後ろを歩み去った二人組から、「檻」という言葉が重たげな空気に溶けていった。
何時に、いや、その日の内に帰れるか分からないあたり、檻という名は強ち間違いではないかもしれない。その昔、警察学校のことを多くの見習いたちが監獄と形容していた記憶がある。朝日の昇る時間から部屋の消灯に至るまで。24時間365日。自分たちが選んだ道とはいえ、中学や高校の友人と比べれば自由の少ない生活に、その呼び名は瞬く間に定着していった。庁舎もなんてことはない、その延長だ。
そんな記憶とは裏腹に、警察組織に属さない、いわゆる一般市民たちからは、ここが全く違って見えているというのも痛いほど思い知らされてきたものだ。そう、めでたく警察官となり東都の交番に配属された頃、訪れた人の中にはこんなことを言う者がいた。公務員はなってしまえば気楽なものだ、と。またある者は、税金で飯を食ってるんだからその分しっかり働け、と。言いたい放題好き勝手に、と思わないこともなかったが、数か月もすればそれも慣れたものだった。
過去には自身を公安の犬だと皮肉めかしたこともある。しかし国の税金が給料だからこそ、国の意向には沿わねばならなかった。それが自分たちに徹底されたルールというものだ。けれど良いこともある。個の力では成せぬことが、国の力で可能となる点には、権力が持つ魅力に惹かれる気持ちもなくはない。とはいえ圧倒的に制限されていることの方が多いのだから、朝から晩まで籠りっぱなしの日が続けば、ここを檻と呼びたくなるのも頷けた。
慢性的な眼精疲労と睡眠不足。非常に不規則な生活を送るあたり、ここは刑務所よりも劣悪な環境なのかもしれない。そうした要因から、入庁したころと比べすっかり容貌が変わる者も少なくはなかった。貫禄が出たと言うのならば誉め言葉なのかもしれないが、それだけ皆、日々尽きぬ犯罪や国を揺るがす不穏要素と戦っているのだ。

(だめか)

ある計画に対する表向きの資料。幾度か手を加えては提出し直したが、未だ上から判が押されない。記録として残すからには誰の目から見ても納得のいくものではならないというのだ。それが意味するのはすなわち、合法的な手順を踏んだ捜査であるか否か、だ。しかし蓋を開けばなんとやらで、実際の現場で行われていることはこうした計画書とはかけはなれている。
くだらない。我々は常にまっとうな正義の道を歩んでいるという示しのどこに正義があるのだろう。けれどもそれが役所を役所たらしめんものでもある。機関を支えているのが税金だからこそ、こうしたことも必要というわけだ。ひとえに上層部の派閥争いも噛んでいるのだろうが、こう何度も何度も突き返されてはこちらの身も疲弊してしまう。
同時進行でいくつもの案件を動かしながら合間を縫って書類を作るのはいつものことだが、今日は時間に余裕ができたところに別件で他部署から回って来た資料が全て改訂ときたものだ。頭に叩き込んだあらかたの情報を捨て、ゼロから短時間のうちにインプットしなければならなかった。

(もうこんな時間か)

朝から細かい字ばかりを追い過ぎた、とつのる疲労から眉間を押さえる。デスクワークもフットワークも一日の中でバランスよく配分されれば良いのに、そうは問屋が卸さない。瞑った瞼には、これまで見ていた文字がちかちかと浮かび上がっているかのようで、まるで休まる気がしなかった。
深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。その籠った音が、耳にも脳内にもはっきりと響いた。そして目を開ける。ぼやけた視界がぐらりと揺れた。眉間にある指を動かし、そのまま皮膚を揉み込む。焦点の戻ったまなこで捉えたのは、手元の資料ではなく、すっかり使い古された出入口の方だった。







雲一つない青空が、薄ぐらがりの目に眩しい。もう少ししたら上着も必要なくなるのだろう。一日で一番気温の上がる時間帯の陽射しからは、肌を包み込むような午前のやわらかさはほとんど消えていた。

(さて、どこを歩くか)

役所ばかりの霞が関にも、一般企業は数多く存在している。正午からの二時間ほどは昼休みの会社員で通りは溢れかえっているものの、この時分になると驚くほど人の気配は少なかった。なんとなしに街を歩くには、とても良い時間だ。
一歩踏み出すと同時に、風がそよぐ。流れに乗って淡い桃色の花びらが頬を掠めていった。

(そういえば、の頭に付いていたっけ)

あれは週の始めの晩だったか、それともその前か、はたまたその前の前か。正確な日にちは覚えていないものの、今日から数えてそう遠くはない日の晩、玄関で迎えた彼女の頭には、ひとひらの桜のはなびらが乗っていた。風の強い日だったから、どこかでひらりとくっつけたまま家まで気が付かなかったのだろう。そっと取ったそれはたった一枚だけれども春を感じさせるには充分で、くすくすと二人で笑い合った室内にも、穏やかな春の空気が訪れていたのを覚えている。
あの日は珍しく仕事が早く片付いた日で、買ったばかりの食材で作った夕食とともに、彼女の帰りを待っていた。花びらを乗せた箸置きほどの小皿を傍らに、満開になったら花見でもしようなんて話をしたものの、それはまだ実現していない。だから今年は腰を据えて桜を見ていなかった。通勤途中、視界の隅にぼんやりと入ってくる程度の情報から、なんとなくの感覚で何分咲きかの予想は付いている。けれどもデスクワークが多かったせいか、あまり外の景色に意識が向かないままで、詳しいことはよく分かっていなかった。
ならば何を見に行くのかは明らかだ。憩いの場である雲形池の方はおそらく多くの人々がいるだろうし、噴水広場も同じようなものだろう。とすれば行く方向は自ずと決まったようなものだった。
庁舎から東南に向かってワンブロック。そしてその先を右に曲がる。道行く人々の、なんと携帯に気を取られていること。ゆらゆらと舞い上がる花びらのことなど露ぞ知らずといった風だ。といっても、毎日目にする当たり前の景色がゆえにもうさほど興味が沸かないのかもしれない。どんな所も最初は真新しいものだが、見慣れてしまえば体の一部同然、存在することそのものが自然と化してしまう。人間の順応力とやらは大層優れている。

