午後十一時。未だ明かりの消えない警備企画課から響くのは、タイピング音と紙を捲る乾いた音の二つだけ。その空間を切り裂くように、「んー」と鈍い唸り声が宙に飛んでいった。仕事に集中しながらも、上司の様子を窺うべく風見がちらりと視線だけを上げたならば、降谷はがしがしと頭を掻いているではないか。ああ、行き詰っている。大丈夫ですか、と声をかけようと手を止めると同時に彼がデスクから立ち上がったため、その機会は失われてしまった。さながら油の足りない扉がゆっくりと開くときのような速度で、疲労の窺える顔が風見に向けられる。曇ったブルーグレイの双眸が自身と同じように疲れを露にする部下を捉えると、その瞳は僅かに弓なりにカーブを描いた。

「同じ顔だな」
「はは、そうですね」
「コンビニに行ってくる」

夜食でも買いに行くのだろう。書類の隅を整えながら、「行ってらっしゃい」と風見が言うと、背もたれに掛けてあった背広のポケットから財布を取り出した降谷が口を開く。

「何か要るか?何でも良いぞ」
「いえ・・・、特には」
「じゃあ俺のお任せってことで」

言うが早いか、彼は振り返ることなくひらひらと手だけ振ってその場を後にしてしまう。残された風見は一人、すっかり夜の帳が下りた窓の外を一瞥して、息を吐くようにそっと笑みを零した。














「ありがとうございました!」

しっかりと語尾まで紡がれたそれは今時の若者にしてはとても丁寧な挨拶だった。自動ドアが開くや否や、夜の町の雑多な音が降谷の鼓膜を揺らす。静かなわけでもなく、かといって喧しいわけでもなく。渋谷や新宿のそれとはまた一線を画す、お堅い職を持つ人間の集まるこの霞ヶ関もまた眠らぬ町なのだった。
街路樹を伝うように張られた紐から等間隔に提がるのは、灯りの消えてしまった提灯の数々。一昨日行われた米花町一帯の夏祭りの片付け残しだ。それらが本来の役割を果たしていたならば、きっと綺麗な景色だっただろうことが降谷の脳裏を掠めていく。交互に並べられた赤と白の丸い優しい光が降り注ぐ中を行き交う人々は、さぞたおやかで心地の良い空気に包まれていたに違いない。射的やヨーヨー掬いを前に歓声を上げては、屋台から立ち上る醤油の焼ける匂いや砂糖菓子の甘い匂いに胸を焦がし、縁日特有の高揚感に老若男女が夢を膨らませていたことだろう。一方、彼がデスクのモニターとしかめっ面で向き合っていたのは言わずもがなだ。当日のメインイベントだった堤無津川での打ち上げ花火も、腹部に響いてくるような、花火玉が弾けたあとのあの衝撃音を微かに感じながら一向に減る気配のないデータと紙の束と格闘していたのだから、虚しさもひとしおだ。

(・・・思わず買ってしまった)

歩を進める度にがさごそと鳴るビニール袋の中からちょろりと顔を出す長細いパッケージ。店に入った途端目に入ってきた「線香花火」の文字を前にふと心に浮かんだのは、入庁以来一度も花火を見に行けていないのだという、自らを笑う、諦めにも近いの顔。どうせもうこんな遅い時間だ。庁舎のお偉いたちはとっくのとうに定時退社してしまっていることだし、たまにはこういうことも良いかもしれない。そうして気が付いた時にはそれはもうかごの中に放り込まれていた。さすがに音の大きそうなバラエティパックなるものには手を出せずとも、これぐらいならそうやすやすとは見つかりはしないだろう。そうとなればまだ残っている彼女に一報入れておこう、と降谷は携帯を取り出してトーク画面を開く。着々と脳内で庁舎私物化計画が進む中、彼の足取りは来た時よりも軽いのだった。

(いつ振りだろう、線香花火なんて)

