「風見さんは、降谷さんのどんなところが好きですか?」

時刻は午後八時を回ったところだった。黒の組織絡みで部署を跨ぐ際の申請書類にのサインが必要ということで、まだ庁舎に残っている彼女を警備企画課に来るよう風見は呼びつけたのだが。
印鑑の朱肉の赤が乾くのを待っている間、あれやこれやと世間話に花が咲いて、気が付いたらこんな質問をされていた。つい先ほどまで最近新しくできたばかりのパン屋について喋っていたというのに、いきなりの話題の飛躍で風見の思考がはたと停止する。

「す、好き・・・?」
「ふふ、こんな言い方したら、なんだかガールズトークみたいですね」

この時間まで残っているということは自身の部署でも残業に追われていただろうに、それを微塵も感じさせない笑顔とともにとんでもないワードをぶつけられてしまった。今度は書類の角を整えていた彼の手がぴたりと止まる。今、彼女はガールズトークと言っただろうか。言った。確かにそう言った。ガールズトークだなんて言葉、男の(しかも世間一般じゃオジサンと呼ばれてもおかしくない年齢の)自分に言う台詞じゃないだろう、とついぞ真面目に考えてしまう。しかしそれにしても無邪気に笑う人だな、と彼が返事に困っていると、マグカップの中身が空になっていることに気が付いたが、「何か飲みますか?」と続けて声をかけた。
もうそろそろ帰るから、刺激の強いコーヒーよりも紅茶の方が望ましいだろうと風見が「それじゃあ紅茶で」と返す。彼女は「かしこまりました」と言って彼の愛用のマグカップを受け取ると、すぐ近くに置いてある簡易給湯ブースへと歩いていった。給湯と言っても、わざわざ給湯室に行くのが面倒臭いという理由から設えた小さなワゴン―そこにはミネラルウォーターと電気ポットとインスタントコーヒーとティーバッグ、その他こまごましたものが置かれている名前どおりの簡易ブース―だが、女性がそこに立つだけで華やかになるから不思議なものだ、と彼女の後姿に彼はぼんやりと視線を投げかける。

「お砂糖とミルクはどうしますか?」
「ストレートでお願いします」
「はい」
「あ、さんも好きに飲んで下さい」
「良いんですか?じゃあ、お言葉に甘えて一杯いただきますね」

いちいち振り返ってアイコンタクトを取るところがいじらしい。むさくるしい男しかいないこの課に彼女のような女性がいたら、きっと通常の三倍ぐらいは士気も上がるだろうにと感じてしまうのだから、男というのはいくつになっても単純だ。国テロ対策の部署ではさぞかし可愛がられているに違いない、と思った風見だが、鉄槌を食らったり、雑用係としてしごかれている実際の彼女の姿を知ったらならば、きっと驚くことだろう(もちろんそれは愛ゆえに、だが)。
彼が再び書類に目を通していると、電気ポットから沸騰を知らせる音がした。部屋に二人しか人間がいないと、普段は特に気にも止めない音が大きく聞こえる。

(・・・ん?)

視界の隅がやけにもくもくとしだしたので、彼女の方を見やるとどうしたことか彼女は電気ポットの蓋を開けて、天井に上っていく湯気をじっと見つめているではないか。はて室内が乾燥でもしていただろうかと彼は考えたが、時間にして一分も経たないぐらいになると、彼女は蓋を閉めてカップに少しだけお湯を注ぎ始めた。それからティーバッグの袋を優しく引っ張って、ふんわりとさせたものを浮かべると、きょろきょろとワゴンの上を見渡して、手に取ったコーヒーカップのソーサーをマグの上に乗せている。
新鮮な動きばかりだからか、風見はすっかり物珍しげにに見入っていた。そんな彼女は今度はワゴンの上の備品を補充しにかかっている。たったそれだけのことなのに、なぜだろう、心がじんと温まる。それもこれも普段それをするのが決まって風見だからなのだった。補充しても補充しても感謝をされることがないばかりか、備品がないと「風見ミルクがないぞ」とか「風見さん砂糖どこでしたっけ?」と質問攻めに合う始末。彼自身細部に渡って気配りができるタイプではないが、部署内の同僚と比べれば圧倒的にその能力は高い。それほどまでに野郎しかいない部署というのは汗臭く荒んでいるのだと思い知ったところで、彼女がマグカップの八分目までお湯を継ぎ足して、それらを両手に戻ってくるのを見届ける。