(もうかなり咲いているな)

道路沿いの街路樹の合間から、淡紅が覗く。歩を進めれば進めるほどにその色が視界を覆っていった。風に揺られながら幾重にも重なった花びらが次々と形を変え、桜目当てにかもめの広場を訪れた人々の顔を鮮やかにしていく。
時折耳に飛び入る鳥の、高いながらも慎ましやかな短い鳴き声。地面に散らばる萼片の付いた桜を見れば、その声の主が瞬時に理解された。桜の密を吸いに来る鳥の種類はいくつかあれど、花ごと根元から食いちぎってしまうのは雀しかいない。東都だけでなく全国を彩る桜も彼らにとっては御馳走だ。盗密と呼ぶには聞こえが悪いが、彼らも日々を生き抜くために必死なのだ。しかしそんな姿も来訪者にとっては春の情緒を助長させるに過ぎず、空の青に負けない彼らの晴れやかな表情は、まさに平和そのものだった。
花びらを拾い集める少女の姿。ベビーカーから不思議そうにその光景を見つめる乳飲み子。そんな二人の姿を愛おしそうにカメラに収める母親。いつかこんな未来が自分にも訪れるのだろうか。そんなことを頭の片隅に浮かべながら、直さねばならない書類のことを思った。

(・・・守らなければならないのは、今この瞬間だ)

我々は、過去を救うことはできない。
もちろん未解決事件を担当している警察官もいるが、それとて実際に起きてしまった事件を無かったことにはできないのが現実だ。とりわけ公安警察は、国を揺るがすような不穏に立ち向かわねばならない。自分たちの使命は、今を守り、未来をつなぐこと。人々がいる限り、国があり続ける限り、決して終わらぬ大きな使命。
けれどその実は、光と闇で溢れている。目をそむけたくなるような形容しがたいまでに真っ黒なことがこの世界には沢山あるが、それを我々は決して知られてはならない。そうしたものの上にある平和が果たして真の意味での平和なのかと問う者もいるのだろう。気持ちは分かる。誰だって、なんだって、クリーンに越したことはないのだから。だが綺麗ごとだけで笑って生きていけるほど、世の中は甘くない。甘い世の中になれば良いが、それでも幸福に辛酸はつきものだ。それはこれまでの歴史が物語っている。だから陽の目を見ることのない、存在しない組織であれと名付けられた自分たちが必要なのだ。

「!」

拍子、木々のざわめきとともに、呼吸を奪うほどの強風が横から吹き付けた。乱れた髪を雑に整え瞼を開ければ、眩しい午後の青に、淡い桃色がまるで雪を思い起こさせるかのように舞い上がっているではないか。風に煽られて流された花びらが、そこかしこで左右に折れながらゆるやかな曲線を描けば、落ち切る前にまた烈風によって空へと運ばれていく。何度か繰り返していくのを目で無心で追いかける。それが一体どれぐらいの時間だったのかは分からない。気が付けば、街の音が耳に戻ってきていた。

「・・・美しい」

瞠目せずにはいられなかった。枝の一つ一つは簡単に折れてしまうほどに繊細なのに、はち切れんばかりに膨らんだ蕾から現れた花はどこまでもたくましく力強い。何年も、何十年も、長い時間をかけて幹をつくり、大地の奥深くまで根を張ったこれらの木々は、光の揺らぎの、風の速さの、そして時の流れの証人だ。
息を吸うごとに、血が洗われていく。瞬きをするごとに、活力が流れ込んでくる。存在そのものが命の象徴なのだと思うと、涙が出そうなほどにまばゆく、美しかった。

(近いうち、とまた来よう)

この景色を見せたいと一番に思い浮かんだ相手も、今はきっとあの檻の中で机とにらみ合っているのだろう。そう、戦っている。誰もかもが、皆、それぞれの信念を胸に。
綺麗ごとで世の中が成り立てば、それはきっと誰もが疑念を抱くことなく幸せなのかもしれない。けれどそれは決して成りえないからこそ、己を奮い立たせた。この身で背負えるだけのもの全てを背負っていくのだと。それを良しとする己がいて、それを良しとしてくれる人も傍にいる。命を捧げると決めたのだ。一体何を出し惜しむ必要があるというのだろう。
すべきことをせよ。成すべきことを成せ。進むのだ。ただ前に。痛みも苦しみも、どんなものでも、いくらでも引き受ける。
何かを得るためではない。決して失ってはならないもののために動くのだ。今この一瞬を過去に残し、今この一瞬を次へと紡いでいく。そのために、前だけを見据えて進むのだ。

「戻るか」

雀が落とした桜の花を一つだけ拾い上げる。食いちぎられた茎の先。その先を爪で切り取って、太陽を背に歩き出した。

















(2019.5.23 vorwärts!=前へ!)      CLOSE