記憶を巡っても、なかなかはっきりとした映像は蘇らない。やった記憶は仄かにある。けれど遥か昔の、そう、幼かった頃のことだ。あれは茹だるような暑さの日だった気もする。はたまた蝉の声がよく響く乾いた空気の日だった気もする。でも確かなのは、半月型に切った西瓜を食べ、風鈴の音が体を涼しくさせるなんて嘘だ、とかなんとか文句を垂れた日の夜だったということ。それが誰の家で誰が用意してくれた西瓜かなんてことはもう思い出せもしないけれど。でも足元を明るくするほどの、跳ねる橙の鮮明さだけは今もよく覚えている。
湿り気を帯びた風に乗ってひぐらしの鳴く声が降谷の耳を掠めた。まだまだ蒸し暑いとはいえ、暦の上ではもう秋だ。この調べに季節の移ろいを感じるぐらいには大人になった。風情よりも食い気だったあの頃とは違って。

「おかえりなさ・・・また随分買い込みましたね」

庁舎に戻ってきた降谷の手に提がる膨らみに風見はついつい目を奪われてしまう。そんなにも空腹だったのだろうかとあっけらかんとしていると、「これを見てくれ」と捲られた袖から覗く小麦色の手が、なにかを袋から引き抜いたではないか。

「・・・線香、花火?」
「花火大会に行きたかったっていうの顔がつい浮かんでな」
「ああ、そういえば一昨日ありましたね」

ふ、と口角を上げる上司を前に風見が、「今からですか?」と尋ねるとすぐさま、「ああ」と返ってくる。心なしか楽しげな声色だ。きっと彼女とこっそり屋上かどこかでするのだろうとすぐに察知がいく。
庁舎を私的に利用するなど本来ならば決して許されたものではないが、この彼のことだ、警備員や他部署の人間に見つかるなどというヘマはしないだろう。それになにより、たかだか少し長めの休憩を取ったところで終わる仕事量ではないのだし、リフレッシュによって効率が上がるのならば、それもまた片付けねばならない物事への上手いアプローチというものだ(ということにしておく)。

「夏ですね、良いですね行ってらっしゃい」

こんな時間だ。降谷や自分を訪ねに誰か来たりはしないだろうが、万が一に備えて携帯は彼へのコール画面にしておこう、と風見は胸ポケットに手を突っ込んだ、のだが。

「何言ってる。風見、君も行くんだよ」
「えっ?」

一体どうして。まさにそんな顔だった。眼鏡の奥で真ん丸に目を見開く部下とは反対に、何故もそんなに驚く必要があるのだときょとんとした色を浮かべる降谷。

「当たり前じゃないか」
「いえ、でも、」

何かを言いたそうに口篭るのを見過ごすほど彼は優しくはない。「でも?」と追い討ちをかけると、数秒の後に風見が遠慮がちに口を開いた。

「その・・・、さんもいるのでは?」
「それが?」
「それはお邪魔というものでは」
「はあ?誰が邪魔だって?ほらほら今すぐペンを置いて立ち上がるんだ」
「え、あ」
「いいか風見、今から言うことは最重要任務だ。君はこの袋を持って屋上に行きそこで待機する。これは誰にでもできることじゃない。君に信頼を寄せる上司からの命令だ。聞いてくれるな?」




*




国際テロリズム対策課情報担当国外収集係。すっかり肌に馴染んだ名前のそこに一人佇む小さな体。体勢からしてどうやらデスクに突っ伏しているらしい。そうか、それで既読マークが付かなかったわけだと降谷は足音を立てぬようにゆっくりとに近付いていく。
お世辞にも綺麗とは言えない彼女の作業場には、乱雑にファイルが堆く積み上げられていた。特殊な部署柄、二、三年に一度新人が入ってくれば良い方らしく、何年経っても新人から昇格する気配のない彼女には、次から次へと業務にプラスして雑務が投げ込まれる。誰もが通ってきた道だから、なんてこの国お得意の精神論に見事に巻き込まれているというわけだ。それでも愛されてはいるのだろう、椅子に掛けられたスーツのポケットは相変わらず小分けの菓子袋で一杯だった。
降谷はファイルの塔とは反対側のデスクの椅子に腰を降ろして、静かに左手で頬杖をついた。