「はい、お待たせしました」
「ありがとうございます」
「お熱いのでお気をつけて」

そういうプラスの一言が、枯れ砂漠を癒すオアシス云々と国テロ対策に羨望の意を心の中で表しながら、風見は淹れ立ての紅茶に口を付ける。瞬間、レンズ越しの彼の瞳が見開かれた。

「・・・普段飲むのより、格段に美味しいです」

もくもくと立ち上る湯気で眼鏡が曇るのも気にせずに、また一口と熱い液体を飲み込んだ。食道を通って胃に落ちていくのが分かる。美味しい。同じティーバッグとは思えないほどに美味しい。いつもはもっと強い渋みがあって、香りもそんなに高くない。喉を潤すだけだから、と普段は特に気にもしていなかったが、彼女が淹れたものはまるで別物だ。マスカットを彷彿させるようなほんのりとしたフルーティーな香りに、清涼感のあるさらりとした喉越し。同じものを使っているはずなのに、一体どうしてここまで味に差がでるのか不思議で仕方がない。

「そう言っていただけて嬉しいです」
「何か秘密が?」
「いえ、特に秘密は・・・」
「どうやって淹れたらこんなに美味しくなるんですか?」

「今後の参考のために是非」と風見が至極真剣な眼差しで言うと、は紅茶を淹れる工程を丁寧に話し始めた。沸騰したての湯を使うと茶葉の雑味まで一緒に出てしまうから、ほんの少し冷めた―九十度から九十五度ほどの―ものが良いこと。茶葉が対流するように、ティーバッグを少し膨らませること。少量の湯とともに一、二分ほど蒸らすと香りも風味も良くなること。そして継ぎ足す湯は好みの量でいいこと。少し手間はかかるがその分インスタントでも十分美味しくなる、と伝えると、眼前の男から感嘆の頷きが繰り返された。
彼女が最初に湯気を眺めていたのは決して室内が乾燥していたからではなく、湯の温度を下げていたからだと納得がいく。風見はなるほど、と近くに置いてあったブロックメモに彼女の言葉をすらすらと書き取ると、それをクリップ型のレタースタンドにしっかりと挟み込んだ。多少時間がかかるといっても二、三分の違いでここまで美味しくなるのなら明日から早速試してみよう、と心にも刻んで。

「それで?降谷さんのどんなところが好きなんですか?」

もまたマグカップに口を付けると、ふふ、と不敵な笑みを浮かべながら、眼鏡の曇りが無くなってはっきりと顔立ちの分かる男を覗き込んだ。「そうですね」と風見は降谷の顔を脳裏に描く。もちろん彼女の発言にガールズトーク的な意図がないことは百も承知だが、改まって上司の良いところを探すのはどこか少し気恥ずかしい。

「まっすぐなところ、ですかね」

凛然としている、そんな表現が正しいだろうか。
たった一人で黒の組織に潜入する孤高の戦士。秘めたるものを胸に抱え、先陣を切る我らがゼロの特攻隊長。それが降谷零だ。そんな彼が背負っているものはとても大きい。身の回りのことだけにとどまらず、国家全体にまで及んでいて、強い愛国心が彼を奮い立たせては、今日も国の安寧のために駆け回っているのだ。

