「降谷さん、いつかお店開きましょう」

ごくん。口の中のものを嚥下するや否やは至極真面目な表情で降谷を正視した。第一声がそれか、と彼は茶碗を片手に呆れた表情を浮かべている。その心にはじんわりと広がる充足を隠して。














まさかこんなことになるとは。そう思ったのはもちろん降谷だけではなかった。何度も乗せた筈の、または何度も乗った筈の車に並々ならぬ緊張が走っていたのは気のせいではない。スーパーを後にしてからそれはますますそうで、駐車を終えヘッドランプもエンジンも止めた今、下手したら心臓の音が聞こえてしまうのではというぐらいに、両者の胸は確かに悲鳴を上げていた。
こんなことは初めてだ。シートベルトを外す時も、バタン、とドアを閉める時も。手の平だけでなく指先までしっとりと汗を掻いているようで、この現状が日常の領分を越えているところにあることを、二人は改めて自覚した。

「こっちだ」
「は、はい」

促されるままには降谷の後に続こうとする。すると手に持ったスーパーの袋を彼女の手よりも一回り大きなそれが掬い取っていった。刹那触れてしまった肌に、静電気が走ったかのような反応を彼女が見せる。それを察知してしまった一歩前を歩く降谷は、背を向けているのをこれ幸いとばかりに口元を思わず手で覆った。

(まずい、こっちまですごく緊張する)

誘い出した時点でそれなりに緊張はしていた。だが、いざ部屋を目前とすると体がさらに強張った。そう、ニューヨークへの旅行会議をするなら自分の家で食事ついでに話さないか、と提案したのが他ならぬ降谷からであるにも関わらず、だ。
普段仕事終わりに外食をすることは確かにプライベートの域であるが、そこには多少なりとも仕事の延長の意味合いも含まれている。けれど家に誰かを招くのはそうではない。外界から遮断された、他の誰がいるでもないたった二人きりの空間。もちろん現状の間柄において取って食おうだなんて思ってはいないが、それでも彼女は彼にとって意中の異性だ。平生のままでいられないのは確かだった。
庁舎を後にして、スーパーマーケットに寄って食材を調達し、唯一気を抜くことができるテリトリーまで帰ってくること。それ普段となんら変わりのないルーティーンだ。しかし今は違う。隣にがいる。体の一部のように慣れ親しんだ場所なのに、なにもかもが違和感だらけだ。しかも今彼女は明らかに緊張していて口数も少ない。両者共に意識していて、意識されている。そんな状況が二人の肌をちくりと刺激した。

(ふ、降谷さんち・・・)

何重ものセキュリティを抜けなければ部屋に入れないだなんて、自分の家とは全然違う、とは息を呑んだ。重厚なマンションは降谷零という人間がそれだけ危険な毎日を送っているという証でもあり、余計に緊張が押し寄せるが、同時にそういう場所に招待されたことへの嬉しさもそこにはあった。エントランスのロックを解除する降谷の背中に視線を上げると、その手つきは当たり前だがとても手馴れていて、本当にここに彼が住んでいることを実感する。彼女がどこか放心したように眼前の背中に魅入っていると、開錠を終えたばかりの彼とばっちり目が合ってしまった。「ん?どうした?」と首を傾げる降谷の瞳が真っ直ぐに注がれる。どきんと跳ねる胸の高鳴りを必死に抑えながら彼女は言葉を紡いだ。

「ほんとに降谷さんのおうちに来ちゃったんだなあって」
「汚くても気にしないでくれよ」
「全然気にしません。むしろ綺麗そうなぐらいです」
「まあ山田の家ほどじゃないから安心してくれ」
「あれは汚いを通り越してましたねえ」

あの部屋のような有様に出会うことの方が珍しい、と二人のくつくつと笑う声がエントランスに静かに響く。幾重もの硬い結び目のような緊張が僅かにほどけていく気がした。
そんな二人を、眼鏡をかけた警備員が新聞片手に奥の警備室から覗いていた。その視線に気が付いたが軽く会釈をすると、警備員も目を細めて同じように頭を下げた。彼の視線が再び手元へと落ちていったので彼女も降谷に視線を戻せば、彼の手はエレベーターのボタンに伸びているところだった。どうやらエレベーターは丁度一階に止まっていたようですぐに扉が開く。彼はの肩をそっと押し、先に入るよう促した。閉まるボタンののちに押される部屋の階数ボタン。数秒もしないうちに独特の浮遊感が二人を襲う。最新鋭のマシンだからか上昇音は殆どしなかった。

「誰かを家に上げるのはものすごく久しぶりだ」

壁の鏡を背もたれに、箱の中に二人きり。否が応にもその距離感が先ほど緩んだ筈の緊張をまた強めていくようで、それを避けるために降谷が言葉を紡ぐ。

「風見さんは?」
「うん?どうして風見?」
「お二人仲が良いので」
「わざわざ彼を家に招いてお茶する趣味はないさ」

確かに風見も降谷の住所を知ってはいる。だが知っているだけで彼は部下を部屋に入れたことはなかった。どんなに仕事で内密な話があろうと、だ。むしろ内密であればあるほど跡を付けられたら困る場所は適さない。それに信頼関係があってもプライベートにまで干渉するほど野暮な間柄でもないし、そもそも職掌柄云々以前に、たとえ仲が良いからといって職場の人間をそうやすやすと家に呼ぶのはどこか憚られた。女性同士ならば家で紅茶やコーヒーを片手にあれやこれやと花を咲かせて楽しむ姿も容易に浮かぶが、野郎にそれは似合わない。十代の頃と違って社会人になってしまえば家で遊ぶという選択肢は男にはほぼ失われるのが常というものだ。だから家に誰かを上げるなんていう行為は、もっぱらその奥に下心が隠れている時に決まっている。