「おーい

普段部下たちに指示を出すときとは違う、優しい声がふわりと下りる。だが規則正しくゆるやかに上下を繰り返す彼女の体はピクリともしなかった。仮眠というよりすっかり寝入っているようで、一向に起きる気配が見受けられない。できることならこのまま寝かせてやりたいところだったが、風邪を引いては彼女自身も困ることだろう。なにせ夏風邪は治るのに多くの時間を要するのだから。

(・・・無防備な寝顔だなあ)

交差に組んだ腕にもたせかけた頭と、全く力の入っていない肢体。ライトの向きのせいか睫毛がうっすらと頬に影を落としている。その表情はとても気持ち良さそうで、おだやかで。一体何の夢を見ているのだろう。静寂が二人を包む中、他愛のないことを考える降谷の双眸は慈愛に満ちていて、それでいて迸る炎のように熱く眼前の彼女に注がれていた。
頬に垂れる髪の毛をそっと指先で払い、露になったそこに彼は手の甲を這わせる。弱設定とはいえ空調の風にすっかり冷やされてしまったらしい。

(今ならこんなにも簡単に触れられるのに)

重なり合う皮膚と皮膚。片や冷たく、片や温かく。自身の体温が奪われていくようだと降谷は感じた。そんな肌理の細かな肌から、柔らかくしっとりした質感や産毛の一本一本がダイレクトに伝わってくる。

(・・・)

すぐ下にある桜色の唇に、思わず固唾を呑む。右頬と腕が触れ合っているために下唇の肉が少し押されていた。けれどその光景が柔らかさを如実に物語っているようで目を奪われる。きっと今ならそこに触れることすら造作もないに違いない。とはいえ本人の気付かぬところでそれはアンフェアだが、と降谷は思いながら、伏目がちになった視線を元に戻して微笑んだ。そろりと手の甲を何往復か滑らせる。するとの瞼がぴくりと反応を返した。
そろそろちゃんと起こさねば。我に戻るも、僅かばかりの悪戯心が勝ったのだろう。彼女の耳元から零れた髪を再び指先でかけ直してから、唇が耳朶に触れるぎりぎりのところまで降谷はぐっと顔を近付けた。そして囁いた。ワントーン低い、吐息を含んだ声色で。



先ほどより強く震える睫毛。夢と現実の狭間で揺れ動く彼女の口から小さな声が漏れる。降谷はもう一度、「」と名を呼び、今度は背中も一緒に軽く叩いてやった。するともぞもぞと彼女の体が動き出す。瞼が上がるまでもう数秒もない筈だ。

「んぅ・・・」

好きな相手の寝起きを待つ行為はどこか特別で気分が良く、多幸感に包まれるのが分かる。
ゆっくりと重たげな瞬きの後に、焦点の合わぬ朧気な瞳が次第に露になった。脳内も覚醒してはいないのだろう、は目の前にいるのが降谷だとは分かっていないらしい。けれども誰かがいることだけは理解しているようで、彼女はそのシルエットを前に自身がすっかり寝落ちてしまっていたことに目をハっとさせる。謝るべく立ち上がろうとしたその瞬間。

「すみまっ、っあ、えっ」
「あ、おい!」

上手くヒールに力を入れられなかったようで、はぐにゃりと曲がった右足首から崩れるように体のバランスを失っていく。その瞬間がまるでスローモーションのように降谷には感ぜられた。ふわりと靡く髪の隙間から彼女の瞳とかち合う。刹那拡がる瞳孔を彼は見逃さない。一体どうして彼がここに。それを考えさせるよりも早く、立ち上がった降谷の骨ばった手が彼女の腕を掴んだ、までは良かったのだが。

「危なっかしい・・・」
「ふ、ふる、やさん」

密着し合う二つの体。そんなに強く引いたつもりはなかったのに、と後悔が彼の胸に押し寄せつつも、不可抗力が生み出したこの状況をどう整理付けるかの方が今は重要だった。なんてことも分かってはいたのだけれど。