「分かります。迷いのない感じですよね」
「はい。でも・・・彼はいつも冷静ですが、同時に熱いところもあるので時々突っ走りすぎます」

彼はとても強い人間だ。弱音を吐かずに前だけを見てその道を突き進んでいる。だが自分の力に自信を持つ一面、オーバーヒートしてしまうのもまた確か。特にあの長髪の男のことに関しては。
調査だからと言って何日も資料室に篭ったり、探偵業として外に出ては、ろくすっぽ食事も睡眠も取らないで庁舎に戻ってくるので、部下としては見ていられないことがしばしばある。いつかそれが彼の命取りにならないことを祈るばかりだが、こればかりは風見が何を言っても聞く気がないらしい。

「いつも風見さんを心配させてるんですね」
「そうですね、でもそんな彼の元で働けることが何より私は嬉しいですよ」
「きっと、風見さんがここでどっしり構えててくれるから、降谷さんも安心して駆け回れるんですね」
さんは嬉しいことを言ってくれますね」

この上司の下で働けて良かった、なんて世の中の社会人全体でどれだけの人が心の底からそう思えるのだろう。あの人は無自覚の内に人誑しなんだなあ、と風見から降谷への信頼が窺えたことに満足がいったらしい。は目を細めて再度マグカップに口を付けた。すると風見が「でも」と零すので、同じように「でも?」と返した彼女が首を傾げる。

「デスクワークをしている時の降谷さんは、死んだ顔をしていますね」
「え〜そうなんですか?そういうのも器用にこなしそうなのに」
「週の半分ほどここには来ないので、その分溜まってしまうんですよ」
「ああ、なるほど。でもその死んだ降谷さんをちょっと見てみたい気もします」
「じゃあその時は内線回しますね」
「ぜひぜひ、忍者のように忍び足で馳せ参じます」

はデスクにマグカップを置いて、まるで「忍法」とでも言いたげに手を組んで忍者の形を模す。それを見た風見は思わず吹き出してしまった。彼に釣られて彼女もくすくすと笑う。「ばかみたいですね、私」と恥ずかしさから耳を赤らめるその姿を前に、彼は思った。本当に無邪気に笑う人だな、と。満開の花畑のように。はたまた星空を横切る流れ星のように。

(降谷さんが惹かれたのも分かる気がする)

自分には決して踏み込めぬ領域を、彼女が隣に立って埋めてくれるのなら―…。
ドイツから帰って来た時の降谷は、風見には見ていられないものがあった。気だるそうで、そして憂鬱そうで。誰かといる時はそれをひた隠しにしていたが、常日頃から一緒にいる風見が彼の異変に気が付かないわけはない。心配は心配だが、彼が喋らないと決め込んだのなら、踏み込むべきではないと判断していた。
だから彼をそうさせるほどのという女性に強く興味を持っていたが、蓋を開けてみれば彼女もまた降谷とは違う人誑しの才があることが分かる。懸命にたくましく、けれどどこか根無し草のように儚く日々を生きる上司が、その全てを脱ぎ捨てる一瞬を彼女の傍で見出せたのなら、それは喜ばしいことだ。どうかその関係が一日でも長く続くことを、と風見は心の中で強く願った。

「・・・宜しくお願いしますね、降谷を」
「そんな、私の方こそです。ご迷惑をおかけしないよう頑張るので、どうぞ宜しくお願いします」

二人の笑みが室内を満たした頃、ガチャリとドアが開いたので、彼らの視線がそちらに向けられる。重厚なそこから現れたのは、疲れたと言わんばかりに肩を回しながら入ってくる降谷だった。