(・・・わざわざ私は招きたいってことなのかな)

それはすごく胸を掴まれる。気恥ずかしさからは階数を見上げていた視線を床に落とすと、汚れなく磨かれた降谷の靴先が薄暗い照明を反射していることに気が付いた。その隣にはもちろん彼女のパンプス。上司と部下とはいえ彼らは紛れも無く男と女だった。
ドアが開くと降谷が先に歩き出した。見慣れぬ世界に高揚感と不安を胸につのらせながら彼女も後を着いていく。グレーの背広と揺れ動くミルクティブラウンの髪を眺めながら、一体どんな部屋なのだろうと彼女は考えを巡らせた。彼の性格からして部屋が汚いということはあまり考えられないとか、外での姿がしっかりしている分家では真逆なのかもしれないとか、むしろ全く生活感がなさそうだとか。どれもありえそうだ、なんて思っているうちにその時はやってきた。

「ようこそ我が家へ」

ガチャリ、と部屋のドアが開く。促されるままにが「おじゃまします」と足を踏み入れるや否や、胸に落ちてきたのは嗅ぎ慣れた降谷の香りだった。

「降谷さんのにおいがします」

知っている。この匂いを。不思議と心が落ち着く、この彼の匂いを。
目を細める彼女とは裏腹に降谷はぎょっと目を見開いた。

(・・・どっちの意味だ?)

いやまず自分の匂いってなんなんだ。自分のことなのに分からない。なのに彼女は知っている。それはなんだかとても恥ずかしい、と彼は頬が熱くなるのを感じた。

(・・・喜んで、いるんだろうか?)

自身の生活臭に喜んでくれているならまだしも、もし反対の意味だったらば。なにせ時々は歯に衣着せぬ物言いをする。「童顔だけど降谷さんもやっぱりおじさん間近なんですね」という意味での目の細め方だとしたら。しばらく立ち直れない気がしてやまない降谷だったが、先の彼女はそういう含みのある笑顔ではなかったと決め込むことにしたのだった。

「それは一体どういうつもりで言っているんだ」
「ふふ、秘密です」
「ふっ、君も大概いじわるだな」









小気味良く包丁が下ろされる音がキッチンに響く。リビングにあるソファの背もたれにかかっていたのは大きさの違う二つのスーツ。その上には皺のできたネクタイが乱雑に置かれていた。彼女を家に泊めるわけではないから、と互いに格好は仕事着のまま、二人は同じエプロンをしてキッチンに立っている。作業台に立って野菜を切ると、コンロの前に立って鍋の様子を見る降谷と。傍から見れば二人の雰囲気は恋人そのものだ。

「へえ、手馴れたもんだ」
「一人暮らし様々ですかね」

その声音には僅かばかりの皮肉が込められていた。一人暮らしをしていたって料理をしない人間はしないのだから立派なものなのに、と降谷は思う。ネイルをしていない彼女の指先は綺麗な桃色をしていて、その付け根には弓なりの乳白色がはっきりと見えていた。健康的な証拠だ。すらっとした滑らかな彼女の左手は猫の手のように丸められて大根に添えられ、そのすぐ傍らを包丁を握った右手が軽やかに下りていった。シャツの袖が捲られて、普段は見えない柔らかそうな白い素肌が見えるのも、彼の目にはとても良いらしい。

「大根オッケーです」
「そしたら次はレンコンを乱切りで頼むよ」
「はーい」

野菜室から取り出したレンコンを手渡すと、刹那、彼女の動きが止まった。

「泥付きレンコンが出てくるとは思いませんでした」

手渡されたレンコンをまじまじと見つめながら彼女が呟く。主婦ですら中々手が出ないようなものが、一人暮らしの独身男性の冷蔵庫に眠っているだなんて。料理好きでなければわざわざ買ったりはしないものだ。

「泥付きの方が保存も利くし味も良いからな」
「やっぱり降谷さんてお料理お好きなんですね。そうそう、ヴィクトアーリエンマルクトでスパイス屋さんに寄ったの覚えてますか?」
「ああ、もちろん」
「あの時真剣そうにスパイスとにらめっこするバーボンを見て、表の顔は料理人なのかなって思ったんですよ」
「あはは、確かに料理は嫌いじゃないが、少し意味合いが違うんだ」