(あ〜・・・しまった)

この距離感は初めてだった。シャツ越しに伝わる彼女の体温と息遣い。きゅっとシャツを握り締める白い手。首元をくすぐる髪の毛。シャンプーの香料とは別に感じる、いつの間にだか覚えてしまった彼女自身の匂い。案の定染まり始める耳元。表情は見えねども、きっと彼女は瞳をはらはらとさせているに違いない。その一つ一つが心の奥に静かに落ちていく。熱を帯びる体に室内の涼しさが今は丁度良かった。早まる脈を気取られたくない一心で平生を取り戻そうとしばし目を瞑ったならば、すっかり彼女を離すタイミングを失ってしまったのだった。

「おはよう」
「お、おはようございま、す」

驚嘆と困惑を混ぜた声が降谷の胸元にぶつかる。
夢なら夢だと言ってほしい。たとえこの感触が確かなものだったとしても。これじゃ覚醒を通り越して大混乱だ、とは思った。会う約束をした記憶はない。それならば何か急用だったのだろうか。何故彼がここにいるのか、なんて、今この瞬間ここにいるのだから最早愚問と言っても良い筈なのに。そんなことばかりがの脳裏を巡りだす。離れた方が良いのだろうか。いや良いに決まってる。課の人間はとっくに退庁しているが警備員が見回りに来ないとも限らないし、こんな夜遅くに男と女がくっついている姿を見られでもしてしまえば、それこそ小言どころで済みはしないのだから。分かってる。分かってる筈なのに。

「・・・仕事は?」
「終わりません」
「急ぎのものは?」
「目処は、一応付いてます」
「そうか」

会話と行為の噛み合わなさがさらに彼女を混乱させた。頭ではどうするべきか分かっているにも関わらず、体を上手く動かすことができない。きっとこの腕を彼の背に回してしまったら、何かが変わってしまう。確信とも言える予感に心臓が殊更早鐘を打つ。近い。近すぎる。触れられているところ全てが熱い。まるで火傷のようだ。それだけでもうどうにかなってしまいそうなのに、耳元に落ちては鼓膜を震わす彼の穏やかな声が今は本当に恨めしかった。

「降谷さん」

肩口から顔を上げたから出た言葉。それは戸惑いながらもどこか諭すような声色だった。分かっているさ、とそんな気持ちを込めて降谷は「うん」と呟く。腰に絡めた腕を解く名残惜しさ。二人の体が離れたときの降谷の髪の揺れが、ひどくやさしく彼女の瞳に焼きついた。それは星の欠片がきらきらと輝くような、そんな光景にも近かった。

「すまない、なんだか手放したくなくて」

「う、」とか、「あ、」とか。降谷から視線を外したの双眸が揺れる。いつもこんなことばかりだ。自分ばかりが揺さぶられて、自分ばかりが破裂しそうなぐらいに胸を高鳴らされて。ふふ、と笑って「私もですよ」なんて上目遣いの一つでもできたなら、きっと少しはしてやった感が出るのかもしれない。けれどだめなのだ。この人間を前にすると、それを上手くやってのけるほどの余裕が明後日の方角に飛んでいく。年甲斐もなくドキドキして、苦しくなる。

「・・・」
「・・・」

僅かばかりの沈黙だったのか、それともそれなりに長かったのか、両者には分からなかった。ただ確かだったのは、冷えていく肌の表面に互いの体温があったということだけ。その意識がそれぞれの胸に潜む熱をなかなか取りやらないでいた。
気恥ずかしさを取り繕うために、降谷は深呼吸をしてから彼女の名を呼んだ。透き通る海を思い起こさせるような硝子玉に映る彼女の顔がゆっくりと上げられていった。