「あれ?来てたのか
「降谷さん!お疲れさまですお邪魔してます」

ぱっと明かりが点いたかのような表情をする彼女を、風見は内心主人を待つ犬のようだと思った。しかしそれは絶対に口にするまいと胸の内に封印し、彼女同様上司を出迎える。

「おかえりなさい、降谷さん」

それぞれに視線のみで挨拶を返すと、自身のデスクに戻って降谷は、ふう、と息を吐きながらネクタイを引っ張り首元を緩めた。さらなる開放感を求めて首をぐるりと回せば、ぽきぽきと音が鳴る。血の巡りが良くなったのか、再度大きく息を吐くと、椅子の背もたれに完全に体を預けて、首だけを風見との方へ向けた。ミルクティブラウンの髪の毛がゆらりと揺れる。

「何を話してたんだ?」

部下のデスクに置かれた「」の印鑑から、彼女が警備企画課に所用でやってきたことが分かる。その上互いにマグカップを手にしているところを見ると、そのあと何か話し込んでいたのは間違いないだろう。

「秘密です。ね、風見さん」
「ええ、秘密です」

悪戯っ子のような表情の彼女に、同調するように風見も口角を上げて笑っている。部下のそんな顔を見たことがなかった降谷は目を見開いた。

「なんなんだ風見までへらへらして・・・」

一体いつの間にそんなに仲が良くなったんだ、と眉を顰めた降谷は得もいわれぬ表情だ。そんな上司を横目に風見は椅子からすっくと立ち上がると、スーツの襟を整えるように下方向に軽く引っ張ってボタンを留めた。そして件の書類と通勤鞄を合わせて片手に持ち、「それじゃあ私はこれを局長のところに出しに行って、そのまま帰宅しますので」と言い、続けて「さん、ごちそうさまです」ともう片方の手でマグカップも持ち上げる。「いえいえ」とは首を振ると、両手の塞がった彼を助けるために、すたすたと歩いてドアを開けた状態で押さえにかかった。

「すみません、ありがとうございます」
「そんなそんな。お疲れさまです」
「降谷さんもさんも。お疲れさまです」
「ああ、お疲れ」

ひらひらと手を振った降谷の手が下ろされるのと、ドアが閉まるのは同時だったようで、一気に室内に静けさが訪れる。
は神妙な面持ちでその場に立っていた。今まで風見のデスクのすぐ横に腰を降ろしていたが、彼が帰ってしまったことでどこに座るべきかを悩んでいたらしい。風見と話し込んでしまったとはいえ、元々は書類にサインをするという所用でやってきたのだ。彼が帰ったのを機に自分も荷物をまとめて出れば良かったのだが、それもそれで戻ってきたばかりの降谷に対して冷たい気もする、と両者のデスクにそれぞれ目を配らせていると、そのことに気が付いた彼と目が合ってしまった。すると彼は彼女の顔をじっと見つめたまま、無言でぽんぽんとすぐ近くの椅子を叩く。
飼い犬よろしく(降谷談)いざなわれるままにちょこんと椅子に座ると、頬杖をついた降谷のジト目が向けられていることに気が付いた。

「風見と隠し事か?」
「あれ?妬いてるんですか?風見さん独り占めしてたからって」
「いつからそんなに仲良くなったんだ」
「さっきからですかね、ガールズトークしちゃいました」
「ガールズトークぅ?」

あの風見と?と降谷は脳内で懸命にと部下がきゃっきゃと話に花を咲かせるところを想像してみたが、ガールズトークという言葉の強さのせいで全く良い具合に画を描くことができなかった。しかめっ面をしていても整っている形の良い唇から、「まるでわからん」の一言がぽろりと零れ落ちる。一体何をそんな変な顔して想像しているんだと思う彼女だったが、内容を喋る気がないのか降谷の「それで?何を話してたんだ?」に答えようとはしなかった。しかし彼女はとても満足気な表情を浮かべている。

「ご機嫌だな」
「ふふ、降谷さん喜んじゃうから絶対言いません」

風見が降谷のことをとても信頼してるだなんてそんなことは言ってやらないぞ、と違う言葉を選んだつもりだったのだが。

(・・・あのなあ)

