とトークメッセージのIDを交換した。初期設定から変更していない自分のアイコンと違って、彼女のそれは犬の写真だった。聞けば昔近所の家で飼われていたというあの犬のようで、貰った写真を携帯で撮り直してアイコンにしたらしい。犬種はイギリス系のゴールデン・レトリーバーで、確かにこの犬の耳の一番濃い部分が自分の髪色と似ている(ちなみにアメリカ系はもっと色が濃く、マズルがイギリス系よりも長い)。相当思い入れが深いのか、彼女の瞳はなんとも慈愛に満ちていて、「もふもふが恋しいです」と懐かしそうに言うので、彼女のハートを鷲掴みにしていたこの犬が少し羨ましかった、なんて犬に妬きもちを焼いてどうする、と心の中で自身に突っ込む。気分を変えるつもりで犬派なのかと問えば、どちらかと言われれば犬派だが猫も同じぐらいに好きなようで、「美味しいと可愛いともふもふは三大正義です」と訳の分からない(いや実は少しだけ分かる)ことを真面目な顔で言っていた。
隣に彼女がいるまま「よろしく」と送ったら、当たり前だがすぐに既読マークが付いた。そして数秒後に「よろしくお願いします」と返ってきた。携帯をポケットにしまった彼女が「隣にいるのに変ですね」と言い、「そうだな」と返したらば、「こうやって現代人は同じ空間にいながらコミュニケーションを失っていくんですね」と予想外のことを言われた。なので「同じ空間にいても君は黙っていられないだろ」と返し、互いに顔を見合わせてくすくすと笑った。
他愛のない話ができる喜びを、人はどう表現するのだろう。心が弾むようなその一瞬を的確に表せるものは何だろう。この世には、名前の付いていないものがとても多い気がしてならない。










プライベートの連絡先を知ってから早一週間。実は何もやりとりをしていない。メッセージ画面は相変わらず「よろしく」と「よろしくお願いします」の二つのみ。そこから何の音沙汰も無く、庁舎でも顔を会わすこともなく。仕事のせいとは言えなかった。黒の組織からの連絡待ち状態のバーボンとしては、むしろ普段よりも時間に余裕がある。体裁を整えるようなことを取っ払ってしまえば、我ながら何を送ったらいいのか分からない、というただの面倒くさいアラサーの、生娘にも近い恋心が残っているだけなのだ。「今何してる」も違う気がするし、「一緒に帰らないか」もしっくりこない。自分の気持ちが文字に残ることが恥ずかしいとかいう、恋を覚えたての十代の青臭さが前面に出てきてしまってしょうがないのと、文字にすることで下心が丸見えになってしまうのがいやだった。下心なんて、もうとっくにバレているけれど。自分から何も送る勇気がないくせに、それでいて彼女の方から何か連絡が来ないかなどと期待するこの女々しさ。異性との距離の取り方なんて今までに経験してきた筈なのに、おかしな話だと自分でもつくづく思う。
と、そんなことを杯戸駅前のロータリーで考え始めて早十分近くが経過したところで、携帯がピコンと鳴った。もしかして、なんて期待して画面を確認したら風見からだった。そうそうドラマみたいな展開もあるまい、と彼からのメッセージを見るとそこには夜の予定が無くなったと書かれていた。今日の夜は六時から警備局のお偉いたちを交えた飲み会の予定だった。といっても昨日急遽決まっただけの、思い立ったが吉日のようなものだが、結局そのお偉いたちが来れなくなってしまったのならば、そんな接待染みた会なぞ開くかというのが我ら僕が出した答えと言うわけだ。その考えは非常に正しいと思う。
自分は探偵業として動いていたため直接駅に向かうと伝えていたが、夜の予定がすっぽり開いたとなればここにいる必要もなくなってしまった。酒を飲むと分かっていたから愛車は自宅の駐車場で眠っている。久々に電車に乗ってやってきたからこそ、このまま帰るのはどこか癪で、町でも散策するかとロータリーを後にして大通りへと歩き出した。