「意味合いが違う?」とがレンコンを洗いながら首を傾げる。隣で降谷は沸騰した湯がぐつぐつと音を立てる鍋の火を止めて、そこに多目の鰹節を投入していた。数秒も経たないうちにもくもくとした湯気とともに出汁の香りがキッチンに充満する。日本人で良かったと思う瞬間の一つに数えられると言っても過言ではないだろう。「ん〜良い香り」とたまらなそうに言う彼女に釣られて降谷も頬が緩む。
横のコンロでは少量の水と酒の入った鍋が弱火で温められていて、彼はそこに、既にに処理してもらった一口サイズの潰し切りのゴボウを加えた。冷蔵庫から使いかけの生姜を取り出して摩り卸し機でしゃかしゃかと卸し入れるのも忘れずに。それから「水を出してくれないか」と言うので、まな板に転がしたレンコンをそのままにが、「はい」とハンドルタイプの蛇口に手をかけた。
流れる透き通った水を弾く小麦色の肌。指先の動きに比例して揺れる腱や、浮き上がる血管がちらちらと彼女の視界に入り込む。特に親指の付け根にできるくぼみが美しい。このくぼみに名前が付いているのを知ったのは最近のことで、その名を「解剖学的嗅ぎタバコ入れ」と言うらしい。なんともまあユニークな名前だが、そのすぐ下を流れる血管とともに醸し出される男らしい色気にすっかりそんなことは忘れてしまう。

(あ、ちゃんと生えてるのか)

やけに体毛がない人だと彼女は思っていたが、こうして間近で見てみると髪の毛と同じ色の毛がうっすらと肌に生えている。そうか、それで目立たなかったのか、と思うと同時に上品に見えるその色を羨ましくも感じた。

「美味しいものを食べることはな、生きる力になるんだよ」

目を細めて笑うブルーグレイの瞳からは同時にどこか侘しさも感じられる。ああそうか、どうしてすぐに気が付かなかったんだろう。吸い込まれるように綺麗な眼差しが、の脳裏に焼きついていった。
公安に属する人間の多くは人一倍食事を大切にしている。それは制約のある生活を送っているからだ。友人だけでなく家族や恋人、配偶者にすら素性を明かすことができず、誰を信頼して良いのかを見極めることも困難な毎日が常に付きまとう自分たちにとって、多大なストレスを被る体を癒し、養い、明日への活力を生み出してくれる食事は非常に重要だった。例えば幼少期から通い慣れているような場所や、絶対の信頼を寄せるに至った店で出てくる料理は別として、新規開拓一つとっても公安職員には難しい。チェーン店やコンビニのものですら口を付けない職員も大勢いる。だからこそ自炊に精が出るのかもしれないが、趣味とはまた違う話なのは確かだ。

も分かるだろ?」
「はい。美味しいご飯は一番の味方ですもんね」

とはいえそれは自分たちのような人間に限らず、この世界に生きる全ての人々に言えることだ。食事は心の満足と固く結びつき、そして心の満足は精神を支える糧へと変化する。自分の心を満たすことができるものならば、贅沢でなくていい。疲れた体を、自分が美味しいと感じる精一杯の料理で癒してやること。良いことがあった日も、平凡だった日も。けれど一番はつらいことや苦しいことがあった日こそ、だ。それだけで、次の日に見える世界が違ってくる。感じる空気も違ってくる。日々を生きる活力にはもちろん色々なものがあるが、その中で食事が占める割合はとても大きい。

(まあでも、最近は何を食べるか、より誰と食べるか、の方が大事なんだがな)

そのことを思い出させてくれたのは、紛れもなく隣に立つ彼女だ。警察学校時代は切磋琢磨し合う同期たちがいて、死にたくなるぐらいに疲れた日も、恥をかいた日も、最高ランクの成績を取った日も、傍にはいつも仲間がいた。年単位で予約の取れないようなレストランの豪勢な食事では決してなかったけれど、その食事が何より美味しかったのは彼らがいたからこそだ。そうしてまた今日を、明日を生きていくことができた。だけれども。
複数の顔を持つようになってからは、食事は単純に体を満足させるだけのものになってしまった。胃が満たされればそれでいい、死なない程度に動ければただそれだけでいい。それ以外の時間を全て仕事に当てて、殆どワーカホリックのようになってしまったある日、何を食べても同じ味だと気が付いた。超えてはいけないラインを超えてしまった気がして、心が警鐘を鳴らしていた。きっとこのままでは何かが崩れてしまう。そこからだった。料理に興味を持ち始めたのは。
作っている最中は頭を空にすることができたし、食べている最中はこの焼き具合が良いだのここはスパイスが足りないなど一人反省会を開いては、次回にどう活かすかを考えることもできた。そうした向上心は、いつかは落ちてしまったに違いない精神を支える一役を買ってくれたのだ。
より美味しいものを作り出すことが生きる糧となっていた日々の中で、と出逢ったこと。緩んだ頬で、幸せそうに口をぎゅっと結んで美味しさを噛み締める彼女を見るのが降谷は好きだった。彼女の笑顔が食事を一層美味しくさせてくれる。一層心を満たしてくれる。それは久しく忘れていた感情だった。

「今日は君がいるから余計に食事が楽しみだよ」
「一人暮らしの食事って、時々味気ないなって寂しくなりますよねえ。はい、レンコンオッケーです」
「ありがとう、あとは鶏肉を適当に切っておしまいだ」
「はーい」

一人暮らしの漠然とした寂しさのつもりで言ったんじゃない。それを降谷が口にすることはなかった。代わりに彼はまな板と向き合うの横顔を脳裏にしっかりと焼き付ける。部屋に連れてくるまでの緊張が今ではもう嘘みたいに消え去っていて、肌に馴染みの良い温かい空気がこの空間に広がっていた。