またそんなへらへら笑って殺し文句みたいなことを言って、と降谷は気恥ずかしさから思わず視線を逸らしてしまう。きゅんと高鳴る心臓。意図してのことなのか、はたまたそうではないのか、それを読み取ることは彼にはできなかったが、彼女の言葉は彼の胸を鷲掴むには効果覿面だったようだ。
誰かに恋焦がれる気持ちなんて、とっくに落ち着いたとばかり思っていた。一体いつになったら、こういう感情に振り回されないで生きていけるのだろう。ふとそんなことが脳裏を過ぎっては、彼は彼女の言った言葉の意味を探さないことに必死になっている。

「・・・」
「・・・?」

再び降谷の視線がに注がれた。何も言わず、ただじっと。その双眸に焼き付くのは、きょとんと不思議そうに首を傾げる彼女の顔。

(くそ。可愛いから困る)

彼女のこの仕草が彼は好きだった。首を傾げて自分を見ている間だけは、彼女の時間の全てが手に入るからだ。そのまままっすぐ、自分のことだけを見てくれたならいいのに。そんな考えばかりが寄せては返す波のようにしばしば訪れる。
部署が違ったことは良かったのかもしれない。もとより公私混同する気は無かったが、それでも彼女が同じ室内にいたならば、社会と自分を結ぶ糸が途切れる一瞬がいつか必ずやってくる。そんな無様な姿を同僚に見せる訳にはいかなかった。

「なあ
「はい?」
「二人の時は名前で呼んでもいいか?」

依然として彼は頬杖をついたまま彼女を見据え、流れる小川の水のように軽く一言を紡いだ。

「へ?いいですよ?」
「随分あっさりだな・・・」
「え?そんなわざわざ了承得ることでした?」

それがどうしたと言わんばかりに彼女から驚くほどさらっと返事が来たものだから、降谷の思考がふと止まる。しかし考えてみれば答えは簡単だった。

「・・・そうかドイツ人だったな君は」
「ちょ、やめてくださいってその言い方」

さながら「異議あり」とでも言いたそうな顔でが口を窄めた。そんな彼女を他所に、むしろ苗字で呼び合う方が同僚としては特殊かという結論に至った降谷は、なんだか拍子抜けした、と僅かに肩を落として鼻を鳴らす。しかしこれで彼女の了承も得て、外堀の一つを埋めることに成功したわけだ。目下のところは申し分がないことを思えば、口角も上がるというものだった。

「じゃあ・・・そうだな、俺のことは・・・」
「あ、それは・・・降谷さんで、お願いします」
「なんで」
「上司なので・・・」
「・・・お前の判断基準がよく分からないよまったく」

同じ上司でもあの威圧感の半端無い屈強な男のことはルディと名前で呼ぶのに、なぜ俺はだめなんだ、と抗議の目で彼女を見るとスっと顔を逸らされてしまう。その視線を肌でひしひしと感じながらも、には降谷を名前で呼ぶと返事をすることはできなかった。二人きりの室内にしばしの沈黙が舞い降りる。

(呼ばれる分には、良いんだけど、)

そう。呼ばれる分には大して問題はなかった。苗字ではなく名前で呼ばれるなんて、深い意味も持たないぐらいに日常化してしまって、呼吸をするように自然なことだったのだから。でもそれは、名前の方が馴染みが良いとか、文化の違いとか、呼ばれ慣れるだけの取るに足らない理由が沢山あるだけで、改まって自分が彼の名を口にすることとは全く違う次元の話なのだ。
とある意識を持って異性の名を呼ぶこと。それがどういう意味を持つのか分からないほど彼女は疎い訳ではない。

(れい、さん)

心の中でその二文字を呼ぶ。刹那、大きく心臓が跳ね上がった。知っている。この気持ちを自分はよく知っている。だけれども。今はまだその答えを出すことが少しだけ怖い。もちろん彼が自分の名を呼ぶことに、深い意味を込めているのはそれとなく分かっている。その意味を知っている自分を人は我侭だと言うのかもしれない。でもそれでも、自分なりに考えたものの中に、しっかりとした答えがきっといつか見つかる筈だから、それまで少し時間がほしい。