*




そこは大通りから一本路地を入った上り坂の途中にある、小さな小さな映画館だった。少しだけ古い匂いのする、寂びれた概観。内装はそこそこ清潔感があったが、壁に貼られたポスターは、角のところが破れていたり捲れていたりしていた。きっと昭和時代を思い出したい中年より上の世代の人間からしてみれば、そこにこそ趣があるんだよ、と言うのかもしれない。さて外に貼ってあったポスターの映画はどれかと電光掲示板を見たが、考える必要は無かった。上映予定の映画は一種類だけだった。
チケット売り場に座る、髪の毛をショッキングピンクに染めた老婆が、「そこのアンタ、映画見るのかい?もうあと二分で始まるからほれチケット早く買いな」と急かすので、慌てて財布を取り出すと、「五百円だよ」と彼女が催促するように手を伸ばしてきた。五百円とはまた格安な、と財布の中を見たら五百円玉が無かったので小銭で払うと、彼女は眉間に皺を寄せ、目を凝らしながら百円玉が五枚あることを確認している。レジの横には灰皿が置かれていて、すでにそこは吸殻で一杯だった。ロックなお婆さんだ、と思っていると、「はいよ」と厚紙で作られた小さなチケットを渡された。右下の隅だけ切り取られていて、それが通行チェックのサインなのだろう。
ロビーとシアターを隔てるのはバーガンディ色の分厚いカーテンだけだった。音漏れは大丈夫なのだろうかと思ったが、室内に足を踏み入れると外からでは気が付かないぐらい大きな音が鳴り響いたので、一応防音の役割は果たしているらしい。一列十席が十段。収容人数に対して客は自分も含めて三人だけだった。こんな状態で運営が成り立っているのが不思議でしょうがない。けれど密会場としては申し分無いほど良い場所だ。選び放題の席から、スクリーンが見やすいやや後部よりの真ん中の席に腰を降ろす。他の二人のうち一人は最前列の中央に、もう一人は三列目の右端という、この空席状態からわざわざそこを選ぶのかと言いたくなるほど辺鄙なところに座っていて、一癖も二癖もあるコアなファンといったところだろう。
座席のクッションはもう何年も変えられていないのか、座っても全く弾力を返してこないし、臀部と背もたれの辺りは起毛が擦り切れていた。来週からの上映の告知が終わってすぐに本編が始まった。そういえば、全然タイトルを覚えていない。ただなんとなく入り込んだ路地を抜けて、なんとなく貼ってあった英国風のポスターの、どこまでも果ての見えない草原に立つ一人の少女の姿に、いざなわれるようにここに入って来てしまっただけなのだ。
意図的なノイズの入った画面が流れる。あたかも人が眠りから覚める時のように次第に画面が鮮やかになっていくと、そこはポスターにあった光景と同じところだった。だだっ広い草原の真ん中に、白いワンピースを着た少女が立っている。その少女がこちらを向いて無垢な笑顔で手を振ると、一人の少年が画面に飛び込むようにして彼女の元へと駆けて行った。それは幼馴染のような関係に思えた。少年はポケットから銀紙に包まれたチョコレートを取り出すと、それを半分に折って少女と分け合っている。楽しそうに、目をきらきらさせながらチョコレートを齧る少年の口の端が、僅かに茶色くなっていた。それに気が付いた少女が小さな指で拭う。そして二人は顔を見合わせて笑うのだ。しかし一人の大人が―おそらく少女の母親であろう―怒った表情で少女の手を引いて連れ去ってしまう。彼女が手にしていたチョコレートを少年の顔へと投げ捨てて。
暗転ののち、少年と少女は一回りほど成長し、思春期を迎えた年頃の男女になっていた。少年はピアスを開け、体のいたるところにタトゥーを入れている、いわゆる不良少年というやつだ。その一方で少女は清楚なワンピースに身を包み、教科書やノートを小脇に抱えて歩く才女になっていた。一見真逆に見える二人だったが、昔からの関係は続いているようで、彼らは少女の両親の目を盗んでは密会を繰り返していた。見詰め合う熱い瞳や、口付けがなされる瞬間に流れるワルツの調べ。いつか結婚ができる年になったらすぐにでも教会に行こう、と愛を誓っていた。