「そうだ、
「はい」
「旅行の話もそうだが、実はもう一つ言っておくことがある」
「言っておくこと、ですか?」

「ああ」と降谷は頷くと、冷蔵庫から取り出した醤油と味醂を目分量で鍋に注ぎ入れた。香ばしいそれが熱に中てられてぐつぐつと沸き立つ。鍋から香る醤油の匂いと、すぐ後ろの炊飯器から香る米の炊ける匂いが二人の腹の虫をくすぐって仕方ない。コンロから外していた鍋の具合を確認すると、彼は再び冷蔵庫のドアを開けて何かをがさごそと探しながら言った。

「クリス・ヴィンヤードは黒の組織の一員だ」

流れていく水のようにあまりにもするっとした一言に、は反応できずに降谷の背中を注視したまま止まってしまった。今彼は、何と言ったのだろう。クリスと言っただろうか。クリスって、クリス・ヴィンヤードって、あの大女優の?そんな彼女の混乱に気付いていない降谷は、「あった」と目当ての器を取り出して、肘で扉を雑に閉めている。そして振り返って初めて気が付いたのだった。彼女の思考が停止していることに。

「え?その・・・え?」
「そういうことだ」
「そ、そういうことって・・・、いつから、ですか?」
「古株だからな彼女は。前に君がムッター・ヴェルトラウトの店を彼女に紹介したことがあっただろ、その時には既に彼女は組織の一員だった」

鍋から出汁のできった鰹節が水気を切るように取り出される。それを降谷は今しがた出したばかりの器に入れて、ほぐすように液体の中で泳がせた。その中には数種類の野菜が入っていて、見たところ揚げ浸しのようだ。食材を無駄にしないのも几帳面な性格故だろう。てきぱきと手を進める降谷をぼうっと眺めるの思考回路もようやく回りだしたらしい。彼女は慌てて手を動かしながら口を開くが、その声音にはまだまだ困惑の色が含まれていた。

「あんなに世界的に有名な人が、組織の一員だなんて・・・」

イーゲルのボスといい、黒の組織といい、世の中一体どうなっているんだ。
はあ、と彼女は心の中で大きくため息を吐く。

「名は売れているがそれはあくまで女優としてであって、プライベートに関してはどんなメディアの取材にも答えたことのない秘密だらけの人間さ」
「え?なら降谷さん、どうしてあの時あのお店の名前にピンと来たんですか?雑誌で知ったって・・・だって、そんな、取材に答えないなら・・・」
「ああ、あれか。組織では彼女と行動することがたまにあって、と行った前日も実はあの店に連れて行かれてな。その時彼女が言っていたんだ、ここを教えてくれたのが日本人の留学生だと」
「ひ、ひええ・・・」

自分の知らないところでそんなことが行われていたなんて、と項垂れるようには肩を落とす。顔合わせ当日、余裕があれば昼にあのレストランで食事をするつもりだった。もしかしたら二人がいるところに鉢合わせていた可能性もあったのだから、時の巡り合わせというのは非常にうまくできている。

(あの絶世の美女が・・・組織の一員・・・)

あれはまだ大学も卒業していなかった年の頃だ。画面越しにしか見ることのできないあの大女優と食事をしたなんて、とキャッキャと浮かれていた裏で実は組織の人間だったと一体誰が想像できただろう。それにバーボンとのあの何でもないような会話にも意味が張り巡らされていたのかと思うと、それもとても恐ろしい。組織の取引とは関係のない世間話程度にしか考えておらず、当時彼の言っていた「最近読んだ雑誌」も実際にあるものだとばかり思い込んでいたのだから。

「じゃああの会話は探りのためだったんですね、完全に油断してました」
「あれは純粋に俺の好奇心からで、彼女の意図は何もないから安心してくれ」

ははは、とが引き笑う。自分とクリスの関係を探られたからといって困るものは何も出てこないが、細かなところにも張り巡らされた彼の情報収集能力にはつねづね感服せざるを得ない。
手を洗う彼女の隣では大根が鍋に投入されていた。薄めに拍子木切りされているため、火が通るのにさして時間はかからないだろう。蓋を閉めて煮込む間に、もう片方の鍋に降谷は一口サイズにカットされたもも肉を皮面を下にして入れる。表面に火が通ってきたところで全体を混ぜ合わせて落し蓋をした。それから自身も手を洗うべく水道に手を伸ばす。

「・・・とはいえ悪かった、嘘を吐いて」

眉根を寄せ、憂いを帯びた瞳がを覗き込む。普段見ることのできない降谷の申し訳なさそうな表情がすぐ近くに飛び込んでは、彼女の胸をこれでもかと攫っていった。

(ずるい、そんな顔)

そんな顔をされたら、怒ることなんかできるわけがない。いや、もとから怒ってなんかいなかったけれど。でももし、この表情も作られたものだったら。こうしてどんどん近付かれて、もう彼なしでは生きていけないほどに心をすっかり喰われてしまったら。ぐずぐずに溶かされた心ほど、傷つきやすいものはない。彼が二重スパイじゃないことはもう殆ど分かっている。分かっているけれど―…。

(・・・すき、降谷さん、すき)

鼻の奥がじんと熱い。込み上がってくる涙をはぐっと堪えた。最後の砦を探そうとしている時点で、大概人間の心は決心づいているものだ。ただそのことに、必死に気が付かないふりをして、自分を保とうとしている。ただそれだけなのだ。

