全身に響き渡る銃声。何もかもが平然としたまま。息をするのと何も変わらない。目標を見据えて、引き金を引く。ただそれだけのことだ。倒れた的には勿論何の感情もない。
拳銃を手にしてまだ日の浅かったころ、耳栓のためのヘッドホンを装着していても、重く鈍い音に脳の動きを奪われては、肩に圧し掛かる反動に体のバランスを失い教官に叱られていた。初々しいあの日を思い出すのはどこかこそばゆい。今ではもうすっかり慣れてしまったが、それはその教官の教えのおかげという、胸が熱くなるような青春の断片がそこにある訳では決してなくて、単純に自分が手先の器用な人間で、失敗から教訓を得てはそれを活かすのが上手かっただけだ。なんてことを言ったならばきっと、嫌味な奴だと同期たちは口をそろえて文句を言うのだろう。
そんな同期たちの儚くも美しい思い出の数々がここにはある。だからこそ定期的にここへ足を運ばなければならないこの射撃訓練が嫌いだった。早く警察庁にも訓練場ができればいいのに。

(・・・)

懐かしの学び舎。もう二度と戻らない青い日々。

(でもなにより)

グリップを握り直す。右手を包み込むように下から左手を添えて、僅かな手のブレを安定させる。顎を引き、黒く塗りつぶされた人型の的の心臓部に標準を合わせて、ゆっくりと引き金に手をかけた。
重なる。あの的と、あの男が。否が応にもここに来るたびに脳裏を過ぎる。憎くて憎くてたまらない、返り血を頬に飛ばしたあの男の姿が。
開く瞳孔の奥に映るところに、奴がいる。ライが。赤井秀一が。眉間に強く力を込めると、米神がじん痛くなった。しかしそんな痛みが一体何だというのだろう。

(くそったれ)

耳栓越しに篭った音がまた体中を走った。鼻を突く火薬の匂い。心臓をひと抜きしたそこからかすかに見える奥の世界。行った者にしか分からないそこには、何があるのだろう。ここからでは何も見えない。ただ小さな穴が開いているだけ。
あれは空気の乾いた夜だった。雲ひとつない、眩暈を覚えるほどに星の光が届いた夜だった。心の中で幼馴染の名前を呼ぶ。なあ、ライはお前のことを何も知らないんだ。本当の名前も、どんな人生を歩んできたかも、女の趣味も嫌いな人間も、好きな場所も止められない癖も、ぜんぶぜんぶ、あの男は知らない。それなのに、どうして最後にお前と会ったのがあいつだったんだ。なあ、俺の知らないところで一体何を話したんだ。お前はあの時何を考えて、何を最期に残そうとしていたんだ。
それを聞くことも、別れの挨拶もできぬまま。あの穴の奥の世界で、お前が見ているもの全て、俺には何一つだって分からないんだよ。ただただ全身から冷たい汗を流していた。張り裂けそうな心臓がこれ以上ないほどに短く強い音を鳴らし、瞬きも忘れ、涙も嗚咽も忘れてしまったのに、あの男が階段を降りていく音だけはしっかりと耳に響いていたんだ。覚えている。靴の裏が金属を叩く音を。まるで消えゆく心臓の鼓動のようなリズムを。

(嫌いだ。あいつのなにもかもが)

再び一発。それは先ほど開けた穴の隣を、半分重なるように通り抜けていった。あの男なら寸分の狂いもなく穴に弾を貫通させていくのだろう。あらゆるものに秀でた男。洞察力も、身体能力も。この自分を追い抜き兼ねない人間だと、産毛の先まで脅威が走った唯一の男。それが何を意味しているのか自分でもよく分かっている。そう、心のどこかで悔しくもあの男の実力を認めているのだということを。ライフルのスコープから照準を合わせるあの鋭い眼光、飄々とした喋り方の奥に見せる沈着冷静な振る舞い。だからこそ、彼ならどうにかできるとも思っていた、なんて。皮肉だ。人生の汚点だ。

(見つけてやる、どんな手段を使ってでも)

追い続けてやる。地獄の果てまでも。知っているか赤井。そんな思いを抱くほどに、人という生き物は燃え盛る炎のように誰かを強く憎しむことができるのだと。

(・・・それなのに)