ある日少女の両親がコンサートのために家を留守にするというので、少女はここぞとばかりに少年を家に招き上げた。幼い頃から築き上げてきた純愛なのだと言わんばかりに、二人の身体が重なり合う。しかしどうしたことか少女の両親が帰ってきてしまった。理由は開演直前の奏者の体調不良だった。だが二人はベッドを軋ませるのに夢中で、玄関のドアが開いたことにも気が付かない。そしてとうとう彼らのいる部屋のドアが開いて、少女の母親の悲鳴によって彼らは現実に戻る。母親は耳を劈くような声で出て行けと叫び、少年を掌で叩きながら追い出しにかかるのを、少女が必死に止めにかかっている。だがそのあとやって来た父親に無理やり担ぎ上げられて、家から裸のまま投げ捨てられてしまった。
雨の降る中、少年は身体を震わせながら全裸で暗闇を走り続けた。少女は両親に何度も打たれ、切れた唇の端から血を流している。少女は叫んだ。どうして私たちの愛を割くのか、どうして自分の未来を自分で決めることができないのか、と。
そして二人は駆け落ちした。手をつないで、最低限の荷物を持って。道という道を走って、少ないお金で電車を乗り継いで。たどり着いたのは、彼らの住む町から離れたところにある小さな町だった。そこで二人は一緒に暮らし出す。愛を紡ぎながら、幸せな毎日を送る。働いて貯めたお金でささやかな結婚式をしようと教会の予約に行くと、神父が病に倒れてしまい、代わりが来るのが三日後だからまた出直してきてほしい、と庭師に言われてしまう。残念だね、また明々後日来よう、と二人は手をつないで、その帰りにウェディングドレスの下見に寄っていた。
三日後。二人は新しい神父の下教会の予約を取り付けた。彼らは結婚式当日まで準備に追われながらも、大きな幸せを前に胸を膨らませている。君と出逢うために生まれて来ることができて本当に良かったと涙を流す少年に、慈愛のキスを贈る少女。
しかし結婚式当日に悲劇は訪れた。偶然にも新しい神父は少女の父親の友人だった。行方不明になった友人の娘がこの町にいる。しかもその娘は素晴らしいことに結婚式を迎えるではないか、と善意から少女の父親に数日前手紙を送っていたのだ。怒り心頭の父親が拳銃片手に教会に乗り込んできて、少年に向けて発砲する。その瞬間、音楽と色が消え、スクリーンはモノクロになった。
色が戻ったのは、スローモーションで弾が発射される様子と、少女が少年を庇おうと身を乗り出した様子と、神父が目を見開く様子と、その全てが流れたあとのことで、教会の鐘が祝福を奏でる中、純白のドレスに身を包んだ少女の腹部から流れる血が、見る者の目に焼きつくような鮮明な赤で描き出されていた。力なく倒れていく少女と、悲痛な叫びを上げる少年。少女は力を振り絞り微笑みを少年に向けて、息絶えてしまった。
わなわなと燃え上がる怒りから少年は少女の父親をギロリと睨み、彼女を撃つ気ではなかったと床に倒れこむ彼の顔面に一発拳を入れ、落ちた拳銃を拾い上げて頭部に弾を撃ち込んだ。
そしてまた暗転。明るくなったそこは刑務所だった。逮捕された少年はその中で膝を抱えて震えている。愛を貫き通したがために彼女を失ってしまった。出逢わなければ良かった。自分なんかと出逢わなければ彼女は死なずに済んだのに。どうして見ているだけではだめだったのだろう。どうして手に入れなくては満足できなかったんだろう。彼女がこの世にいないなんて考えられない。彼女の笑顔がないなんて生きている意味がない。こんなにも辛いなら、出逢うべきなんかじゃなかった。涙をぼろぼろと流しながら、少年は囚人服のボタンを引きちぎり、噛み砕いてできた鋭利な先端で手首を切って自決を図ろうとした。だが、それに気が付いた看守によって止められてしまった。
少年の嗚咽とともにエンドロールが流れる。音楽は無かった。真っ黒な背景に、下から上へと流れていくキャストの名前とその他もろもろ。それが終わると、スクリーンにはウエディング衣装に身を包んだ二人が、冒頭のあの草原で子供の頃のように、チョコレートを分け合って幸せそうに食べるカットが浮かび上がった。
もしもこんな未来があったなら、なんてそんなことを言いたいのだろうか。なんとまあ救いの無い映画だったことだろう。純愛を貫いた二人が引き裂かれるまでのストーリー。とりわけ真新しい題材でもなんでもない。それなのに、刑務所の中での少年の言葉がやけに尾を引いてしまう。