「屋上に行こう」
「お、くじょう?」
「ああ」




*




薄い雲の奥に、夏の星空が浮かんでいた。しっとりと水気を帯びた生ぬるい風がゆらりと通り過ぎる屋上を、プシュッと缶ビールのプルトップが開く音が貫く。「乾杯」、と三人の男女の声が交じり合い、それからすぐにそれぞれから「くーっ」と声が上がる。思わず目をぎゅっと瞑りたくなるほどに、疲れた体に染み渡る琥珀色のそれは極上だった。キンキンとまではいかずとも冷えたビールがきりりと喉を潤すこの瞬間の幸せを、一体何と表したらいいのだろう。仕事が骨折りであればあるほどこの一瞬の爽快感もひとしおだ。目の奥が痛くなるほど冷えたジョッキで飲むのも良いが、缶には缶の良さがありまた乙なもの。喉仏を上下させながら、勢いよく缶を傾ける降谷の飲みっぷりには気持ちの良いものがあり、そんな彼の姿に風見とは顔を見合わせて笑っていた。

「え、風見さん四つも案件抱えてるんですか?しかも同時進行で?」
「こいつはワーカホリックだからな」
「その言葉、そっくりそのまま降谷さんにお返しします」
「もう、お二人ともちゃんと休んでくださいよ」

降谷が買ってきたつまみの数々―枝豆、一口大のから揚げ、ミミガー、ナッツ、キャンディチーズに野菜スティック―に添えるように、「これも食べてくださいね」とがポケットに溜まった菓子を取り出すと、今度は風見と降谷がくつくつと吹き出した。

「そういうさんもこんな時間まで残ってるんだから同じですよ」
「いやいや私はお二人とは比べ物にならないぐらい少ない仕事量なので・・・」
「風見、さっきってばよだれ垂らして寝てたんだ」
「た、垂らしてません!」
「じゃあ明日上がる報告書がふやけてたら犯人はさんですね」
「風見さんまで!」

笑い声と共に他愛のない話がどこまでも続いた。あの人は頭が固いだのこの人はゴマすりの成り上がりだのといったお偉いの愚痴はもちろん、日常のなんてことのない話から、夏の星空の話まで。あれは何座でこれはなんとか座で、ヘルクレスの左手にはヒドラの頭があってそれは彼の二番目の冒険に出てくるもので。まるでプラネタリウムの職員のようにつらつらと言葉を紡ぐ降谷の声を聞きながら、風見とはなるほど、と空を見上げた。どこまでも澄み渡るような夜空ではなかったが、彼の説明のおかげで星の姿はありありと二人の脳裏に描かれていった。

そうしてすっかりビールも底を突いた頃、降谷は悪戯っ子のような笑みで線香花火を取り出してみせた。その存在を知っていた風見とは反対に、は「わあ!」と声を上げる。見る見るうちにこちらも玩具を前にした子供のように表情が明るくなっていく。給湯室から適当にペットボトルに入れてきた水を空いた容器に注いでから、彼は封を開けた花火をそれぞれに同じ数だけ手渡した。

「ようやくこれの使い道ができたよ」

デスクの引き出しに何年も閉まったままのマッチ箱。ポケットからそれを取り出すと、「降谷さんタバコ吸わないですからね」と風見が言った。箱の中から一本つまみ出し、側薬を滑らせる。湿気てはいないようで、無事に綺麗な橙が灯った。硫黄の匂いと僅かな煙が三人の肺を掠めていった。

「さあ、始めよう」
「ありがとうございます」
「お邪魔します」

花火の先端の紙が静かに燃え上がる。二人に続いて降谷も自身のそれに火を点けると、水の入った器にマッチを放り込んだ。ジュッと音を立てて視界が暗くなったのも束の間、すぐさま彼らの手元から産声が上がった。

「わあ、なんだかドキドキしちゃいますね」
「久しぶりです、線香花火なんて」
「ふふ、俺もだ」

橙が三人の顔を次第に明るくしていく。それぞれが期待に胸を膨らませるのに比例して、花火の蕾もまた酸素を吸い込み見る見るうちに大きくなっていった。花が咲くのはもうまもなくだ。