「あの時嘘を吐いていたのは私も同じです。降谷さんが謝る必要なんてどこにもないんですよ。おあいこです」
・・・」
「だから、そんな顔しないでください、ね?」

彼の頬に触れたいと心の奥底が訴えていた。
何もかもを偽らねばならなかったあの時、嘘を吐く行為はそれぞれの命を守るためのものだった。だからそこに謝罪なんてものはこれっぽっちも必要ないのだ。「はい」と目を細めてはタオルを差し出した。その瞳の優しさに、降谷もそっと口角を上げる。受け取ったそれはとても柔らかかった。

「彼女は組織ではなんて呼ばれているんですか?やっぱりお酒の名前ですか?」
「ああ、ベルモット、と呼ばれているよ」
「ベルモット・・・、またお洒落な名前で美女にピッタリって感じですね」
「見た目はな、腹の内では何を考えているのやら」

僅かにブルーグレイの双眸が険しくなる。その瞳が物語るのは、ベルモットへの介入のし辛さと、目的である組織をどこまでも追いかけようとする執念だった。

「一筋縄じゃいかない相手なんですね」
「色々、な」
「無理したらだめですよ」
「ああ、わかってる」

そう言ってもきっとこの人は無理をするんだろう、とは思った。彼を止める資格は自分にはない。けれどもどうか無茶はしないでほしい。そのために手伝えることがあるのなら何でも力になりたかった。それもきっと最低限しかさせてもらえない気がしてならないけれど。

「お、いい具合だ」

落し蓋を取り上げた鍋に、降谷はこれまた目分量の砂糖と蜂蜜を投入した。木箆で混ぜ合わせていけば、すぐに煮込まれた食材が照りを放つ。ごはんのお供にぴったりだ、と思いながらは降谷から渡された味噌をもう一つの鍋の中で溶かしていく。料理はもう完成間近だった。

「降谷さん」
「ん?」
「お味噌汁、濃さどうですか?」

お玉に掬った少量の味噌汁を差し出される。まだ湯気の立つそれに注意しながら降谷が口を付ければ、まろやかな塩味が体内にするりと染みていった。「丁度良いよ」と言うとは「良かった」と微笑む。
これで付き合ってないんだから笑ってしまう、と降谷は思った。一緒に食事を作って、それをこれから食べて、旅行の話だってするのに、自分たちの間に特別なものは何もない。表面的にはただの上司と部下、せいぜい仲の良い友達だ。緊張も確かにある。けれども今のそれは張り詰めるようなものではなくて、心の中でたおやかに流れるものだ。歯車がかみ合うように全てが自然に感じられる。こういう優しい時間が、これからも続けば良いのに。そうして降谷零という人間が持つものを一つ一つ、彼女にだけは託すことができたなら良いのに。

「これも使ってくれ」
「わ、手毬麩!かわいい〜!降谷さんが買ったんですか?」
「俺以外に誰がいるっていうんだ?」
「前の彼女さん・・・とか?」
「生憎この家に女性を上げたのは君が初めてだ」
「そうなんですか?降谷さんならとっかえひっかえ引く手数多でしょうに」
「おい・・・君は俺のことを何だと思っている、手毬麩くらい買うさ普通に」
「ふふふ、だって全然想像できないんですもん」

くすくすと笑いながら、は放射線状に和の色で着色された、ころころとした手鞠麩を味噌汁に浮かべていく。水分を吸ってそれはすぐに膨らんでいった。呆れ顔の降谷が、「テーブル準備してくるから」とキッチンを後にする。

(でもいたんだろうなあ、すごく好きな人)

今まで何もありませんでした、なんていう方がおかしな年齢だ。それなりに経験は積んできていて当然だろう。初恋から一体何回の恋をしてきたのか。どういう人に惹かれてきたのか。どんな恋路を歩んできたのか。相手の名前も顔もには分からないが、その存在たちにちくりと胸を刺される。付き合ってもないのに余計なことを憂うだなんて傲慢だときっと人は言うのだろう。でもそれでもふと思ってしまうのだ。彼の胸を焦がしてきた人の数々を。

(ねえ降谷さん、その人は、どんな人だったんですか?)

お玉で鍋を優しくかき混ぜながら、彼女は去りゆく彼を視線で追った。ふわりと揺れる彼の髪が、部屋の明かりに照らされてきらきらと輝いている。太陽のように鮮やかで、月のように優しくて、本当に綺麗な色だ。英国庭園で触れたあの感触がふとの手の平に蘇った。









「降谷さん、いつかお店開きましょう」

ごくん。口の中のものを嚥下するや否やは至極真面目な表情で降谷を正視した。第一声がそれか、と彼は茶碗を片手に呆れた表情を浮かべている。その心にはじんわりと広がる充足を隠して。

「んんん・・・ものすごくおいしい・・・」
「君も一緒に作ったろ」
「味付けは全部降谷さんですもん」

炊き立てのふっくらとした白米に、ゴボウとレンコンと鶏肉の甘辛煮、昨日の残りの野菜の揚げ浸しに、大根と手鞠麩の味噌汁。彼女は眉根を寄せて幸せそうにできたての食事を噛み締めた。胃袋を掴まれる世の男性はきっとこんな気持ちなんだろう、とさらに箸を口に運ぶ。そんな彼女を前に、こんなにも喜んでもらえるのなら今後ちょくちょく家で食事をするのも良いかもしれない、と降谷もまた揚げ浸しに箸を付けた。