(自分なんかと出逢わなければ彼女は死なずに済んだのに、か)

自分なんかと出逢わなければ、スコッチは死なずに済んだのだろうか。
少年の気持ちと重ねてしまうことがどれほど無意味だと分かっていても、そうさせてしまう空気がこの劇場にはあった気がした。砂浜から綺麗な貝殻を一つ一つ掬い上げるように、彼との思い出は自分にとってかけがえのない大切な宝物だ。だからこそ失いたくなかった。誰よりも自分の心を知っている相棒だった。組織の中で自分が生きてこれたのは、彼の存在があったからだ。それなのに。今はもう二度と、話をすることができない。連れ立って歩くこともできない。彼の描いた未来はこんな形じゃなかったはずだ。もちろん潜入捜査官という立場の手前、最悪の事態は覚悟していた。自分だって組織に身柄が露呈しようものなら、引き金を引く準備ぐらい整っている。それがあの時は自分ではなくて彼の方だっただけだ。そんなこと、分かっている。あの時こうしていたら、ああしていたら。変えようのない事実から目を背けて人はそういうことを考えがちだ。何もそこから生まれはしない。ただ自分の傷を癒すように、はたまた忘れてはならないと化膿させるように。アンビバレントな感情に揺さぶられることを望んでいる。

(・・・萩原も、松田も、もういない)

警察学校時代の友。警視庁警備部機動隊の爆発物処理班のエースたち。萩原はその優しげな顔に似合わずワイルドな語り口で、いつも物思いに耽ったような顔をして煙草を吸っていた。兄貴面をしてはよく話を聞いてもらったっけ。警視庁に仕掛けられた爆弾の解体を待機している間に、タイマーが作動してそのまま殉職したという。松田は捜査一課に異動してからも相変わらず荒っぽい言動の一匹狼だったらしい。萩原の仇を取るために一人死に爆弾魔を追いかけながら、その最期は観覧車の中で爆弾の爆発に巻き込まれてしまったと聞いている。あれだけの爆弾処理の技術は他に類を見ないほどで、つんけんした性格とはいえ自分に爆弾解体の術を全て叩き込んでくれた熱い男だ。本当に惜しい二人を失ったと思う。
惜しい二人を失ったと思う、なんて実際はそんな言葉で片付けられるほど、切り替えの早い人間ではいられない。人伝えに仲間の死を聞かされるのはひどくやるせない。さよならすらも、言わせてもらえないなんて。

(・・・)

懐古というのはどうも感傷的になって仕方がない。公安の人間になった時から彼らに積極的に会うまいと決めたのは自分自身だ。彼らのためにも、自分のためにも。警察学校時代の切磋琢磨し合ったあの青い若葉の記憶があれば、強く生きていけるのだから、と。それでも友人の訃報を受け止めることが簡単ではないからこそ思う。どうか伊達には元気でいてほしいと。
失っていくことが怖かった。誰一人として別れを告げられないままに。一人、また一人と周りからいなくなっていく。フラッシュバックするのは、少女が撃たれた瞬間の、真っ白なドレスに真っ赤な血が滲むシーン。