「あ!」
「来ましたね」
「来たな」

数秒も経たないうちに力強い音を立てながら蕾が火花を咲かせ始める。ちりちりと、小さなそれがやがて松葉のように勢いよく走り出して、カメラのフラッシュのように飛び散っては消えていった。散り菊のような一筋の閃光が放射状に四方に疎らに広がるその見事さに、三人は言葉を発することもできずにただただ魅入っている。
侘しくも美しい散り際が最初にやってきたのはのものだった。「あ」と声にもならない寂しさが零れ落ちる。その次は降谷だった。ぽとりと蕾が落ちてしまった二人とは対照的に、風見のそれは萎むように熱が消えていく。

「最後まで上手くできると願いが叶うって言いますよね」

女性らしい考えだ、と風見は思った。泥臭い一日を三百六十五回繰り返す。自分の一年はまさにそういう風に過ぎていく。願いだなんだのなんてものはもう、遠いどこかに置いてきてしまった。どの返事が最適なのかと答えあぐねていると、降谷が口を開いた。「何か願い事は?」と。

「・・・そうですね、色々、上手くいきますようにということで」
「色々ってなんだ、端折りすぎだろ」
「そ、そうですね」
「風見さん顔赤いですよ、もしかして好きな人が・・・!?」
「え?いやこれはビールのせいで」
「お?とうとう君に春が?」

またくつくつと笑い声が響く。ほら、次行きますよ、と言わんばかりに風見がマッチに手を伸ばした。二回目が始まり、先ほどと同じ光景が浮かび上がる。三人は同じ興奮を等しく分かち合い、その目には火花の橙を宿していた。過ぎ行く夏の一コマに、肌に張り付く湿度のことなどすっかり忘れてしまっていた。

「あ、落ちました」
「はは、きっと動揺してたん・・・あ、落ちた」

そのあと自然と二つの視線がに注がれた。だが彼女は自身の花火に夢中で彼らの視線には気が付いていないらしい。ぱちぱちと広がる火花を一心に見つめている。
その時、一塵の風がふわりと彼女の髪を攫っていった。刹那露になった項に降谷の視線が動く。暗い夜にぼんやりと白く浮き上がるすべらかな肌。後れ毛が色気を醸すそこは、普段見えないからか、それとも人間の急所の一つでもあるからか、どうも目を引いて仕方がない。きっと浴衣が似合うのだろうな、と彼は瞼の奥でその姿を想像した。小さくしゃがんで手元の線香花火に夢中になる、あどけなさすら感じさせるその優しい横顔。煌く閃光を見つめる彼女はきっと一枚絵のように優美なことだろう。
そんなを注視する降谷を風見は盗み見ていた。知っている。彼のこの顔を。彼女にだけに注がれる彼のこの顔を。きっと今、彼は安らかな気持ちで満たされている。日々体力も精神も擦り減らし、魂すらも捧げかねない彼の全てを元に戻すただ一人の人。名状しがたい幸福と安堵が入り混じる。ともし火のような明かりに浮かぶ二つの顔。この輝きが、永遠になれたなら良いのに。
永遠とは何だろう。そんなことを思うことが風見にはしばしばあった。最近はこう感じる。永遠とは、実は一瞬のことではないのかと。時間がずっと続くことではなくて、何かあるものが、ある瞬間に、一瞬にして概念化されてしまうもののような。オーロラのようにゆらゆらと棚引き、ホログラムのようにきらきらと光を反射する、そう、陽の光が水面を照らすときのような、あの二度と手に入らない色彩の変化こそが永遠なのではないかと。

「ん〜落ちちゃいました」
「今のは惜しかったですねえ」
「まだある、次に期待しよう」

三人の手が次の花火へと伸びていく。心から、ただただ澄んだ綺麗な楽しさだけが湧き上がった。今だけは、日々の憂いごとに心を煩わせずに、時折肌を撫でる夏の夜風に身を任せていられる。たとえこの一瞬が二度と手に入らない色彩だったとしても。

目が眩むほどの橙の閃光が次々と零れ落ちる。儚く消えゆく火薬の匂いと共に、火花はそれぞれの胸にしっかりと刻まれていった。











(2017.9.2 der ewige Funke=永久のきらめき)   CLOSE