(零さんなんて、恥ずかしすぎて爆ぜる)

ぞわぞわと、背中を駆け上がる歯がゆさ。いまだ自分に注がれる視線をちらりと一瞥すると、やはり瞳がかち合った。名状しがたい感情に呑み込まれたのを自覚した彼女の頬には、ほんのりと赤みが差していた。

「・・・どうして顔を赤らめる」
「な、なんでもないです」

この人といるとペースが崩されるから困る、とは顔を見られないように両手で覆おうとしたのだが、それをするよりも早く、片方の手首を降谷に掴まれてしまった。ハっと驚いて猫のように肩を竦ませた次の瞬間には、キャスターを利用して椅子ごと近付いてきた精悍な顔立ちに覗き込まれてしまう。人を惹き付ける上品な舛花色の瞳に、彼女の視界が奪われた。

(・・・目、綺麗だなあ)

息をするのも苦しいほどに魅入っている筈なのに、心のどこかでふとそう思ってしまう自分がいる。時々彼には不思議な線の細さがあるのに、今自分の手首を掴む彼の手は血管の浮かぶ節くれだった男の人の手だ、と感じてしまう自分もいる。
冷静ではいられないのは確かだけれど、恋を覚えたてのあの頃のように脇目も振らずにはきっともう、走っていけなくなったのだ。それは少し寂しくもあり、でもどこか諦めに似たものもあり。だから思う。どうかすぐにはあなたの熱に私を慣らさないでほしい、と。

「なあ、俺はただ名前で呼びたいだけじゃなくて、二人の時はって言ったんだ。その意味、分からないわけじゃないだろう?」
「・・・わ、分かり、ます」
「ホォー・・・そうか分かっててひらりとかわしたわけか」
「うっ、そんなに睨まないで下さいってばあ・・・っ」

悪戯じみた色合いとはいえ、強めの眼光で射竦められたが、きゅっと目を閉じる。嗜虐心に似たものが満たされていくのを実感した降谷は、「冗談だよ」と手首を開放した自身の掌をそのまま彼女の頭に静かに乗せた。鼓膜を揺らす柔らかな声にそろりと彼女の瞼が開かれる。何も言葉を並べることができずにただ視界に影を作る男の顔を見上げると、気が付いた時には数回頭をぽんぽんと優しく叩かれていた。いまだしっかりと残る彼の温もりに、気恥ずかしさとこそばゆさを感じて僅かに口をむっとさせる。そうさせた張本人は彼女の横で何食わぬ顔で、拳を握り締めた両の手を高く掲げて思い切り伸びをしていた。

「夕飯食べにどこか行くか?」

気が付けばもうすっかり九時を過ぎていた。けろりと普段の顔に戻るなんてずるい、とそんなことを思っていたからか、彼女は答え損ねてしまった。彼の温もりも、優しい声音も、胸をざわつかせる仕草も。その全てが嫌いじゃない。夜ご飯は食べたいけど、やっぱり全然冷静じゃいられないや、と彼女は湧き上がる感情をつくづく思い知ると、深呼吸を一つ浮かべて心を整えた。

?行かないのか?」
「行きます!」
「何が食べたい?」
「そうですねえ・・・ん〜、降谷さんの好きなものが食べたいです」
「・・・」
「降谷さん?」

好きなもの?それはお前だよ、なんて親父ギャグみたいなことを口走ったらきっと引かれるんだろうな、と降谷は思った。そんな雑念を消すように即席で取り繕った笑顔で、「なんでもない、さあ行こう」と言うと、彼は彼女とともにデスクを後にしたのだった。















(2017.6.19 Schritt für Schritt=一歩一歩)      CLOSE