(・・・

好きだという気持ちと、もう一つの気持ちが混在する。万が一にも危険が彼女に及んだ時に、すぐに助けに行くことができるように。その理由から彼女を巻き込んだつもりだったけれど、それは本当に正しかったのだろうか。むしろ自分の傍にいる方が危険ではないのか。自分と出逢わなければ彼女は平和な日々を送れたのではないのか。それこそまさにさっきの少年そのものだ。
どうして見ているだけではだめなんだろう。どうして手に入れたいと思ってしまうんだろう。バーボンの名を借りて無理やり唇を奪って、その次は庁舎の屋上でキスがしたいだなんて言って、明確な好意の言葉を何一つ言ってもいないのに、さも気持ちを伝えた気になりながら、心の奥底に予防線を張っている。
君の全てを守っていくから。何があっても傍にいるから。だから俺と一緒になってくれないか。そんなことも、言えないくせに―…。
今までの自分が何を守ってきたというのだろう。そんな自分が彼女に好きだと気持ちを伝えることに何の意味があるのだろう。そんなの彼女のためでもなんでもない。ただの自己満足だ。好きというその二文字すら自信を持って伝えることができないのら、彼女の幸せを願って離れるのが一番なんじゃないだろうか。あの健やかな笑顔を失いたくないなら、きっと、傍にいては、いけないのだ。
少年の気持ちが痛いほどに分かるだなんて、なんて皮肉に溢れた映画と巡り合わせてしまったのだろう。

(・・・帰ろう)

席を立つ頃には、自分以外の二人の客はもう既に帰ってしまっていた。受付にいた老婆が掃除のために箒を持って入って来て、早く出て行けと言わんばかりに自分を睨むので、小言をぶつけられる前にそそくさと映画館を後にした。時間を確認するために携帯の電源をつけると、一件の通知が来ていた。名前を見てハっと目を見開く。からだ。連絡が来たのは丁度五分前だった。
トークメッセージを開くと、「降谷さん、夜お暇ですか」と絵文字も何もない簡素な文字が並んでいた。夜お暇、なんて文字列に胸がざわついているのが分かる。「ああ、どうした?」と返すと、すぐに既読マークが付いて「今堤無津川にいるんです。良かったら降谷さんも来ませんか?」と来た。
送りたくても何を送ったらいいか分からなかった自分を、彼女はこんなにも簡単に超えていく。小難しく考えていたのが馬鹿みたいだと思ってしまうと同時に、安堵した自分もいたのが情けない。その上さらにさっきまで感傷的にあれやこれやと思惑を巡らせていた割には、会えるものなら会うに決まってる、と軽々しい自分がいるのにも笑えてしまう。「今すぐ行くよ」と打ち込んで急いで堤無津川へと向かった。




*




「降谷さーん!」

川沿いで周囲に目を配らせていると、手をひらひらとさせる彼女の姿を発見した。呼ばれるがままに進んでいけば、彼女はピクニック用のシートを広げた上にちょこんと座って、タンブラーを傾けていた。コーヒーかなにかだろうかと思ったが、よくよく見たら彼女の顔が少し赤い。となればその中に入ってるのは酒だろうとすぐさま察しがいく。服はスーツではなくて落ち着いた色合いの私服だった。今日は休みだったのだろうか。初めて会った時が私服だったからスーツは見慣れなくて新鮮だ、なんて思っていたのに、今じゃすっかり反対だ。靴を脱いで上がると彼女が「お疲れさまです」と言った。同じように「お疲れ」と返して何をしていたのかと聞いたらば、一人でちびちび酒を仰いでいたという。上着を脱いで彼女の隣に腰を降ろすと、パズルのピースが綺麗に嵌まるように、何かしっくりくるものを感じた。

「で?何を飲んでいるんだ?」
「梅酒です」
「なんでタンブラー?」
「あ、家で作ったものなので」
「え、自家製?」
「はい、自家製です」

ドイツでは簡単に梅酒が手に入らないから、手作りで一から拵えたらしい。無いならば作り出してしまえという精神は人を成長させますね、なんて言いながら彼女がへらへら笑うので、胸の中から重たい石が一つ無くなったような気がした。