の口に合って良かったよ」
「はあ・・・すごく美味しいです、ほんとに最高です・・・」
「頬がゆるゆるじゃないか。ふにゃふにゃの顔してるぞ」
「ふふ、しあわせですから」
「何よりだ。たんとお食べ」
「はーい」

そう言ってまた一口。あの短時間でどうやったらゴボウにもレンコンにもこんなに味が染みるのだろう。固くなりがちな鶏肉もジューシーに炊き上がっていて、皮の油がコクとなって全体に深みを出している。だからといって重たい訳ではなくて、さっぱりとした生姜が良いアクセントになっていて後引きだ。昨日作った残りだという揚げ浸しも出汁が野菜に染み込んでいて、二日目にしか出せない味がそこにはあった。噛むたびにじゅわっと染み出る鰹出汁の旨味はなんともたまらない。外の料理も好きだが家庭的な味付けはそれ以上にの好みで、胃も心も満たされるのを感じれば、一日の疲れもあっという間に吹き飛んでいくのだった。

「なんでこんなにゴボウが美味しいんでしょう、味が染み染み」
「潰し切りにすると、火が通るのも早いし灰汁もしっかり出るからその分味を吸収するんだよ」
「へええ、じゃあこの鶏肉のジューシーさは?」
「一番最後に入れると火が通り過ぎず柔らかくなるんだ。それに皮から入れると溶け出した油が煮汁の表面をコーディングしてくれるから旨味を逃がしにくい」
「なるほど・・・。ほんと降谷さんがお店開いたら毎日通うのになあ」

「小料理屋降谷、良いと思いません?」と首を傾げるに、「なんてひねりのない名前だ」と降谷は笑う。そんな料理屋なんか開かずとも、もっと良い方法があるのに。その思いを胸にしまいながら、ご満悦な彼女を前に多幸感に包まれるのを感じた。

(ほんと、美味そうに食べるなあ)

信頼を寄せる相手と食事を取ること。相手の腹が満たされること。そのことが降谷に大きな喜びをもたらした。特に今目の前にいる彼女は自分が作った料理を食べているのだから、その気持ちもひとしおだ。箸が口元に届く際に伏し目がちになる視線。ゆっくりと口が開かれる瞬間。そこから見える赤い舌と咥内の粘膜。綻ぶ表情。飲み込まれる時の喉の動き。その所作の一つ一つに吸い込まれるように目を奪われる。こういう平和な一日の終わりがずっと続いたなら良いのに。

「・・・ふ、降谷さん」
「・・・」
「降谷さん!」
「・・・え?」
「あ、あの、そんなに見られるとですね」

どうやら彼は箸を止めてずっと彼女が食べるところを直視していたらしい。見られてしまった、とは恥ずかしさからほんのりと頬を染めて降谷から視線を反らしてしまう。

(降谷さんとの食事は好きだけど、こんなに見られたら、ちょっと、さすがに)

ものすごく、緊張してしまうから―…。
昔、好きな人の前で上手く食事ができないことが彼女にはあった。一口とは一体どのぐらいが女子として見られるのに適量なのだろうとか、水をごくごく飲むのは止めたほうが良いだろうかとか、作法は合っているだろうかとか、零さないように食べれるだろうか、とか。数え上げたらキリがないほどに浮かんでくる疑問と不安と緊張に呑み込まれて、せっかくの食事を楽しむことができなかった記憶が沸々と蘇る。「美味しい」の一言ですら顔をガチガチにしながら言ってしまったのだ。けれどそれは、相手のことを異性として意識しているからこその反応の現れだと思っていた。
そう、バーボンに、降谷零に出逢うまでは。
彼との食事はとても不思議だった。一緒にいることに対しての緊張はもちろんあるがそれ以上に楽しさの方が多くて、食べ物を口に運ぶのも、水を飲むのも、カトラリーを使うのも、全てが自然体でいられたのだ。美味しいものをより美味しく感じるのは、きっと彼の醸す雰囲気からかもしれない。「美味しい」と言った時に返ってくる、まるで全てを包み込んでくれるかのような降谷の目を細めた顔がは好きだった。
とはいえど。まじろぎもせずに見られてしまったならば。そうもいかないのは言を俟たないというものだ。

「あ・・・すまない、つい」
「つ、つい?」
「可愛いなと、思って」
「ぶっ」

思わず味噌汁を吹くところだった、とは息を詰めて箸を持った手もそのままに口元を覆う。

(見ているところを見られてしまった)

降谷は体内の熱が一挙に顔に集まるのを感じた。見られてしまった。彼女を眺めているところを。一体自分は今どういう顔で彼女を見ていたのだろうか。ぼうっとして、何も考えないで、ただただ彼女だけに意識を奪われて。すごく間抜けな顔だった気がする。彼の頭を占めるのはそのことばかりで、今しがた口にした言葉もちゃんと認識できていないらしい。

(熱い、顔が)

慌てて麦茶の入ったグラスに手を伸ばす。うっすらと汗をかいたそれに彼は口を付けて一気に傾けた。冷たい液体が食道を通っていくのがよく分かった。

(・・・ふ、ふるやさん)