心の中に流れてくるんだ。の俺の名を呼ぶ声が。冷たい氷の混じる雪を溶かす、あの温かく優しい春風のような彼女の声が。
彼女が歩くと、それだけで新芽が芽吹く。彼女が笑うと、それだけで沢山の色に彩られた花が舞う。青空はより青に、夕焼けはより橙に、夜空はより濃紺に。世界にはまだまだ知らない色があって、まるで全てを彼女が司っているみたいに、その世界はとても、言葉で表現できないほどに美しいのだ。
恋をしている。焦がれるほどの。彼女の全てをこの手に掴んで抱きしめたい。脇道を歩いてみたり、罠を仕掛けてみたり、顔色を窺ってみたり、そんなちゃちな小細工一つできぬほどに、ただただ胸の鐘を鳴らしている。
憤怒。怨恨。憎悪。水面など決して見えぬ言葉の渦巻く海底を棲家にしている人間が、欺瞞と醜悪に満ちた世の中に牙を向きたいだなんて、偉そうな顔でよくもずけずけと言い放てたものだと今でも思う。本当はあの男の身も心もずたずたに引き裂いてしまいたい。人権なんて、尊厳なんてくそくらえ。ご自慢の指を全てへし折って、ライフルなんて手にできなくしてやりたい。腕も足も何もかも不自由にしてしまいたい。歪んだ憎しみに肉体が乗っ取られても構わないぐらいに、俺はあいつが憎くて憎くてしかたない。

(殺したいほど憎んでいる男がいると言ったら、彼女はなんと返すのだろう)

きっと彼女は、「復讐なんてやめてほしい」とは言わないだろう。いや、絶対に言えるはずがないのだ。だからいつかそんな彼女につけ込んで、危険に晒したくないと願う彼女すらをも使ってしまうのでは、と極たまに思ってしまう。信じられないほど最低だ。
でもそれ以上に思うのだ。彼女の傍でならその全てを乗り越えられる気がしたあの時の気持ちに変わりがないことを。この心から零れる愛を一つずつ、一つずつ丁寧に拾い上げて、彼女と育んでいけたならきっと、健やかな毎日を綴っていけるのだと。愛おしい。彼女の何もかもが。あまやかに、たおやかに、彼女は鎖で雁字搦めの自分を融かしていく。ひとたび触れてしまったならもう二度とは戻れないような、そういう力が彼女にはある。もちろんそれが恋をしているからこそだということは分かっているが、気が付いたら心の殆どを奪われてしまっていた。
どうして彼女を好きになったのかなんてそんな野暮なことは分からない。落ちてしまったから恋なのだ。可愛い子も、綺麗な人も、内面の美しい人も、世の中に数え切れないほどいるけれど、自分にとっての全てがだった。彼女が隣にいると心がとても落ち着く。その平穏の中供にする食事はとても美味しく、活力が湧いてくる。街中を歩くたびに彼女が好きそうなものを見つけては頬が緩み、いざ現場に出れば背中を預けられる喜びがそこにある。運命の赤い糸がもしこの世にあるというのなら、自分の小指に巻きつくそれが彼女に繋がっていたら良いとそう思ったことがあった。けれどもそれと同じぐらい、初めから決められていた恋なんてつまらないとも思った。彼女と出逢ったのは必然ではなくて、偶然の方が良い。手放したくないから掴みにいく。運命の力なんかじゃなくて、自分の力で求めるんだ。全てが眩しく、鮮やかな彼女を。
その瞳が自分の全てを映してくれることがあったならば、それはこの上ない倖せと呼べるだろう。彼女といたらきっと、心から笑える自分を取り戻せる気がする、なんて。そんなことを、確かに思うのだ。

といる時、赤井のことを忘れた自分がいた)

それは嬉しくもあり、けれども同時に悔しくもある。体の奥底に刻み込んだあの猛毒のような憎悪を。その毒が、崩れるように細かく砕けて消えてなくなりそうになるだなんて。
そうなる自分に嫌気が差す。虫唾が走る。あってはならないことだ。彼女に原因は一つとしてない。これは単に自分の問題だ。彼女のことを愛して、心の底から欲しているのに、あたたかな場所を求めることがまるでぬるま湯に浸かるかのようで、腑抜けていく自分に吐き気がする時がある。それは降谷零を降谷零たらしめるものの一つに、赤井秀一がいるからだ。もはや病的とも言える事実を前に、反吐が出る。

(それでもいつからか思ってしまった。彼女に愛されたいと)

乾いた音が何重にも響く。
人型の頭に開く幾つもの穴とその奥の世界。
愛していると、憎んでいるはとてもよく似ている。だから俺は追いかける。あの男を。全てに決着をつける、その時まで。
















(2017.7.17 Oberflächenspannung=表面張力)   CLOSE