「良かったら降谷さんもいかがですか?あ、お嫌でしたら今すぐビールとか買ってきます」
「いや、が作ったものが飲みたい」
「う、殺し文句出た・・・」
「言い出したのは君だ」
「か、かしこまりです、でも、味の保証はしませんよ」

あれ、でもどうやって飲むのだろう。まさかこのまま彼女と一つのタンブラーをシェアするとでも言うのだろうか。それってもしかして間接キスというのでは。そんな中学生みたいなことを考えていたら、彼女は鞄から別のタンブラーと、梅酒が入った小瓶と、ミネラルウォーターと炭酸水を取り出しているではないか。なんて完璧な準備なんだと感心せざるを得ないとともに、崩れ去って行く間接キスの胸の高鳴りに別れを告げる。とはいえど。

(会いたいと、思ってくれたんだろうか)

でなければどうしてタンブラーが二つもという話だ。彼女が自分と会う予定でその準備をしてきてくれたのかもしれないことを思えば、それはそれで中学生ではない大人の自分の心が満たされる。「割りますか?それともロックにしますか?」と聞かれた。色々持ってきてくれたところ悪いが、折角なら彼女が作ったものをできるだけそのまま味わいたいと、ロックを選択した。氷を入れても長時間は溶けることがないのだから、ステンレスタンブラーというものは非常に優秀だ。
梅酒が注がれていく時の、氷に皹が入る音が涼しやかで耳にとても心地良い。手渡されたタンブラーはもうしっかりと冷えていて、掌の熱が奪われていくのが分かる。

「かんぱーい」
「乾杯」

コツン、と容器と容器をくっつけて互いに目を見合わせる。以前彼女から教わった。ドイツでは乾杯の時にちゃんと相手と目を合わせないと、七年間良いセックスができないと。一体何故七年間で何故セックスなのかと問えば、理由は良く分からないと言われてしまった。そんな会話をしても、別に何とも思わないぐらいには大人なのに、どうしてトークメッセージの一つも送ることができなかったんだろう。不思議だ。

「ん、美味いよ。香りも良いしすごく飲みやすい」
「ほんとですか?よかった」

口に含む前からしっかりと梅のフルーティーな香りがしていて、強いアルコール臭もなくまろやかな口当たりで飲みやすい。液体自体は冷たい筈なのに、胃に落ちるとじんわりと温かさが広がっていくのがアルコールの面白いところだが、酒の中でも梅酒は一際その温かさが優しい気がする。夜のピクニックには持ってこいの口の友だ。

「ん、黒糖・・・?」
「あ、そうなんです。黒糖焼酎で作ったので」
「また洒落たものを作るなあ」
「なぜかそれしか売ってなかったんですよ、住んでた町のアジアンショップには」

黒糖焼酎を置くぐらいなら梅酒を輸入してくれればいいのに、と隣で彼女が口を窄める。自然と口角が上がった自分を見て、彼女も目を細めた。そんな彼女の隣では、湿り気を帯びた空気すらも快いと感じた。春の終わりが近い付いている。これからどんどん気温が上がっていくのだろう。青々と茂った葉が陽の光を受けてきらきらと輝くような、そんな毎日はもうすぐそこだ。

「いつもこうしてるのか?」
「いえ、今日は午後休をもらったので、たまたまです」
「午後休?またどうして」
「お墓参りに行きたくて、それで帰りにここに来ようかなって」

聞けば警察大学校の初任幹部課で世話になった教官の命日だったらしい。実際は一昨日がそうだったらしいが、仕事の都合で今日しか休みが取れなかったという。その教官はドイツにいる時に病気で亡くなってしまったそうで、葬儀に参加できなかったのが心残りだと彼女は言った。

「日本を離れる前に会いに行こうと思ったんですよね、でも結局、会えなかったんです。だから余計に心残りで」
「そうだったのか・・・」
「まさか、亡くなってしまうだなんて考えもしなくて」