珍しく取り乱す降谷を前に、なんだか見てはいけないものを見てしまった気になっただが、普段目にすることのできない彼の姿が彼女の心に与えた衝撃はとても大きかったようだ。

(どうしよう、降谷さんかわいい、かっこいい、かわいい)

耳が赤くなっている。あの降谷さんが。背筋を伸ばして凛然とした立ち振る舞いで仕事に向き合うあの降谷さんが。年の割には幼さの残る表情(童顔と言うと怒られる)に赤みが差すとそれだけで十代の少年らしさが増す気がする。なのにそこには同時に大人の色気もあって、相反する二つの特性が混ざりに混ざって仕方がない。麦茶を飲み干す時の喉仏の上がり下がりに魅せられながら、ハっと我に戻ったが取り繕うように慌てて口を開く。

「お、お醤油とか、お出汁とか、なんでこんなにほっこりするんでしょうね」

しまった、気を使わせてしまった、と降谷は咳払いと深呼吸で心の乱れに終止符を打つ。

「・・・そうだな、日本人のDNAにそう感じるよう組み込まれているのかもしれないな」
「非科学的なことを降谷さんの口から聞くとは・・・」
「科学じゃ説明できないことがあるほうが世の中面白いさ」

ふふ、と降谷は唇を弓なりに上げて、それから味噌汁に口を付けた。確かに。安心する味だ。凝り固まった疲れがほぐされていくような、何にも変えがたい優しい味だ。それから彼は言った。「まあでも、小さい頃から体に叩き込まれているのかもな」と。彼の瞳に映るは「というと?」と首を傾げている。

「小さい時、家に帰る頃にはよく色んなところから醤油や出汁の匂いがしていなかったか?」
「ん、わかります、してました」

小学校で友達と泥だらけになるまで遊んだ帰り道、中学校で文化祭の準備で遅くなった帰り道、高校でへとへとになるまで頑張った部活の帰り道。沈みゆく夕日が町を橙に染める夕暮れ時は、いつもどこかの家から醤油や出汁の匂いが風とともに流れていた。日々の何気ない一コマの中で、そうした香りを小さい頃から日本人はよく嗅いできた。ベルが鳴ったら尻尾を振って駆け寄るパブロフの犬のように、自分たちの体にもいつの間にか染み付いてきたのかもしれない。それがある日、そう、大人になった時、ふと鼻を掠めるそれらを通して思い出すのだ。安堵と郷愁を。街の匂いとはまた違う家庭の匂いを。思い描く光景はそれぞれ違うことだろう。しかし根底に流れるものはきっとどれも似たようなものばかりだ。

「嗅覚は他のどの感覚や器官よりも記憶と結びついている。きっと毎日毎日、少しずつ脳や体に浸透して忘れられないようになっていくんだ。それで匂いを嗅ぐたびに思い出すんだろうな、在りし日の面影とともに」
「じゃあ、いつかきっとこのお料理を思い出して、懐かしいなって思う日がやってきますね」
「ふふ、それはすごく光栄なことだ」
「あ、なんでしたっけ、マドレーヌの匂いで昔のことを思い出すのって」
「プルーストの『失われた時を求めて』だな。とてもすばらしい小説だよ」

二十世紀を代表する作家を三人挙げよと問われたならば、必ず入る一人がこのマルセル・プルーストだ(他の二人はフランツ・カフカとジェイムズ・ジョイスだろう)。作家の半生もの時間を費やし書きあげられたこの小説は一種の枠物語であり、その中では人間模様から社会批判まで多くの事柄が取り扱われている。文学的、政治的、哲学的意味も含めて内容を深奥まで理解するのは非常に難しい作品だが、いつか時間ができたらもう一度読み直してみるか、と降谷は思った。

「それで?ニューヨークはどこに行くんだ?」
「降谷さんはどこに行きたいですか?」
「何言ってる、の旅なんだ。が行きたいところに行こう」
「それが決めあぐねているというか・・・」
「何か問題でも?」

「問題というわけではないんですが」とは口篭る。現地に滞在できるのは三日間。帰りの飛行機が次の日の夕方のため実質三日半の時間が彼女にはあるが、一日遅れてやってくる降谷との時間は二日半だ。前もって休暇の申請をしていた彼女は日本を発つまでの仕事のスケジュールにも余裕がある。だが無理やり休暇をもぎり取ってきた彼は、おそらく予定していた以上の仕事を短期間に抱え込んでしまっていることだろう。

(ちゃんとのんびりもしてほしいし、したいこともしてほしい)

長時間のフライトがあるからとはいえ横になって寝れる訳ではないし、乗り合わせる客次第でその環境が天国にも地獄にもなりうる。ただでさえ日頃無理をしがちなのに、疲れているところを振り回すのはどうにもこうにも忍びない。もちろん一緒に行かないかと誘ったのが自分からなんてことは百も承知だ。だができることならば美味しいものを食べて、趣味に合う買い物をして、気に入った景色を見て、それでゆっくり休んでほしい。かといってそれをそのまま伝えてみたところで返ってくる答えは容易に想像できるから困ってしまう。

「行きたいところもあるんですけど、でも休暇なんて滅多にないのでのんびりもしたいなあなんて・・・」
「観光するだけが旅行の全てじゃないし、後悔しない程度に行きたいところに行ったならのんびりも良いんじゃないか?のしたいことをしよう」
「降谷さんのしたいこともしたいです」
「俺のことは気にするな」
「いやです」
「なんで」
「だって私のしたいことの一つに、「降谷さんがしたいことをする」があるからです」
「・・・!」

なんてずるい返事だ、と降谷は思った。だが同時にどう返したら良いのか分からなくなってしまい、歯に挟まるゴボウの繊維を取ろうと舌を滑らせ始めてしまう。しかし上手く取ることができない。違う。こんなことしてる場合じゃない。に何か答えねば。

(俺がしたいことって、なんだ?)









