ、買い物の前にドライブはどうだ?」
「ふふ、零さん楽しそう」
「そりゃあそうさ」

君と行くんだから。喉元まで出かけた言葉を降谷は呑み込んだ。こういう言葉は、今回の件が落ち着いたあとの方が良いだろう。今はまだ、緊張を解くわけにはいかなかった。
岩場に波がぶつかる。跳ね返った飛沫がまた海と一つになった。たとえこの波よりもっと大きなものがやって来たとしても、彼らは立ち向かわねばならない。その身が滅びようとも、成さねばならぬものがある。そんな言霊を体の至るところに刻印された生活も、決して強いられたものではなく、繋がれた小指と小指のように、降谷もも、始まりは違えど心の底からそう望んだのだ。



降谷は再び立ち止まり、の手をぐいとその身に引き寄せる。顎で水平線を示すと、強い光源が視界を射た。薄い雲間を、海を貫く一筋の光。それは白練に燃えた東の空よりもずっと鮮やかで荘厳で、それでいて儚かった。涙が出そうになるほどの明けの眩さが、二人から一瞬にして全てを奪う。
ゆっくりと、輪郭のぼけた球体が顔を出し始めた。赤みを帯びた燃える橙が、青藤色にまで白んだ天空を照らし、揺らぐ水面を照らしては、黄昏にも似た輝きで二人の人間を包み込む。体の内側も、心の奥底すらも光の元に露になってしまうような、そんな景色がどこまでも彼らの前に広がっていた。
全身の感覚を一層研ぎ澄ませ、足元を一定のリズムで揺蕩うさざ波の冷たさを、潮の濃い匂いを、撫でるように産毛を攫う風の柔らかさを、瞳を焦がす光の煌めきを、頭の先からつま先まで逃さぬように感じ取る。畏怖。その戦きはまさにそれだった。
どちらからともなく指を滑らせて、決して離しはしない強さで互いのそれを一本ずつ絡め取る。固く繋がれた手から体内へと流れる体温の熱を、愛とも言えるその感情をきっと、生命の源である海は知っていることだろう。
そう、この世には、絶対に失ってはならないものがいくつもある。その一つがこの愛情だ。家族と、仲間と、友人と、隣人と、想い人と。大切な誰かと温もりを分け合うことの尊さは、守られなければならない宝だ。そうして今日という一日を無事に終え、明日という未来を迎えること。その繰り返しを毎日続けて、命の温もりを伝えていくこと。この国を守るということは、心の繋がりと時の歩みを守るということだ。

「朝だな」

潮風に揺られた月色の髪。朝陽を吸い込んだブルーグレイの瞳。固く結ばれた唇に、力のこもった雄々しい眉。ひたむきさと鋭さに満ちた、決意と覚悟の横顔。の瞳に映る降谷は、そんな顔をしていた。

「もうひと頑張り、ですね」
「ああ」

は思う。今、彼の眼前に広がるのは、彼が愛する全てだと。なんて清らかで、美しい人間なのだろう。この凛とした男は、そう、降谷零は誓ったのだ。その身を、その鼓動を、最後の一打ちが鳴るその時まで、この国と共に生きることを。












(2018.6.2 Ein Morgen in die Zukunft=来たるべき日への朝)   CLOSE