彼女曰く、彼は誰もが口を揃えて言うほどの健康オタクだった、らしい。同じ教官からも、あいつは余裕で百歳まで生きるだろうと言われていたにも関わらず、還暦を迎える前に眠りについてしまった。死因はすい臓がんだった。すい臓がんは初期症状にこれといった特徴のないことから、本人ですら自覚できないのが常だ。おまけに転移が早く、がんが発見された患者の七、八割は手術ができない場合が多い。
人一倍健康に気を使って生きてきた人間に対して、神さまというのは、はたまた運命というのは時に本当に酷なことをする。

(・・・)

彼女は普段となんら変わりのない顔をしている。おだやかで、朗らかで。でもその内側に隠れる哀愁に、胸がぐっと詰まる。押し流すようにタンブラーに口を付けると、少しだけ氷の解けた梅酒が身体に広がっていった。
ある時、警察というのは人の死に近い職業だと思ったことがあった。今日はあそこの課で誰が殉職しただの、この前どこどこで起きた殺人事件の犯人が射殺されただの。日常となったそれらを他人事のように聞いては聞き流し、気付いたら庁内の掲示板に書き足されていく死者の数を、命ではなく数字として捉えていた。つい感覚が麻痺してしまっていた。その数字が示しているのが、かつて生きていた者たちの命だということを。愛されて生まれてきた者たちだということを。
今日もどこかで彼らの死を悼んでは心を痛めている人たちがいる。死に近いところにいるくせに、そんな大切なことに気が付いたのは近い人の死を経験してからだった。何も分かっていなかった。死を受け止めることが、こんなにも苦しいことだと。じゃあまた明日ね、じゃあまた今度ね、またいつか会おうね。単純な別れとは違う永遠の惜別を、世の人はどうその胸に受け止めているのだろう。

「なあ
「はい」
「・・・君はどうやって、そういう心残りと向き合っている?」

彼女は僅かに口を結んで、視線を川面に向けて、何かを考えているようだった。街灯の光を微かに反射させた水面が、居待月に照らされてきらきらと揺らめいている。綺麗な星も見えない東京では、この光景がやけに美しく思えた。すると隣の彼女が「そうですねえ」と呟いた。

「ちゃんと向き合えてはいないと思います。あの時ああしてれば良かったとか、こうしてれば良かったとか、その繰り返しです」
「・・・そんなことばかり考えてしまうよ、俺も」
「降谷さんも?」
「・・・去年、幼馴染が死んだんだ」
「・・・っ!」

自分の口から彼の死を誰かに言ったのは初めてのことだった。口にしてしまったら、あいつの死を認めてしまう自分と出会ってしまうから。頭では分かっている。もうこの世にあいつがいないことを。だけれども。心はそんな簡単にはいかないのだ。なのに喋ってしまった。それだけ彼女に心を許そうとしている自分がいることに気が付いた。

・・・?」

ふと視線を川面から彼女に向けて、ハっとした。彼女の瞳から一粒、雫が零れ落ちている。

「す、すまない、そんな顔をさせたいわけじゃなくて・・・っ」
「う、ごめん、なさい」

眉根を寄せている彼女の頬にまた一筋の跡が作られていく。そんな顔をさせたいわけじゃないのは本当だが、でも心のどこかに嬉しい気持ちもあった。友を想って泣いてくれたのか、と。
大切な友達を失ったのは彼女も一緒だ。だからこそ、彼女からは辛かったですよね、なんて口先だけの励ましの言葉が出てこなかった。そんな簡単な言葉で癒えるものじゃないと知っているからなのだろう。その距離の置き方が、今はとてもありがたい。

「・・・悪かった。が泣いたり謝ったりする必要なんてどこにもないんだ。こういう仕事柄だ。人の生き死にはとても身近にあるものさ」
「・・・ふる、やさん」

彼女の涙を拭おうと手を伸ばした時にはもう、彼女自身の手によって拭われてしまったあとだった。睫毛を濡らして、鼻を赤くして、少しだけ情けない顔だったけれど、その優しさを思えば愛しさもひとしおだった。
その心根の優しさは、守ってやらねばならない彼女の宝石だ。鼻の奥がじんとして、切なくなって、彼女を抱きしめたいと思った。しかしふと脳裏に浮かび上がったのは、刑務所で蹲るあの少年。その少年が自分に向かって言っている。手を伸ばしたならば、その先は悲劇しかない、と。