を家まで送った降谷は自室のソファに座っていた。その手にあるのはコーヒーの入ったマグカップ。時折口を付けながらもどこか焦点の合わぬ瞳が窓の外に向けられている。

(部屋が広い・・・)

何年もここに一人で暮らしてきたのに。広いだなんて一度も思ったことはなかったのに。朝起きて、顔を洗って一人分の朝食を取って家を出る。それで仕事が終わってまた家に帰ってきて、一人分の食事を作り、一人分のコーヒーを淹れて、風呂に入って一人またベッドに沈む。「いってきます」も「ただいま」も「おやすみ」も。とっくに遠い昔に置いてきてしまった。そんな生活が当たり前になってもう何年目だったろうか。一人暮らしは快適だ。誰に何を邪魔されるでもなく好きに自分のペースで生活できる。それなのに、降谷の脳裏に浮かぶのは先の光景ばかりだった。
と食事を作り、一緒に食べ、食後にコーヒーを飲みながら談話し、彼女が洗った食器を彼が拭いて棚にしまう。そのどの瞬間にも彼女との会話があり、二人の笑い声があった。
この部屋に自分以外の誰かがいたという未だ冷めやらぬ残り香。それが降谷の胸に重たい鉛のように沈んでいく。別れたばかりなのに、もう彼女に会いたい気持ちが込み上がって仕方がない。
彼はそっと瞳を閉じて、瞼の裏に何度も描き出した。「おやすみなさい」と背を向けて歩き出した彼女が、一度だけこちらに振り返り手を振った時の表情を。

(ああそうか、人はこれを寂しいと言うのか)

ぽっかりと空いた穴。物憂げな一人の空間。
世の中には名前の付いていないものが沢山あるのに、この気持ちにはしっかり名前が付いている。それを恨めしく思いながら、彼はどこか自嘲気味に口角を上げた。

(したいこと、か)

休日はどうやって過ごしていただろうかと彼は記憶を辿る。しかし休日らしい休日の姿が浮かばない。それどころか最後に丸一日休みだったのがいつだったかも思い出せない。そうか、それほどまでに働き通しだったのか、と改めて思い知る。
「考えておくよ」なんてありきたりな返事をしたものの、その中身を降谷は想像できないでいた。したいこととは一体何だろう。読書がしたいとか、何か物作りがしたいとか、そういう簡単なものではない。この国を飛び出してと一緒にしたいこと、だ。

の隣にいられたら、それだけで十分なのに)

それ以上何があるというのだろう。滅多にない休みの日に、一日ずっと一緒に彼女といることができるなら、それはとても贅沢で、幸せなことだ。決して菩薩なわけではない。ただ、観光名所に行くことも、流行りの店で買い物をすることも、美味しいと評判のレストランで食事をすることも、彼女といるから楽しいのだ。だからこそ彼女には、彼女のしたいことをしてほしいのに。

(・・・悩む)

降谷の瞼がゆっくりと上げられる。翳りの差すブルーグレイの瞳は相変わらずぼんやりとしていた。まだ温かさの残るコーヒーを一気に飲み干して、再び彼は窓の外を眺めた。室内の様子が反射される奥に見える幾つかの星。こちらからははっきりとその姿が見えているのに、星の光にはこちらが見えていない。数百年、数千年、数万年、あるいは数十億年も前の光。声をかけても届かない。追い求めても永遠に辿りつかない儚い距離。それはまるで彼の人生のようだった。「バイバイだね、零くん」と言って去ってしまった先生も、別れの言葉を残さずに殉職してしまった仲間たちも、「じゃあな、ゼロ」と助けることのできなかった幼馴染も。ずっとずっと、彼は追いかけていた。そう、届かぬところに行ってしまった彼らをただずっと。そして彼はさらに追いかけている。すべての諸悪の権化を。そんな風に追いかける時間の方が長かった彼にとって、何かを求められるのは少し苦手な部類だった。
恋もそうだ。のめり込んだならばそれはいつだって人間を弱くさせる。だから自分から求めるだけだった。相手の気持ちを顧みることを彼は絶対にしなかった。そうしておけば、傷つくことも捉われることもなかったのだから。

(・・・)

愛されたいだなんて感情は心の奥底にしまい込んで錠をかけてしまったのに。なのにどうして相手には、感情を上手くコントロールできないのだろう。

(ああでも、あの時みたいに公園でのんびりするのは良いかもしれない)

ゆるやかに体に押し寄せる睡魔を感じて、降谷はマグカップを持って立ち上がった。その視線はすっかり片付けられたテーブルに優しく注がれていたのだった。











(2017.7.29 was gibt es heute zu essen?=今日のご飯はなんですか?)
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