(・・・まで、失ってしまったら)

自分の隣にいたら、少なからずその可能性が生まれてしまう。でも、もしもその逆だったならば―…。
恋の熱病に侵されて、衝動から行動すること。それは本当に、意味のあることなんだろうか。気持ちを伝えることは、本当に重要なことなんだろうか。
ぐすん、と鼻を啜った彼女が口を開いた。

「・・・悔いの残らないようにって言葉があるけれど、人間って、どこまでいっても後悔が残る生き物ですよね」
「そう、だな」
「でも、だからこそ、思うんです。あの時ああしてたらとか、こうしてたらとか、それは最小限に抑えないといけないって。その分、今を生きる人を、手の届くところにあるうちに、ありったけの気持ちと行動で大切にしないとだめなんだ、って」
「・・・え?」
「別れは誰にでもいつか必ずやってきます。遅いか早いかなんて、私たちには分かりません。でもその時に絶対後悔することだけは分かるんです。だから、言葉を伝えることができるうちに、気持ちはちゃんと伝えないと意味が無いんです。言葉と声は、相手に伝えるためにあると思うから。それに、気持ちを心に閉まって、その人のことを自分はこんなに想ってるんだぞっていうのは、美徳にしちゃいけないと思うんですよね」

紡がれる彼女の言葉に、いつの間にか取り込まれたように聞き入っていた。映画を見終わったあとのあのもやめくどろどろとした胸の塊が、溶けていく感じがした。その代わりに胸に新しく流れ込んできたのは、雨上がりのまだ重たい雲間からのぞく一筋の陽射しのような、そんな温かさだった。

「後悔とか、心残りと向き合う術を私はまだ知りません。でも、今を生きている大切な人たちには、どんなに小さなことだって気持ちを伝えることができます。後悔に呑み込まれて、そういう人たちを蔑ろにしたら、それこそ罰が当たっちゃいます」

「なんて、偉そうなことはいくらでも言えるんですけどね」と彼女は肩を竦ませて笑ってみせた。偉そうだなんて、とんでもない。道しるべのように輝きを放つ言葉に対して、何も返事をすることができずに、穴が開きそうなぐらいに彼女の顔をただじっと見つめたまま、今しがたの言葉をかみ締めた。彼女の言う通りだ。もっと分かるように友を愛してやれたら、とか、それこそあの時ああしていれば、とか、ずっとずっと、そんなことばっかり考えて水底に小さく沈んで、空気を失うことに気が付かないふりをしていた。でもそれは、亡き人を悼むための純粋な愛情ではなかったのだ。

「・・・は、生きてくれ」
「大丈夫です、絶対に死にません」
「どこから来るんだその根拠は」
「降谷さんを捕まえるのが、私だからです」
「ふっ、そうだな、君が俺を捕まえるんだったな」

今を生きてるつもりだったけれど、それはほんとうにただの「つもり」だった。温もりの中でしか育てることのできない気持ちがあることを忘れていた。出逢わなければ良かったなんて、そんなことある筈もないのに、救いのない映画の闇にぺろりと呑み込まれて、「もしも」の三文字に捕らわれていた。未来への呪縛をわざわざ自分から作り出す必要はどこにもなかったのだ。そんなものを生み出すぐらいなら、彼女の言う通り愛を紡ごう。それがきっと、生きている人間の血肉になるはずだから。

「・・・ありがとう、
「えっ、どうしたんですか急に」
「君が、この世界にいてくれて良かった」
「!?」

耳に馴染む声色も、梅酒を飲み込む口元も、瞬きをする瞼と睫毛の動きも、額から鼻へのなだらかさも、月明かりを吸い込んだ双眸も。彼女の全てを、ずっとずっと、脳裏に焼き付けていたいと、そう思った。













(2017.6.22 Bei mir hat es in dieser Zeit schon gefunkt=その時にはもう恋に落ちていた)   CLOSE